ルーマニア国立美術館は、ブカレストの中心にあるかつての王宮に入っている。国王たちは1947年の末までここに住み、その翌年、宮殿は美術館になった。1989年12月にはこの建物も銃撃戦に巻き込まれ、正面の壁にはいまも弾痕が残っている。

宮殿の中の作品のほうも、実にさまざまな道をたどってここへ来た。教会の壁から剥がされたもの、国王が買い求めたもの、遺言によって託されたもの、地震や革命のあとに救い出されたもの。この15点を選んだのは、どの作品についても、その運命が変わった瞬間をたどることができるからである。

最初に取り上げるのは1437年の聖骸布、最後は1977年の地震のあと修道院の聖堂から運び出されたイコノスタシスである。

01. 教会から美術館へ

1. 修道院長シルアンの聖骸布、ネアムツ修道院、1437年

聖金曜日になると、正教会では、墓に横たわるキリストを表した布、聖骸布を至聖所から運び出し、聖堂の中央の台の上に安置する。この聖骸布は1437年、モルダヴィアのネアムツ修道院に、院長のシルアンが寄進したものである。寄進者の名は、縁をぐるりと一周する銘文の中に刺繍されている。美術館のラベルではシルヴァンと記されているが、研究文献ではシルアンという名が定着している。

刺繍をしたのはネアムツの修道士たちで、修道院の中の工房で仕上げられた。手本にしたのは、1428年にモルダヴィアの府主教マカリエが注文した聖骸布で、こちらはおそらくコンスタンティノープルで刺繍されたものだった。その聖骸布は1686年、ポーランド王ヤン・ソビエスキの兵士たちによってポーランドへ持ち去られ、リヴィウの博物館に収められていたが、第二次世界大戦中に行方がわからなくなった。シルアンの聖骸布は、年代の記された現存するモルダヴィアの聖骸布として、いまも最古のものである。

修道院長シルアンのエピタフィオス
修道院長シルアンのエピタフィオス1437, ルーマニア国立美術館

キリストは布の幅いっぱいに、エフェソスの石と呼ばれる赤い石板の上に横たわり、目を閉じて両腕を交差させている。頭のほうでは聖母が深く身をかがめ、顔と顔がほとんど触れ合うほどだ。足もとには、両手を頭に上げた女性が立っている。髪をかきむしるマグダラのマリアである。ふつうこの位置には使徒ヨハネが描かれたが、ネアムツの工房はここに携香女のひとりを置いた。遺体の上では二人の天使が、竿の先に星形の飾りをつけた典礼用の扇、リピダを掲げ、下ではさらに三人の天使が身をかがめていて、真ん中の天使は頬杖をついている。主な輪郭は小粒の真珠でふちどられ、暗い地には十字をあしらったロゼット文様が散らばり、四隅には四福音書記者の象徴が刺繍されている。

聖骸布は人の背丈よりも長い。キリストが全身で刺繍され、布は台の上に丸ごと広げて敷かれたからである。ネアムツからブカレストへどのように運ばれたのか、研究者たちはその記録を見つけられていない。2024年、染料を調べていた化学者たちが、赤い糸からカルミン酸を検出した。アメリカ大陸のコチニールがヨーロッパに入ったのは1437年より後のことなので、この赤はアルメニアかポーランドのコチニールから得られたことになる。

2. カフタン、ワラキア、イタリア製ビロード、1480〜1490年ごろ

ワラキア西部オルテニア地方のボヤール(大貴族)、クラヨヴェシュティ兄弟は、1490年ごろにビストリツァ修道院を創建し、高価なカフタンを寄進した。美術館によれば、こうした衣装には数十ヘクタールの領地に匹敵する値がついた。当時の貴族は晴れ着をしばしば教会に寄進し、それをもとに祭服や教会の覆い布が仕立てられた。このカフタンもほどかれ、切れ端を縫い合わせて墓の覆いに作り直されたので、美術館の目録には棺覆いとして記載されていた。修復家が調べたところ、布片がカフタンの形に裁たれていることがわかり、美術館はこれを衣服として復元した。

布はイタリアで織られたもので、産地はミラノかもしれない。暗い深紅のビロード地に、雲のような弁で縁取られた大きな金色のメダイヨンが並んでいる。文様はビロードと一緒に織り出されているため、金糸のループがパイルの上に浮き彫りのように盛り上がる。胸元には緑の横帯が七本渡され、それぞれを小さな金メッキのボタンの束がとめている。袖と両脇では縫い目がメダイヨンを真っ二つに断ち切っているが、これは布を体に合わせて裁ったためである。

