レスピネット家の男性の肖像
レスピネット家の男性の肖像ハンス・メムリンク, 1487, マウリッツハイス美術館

マウリッツハイスは1630年代から1640年代にかけて、ナッサウ=ジーゲンのヨハン・マウリッツのために建てられた。ヨハン・マウリッツは1637年から1644年まで、西インド会社に代わってオランダ領ブラジルを治めた人物である。設計したのは建築家ヤーコプ・ファン・カンペンとピーテル・ポストだった。建設にあてられた財産の一部はブラジルの砂糖と奴隷貿易に結びついていて、美術館はそのことをはっきりと述べている。1986年につくられたヨハン・マウリッツの胸像の複製が2017〜2018年に玄関ホールから撤去されると、彼の遺産をめぐる論争は議会で質問が出るまでになった。

コレクションのもとになったのは、共和国を治めたオラニエ家の総督たちの絵、とりわけウィレム5世の絵である。ウィレム5世は1774年、バイテンホフにある自分のギャラリーを一般に公開した。1795年にフランス軍がその絵をパリへ運び去り、1815年に大半が戻ってきた。1816年に国王ウィレム1世が王立絵画陳列館を設け、1820年に国がヨハン・マウリッツの館を買いとり、1822年にそこで305点の絵をそろえた美術館が開館した。その後この館のために絵を買うようになったのは、国王、改革派の官僚ヴィクトル・デ・ステュールス、館長アブラハム・ブレディウス、個人の収集家、そしてオランダの美術館の作品購入を助ける民間団体、レンブラント協会である。協会が史上初めて美術館に資金を出したのは1894年で、ブレディウスがマウリッツハイスのためにハンス・メムリンクの男性肖像画を買ったときだった。1945年以降は、国、財団、宝くじがこの館のために絵を買ってきた。

ここで取りあげる20点は、この館に来るまでの道筋から、そのときどきに何をここに掛けるかを誰が決めていたのかが見えてくる絵である。ヨハン・マウリッツ本人のために描かれたブラジルの風景から始めて、2018年に宝くじの資金で買われた陽気な集いの絵で終える。

ブラジルの富で建った館

1. フランス・ポスト《ブラジルのイタマラカ島の眺め》(1637年)

カンヴァスの裏には紙片が貼られていて、そこにフランス・ポストは、絵に何が描かれているかを書きつけている。南から見たイタマラカ島で、町は上の丘の上にあり、下の、海へ出るすぐ手前にオラニエ砦がある。そして最後に、ポルトガル人はこんなふうに馬に乗るのだと書き添えた。ポストは25歳ほどで、1637年に地誌画家としてヨハン・マウリッツの随員に加わってブラジルに渡り、同じ年にこの眺めを描いた。美術館はこれを、ヨーロッパの画家がブラジルを描いた最初の絵であり、知られているポストの絵のなかで最も早いものだとしている。ヨハン・マウリッツは当初イタマラカに植民地の新しい首都を置くつもりで、アムステルダム国立美術館によれば、岸辺の人々はおそらく島を視察しているのだという。

ブラジルのイタマラカ島の眺め
ブラジルのイタマラカ島の眺めフランス・ポスト, 1637, マウリッツハイス美術館

空はカンヴァスのほぼ三分の二を占め、平たいクリーム色の雲は、その下に広がる淡い黄土色の水とほとんど同じ色をしている。水の向こうには暗い緑の細長い島が延び、その尾根には細いヤシの木と、赤い屋根の白い小さな家が一列に並んでいる。手前の灰色の砂浜では、人と馬がほぼ一本の線上に並んでいる。中央では、つばの広い淡い色の帽子をかぶり、鞭を手にした色白の騎手が、濃い鹿毛の馬にまたがっている。これが書き付けにあるポルトガル人である。その隣では、黒い服に黒い帽子のがっしりした男がこちらに背を向けて立ち、片手を挙げて島を指している。左では上半身裸の黒人の男が頭の上の籠を支え、右では別の男が白い馬の手綱をとっていて、その足もとにはオレンジを盛った編み籠が置いてある。右下の隅の倒れた丸太には、暗い色の大文字で、ポストの名と1637年という年が記されている。

美術館によれば、ポストの絵は全体としては植民地を牧歌的に描いているが、ここで彼は意図せずして肌の色による不平等を描きとめている。画家の兄弟ピーテル・ポストは、マウリッツハイスを設計した建築家の一人である。アムステルダム国立美術館とマウリッツハイスは、この絵が、ヨハン・マウリッツが1679年にフランス国王ルイ14世に贈った絵のなかに含まれていたと推測している。1879年にアムステルダム国立美術館がパリのウジェーヌ・オディノから買いとり、1953年に、所有権は手もとに残したまま、長期貸与としてマウリッツハイスに預けた。

ブラジルのイタマラカ島の眺め
ブラジルのイタマラカ島の眺めフランス・ポスト, 1637, マウリッツハイス美術館
メアリー・ステュアート1世(1631-1660)と召使いの少年の死後肖像
メアリー・ステュアート1世(1631-1660)と召使いの少年の死後肖像アドリアーン・ハネマン, 1664, マウリッツハイス美術館

2. アドリアーン・ハネマン《メアリー・ステュアート(1631〜1660)と従者の死後の肖像》(1664年ごろ)

イングランド王女メアリー・ステュアートは、この死後の肖像で、白いサテンの衣に、アメリカの住民のような羽根のマントをまとって立っていて、そのかたわらには黒人の少年が立っている。1664年ごろ、ハーグの肖像画家アドリアーン・ハネマンが、彼女の息子で、のちにオランダ総督となり、イングランド国王にもなるウィレム3世のためにこれを描いた。ウィレムは当時14歳ほどだった。総督ウィレム2世の未亡人メアリーは、1660年12月24日、29歳のときにロンドンで天然痘のために亡くなった。ハネマンは長くイングランドでヴァン・ダイク風の肖像を描いていたが、1638年ごろハーグに戻り、メアリーのまわりに集まった亡命中のイングランド宮廷の画家となったので、彼女の顔を何度も実際に見て描いていた。

衣装も実際にあったものである。1655年1月、ハーグの仮面舞踏会で、ある目撃者が王女の姿を、アマゾネスのように、つまりアメリカの住民の衣装で、たいそう華やかに装っていたと書きとめている。同じ年にハネマンはこの衣装の彼女を描いていて、その肖像はイギリス王室コレクションに属している。

メアリーの頭には、クリーム色と金の縞のターバンが巻かれ、サーモンピンクの羽根と真珠の連なりで飾られている。肩には、青、黄、白をはめこんだ赤橙色の羽根の重いマントが掛かっている。こうした羽根のマントは、当時オランダが支配していたブラジル北東部のトゥピナンバ族がつくっていたもので、オランダの宮廷にゆかりのある似た赤いマントがコペンハーゲンに残っている。そこへ渡ったのは、おそらくヨハン・マウリッツを通じてのことである。左側、メアリーより低いところには、からし色の絹の胴着を着て耳に真珠をつけた黒人の少年が立ち、彼女の肘のそばで長い真珠の連なりを両手で持っている。少年は彼女を見上げ、彼女は見る者のほうを見ている。左下の隅には大きな真珠貝が置かれ、その下の暗い石の張り出しから真珠の糸が垂れている。

この肖像がどのようにしてこの館に来たのかは、美術館自身にもわからない。オラニエ家の家族の絵で、1755年までには総督のホンセラースダイク宮殿にあったが、美術館の解説は、美術館に入ったのは1875年かそれ以前だとしか述べていない。少年の名前は、研究者たちにも見つけられていない。2019〜2020年、展覧会「移ろうイメージ ヨハン・マウリッツを探して」のあと、美術館はこの肖像を、ヨハン・マウリッツとオランダ領ブラジルと奴隷制を扱う新しい常設の展示室に掛けかえた。そしてラベルに、少年は、メアリーの肌の白さと高い身分を際立たせるためにハネマンが添えた異国趣味の小道具におとしめられている、と書いた。以前の美術館の解説には、メアリーは少年に気づいてもいないようだとしか書かれていなかった。

メアリー・ステュアート1世(1631-1660)と召使いの少年の死後肖像
メアリー・ステュアート1世(1631-1660)と召使いの少年の死後肖像アドリアーン・ハネマン, 1664, マウリッツハイス美術館

総督が集め、フランス軍が持ち去る

若い母親
若い母親ヘラルト・ダウ, 1658, マウリッツハイス美術館

3. ヘラルト・ダウ《若い母親》(1658年)

1660年10月、ホラント・西フリースラント州議会は、ライデンの画家ヘラルト・ダウにこの小さな室内の情景の代金として4000ギルダーを払った。ドイツの画家で伝記作者のヨアヒム・フォン・ザンドラルトによれば、ダウの絵の値段は高くても1000ギルダーほどだったという。買ったのは、1660年に王位に復帰したイングランド国王チャールズ2世への贈り物にするためだった。

州議会はこの贈り物を、主にレインスト・コレクションのイタリア絵画と古代の彫像から集め、オランダの画家の絵はあとから加えた。11月、「オランダの贈り物」はロンドンで国王に献上された。チャールズ2世はダウとエルスハイマーの作品をいちばん好きな絵だと語り、ダウを宮廷に招いたが、画家はライデンにとどまった。

ダウはガラス職人の息子で、はじめはガラスに彫ったり描いたりすることを学び、1628年に若いレンブラントの最初の弟子になった。上部が丸くなった板の大半を天井の高い暗い部屋が占め、人物は下の三分の一に座っている。光は左の高い窓から差しこみ、開いた鎧戸の向こうには日の当たる通りが見える。若い母親は窓辺の籐の椅子に座り、膝にレース編みの枕をのせて、まっすぐこちらを見ている。そばでは白い頭巾の召使いが大きな籐の揺りかごの前にひざまずいて青い掛け布を持ちあげていて、その下の赤ん坊は目を開けている。床の光だまりには扉の開いたランタンが横倒しになり、右の薄暗がりには死んだ野ウサギが吊るされ、天井からは六本腕のシャンデリアが下がっている。上の窓のステンドグラスには、紋章の下にダウの名と1658年という年が書かれていて、その文字は窓ガラスといっしょに鉛の枠にはめこまれたように見える。

この絵はおよそ30年間イングランド王室のコレクションにあり、チャールズ2世、続いてジェームズ2世のものだった。その後、総督でありイングランド国王でもあったウィレム3世が、ほかのおよそ30点の絵とともにネーデルラントへ持ち帰り、絵はオラニエ家に代々受け継がれてウィレム5世のギャラリーに入った。1795年にフランス軍がパリへ運び去り、1815年に返還され、1822年にはマウリッツハイスが開館したときの絵の一つとなった。

マウリッツハイスの研究者たちは、州議会が買ったのは売却の数年前に描きはじめられた絵だった可能性を認めている。X線調査では、ダウが制作の途中で人物を大きく描き直したことがわかった。2016年の美術館の風俗画カタログには、年記の最後の数字ははじめ1で、それが8に書き直されたのかもしれないと書かれている。

4. パウルス・ポッテル《雄牛》(1647年)

雄牛
雄牛パウルス・ポッテル, 1647, マウリッツハイス美術館

マウリッツハイスの修復家アビー・ヴァンディヴィアとヨレイン・スヒルデルが《雄牛》の修復を終えたのは2025年12月で、仕上げに黄ばむことのない新しい合成ワニスが塗られた。二人は2024年の夏から、美術館のなかに設けた仮の工房で来館者の目の前で作業を続け、その工房は「牛小屋」と呼ばれた。黄ばんだワニスと、古いものでは200年前にさかのぼる加筆が取りのぞかれると、暗い雷雲の下の空に欠損が見つかった。空はオランダ王立気象研究所の法科学気象学者の助言に従って復元され、最後のにわか雨が去っていく初夏の一日の空になった。

修復家たちが難題と呼んだのは「フランスの枝」だった。1795年から1815年まで絵はルーヴルに掛けられていて、そこで傷が見つかり、木に余分な枝を描き足して隠したのである。この枝も絵の歴史の一部だったので、あとで取りのぞける可逆的な補彩で覆われた。残ったのは葉が数枚ついた細い小枝で、雄牛の背の上には前より多くの空がのぞくようになった。

マウリッツハイスで最も大きな絵で、若い雄牛はほぼ実物大に描かれている。当時その大きさがふつう与えられたのは歴史画だった。雄牛は横向きに立って顔をこちらに向け、赤茶色の毛の肩には白い斑が走り、下唇からはよだれが糸を引いて垂れ、肩と脇腹には蝿がとまっている。左には顔の白い雌牛が寝そべり、やはりまっすぐこちらを見ている。柵の向こうには茶色の帽子の年老いた牧夫が木の幹に手をかけて立ち、下の、雌牛の前脚の前のむきだしの地面には、小さな緑の蛙がいる。雄羊の上の柵の板には、ナイフで刻んだように、パウルス・ポッテルが1647年に描いたという署名がある。ポッテルは22歳で、1654年に28歳で亡くなった。美術館によると、彼はこの雄牛を、年齢の違う何頭かの牛を組み合わせてつくりあげたという。