3. トゥルゴヴィシュテのドブロミル《ロクサンダ王女》、1526年以前

創建者たちを描いた大きな群像のうち、残ったのはロクサンダひとりである。彼女は白い聖堂の模型を掲げていて、フレスコの左側のぎざぎざの縁が、ちょうどその建物を貫いて走っている。模型を反対側から支えていた夫のラドゥは、壁のその部分とともに失われた。彼女がかぶるのは、ルビーやサファイア、真珠をちりばめ、頬のわきに長い垂れ飾りを下げた背の高い金の冠で、細かなプリーツの赤いドレスの上に、黒い文様の入った金襴のマントをはおっている。

ロクサンダ王女
ロクサンダ王女トゥルゴヴィシュテのドブロミル, 1526, ルーマニア国立美術館
パルヴ・ムトゥの自画像
パルヴ・ムトゥの自画像パルヴ・ムトゥ, 1699, ルーマニア国立美術館

ロクサンダは、クルテア・デ・アルジェシュ修道院の聖堂を建てたワラキア公ネアゴエ・バサラブの娘だった。父の代に始まった聖堂の壁画は、1526年、夫であるアフマツィのラドゥ公の代に完成し、トゥルゴヴィシュテの画家ドブロミルは、夫妻を西の壁に並べ、聖堂の模型を掲げる創建者として描いた。

この途切れ方は偶然ではない。ルーマニア当局はフランスの建築家アンドレ・ルコント・デュ・ヌイを招いて聖堂を修復させ、工事は1875年から1886年まで続いた。当局は古い壁画を新しい油彩画に置き換えようとしており、1882年、ルコント・デュ・ヌイは、すでにろうそくの煤で黒ずんでいたフレスコ画の断片35点を壁から剥がさせた。もとの壁画のうち残ったのは、推計によって20分の1から10分の1ほどとされる。断片はブカレストの古物博物館に送られ、その大部分がのちに美術館へ移された。

1888年から、イオン・ミンクら若いルーマニアの建築家たちは、ルコント・デュ・ヌイが国の遺産を破壊したと非難した。公式の調査が行われたものの、処罰された者はいなかった。それでもこの論争は、1892年にルーマニアで歴史記念物委員会が設けられるきっかけのひとつとなった。35点の断片のうち、29点はルーマニア国立美術館に、二点はルーマニア国立歴史博物館に、四点はアルジェシュ大主教区に所蔵されている。

4. パルヴ・ムトゥ《自画像》、ボルデシュティの聖堂壁画の断片、1699年

1699年、パルヴ・ムトゥは、当時のワラキアとモルダヴィアの境に近いボルデシュティの小修道院で聖堂の壁画を描いていて、その壁に自分自身の姿を描き込んだ。聖堂を建てたのは、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ公に仕えた武官で、カンタクジノ家の周辺にいたボヤールのマナイラであり、ムトゥはカンタクジノ家お気に入りの画家だった。画家は小さなボタンの並ぶ藤色がかった薄紅の長いカフタンに、オリーブグリーンのマントをはおって立ち、高く上げた右手に筆を、腰のあたりの左手には小さな丸い絵具入れを持っている。解説ではこの器は貝殻と呼ばれている。その肩の後ろには弟子のラドゥが、飾り気のない青みがかった灰色の服で立ち、漆喰をならすのに使う、先のとがった白っぽいこてを胸に押し当てている。

ムトゥは俗人として、ボヤールの服装で描かれている。ポスト・ビザンティンの伝統では聖堂の画家は長く無名のままだったが、17世紀の終わりになると、職人組合が力をつけ、親方の技が社会的な地位をもたらすようになって、このような自画像が現れる。ムトゥの自画像はほかの聖堂にもあるが、なかでもこれがいちばんよくできているとされている。

カフタンにも黄土色の背景にも弟子の服にも、引っかいて刻まれた文字や記号が一面に残っている。1911年以降、聖堂は打ち捨てられて誰でも入れる状態になり、訪れた人々が壁を引っかいたのである。20世紀半ば、文化省から派遣された作業班が、同じ聖堂のフレスコ画《聖母の眠り》とともにこの自画像を壁から剥がし、二点とも美術館に入った。ムトゥはコトロチェニ修道院の聖堂でも創建者たちの肖像を描いており、その聖堂の話にはこのリストの最後で戻ってくる。