雄牛
雄牛パウルス・ポッテル, 1647, マウリッツハイス美術館

18世紀前半、この絵はハールレムのある市長の一族のなかで、家宝として遺言によって受け継がれた。1749年、最後の相続人が亡くなると、ハールレムの競売に最初の品として出され、競売人フランス・デッケルが630ギルダーで落札した。その競売で最も高い値だった。一族の手もとにあった目録の余白には、デッケルはレインスト提督の依頼で買ったのであり、提督はローの館で絵を公に贈ったと書きこまれている。提督とはオラニエ家の支持者ヤーコプ・レインストで、公とは総督ウィレム4世のことであり、ウィレム4世は1748年と1750年にレインストを昇進させている。

5. ヤン・ブリューゲル(父)とピーテル・パウル・ルーベンス《地上の楽園とアダムとエバの堕罪》(1615年ごろ)

楽園と人間の堕落
楽園と人間の堕落ピーテル・パウル・ルーベンス, 1615, マウリッツハイス美術館

板の下の縁に沿って署名が二つある。中央より左、クジャクの尾の下には、小さな大文字で、人物はピーテル・パウル・ルーベンスが描いたという意味の言葉が記されている。右の水辺には、かろうじて見分けられるほど小さな二つ目の書き込みがあり、ヤン・ブリューゲル(父)の署名と読まれている。ピーテル・ブリューゲル(父)の息子で、スペイン領ネーデルラントを治めたアルブレヒト大公とイサベル大公妃の宮廷画家だったブリューゲルはルーベンスと親しく、二人はこうした絵を何点かいっしょに描いた。美術館の解説によれば、構図を考えたのはブリューゲルで、描きはじめたのはルーベンスだった。ルーベンスがアダムとエバ、木、馬、蛇を薄く素描風に描き、そのあとブリューゲルが厚い絵の具で、百科事典のような正確さで植物と動物を描き加えた。

18世紀の初め、この絵はライデンの収集家ピーテル・デ・ラ・コート・ファン・デル・フォールトのもので、その家で絵を見た画家伝の著者アルノルト・ハウブラーケンは、これまで出会ったブリューゲルのなかで最高のものだと書いた。1766年9月8日、デ・ラ・コート家のコレクションの売り立てで、総督ウィレム5世のためにこの絵が買われた。美術館によれば、支払われた額は、同じ競売でヴァン・ダイクやヨルダーンスにつけられた値よりはるかに高かった。ウィレム5世はこれを自分のギャラリーに掛け、1795年にはコレクションごとパリへ運ばれ、1815年に戻ってきた。

青白いエバは左に立ち、金色の髪は膝まで垂れている。右手でまだ枝に下がっているリンゴに手を伸ばし、左手ではもう一つのリンゴをアダムに渡している。アダムは草の盛りあがりに座り、片手でリンゴを受けとりながら、もう一方の手を挙げて人差し指を伸ばしている。蛇は知恵の木の枝に巻きつき、その頭は、エバがリンゴをもいでいるまさにその枝のほうへ下がっている。左端にはルーベンスの鹿毛の馬が立ち、こちらを見ている。残りはすべて、ブリューゲルが動物で埋めつくした。虎と斑点のある豹が仰向けに転がり、小川のそばにはサギとセイケイが立ち、木々にはコンゴウインコがとまり、遠くの木の下にはラクダと象が見え、エバの足もとには白い小型犬が座っている。左下の隅、七面鳥の後ろでは、猿がもうリンゴにかじりついている。

楽園と人間の堕落
楽園と人間の堕落ピーテル・パウル・ルーベンス, 1615, マウリッツハイス美術館

国王が国のために買う

6. ヨハネス・フェルメール《デルフトの眺望》(1660〜1661年ごろ)

デルフトの眺望
デルフトの眺望ヨハネス・フェルメール, 1661, マウリッツハイス美術館

マルセル・プルーストは1902年10月18日にハーグで《デルフトの眺望》を見て、世界でいちばん美しい絵だと言った。1921年5月、この絵がパリのジュ・ド・ポームで開かれたオランダ美術展に運ばれると、プルーストはふたたび見に行った。そして彼の小説『囚われの女』では、作家ベルゴットがこの絵の前で、小さな黄色い壁面を見つめながら息を引きとる。

国のためにこの絵が買われたのは1822年5月22日、アムステルダムでのスティンストラ・コレクションの売り立てで、価格は2900ギルダーだった。国王ウィレム1世はこれをハーグに掛けるよう命じた。マウリッツハイスに入った最初のフェルメールである。それより百年以上前の1696年、ヤーコプ・ディシウスのコレクションの売り立てでは、この絵に200ギルダーの値がつき、その競売のどの絵よりも高かった。フェルメールは生涯をデルフトで過ごしたが、町を描いた絵はこれと《小路》の二点しかない。

空はカンヴァスの上の五分の三を占め、いちばん上には重たい灰褐色の雲がかかり、その下に白い雲の帯がある。町は水の向こう、対岸の岸壁に沿って細い帯のように延びていて、水辺の城壁や門は陰になり、その奥の屋根には日が当たっている。中央より左には、階段状の破風に丸い金色の文字盤をつけた煉瓦造りのスキーダム門があり、右には二つの尖った小塔と跳ね橋をそなえたロッテルダム門がある。その奥には日を浴びた明るい新教会の塔がそびえ、鐘楼の開口部からは淡い空がのぞいている。古い鐘は1660年の春に下ろされ、アムステルダムの鋳造師ヘモニーが鋳た新しい鐘が吊るされたのは1660年5月から1661年秋までのあいだだったので、フェルメールは空っぽの鐘楼を見ていたことになる。右の大きな暗い船の船体には白い絵の具の点が盛りあがり、濡れた木に光る照り返しのように見える。

プルーストが書いた小さな黄色い壁面がどこにあたるのか、研究者のあいだでは意見が分かれている。最もよく挙げられるのは、ロッテルダム門の小塔の左にある、日を浴びた暖かい黄色の屋根の短い一片である。

デルフトの眺望
デルフトの眺望ヨハネス・フェルメール, 1661, マウリッツハイス美術館

7. ロヒール・ファン・デル・ウェイデンと工房《キリストの哀悼》(1460〜1464年ごろ)

二世紀のあいだに、この板絵はヤン・ファン・エイクの作、メムリンクの作とされ、最後にロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作とされた。国王ウィレム1世が1827年にマウリッツハイスのために3000ギルダーで買わせたときも、まだメムリンクの作とされていた。1464年に亡くなったブリュッセルの市の画家ロヒールの作としたのはドイツの美術史家グスタフ・ヴァーゲンで、1847年になってからのことである。オランダの美術館にあるロヒールの絵はこれだけで、マウリッツハイスで最も古い絵でもある。

キリストを含めて11人の人物が端から端までひしめき、鮮やかな青空の風景は彼らの頭の上にしか見えない。キリストの体は白い経帷子の上に斜めに横たわり、頭は紫の帽子をかぶった老人の毛皮の外套のそばにあって、左腕は聖母のほうへ伸びている。濃い青の衣の聖母は目を閉じてひざまずき、息子の腕に手のひらを押し当てていて、その後ろでは赤い衣のヨハネが彼女の肩を支えている。左端では、真珠を縫いとった黒い胴着のマグダラのマリアが、赤いマントを目に押し当てている。右下の隅には、白いミトラに赤と金の祭服をまとい、水晶の飾りのついた金の司教杖を持った注文主の司教がひざまずいていて、この人物にはアラス、トゥルネー、ユトレヒトの司教をはじめ、何人もの司教の名が挙げられてきた。涙はマグダラのマリア、ヨハネ、聖母、そして左下に座るもう一人のマリアの頰を伝っている。このマリアの涙は長いあいだ黄ばんだワニスに覆われていて、1949年に美術史家フォーヘルサングは、彼女は泣いていないと書いた。

キリストの哀悼
キリストの哀悼ロヒール・ファン・デル・ウェイデン, 1460, マウリッツハイス美術館

この絵をメムリンクの作としたのは、ブリュッセルの収集家シャルル=ルイ・ファン・ケフェルベルフ・ファン・ケッセル男爵で、1817年にこれを買い、その翌年に自著のなかで取りあげた。ケフェルベルフの前の持ち主はルーヴェンのジョゼフ・ピエール・ヘーツで、彼はこれをヤン・ファン・エイクの作と考えていた。17世紀の初めには、この板はおそらくルーヴェンのアトレヒト学寮に置かれていた。

2009年、ルーヴェンのロヒール展に貸しだされたとき、ほかの作品と並ぶと、この絵の黄ばんだワニスは見劣りがした。修復は2016年から2021年まで続き、2018年の夏には、展示室のなかに設けた工房で、来館者の目の前でワニスが取りのぞかれた。ヨハネ、ペテロ、マグダラのマリアの頭のまわりには細い金の光輪の輪が残っていて、修復家たちはこれを19世紀の加筆、おそらくケフェルベルフのために絵を直した画家マテウス・ファン・ブレーによるものと考えている。光輪の直径はきっかり9.5センチと10センチで、それが19世紀のものとされる理由である。2025年の論文で、マウリッツハイスの修復家たちはこの絵を、ロヒールの生涯の半ばにあたる1440〜1450年と年代づけたが、美術館は画家の最晩年の作としている。

左右の同じ高さに、修復家たちは煤と蝋のしずくのついた焦げ跡を二つ見つけた。板の前の祭壇で灯されていた蝋燭がつけた跡である。この焦げ跡は、すでに16世紀か17世紀に二度にわたって埋められ、補彩されていた。

8. レンブラント《ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義》(1632年)

テュルプ博士の解剖学講義
テュルプ博士の解剖学講義レンブラント, 1632, マウリッツハイス美術館

台の上の遺体は、アリス・キントと呼ばれたライデン生まれのアドリアーン・アドリアーンスゾーンのもので、彼は1632年1月に強盗の罪で絞首刑になった。1月31日、アムステルダムの外科医組合の解剖学講師ニコラース・テュルプ博士は、この遺体で初めての公開解剖を行った。こうした解剖は年に一度、冬に、処刑された者の遺体で行われ、見物人は入場料を払った。レンブラントは25歳か26歳で、生まれ故郷のライデンからアムステルダムに移ってまもなかった。生涯で初めてのこの集団肖像画によって、彼は町で名を上げた。

遺体は青白い灰色で、カンヴァスの下半分をほぼ水平に横切り、顔は半ば陰になっている。左の前腕は指先まで切り開かれ、テュルプは鉗子で赤い筋肉を持ちあげながら、自分の左手は指を曲げて胸の前に掲げている。まるでこの筋肉が指を曲げるしくみを示しているかのようである。絵のなかで帽子をかぶっているのは彼だけである。白い襟の黒い服を着た七人の外科医が左にピラミッド形に並び、二人は腕のほうへ身をかがめ、いちばん上の一人はまっすぐこちらを見ている。X線写真を見ると、この男もはじめは帽子をかぶっていて、レンブラントがそれを塗りつぶしたことがわかる。おそらく帽子は講師だけに許されたものだったからだろう。テュルプの肩越しの外科医は手の素描が描かれた紙を持っていて、その上にはのちに描かれた全員の名前が書き加えられたが、1996〜1998年の修復でこの書き込みは一部取りのぞかれた。上の、奥の壁に貼られた紙片には、レンブラントが1632年に描いたという署名があり、その綴りには、のちの署名に見られる一文字がまだない。

実際の解剖は腹部から始めた。内臓がいちばん早く傷むからで、腕にとりかかるのは最後だった。レンブラントは手つかずの体に切り開かれた腕を描いていて、研究者たちはそこに、1543年のヴェサリウスの解剖学書の版画にならった演出を見ている。その版画では、ヴェサリウス自身が前腕の筋肉を示している。

テュルプ博士の解剖学講義
テュルプ博士の解剖学講義レンブラント, 1632, マウリッツハイス美術館

この絵は組合のもので、1798年からは外科医の寡婦基金のものになった。基金が解散すると、絵は1828年8月4日の競売にかけられることになった。7月19日の勅令で国王ウィレム1世は競売を止め、国が3万2000ギルダーで絵を買い、国王はこれをマウリッツハイスへ送った。代金の大部分は、アムステルダム国立美術館とマウリッツハイスで余分とされた絵を競売で売ってまかなわれ、最も多くの額をもたらしたのはアムステルダム国立美術館の絵だった。その館長コルネリス・アポストールは、すでに1817年に、《解剖学講義》を自分の館に譲ってほしいと願いでていた。絵の掛かっていた場所で、台所の煙に傷められていたからである。

目利きが市場の先を行く

ディアナとニンフたち
ディアナとニンフたちヨハネス・フェルメール, 1653, マウリッツハイス美術館

9. ヨハネス・フェルメール《ディアナとニンフたち》(1653〜1654年ごろ)

内務省の美術担当顧問ヴィクトル・デ・ステュールスは、1876年5月4日、パリのネヴィル・ゴールドスミッドのコレクションの売り立てで、オランダの画家ニコラース・マースの作として、この絵を国のために1万フランで買った。マウリッツハイスの館長デ・ヨンゲは、高すぎると反対した。1885年に絵が修復されたとき、デ・ステュールスはマースの署名をよく見た。そして署名の最初の二文字が別の署名の名残から作り変えられていることに気づき、その下にフェルメールの名を読みとった。のちに、彼の読みは正しかったと確かめられた。