ムトゥはのちにパフヌティエの名で修道士となり、2017年、ルーマニア正教会によって聖人に列せられた。

02. 国王の絵画館

ヴィーナスとキューピッド
ヴィーナスとキューピッドルーカス・クラナッハ(父), 1520, ルーマニア国立美術館

最初の四点は、教会や修道院からここへ来た。19世紀の終わりになると、コレクションには別の入り口が加わる。カロル1世が、自分の宮殿のためにヨーロッパの巨匠たちの古い絵画を買い始めたのである。

5. ルーカス・クラナッハ(父)またはその追随者《ヴィーナスとアモル》、1520年代

20世紀の終わりまで、このヴィーナスは別の姿をしていた。何者かが体の上に濃紺の厚い布を描き足し、肩から腰、太ももまでを覆っていたのである。その絵具から、1710年ごろに作られるようになったプルシアンブルーが見つかったため、この衣が元の絵にあったものではありえないことがわかった。1967年のルーマニアの郵便切手にも、ヴィーナスは衣をまとった姿で刷られている。1995年から1999年にかけて、美術館の修復家ヨアン・スフリジャンがこの布を取り除いた。

いまヴィーナスは、暗い赤のビロードのカーテンを背に、ふたたび裸で立っている。頭には何もかぶらず、小さな十字架のついた首飾りと重い金の鎖をつけている。腹のあたりで押さえている透きとおったヴェールを、画家は細い白い線だけで表した。ヴィーナスの太ももほどの背丈のアモルは、背の高い赤い弓を持ち、弦を張るときのように片足で弓の下端を踏みしめ、右手を背中に回している。その手には矢があり、羽根が板の左端に見えているが、ヴィーナスにはその矢が見えていない。

この絵を買ったのはカロル1世である。ホーエンツォレルン家出身のドイツの公子で、ルーマニア公となり、のちに国王となった人物だ。1879年、彼はドイツの領事で収集家のフェリックス・バンベルクからこの絵を手に入れた。古い巨匠たちのコレクションをまだ持たなかった国のために集めていた絵画館の、最初のまとまった購入の中の一点だった。カロル1世は遺言で、200点を超える絵を擁するこの絵画館をルーマニア王冠に遺し、ルーマニア国家は、王冠とは国家そのものを指すと考えている。1948年、王家のコレクションは国有化され、新しい美術館に移された。

美術館はこの絵を、1520年のルーカス・クラナッハ(父)の作品としている。一方、クラナッハ・デジタル・アーカイヴはこれを追随者の作とし、左下の石の上にあるクラナッハの紋章、翼のない蛇についても、おそらく本物ではないとみている。

ヴィーナスとキューピッド
ヴィーナスとキューピッドルーカス・クラナッハ(父), 1520, ルーマニア国立美術館
エステルに命乞いをするハマン
エステルに命乞いをするハマンレンブラント, 1660, ルーマニア国立美術館

6. レンブラントと工房《エステルの前のハマン》、1635年ごろおよび1660年代

旧約聖書のエステル記によれば、王の重臣ハマンはユダヤ人を滅ぼす勅令を手に入れたが、自身もユダヤ人である王妃エステルがそれを王に明かし、ハマンは彼女の前に身を投げ出して命乞いをした。エステルは左に座り、真珠をあしらった高い冠をかぶって、厚く荒々しい筆触で描かれた金色のドレスをまとい、ハマンを通り越して下のほうを見ている。ハマンは右下で赤い服を着てひざまずき、組んだ両手に頭を垂れている。ターバンを巻いた王はエステルの背後の暗がりから身を乗り出してハマンを見つめており、暗いテーブルの上に差し出された王の金の笏だけが、三人を結びつけている。

この絵には大きな特徴がある。実質的には、年代の違う二層の絵が重なっているのである。作者をめぐる議論は1960年代から続いている。エックス線調査によって、いまの表面の下に1635年ごろの古い層があることがわかった。構図はすでにできあがっていたが、エステルの顔はもっと右にあった。1660年代に、この絵はほぼ全面的に描き直された。おそらくレンブラントの工房でのことである。そのため美術館は「レンブラントと工房」と表記しており、オランダ美術史研究所もまた、レンブラント本人が関わった可能性を残している。