1876年当時、フェルメールは、フランスの批評家テオフィル・トレ=ビュルガーの1866年の論文によって再発見されたばかりで、室内画と町の眺めで知られていた。どうやら彼は歴史画家として出発したらしく、《ディアナ》は、残っている彼の絵のなかで最も早いものかもしれない。1653年の末にデルフトの画家組合に迎えられたころに描かれた絵である。1889年からマウリッツハイスの館長を務めたブレディウスは、1892年、これを別のフェルメール、ほとんど知られていないユトレヒトのヨハネス・ファン・デル・メールの作とした。

ディアナは金色がかった黄色の衣で岩に座り、目を伏せていて、顔は半ば陰になっている。女神だとわかるのは、髪に巻いた細い輪につけた小さな金の三日月と、茶色の斑のある白い犬からである。銅色がかった茶色のサテンの胴着のニンフがひざまずき、黄色い海綿で女神の足を洗っている。カンヴァスの右端はこのニンフの背中を断ち切っているが、それはかつて右側の帯状の部分が切りとられたからである。後ろには黒い衣の女がうなだれて立ち、犬のそばには棘のあるアザミが伸びている。アムステルダム国立美術館の研究者たちはカンヴァスをスキャンして、フェルメールがはじめディアナの横の岩に矢の入った矢筒を描き、のちに塗りつぶしたことを見つけた。

古い複製図版では、右上の隅に青い曇り空が見える。1999〜2000年の修復で、この空は19世紀に、1704年に発明されたプルシアンブルーと、1840年ごろから使われるようになったクロムグリーンで描かれたものだとわかった。その下の絵の具は空を取りのぞくにはもろすぎたので、修復家たちは木々の色に合わせた薄い暗色の層で覆った。美術館は、この層は取りのぞけると強調している。

ディアナとニンフたち
ディアナとニンフたちヨハネス・フェルメール, 1653, マウリッツハイス美術館
誘惑
誘惑ユディト・レイステル, 1631, マウリッツハイス美術館

10. ユディト・レイステル《男に言い寄られる若い女》(1631年)

若い女は縫い物の上にかがんで目を伏せ、針を刺した白い布を膝の上に持っている。後ろから、もじゃもじゃの毛皮の帽子をかぶった男が身をかがめ、目を細めてほほえんでいる。男は片手を女の肩に置き、もう一方の手のひらに金貨を一握りのせて差しだしている。背の高い台の上で小さな油のランプが燃え、その炎は男の暗い上着を背に明るく浮かびあがり、女の広い青緑のスカートには、光が長い襞をなして落ちている。裾のそばには足温器が置かれ、その穴から赤い炭火がのぞいている。赤外線で見ると、レイステルははじめ男の手を女の首のすぐ近くに置き、あとで低い位置に描き直したことがわかる。

この絵は長いあいだ《誘惑》、あるいは《若い女に金を差しだす男》と呼ばれていた。1975年、研究者フリーマ・フォックス・ホフリヒターが初めて、この絵を、言い寄られる女を同情をこめて描いたものとして論じ、女が喜んで金を受けとるおなじみの場面に対する、女性画家の答えをそこに見た。歴史家ウェイン・フラニッツはここに誠実な求愛を見て、美術館は女性の美徳の一例として説明していたが、やがてマウリッツハイスはこの絵に新しい題名をつけた。

1892年、アブラハム・ブレディウスはこの板絵をマウリッツハイスのために1500ギルダーで買い、目録台帳には1660年ごろのオランダ派の作として記された。翌年、副館長コルネリス・ホフステーデ・デ・フロートが、画面に、画家の二つの頭文字を絡み合わせて星を添えたモノグラムと、1631年という年記を見つけた。モノグラムは左端の、高さの中ほど、テーブルの脚の左に見える。星はユディト・レイステルが自分の姓にかけたもので、その姓はオランダ語で「導きの星」とほとんど同じ響きをもつ。彼女はハールレムでフランス・ハルスの近くで仕事をしていて、1631年には22歳ほどだった。1636年に結婚してからは、しだいに描かなくなった。

同じ1893年、ロンドンの女王座裁判所では、フランス・ハルスの作として売られた絵をめぐる訴訟が争われていて、争点はこの同じ星のモノグラムだった。当事者はその日のうちに和解し、レイステルの名が法廷で口にされることはなかった。ホフステーデ・デ・フロートは二つの絵にこの名を取り戻し、1893年7月1日、彼女についての彼の手紙がロンドンの雑誌『アシーニアム』に載った。ロンドンの絵は、いまではレイステルの《陽気な二人》として知られている。

誘惑
誘惑ユディト・レイステル, 1631, マウリッツハイス美術館
ごしきひわ
ごしきひわカレル・ファブリティウス, 1654, マウリッツハイス美術館

11. カレル・ファブリティウス《ごしきひわ》(1654年)

1654年10月12日、デルフトの火薬庫が爆発し、32歳のカレル・ファブリティウスは自宅で命を落とした。1640年代の初めにアムステルダムでレンブラントに学び、1650年ごろデルフトに移った画家で、残っている絵は十数点ほどである。《ごしきひわ》には、その同じ1654年の年記がある。板の絵の具の面いっぱいに、ひび割れを伴わない小さなへこみが散らばっていて、まるで絵の具がまだ柔らかいうちに何かが当たったかのようである。美術館は、それがあの爆発で飛んだ破片の跡である可能性が高いと見ている。

実物大のゴシキヒワが、明るい漆喰の壁に打ちつけた二本の半円形の木の止まり木のうち、上のほうにとまっていて、その下には灰色の餌箱がある。鳥はこちらに背中とたたんだ翼を向け、肩越しに頭を振り向けて、まっすぐ見る者を見ている。嘴のまわりは赤く、頰は白い。黒い翼の黄色い筋を、ファブリティウスは厚い絵の具で置き、乾かないうちに筆の柄で引っかいた。餌箱の下には、飼い鳥をつないでおいた細い鎖が輪になって垂れている。光は左から来て、右の壁には柔らかな茶色の影が落ち、餌箱の下には、鉛筆で書いたような細い灰色の大文字で、ファブリティウスの名と1654年という年が記されている。

2003年、この板はコンピューター断層撮影装置で調べられた。鉛白が通常のX線をさえぎってしまうからである。その結果、ファブリティウスははじめ暗い背景に鳥を描き、板には金めっきの額縁が十本の釘で打ちつけられていたことがわかった。その後、額縁は外され、背景は明るい壁に描き直され、下の止まり木が描き加えられた。この板が何のためにつくられたのかについては研究者の意見が分かれていて、戸棚の扉とも、別の絵を収める箱の扉とも、窓枠の一部とも、看板とも考えられている。

1654年以降、この絵はほぼ200年にわたって記録から姿を消す。1859年までにはブリュッセルの収集家の手もとにあり、そこで、フェルメールを再発見したあの批評家テオフィル・トレ=ビュルガー(9番)がこれを見た。1865年、収集家の相続人たちはこの絵をトレに贈った。トレの死後、絵は1892年に競売で売られ、のちにパリの収集家エミール・マルティネの手に渡った。1896年2月27日、パリのオテル・ドゥルオーで開かれたマルティネ・コレクションの売り立てで、ブレディウスはマウリッツハイスのためにこれを6200フランで買った。美術館の話では、値段がつりあがらないよう、競りには別の人物を行かせたという。

2012〜2014年、マウリッツハイスの改修工事のあいだ、《ごしきひわ》は東京、サンフランシスコ、アトランタ、ニューヨークを巡回し、ニューヨークのフリック・コレクションでは、この絵を見るための行列が街区をぐるりと取り巻いた。絵がニューヨークにあった2013年10月、この絵を表紙にしたドナ・タートの小説『ゴールドフィンチ』が刊行され、2014年にピュリッツァー賞を受けた。

12. レンブラント《サウルとダビデ》(1651〜1658年ごろ)

サウルとダビデ
サウルとダビデレンブラント, 1650, マウリッツハイス美術館

アブラハム・ブレディウスは《サウルとダビデ》を、レンブラントの聖書画のなかで最も偉大で、最も個人的な絵の一つと考えていた。ブレディウスの死から二十年余りたった1969年、もう一人の大レンブラント研究者ホルスト・ヘルソンは、ブレディウスが編んだレンブラントの絵画カタログの改訂版を出し、そこからこの絵を外した。ヘルソンは、この絵への熱狂は質の高さよりも聖書画への好みによるものだと書き、人物のあいだのがらんとしたカーテンを名指しで批判した。ブレディウスは1898年、アムステルダムのレンブラント展のあとで自費でこの絵を買い、当時自分が館長を務めていたマウリッツハイスに寄託した。まさにそのカーテンの襞の一部を、1899〜1900年に描き直したのは、ブレディウスが誰よりも信頼していたベルリンの修復家アロイス・ハウザーだった。

サムエル記によれば、若いダビデは、サウル王を苦しめる悪霊を鎮めるために王の前で竪琴を弾き、あるときサウルは嫉妬の発作にかられて彼に槍を投げつけた。画家たちはふつう槍を投げる瞬間を描いたが、レンブラントが選んだのはその前の、サウルがまだ聴き入っているひとときである。王は左に座り、橙がかった金色、ピンク、青緑の縞の巨大なターバンを巻いていて、ターバンの頂には、見落としやすい小さな銀色の王冠がのっている。暗い赤のカーテンの襞が片目に押し当てられ、もう一方の目で王はこちらを見ていて、右手は槍の柄の上にだらりと垂れている。美術館はこの身ぶりを、悲しみのあまり手近にあったものをつかんだかのようだと説明している。右下のダビデは頭と肩と手しか見えず、弦に目を落とし、かすかにほほえみながら弾いていて、その上には、ほとんど何もない暗い背景が広がっている。

2007年から2015年まで、この絵はマウリッツハイスで調査と修復を受けた。その結果、1830年から1869年までのあいだにカンヴァスがサウルとダビデのあいだで切り離され、帯状の部分を失ったうえで、ぎざぎざの継ぎ目でふたたびつなぎあわされたことがわかった。ダビデの上には別のカンヴァスの切れ端がはめこまれていて、それはヴァン・ダイクが描いたイサベル大公妃の肖像の初期の模写を上下逆さにしたものだった。縁には細い帯が縫いつけられていた。絵は全部で15片から成っている。修復家カロル・ポッタシュはヘルソンについて、後世の加筆の下に隠れて見えなかったので、レンブラントの絵を見分けることができなかったのだと語った。2015年、美術館は、《サウルとダビデ》はレンブラントが1651〜1654年ごろと1655〜1658年ごろの二度に分けて描いたものだと発表したが、ほかの研究者の年代づけは1646年から1660年までのあいだでばらついている。

サウルとダビデ
サウルとダビデレンブラント, 1650, マウリッツハイス美術館

マウリッツハイスの絵は国の所有で、美術館は1995年から独立した財団としてそれを管理している。1946年、ブレディウスは遺言でこの絵を含む25点を美術館に遺した。フランス語で書かれた遺言には、それらの絵はもっぱらこの美術館で展示されつづけなければならないとある。一時的な展覧会への貸し出しも、彼は認めていなかった。ブレディウスの唯一の相続人ヨーゼフ・クローニヒの相続人たちは、絵はつねに展示されなければならないと主張して国を訴えた。25点のうち、およそ20点は展示されていなかったのである。2026年6月10日、ハーグ地方裁判所は、無条件の展示義務はなく、国は絵を返す必要はないと判断し、《サウルとダビデ》は、国が手もとに置くことを裁判所が認めた25点の一つとなった。相続人たちは控訴すると表明した。

個人の収集家が国に代わって決める

真珠の耳飾りの少女
真珠の耳飾りの少女ヨハネス・フェルメール, 1665, マウリッツハイス美術館

13. ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》(1665年ごろ)

退役した陸軍将校で、系譜学者で収集家でもあったアルノルデュス・アンドリース・デス・トンベは、1881年、ハーグの競売で、ターバンを巻いた少女の頭部を描いた汚れて傷んだ絵を、2ギルダーに上乗せ分の30セントを足して買った。彼はこれをアントワープに送り、洗浄と裏打ちをさせた。デス・トンベは1902年12月16日にハーグで亡くなった。相続人はおらず、彼がひそかに遺言を書き、そのなかで、このフェルメールを含む12点の絵をマウリッツハイスに遺していたことがわかった。

フェルメールがこの絵を描いたのは1660年代の半ば、最も多くの作品を生みだした時期である。美術館はこれを「トローニー」と呼んでいる。当時そう呼ばれたのは、変わった衣装をつけたある型の頭部の絵で、注文なしに描かれた。美術館は、特定のモデルはおそらくいなかったと考えている。こうした頭部の絵に、フェルメールは最も高価な青の絵の具ウルトラマリンを使った。アフガニスタン北東部で採れたラピスラズリからつくる絵の具である。