1898年には、この絵はすでにカロルのものだった。その年、アムステルダムで開かれたレンブラント展に、この絵は夏の離宮ペレシュ城のあるシナイアから送られている。

羊飼いの礼拝
羊飼いの礼拝エル・グレコ, 1596, ルーマニア国立美術館

1989年12月の事件のあと、アムステルダム国立美術館の館長ヘンク・ファン・オスがブカレストを訪れ、銃弾を受けた16世紀の板絵二点を修復のためオランダへ運んだ。そのとき一緒に運ばれたのがこのカンヴァスで、被弾した作品の記録には入っていない。修復は1990年から1991年にかけて、アムステルダム国立美術館とマーストリヒトの修復工房で行われた。

7. エル・グレコ《羊飼いの礼拝》、1596〜1600年

エル・グレコがマドリードで受けた注文は、ただひとつしかない。ある神学校の聖堂の主祭壇で、この神学校は、王妃の女官だった創設者の名をとって、ドニャ・マリア・デ・アラゴン学院と呼ばれていた。契約が結ばれたのは1596年で、ドニャ・マリアは完成を待たずに亡くなり、注文はカスティーリャ評議会に引き継がれて、1600年に祭壇が据えられた。一般に受け入れられている復元によれば、祭壇は二段で、各段に三点ずつ絵が並び、《羊飼いの礼拝》は下段の左に置かれていた。そのためこのカンヴァスは人の背丈の二倍近くもあり、祭壇の一区画に合わせて細長い。

画面の下半分は夜で、光は白い布の上に寝かされた幼子から発しているので、まわりの顔は下から照らされている。深紅の衣を着て白いヴェールをかぶったマリアは、両手で布をめくり、羊飼いたちに幼子を見せている。その前には足を縛られた白い子羊が横たわっている。やがて来る犠牲のしるしである。手前では、蛍光色のような緑の上着を着た羊飼いが半ば背を向けてひざまずいていて、画面のいちばん端に、汚れた裸足の足裏がのぞいている。上方では二人の大きな天使が「いと高きところには栄光、神にあれ」と記された帯を掲げ、そのあいだで裸のプットたちが宙返りしている。

1808年から1809年にかけて、ジョゼフ・ボナパルトの治下で学院が閉鎖されると、祭壇は解体された。19世紀、この絵はパリにあったルイ=フィリップのスペイン・ギャラリーを経て、ロンドンの競売にかけられ、いくつかの個人コレクションを渡り歩いたのちにフェリックス・バンベルクの手に入り、カロル1世が彼から買い取った。祭壇の残る五点のカンヴァスはプラド美術館にあり、2000年、プラドはブカレストからこの一点を借り受けて、六点すべてを一堂に集めた。

カロル1世はエル・グレコの作品を何点か所有しており、そのうちブカレストに残ったのは三点、この絵と《聖母の結婚》《聖マウリティウス》である。旧王室コレクションの行方をめぐる争いは、いまも続いている。2025年には、同じコレクションから出た別のエル・グレコを、ルーマニア政府の申し立てを受けてクリスティーズが競売から取り下げた。

羊飼いの礼拝
羊飼いの礼拝エル・グレコ, 1596, ルーマニア国立美術館

03. ルーマニアの画家たち

革命のルーマニア
革命のルーマニアコンスタンティン・ダニエル・ローゼンタール, 1850, ルーマニア国立美術館

カロルがブカレストのためにヨーロッパの古い巨匠たちの絵を集めていたころ、ルーマニアの画家たちは、革命を、同時代の都市の暮らしを、風景を、そしてそれまでこの国の絵画にほとんど登場しなかった人々を描いていた。

8. コンスタンティン・ダニエル・ローゼンタール《革命のルーマニア》、1850年

1848年9月、トルコ軍がワラキアの革命を鎮圧して指導者たちを捕らえると、そのひとりである言論人コンスタンティン・ロゼッティの妻マリア・ロゼッティは、農婦に変装して捕虜の一行を追い、彼らの釈放を勝ち取ろうとした。旧姓はメアリー・グラントといい、スコットランド人の父とフランス人の母のもと、ガーンジー島で生まれた。1850年、亡命者たちが集まっていたパリで彼女を描いたのが、ウィーンでの学生時代からのロゼッティの友人、コンスタンティン・ダニエル・ローゼンタールである。ペシュト生まれのユダヤ人だった彼は、革命に加わったことで、1848年にワラキアの市民権を得ていた。