少女は左肩越しにこちらを振り向き、唇をわずかに開いていて、両目には光が映っている。頭には青い布が巻かれ、その上から黄色い布が背中へ垂れていて、黄色い上着に厚い白い襟をつけている。真珠は耳の下、首の陰のなかに下がっていて、二つの筆の運びで描かれている。左上の明るい光の点と、襟が映りこんだ下の柔らかな灰白色の照り返しである。2018年の調査では、真珠を吊るしておくはずのかぎや輪は見つからなかった。美術館は作品解説で、この真珠をありえないほど大きいとしている。

その2018年に、絵は二週間にわたって展示室のなかで来館者の目の前で調べられ、顕微鏡によって、肉眼では見えない小さな茶色のまつげが目のまわりに見つかった。少女の背後の平らなほぼ黒い背景は、かつては斜めの襞のある暗い緑のカーテンだったが、緑の絵の具が時とともに変色して暗くなった。

真珠の耳飾りの少女
真珠の耳飾りの少女ヨハネス・フェルメール, 1665, マウリッツハイス美術館
二人のアフリカ人男性
二人のアフリカ人男性レンブラント, 1661, マウリッツハイス美術館

14. レンブラント《二人のアフリカ人男性》(1661年)

1656年、借金のためにレンブラントの財産の目録がつくられたとき、彼の大きなアトリエにあった絵のなかに、レンブラントが一枚に二人のムーア人を描いた絵が記録された。マウリッツハイスの絵には1661年の年記がある。17世紀のアムステルダムの黒人住民を研究した歴史家マルク・ポンテは、これが同じ絵で、1656年までに描きはじめられ、のちに仕上げられた可能性を認めているが、目録に載っていたのは失われた別の絵だったかもしれない。結婚、洗礼、埋葬の記録から、ポンテは町の黒人住民をおよそ100人見つけ、その多くはヨーデンブレー通りのレンブラントの家のまわりに住んでいた。彼はモデルの候補として、レンブラントの近くに住んでいたサントメ島出身のマヌエル・フェルナンドとバスティアーン・フェルナンドの兄弟の名を挙げ、それはあくまで仮説にすぎないとみずから強調している。マウリッツハイスは、描かれているのはおそらくアムステルダムの自由な黒人住民だという、より慎重な結論にとどめている。

右の、背の高いほうの男は背筋を伸ばし、顔を左に向けて歯を見せて笑い、大きく見開いた目を横に流している。肩には淡い灰白色の布が掛けられ、それが首に触れるところが、この絵でいちばん明るい。その目頭に、レンブラントはごく小さな橙赤色の筆触を置いた。美術館によれば、絵全体でただ一つの赤である。左の男は頭と目を伏せ、唇を閉じていて、顔は柔らかな薄暗がりのなかにある。背景の絵の具はごく薄く、カンヴァスの織り目が透けて見え、下の三分の一は素早い筆致でざっと描かれているだけである。署名と年記は右上の隅にある。

ブレディウスは1902年か1903年にロンドンの画商からこの絵を買い、1903年からは自分が館長を務めるマウリッツハイスに、自分の所有物のまま、一時的に預けるかたちで置いていた。1946年に遺言によって美術館のものとなり、相続人たちが国を訴えた、あの25点の一つである(12番)。長いあいだ《二人のムーア人》と呼ばれていたが、のちに美術館が今の題名をつけた。2020年、アムステルダムのレンブラントハイスはレンブラントと同時代の黒人のアムステルダム市民をテーマにした展覧会を開き、この絵はその構想と図録の中心に置かれた。

二人のアフリカ人男性
二人のアフリカ人男性レンブラント, 1661, マウリッツハイス美術館

15. ヤン・ステーン《老いた者が歌えば、若い者もそう吹く》(1668〜1670年ごろ)

ステーングラフト・コレクションは1912年まで、マウリッツハイスから数歩のところ、ハーグのランゲ・フェイフェルベルフの館に掛けられていた。最後の所有者は遺言で、親族に金を分けるためにコレクションを売るよう命じ、1913年6月9日、コレクションはパリのジョルジュ・プティ画廊で競売にかけられた。レンブラント協会のハーグの理事二人が警鐘を鳴らし、協会はマウリッツハイスのために初めての大規模な公開募金を行い、国も資金を出すことに同意して、ヤン・ステーンのこの絵は37万5000フランで国内にとどまった。美術館はこの売り立てで、ほかに五点の絵も買った。同じコレクションのレンブラントの《バテシバ》は、画商デュヴィーンを通じてニューヨークの収集家ベンジャミン・アルトマンの手に渡り、同じ年のうちにメトロポリタン美術館に入った。

老いた者が歌えば、若い者もそう吹く
老いた者が歌えば、若い者もそう吹くヤン・ステーン, 1665, マウリッツハイス美術館

コレクションを始めたのは、マウリッツハイスの初代館長ヨハン・ステーングラフト・ファン・オーストカペレである。ステーンのこの絵を、彼は1816年、ワルモント城でのファン・レイデン男爵夫人のコレクションの売り立てで、自分のために1260ギルダーで買った。絵はほぼ百年のあいだ、彼の子孫のもとにあった。

ライデン生まれのヤン・ステーンは、子どもは大人の悪い手本をまねるというこのことわざを何度も描き、そうした場面にはほとんどいつも自分自身を描きこんだ。ここでは右の、ピンクと白のリボンのついた高い黒帽子をかぶって笑っている男が彼で、巻き毛の赤みがかった髪の少年の口に、みずから長い陶製のパイプを差しだしている。テーブルでは黒い頭巾の祖母が鼻に眼鏡をのせ、指で行をたどりながら紙を見て歌っていて、その紙には、先に歌われたとおりに後で笛が吹かれるという、ことわざの書き出しと、数小節の楽譜が読みとれる。左では、白い毛皮のついた緑のビロードの上着にライラックピンクのサテンをまとった女が背の高いグラスを持ち、ナプキンを肩に掛けた若者が上から細い赤い流れを注いでいる。上のほうでは毛皮の帽子の少年がバグパイプを吹き、窓辺の止まり木には赤いオウムがいて、テーブルにはブドウ、切れ目を入れたレモン、錫の皿にのった牡蠣がある。

マウリッツハイスには、同じ題名のステーンの絵がもう一点ある。小さく、数年早く描かれ、構成も異なる絵である。これはウィレム5世のもので、1795年にフランス軍がそのコレクションごとパリへ運び去り、1815年に戻ってきた。

老いた者が歌えば、若い者もそう吹く
老いた者が歌えば、若い者もそう吹くヤン・ステーン, 1665, マウリッツハイス美術館
老いた者が歌えば、若い者もそう吹く
老いた者が歌えば、若い者もそう吹くヤン・ステーン, 1664, ウィレム5世ギャラリー
牡蠣を食べる少女
牡蠣を食べる少女ヤン・ステーン, 1658, マウリッツハイス美術館