カンヴァスは楕円形で、若い女性がそのほとんどを占めている。着ているのはムシェル地方の白い農民のブラウスで、袖には赤い刺繍とスパンコールが何列も並び、首には金貨を幾重にも連ねた首飾りをかけている。彼女は顔を鋭く右へ向け、画面の外、上のほうを見上げている。握りしめた拳で旗竿を肩に押し当てていて、左下にはその裂けて折れた端が突き出している。青、黄、赤の布は、くしゃくしゃになって彼女の肩のところに寄せ集められている。もう一方の手には切っ先を下に向けた短剣を握り、画面右の奥では、煙の中で騎兵たちが斬り合っている。

ガチョウを持つユダヤ人
ガチョウを持つユダヤ人ニコラエ・グリゴレスク, 1880, ルーマニア国立美術館

1851年7月の初め、ローゼンタールはロゼッティの宣伝文書を携えてトランシルヴァニアへ向かった。フランス当局が彼の手紙を押さえてウィーンに通報し、彼はペシュトで逮捕された。7月22日から23日にかけての夜、彼は獄中で死んだ。オーストリア当局は独房で首を吊ったと発表したが、ルーマニアでは、仲間を売らなかったために尋問で拷問されて死んだという言い伝えがいまも語られている。

コンスタンティン・ロゼッティはこの絵を手元に置き、1885年4月8日に亡くなった。遺言には、生きているあいだはこれらの「イコン」を手放す力がなかったと書かれていた。そして妻と息子たちに、ローゼンタールの二点の歴史画、つまりこの絵と《自由の野で鎖を断ち切るルーマニア》を、画家が望んでいたとおり彼の名で国立博物館に納めるよう言い残した。

9. ニコラエ・グリゴレスク《ガチョウを持つユダヤ人》、1880年

1866年のルーマニア憲法は、帰化をキリスト教徒にしか認めていなかった。1878年のベルリン会議は、ルーマニアの独立を承認する条件としてこの規定の撤廃を求め、1879年10月、条文は改正された。宗教による制限はなくなったが、市民権はその後も一人ずつしか与えられなかった。希望者はそれぞれ請願書を出し、議会が一件ずつ採決したのである。

1880年の春、当時フランスに住んでいたニコラエ・グリゴレスクは、この絵をパリのサロンに出品した。のちに画家自身は、これを《未来のルーマニア市民》と呼んでいる。丸い毛皮の帽子をかぶり、黒いひげをたくわえた男が、口いっぱいに大きく笑ってこちらを見ている。右腕には生きた白いガチョウを抱えて、指を羽毛の奥深くにうずめ、左手では、隅に収入印紙の貼られた折りたたんだ紙を懐から引き出している。グリゴレスクについて本を書いた作家アレクサンドル・ヴラフツァは、その請願書の書き出しを「議長閣下、議員諸氏……」と読み取った。

森番の娘
森番の娘ニコラエ・トニツァ, 1925, ルーマニア国立美術館

1887年、グリゴレスクはブカレストのエフォリエ宮で大規模な展覧会を開き、この絵は会場のどの作品よりも高値で売れた。8000レイで買ったのは、その富から大富豪を意味する「ナバブ」とあだ名されたゲオルゲ・グリゴレ・カンタクジノである。

意見が分かれているのは、グリゴレスクがここで誰を笑っているのかという点だ。ヴラフツァはこの人物をあからさまに反ユダヤ的な言葉で描写し、ガチョウを役人への付け届けと見た。後の研究者たちは、風刺の矛先を帰化の手続きそのものに向けて読むことが多くなっている。国は宗教による制限を撤廃しながら、なお一人ひとりの市民権について議会に個別の採決をさせていたからである。この読み方では、ガチョウは制度をからかう冗談の一部になる。

10. ニコラエ・トニツァ《森番の娘》、1925年ごろ

絵の中の少女の目には、白目がほとんどない。大きく離れた、黒に近い暗い円盤が二つ、まっすぐこちらを見ているが、何も映していない。まなざしは内側に向けられているようで、こうした目を見れば、ニコラエ・トニツァの描いた子どもの肖像だとすぐにわかる。少女は白い頭巾をかぶり、肩のふくらんだ鮮やかな赤いドレスに幅の広い白いひだ襟をつけ、濃い栗色の巻き毛は腰近くまで垂れている。背景は一面、暗い青緑の葉に覆われていて、その葉は刺すような黄色の光の上に、長くとがった筆触で描かれている。赤と緑を、トニツァは黄土色と白と茶色でつないでいる。

モデルの名は伝わっていない。1924年、トニツァはヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、1926年には画家フランチスク・シラトとシュテファン・ディミトレスク、彫刻家オスカル・ハンとともに、「四人組」の第一回展を開いた。ルーマニアの批評では、彼に「子どもの画家」という呼び名が定着した。

これはおそらく20世紀のルーマニア絵画でもっとも多く複製された一枚で、美術館自身もこの絵を主要作品のひとつに数えている。2023年、国はこの絵を、国の文化遺産の最高区分である「テザウル」に登録した。

11. ディミトリエ・パチウレア《大地のキメラ》、1927〜1928年

《大地のキメラ》は、テーブルの上に載るほどの大きさである。女性の頭は上へ反らされ、重たげにまぶたを伏せたなめらかな顔は仮面のようで、長く太い首が像のほぼ半分を占めている。前のほうでは体が短いライオンの脚で立っているが、後ろのほうは石の盛り上がりの中へ沈み込み、そのまま一体になっているように見える。その下からは細い蛇の尾が出て、台座に巻きついている。ブロンズは暗い色で、顔と額と首は光るまで磨かれ、後頭部の髪はざらついたまま残されている。

これは、ディミトリエ・パチウレアが1920年代後半に制作したキメラの連作のひとつである。等身大の《大気のキメラ》で、彼は1927年に国家彫刻賞を受けた。パチウレアは1909年からブカレスト美術学校で彫刻を教え、コルネル・メドレア、イオン・ジャレア、オスカル・ハンらを育てた。仕事場は、彼が管理を任されていた画家テオドル・アマンの記念館の中庭にあった。キメラは人々を当惑させた。19世紀の象徴主義は、そのころにはすでに急進的な前衛に道を譲りつつあったからである。

このブロンズがどのように美術館に入ったのかは、ほとんどわかっていない。ラベルには「来歴:購入」とあり、いつ鋳造されたのかは公表されていない。同じ美術館の《大気のキメラ》が鋳造されたのは1967年、彫刻家の死から35年後のことだった。

パチウレアは1932年7月14日、がんで亡くなった。ブカレストの新聞『ディミネアツァ』は彼が貧しいまま死んだと書き、葬儀の費用は友人たちが出し合った。

大地のキメラ
大地のキメラディミトリエ・パチウレア, 1927, ルーマニア国立美術館

12. コンスタンティン・ブランクーシ《祈り》、1907年

1907年4月18日、コンスタンティン・ブランクーシがパリで署名した契約書で注文されていたのは、泣いている女性の像だった。注文主はブザウの町のエリザ・スタネスクで、1905年10月、結婚からおよそ五か月で、弁護士で国会議員だった夫ペトレ・スタネスクを亡くしていた。彼女は夫の墓のために、石の台座と寓意像、それに故人の胸像を7500レイで注文した。ブランクーシは31歳で、その年の春、一か月ほど働いたロダンのアトリエを去ったばかりだった。

最初、彼は求められたとおりのものを作った。衣をまとい、髪をほどいて、悲しみのあまり墓石にすがりつく女性で、この像は写真で知られている。その後、彼はこれを壊して一から作り直した。1910年に鋳造されたブロンズでは、女性は裸でひざまずき、全身が膝から一本の長い斜めの線をなして前へ傾き、頭は胸に深く垂れている。右腕は曲げられて拳が胸に押し当てられ、左腕はブランクーシ自身が、ロダンにならって肘の上で切り落とした。表面は、のちの彼の作品のようにはまだ磨かれておらず、暗いブロンズには肉付けの跡が残っていて、そこに当たる光が細かくきらめく。

岩と白樺
岩と白樺イオン・アンドレースク, ルーマニア国立美術館

1910年、《祈り》はパリのアンデパンダン展に出品された。1914年にはブランクーシ本人がブザウを訪れ、その場で石から台座を彫り出して、ドゥンブラヴァ墓地に記念碑を建てた。未亡人にブランクーシに頼むよう勧めた画家シュテファン・ポペスクによれば、引き渡しのときにはひと騒動あったが、記念碑はそのまま据えられた。

美術館は1958年、スタネスク家から《祈り》を7万レイで購入した。国がブランクーシの別の作品《大地の知恵》を没収した翌年のことである。墓には複製が置かれ、ペトレ・スタネスクの胸像も美術館に収められている。複製は1996年に盗まれ、1998年に見つかったが、2005年にふたたび盗まれた。2014年6月からは、美術館の原作から型を取って鋳造された新しいブロンズの複製が墓に立っていて、その費用はブザウのロータリークラブと個人の寄付者が負担した。

13. イオン・アンドレースク《岩と白樺》、制作年不詳

画面の上半分は、雲ひとつない平らな淡い青空で、乾いた筆で塗られているため、絵具がカンヴァスの織り目に引っかかっている。右には白樺の一群が立ち、幹は一本ずつ、暗い樹皮の斑点を添えた白い厚塗りのひと筆で置かれ、細い一本が斜めに中央へ倒れかかっている。中央には細く暗いネズの木が伸び、左にはまばらな赤茶色の葉をつけた木があり、手前では赤茶けたシダのあいだに大きな岩が二つ横たわっている。岩は灰白色で、藤色や淡い緑の地衣類がまだらについている。右下の岩の根元には、赤褐色の絵具で「アンドレースク」と署名がある。

いつ描かれたのかは、正確にはわかっていない。ブザウ時代の作とする説もフランス時代の作とする説もあり、画風はフォンテーヌブローで学んだことを思わせる。1872年から1878年まで、アンドレースクはブザウで素描と習字を教えながら、独学で風景画を描いていた。1878年の末には奨学金を得てパリへ渡り、アカデミー・ジュリアンで学んだのち、フォンテーヌブローの森のほとりのバルビゾンで、グリゴレスクのそばで制作した。グリゴレスクはそのころ彼の肖像《バルビゾンのアンドレースク》を描いており、この肖像も美術館にある。

1881年、彼の《バルビゾンの冬》はパリのサロンに展示された。1882年にはブカレストで生前ただ一度の個展が開かれ、およそ60点が並んだが、その年の10月22日、彼は結核のため32歳で亡くなった。ルーマニアでは、彼はグリゴレスク、ルキアンと並んで、ルーマニア近代絵画の創始者のひとりに数えられている。2020年、美術館は、1989年12月に銃弾を受け、館の修復家たちが修復した47点の絵のひとつとして、彼の《村はずれのポプラ》を展示した。

バルビゾンのアンドレースク
バルビゾンのアンドレースクニコラエ・グリゴレスク, 1882, ルーマニア国立美術館

04. 銃撃にさらされた宮殿

花売り娘サフタ
花売り娘サフタシュテファン・ルキアン, 1900, ルーマニア国立美術館

最後の二点で、話は美術館の建物そのものに戻る。1989年12月、かつての王宮はコレクションを収めておくだけの場所ではなくなり、建物そのものが事件のただなかに置かれた。

14. シュテファン・ルキアン《花売り娘サフタ》、1900年ごろ

1989年12月22日の夕方、旧共産党中央委員会の建物と、美術館の入っていた宮殿とのあいだの広場で銃撃が始まった。その夜、美術館の絵画修復工房が焼け、美術史家ドラナ・コショヴェアヌや18歳のミリアム・ツァラルンガを含む職員とボランティアが、建物の内側の階段に絵を隠した。美術館はのちに、失われた絵を30点、うちヨーロッパの作品17点、ルーマニアの作品13点と数えた。

シュテファン・ルキアンの《花売り娘サフタ》は常設展示に掛かっていて、正面から二発の弾を受けた。一発は鎖骨の近くで女性の胸を貫き、もう一発は心臓の上、暗い色の上着に大きなぎざぎざの穴をあけた。ルキアンがサフタを描いたのは1900年ごろ、のちに彼を麻痺させる病気にかかる前のことである。国の文化財登録簿では、サフタはロマの若い女性とされている。彼女は額まで引き下ろした暗い赤のスカーフをかぶり、片方の肩からずり落ちかけた暗い上着と、厚く盛り上げた筆触で描かれた胸元の深く開いた白いブラウスを身につけ、見る者を通り越して右のほうへ目をそらしている。背後の温かな黄土色の地は、漆喰のように荒い筆触で塗られている。

コトロチェニ修道院のイコノスタシス
コトロチェニ修道院のイコノスタシス1682, ルーマニア国立美術館

美術館の職員たちは、一部の女性像は意図的に狙い撃ちされたと回想しているが、検察の資料には、無差別に撃たれていたという証言もある。実際にどうだったのかを確かめるすべは、もう残っていない。

被弾した絵の修復は、1990年1月に美術館の工房で始まった。2020年、修復家で学芸員のソリナ・ゲオルギツァと工房長のヨアン・スフリジャンは、被弾した絵の修復をテーマにした展覧会「ラボラトリーⅡ 1989」のポスターに《サフタ》を選んだ。ポスターには修復された顔と胸が載り、二つの弾痕は小さな挿入写真で示された。

15. コトロチェニ修道院のイコノスタシス、1682年

1977年3月4日の地震のあと、美術館の職員たちはコトロチェニ修道院の聖堂から、イコノスタシスをはじめとする調度を運び出した。その大部分は創建者が寄進したものだった。七年後の1984年、チャウシェスクの命令で聖堂は取り壊された。コトロチェニ宮殿を公邸にするためである。そのとき、イコノスタシスはもう聖堂の中にはなかった。

このイコノスタシスは、ワラキア公シェルバン・カンタクジノが、自ら創建し1682年に完成したコトロチェニ修道院の聖堂のために注文したものである。彫刻は地元の工房が手がけ、イコンは画家コンスタンティノスが描いた。十年後にホレズ修道院の壁画制作を率いたのと、おそらく同じ人物である。王門の上に彫り手たちは横たわるエッサイを据え、そこから伸びる金箔張りのぶどうの蔓が、彫刻の壁全体に広がっている。こうして彫り手たちは、ダビデの家から続くキリストの系譜を表した。コンスタンティノスは金地の上に、赤、青、緑の鋭い組み合わせでイコンを描いている。

取り壊しの前に、建築家カミル・ログスキは聖堂の石材や柱、フレスコ画を救い出し、チェルニカ修道院へ運ばせた。救われた断片の中には、パルヴ・ムトゥの描いた創建者たちの肖像もあった。ボルデシュティの自画像ですでに見た、あの画家である。

コトロチェニ修道院のイコノスタシス
コトロチェニ修道院のイコノスタシス1682, ルーマニア国立美術館

美術館の職員によれば、1989年12月にはイコノスタシスにも弾が当たったが、どこに当たったのかは誰も記録していない。修復は2002年に終わった。四半世紀のあいだに、イコノスタシスは1977年、1989年の後、そして2002年と、三度解体されては組み立て直された。

2009年、政府は、美術館に保管されていたコトロチェニのイコノスタシスとその他およそ140点を、再建された聖堂のために大統領府へ引き渡すことを決定した。美術館の修復家や学芸員たちは、もう一度解体すればイコノスタシスが危険にさらされるうえ、新しい聖堂の温湿度環境も適していないとして抗議した。ほかの聖具はコトロチェニに戻り、2014年10月からそこで展示されている。

再建されたコトロチェニの聖堂には、いま複製が置かれている。原作はここ、かつての王宮に残った。何世紀ものあいだに、この美術館の作品は壁から剥がされ、裁ち直され、買われ、遺贈され、地震のあとに救い出され、銃撃のあとに修復されてきた。だからここでは、美術の歴史と並んで、ほとんどいつももうひとつの歴史が流れている。その作品がどのようにして、いま私たちの目の前にあるのかという歴史である。

ほかに見るなら

このリストは、宮殿にたどり着くまでの道のりそのものに興味深い話がある作品を軸に組み立てたが、トニツァとアンドレースクの二点は意図して加えた例外である。リストの外にも、ここを訪れる理由はまだたくさんある。古ルーマニア美術のギャラリーでは、1395年から1396年のコジア修道院の聖骸布と、1561年にプトナのドソフテイが作った行列用十字架を探してみてほしい。ヨーロッパ絵画のギャラリーには、エル・グレコのもう二点《聖母の結婚》と《聖マウリティウス》、そしてルーベンスの《ジョヴァンナ・スピノラ・パヴェーゼの肖像》がある。ルーマニア絵画のギャラリーでは、ルキアンの《アネモネ》、グリゴレスクの《門の前で糸を紡ぐ娘たち》、テオドル・パラディの《窓辺の花、ドーフィーヌ広場》も見ておきたい。

ジョヴァンナ・スピノラ・パヴェーゼの肖像
ジョヴァンナ・スピノラ・パヴェーゼの肖像ピーテル・パウル・ルーベンス, 1606, ルーマニア国立美術館