16. ヤン・ステーン《牡蠣を食べる少女》(1658〜1660年ごろ)

上が丸くなった板は絵はがきより少し大きいくらいで、美術館は、近くで眺めるために描かれたものだと強調している。広い白い毛皮の縁取りのついた赤いビロードの上着の少女がテーブルに身をのりだし、片側の口角を上げてこちらに笑いかけながら、左手に持った開いた牡蠣に何かを振りかけている。そばの盆には割ったパン、黒っぽい粒の入った紙袋、塩の小山、ナイフがあり、テーブルには鳥の絵のデルフト焼の水差しと淡い色のワインのグラスがある。少女の背後には寝台の緑の帳があり、奥の部屋の戸口では赤い帽子の男がさらに牡蠣を開けていて、白い頭巾の女がそれを見ている。17世紀の人々にとって、塩をふった牡蠣とワインと寝台は、恋の誘いを意味する組み合わせだった。

こうした細かく滑らかな描き方は、ライデンの画家たち、ヘラルト・ダウ(3番)とその弟子のフランス・ファン・ミーリス(父)のものだった。ふだんは大勢の人でにぎわう騒がしい場面を描いていたステーンも、ここでは小さな画面に合わせて筆づかいを変えている。

1900年からロイヤル・ダッチ社を率い、のちにロイヤル・ダッチ・シェルの総帥となったヘンリ・デターディングは、1936年に引退するにあたって、名高い絵の数々をオランダ国に贈った。そのうち五点がマウリッツハイスに入り、ヤン・ステーンのこの板絵もその一つだった。デターディングは1928年、アムステルダムでのシックス家のコレクションの売り立てで、19万ギルダーでこの絵を買い、同じ競売でヘラルト・テル・ボルフの《手紙を書く女性》を31万9000ギルダーで手に入れた。こちらもマウリッツハイスへの贈り物に含まれた。同じ贈り物には、フランス・ファン・ミーリスの1661年の《牡蠣の食事》も入っていた。

晩年のデターディングはヒトラーのドイツに心酔し、週刊誌「デ・ワーフ」をはじめ、ドイツとの友好を説く宣伝に資金を出した。彼は戦争が始まる前の1939年2月、サン・モリッツで亡くなった。

手紙を書く女性
手紙を書く女性ヘラルト・テル・ボルフ, 1655, マウリッツハイス美術館
牡蠣の食事
牡蠣の食事フランス・ファン・ミーリス(父), 1661, マウリッツハイス美術館

戦後、国と財団と宝くじが代金を払う

自画像
自画像レンブラント, 1669, マウリッツハイス美術館

17. レンブラント《自画像》(1669年)

1945年10月8日、26点の絵を載せた特別便がスキポールに着陸した。国外に運びだされた美術品がオランダに公式に返還された最初の例である。そのなかに、レンブラントのこの自画像があった。持ち主はベルリンの収集家マルクス・カッペルで、彼ははじめこれをベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館に贈ると約束していたが、金銭的な苦境から考えを変えた。肖像は遺産として、ドイツのユダヤ系の一家に生まれた彼の孫、エルネスト・ラーテナウとエレン・ラーテナウに渡った。1925年、ラーテナウ家はこれをアムステルダム国立美術館に貸しだした。1940年の侵攻のあと、ドイツはこの肖像を持ち去った。カッペル・コレクションは保護されるべきドイツの文化遺産の一覧に載っていて、一時的にであってもドイツを出てはならなかったはずだ、というのがその口実だった。絵はヒトラーがリンツに建てようとしていた美術館にあてられ、オーストリアのアルトアウスゼーの岩塩坑で、ヘント祭壇画やフェルメールの《天文学者》とともに保管された。

肖像はラーテナウ家に返され、1947年、マウリッツハイスはその遺産からこれを30万ギルダーで買った。レンブラント協会が6万ギルダーを出し、さらに15万ギルダーを無利子で貸し、残りは個人が出しあった。

レンブラントは1669年10月に亡くなっていて、これはこの年の年記をもつ三点の自画像の一つである。美術館の見方では、この絵の彼はほかの二点より老けて見え、そのため美術館はこれを、おそらく最後の自画像と呼んでいる。レンブラントは右へ四分の三振り向き、重いまぶたの下から見る者を見ている。額、鼻、頰は厚い絵の具で肉づけされ、黄土色がかった金の幅広い帯のついた柔らかなベージュがかった茶色のベレー帽の下から、白髪の巻き毛がのぞいている。X線写真では、ベレー帽の下に、男たちが家でかぶっていた簡素な白い亜麻の縁なし帽が見え、美術館は、レンブラントがまず鏡に映ったものを素早く描きとめ、肖像でどの帽子をかぶるかはあとで決めたのだと考えている。

笑う少年
笑う少年フランス・ハルス, 1627, マウリッツハイス美術館

18. フランス・ハルス《笑う少年》(1625年ごろ)

一年のうち九か月、前の持ち主が生きているあいだは、《笑う少年》はパリの彼女のもとで過ごすことになっていた。この条件をつけ、好意的な価格で、シレジアの石炭王フリッツ・フォン・フリートレンダー=フルトの娘マリー=アンヌ・フォン・ゴルトシュミット=ロートシルトは、1968年にこの絵をマウリッツハイスに売った。五年のあいだ円形の板はパリとハーグを行き来し、1973年11月に持ち主が亡くなると、ハーグにとどまることになった。購入資金はレンブラント協会、ベルンハルト王子基金、マウリッツハイス友の会が出した。それまで美術館にあったハルスは肖像画だけで、これは表情の習作として注文なしに描かれた頭部である。

この板の以前の持ち主はケルンの収集家アルベルト・フォン・オッペンハイムだった。ベルリンでの彼のコレクションの売り立ては1914年10月に予定されていたが、戦争のため1918年3月に延期され、そのとき少年の絵がフリートレンダー=フルト家のために買われた。

少年は口いっぱいに笑い、淡い筆触で描かれた歯が何本かのぞいている。頰は赤らみ、目は右へ、見る者をそれて流れている。乱れた赤みがかった金髪は大ぶりの筆で置かれ、ハルスは鼻筋に明るい線を一本引き、鼻の穴を素早い暗い二筆で示した。くしゃくしゃの白い襟は平たく鈍い筆触で描かれ、顔よりはっきりと粗い。左の背景には、画家の頭文字を組み合わせたモノグラムがある。

ハルス研究者クラウス・グリムは、2023〜2024年に発表した研究で、顔を描いたのはハルスで、襟は工房の助手の誰かが描いたと考えている。美術館はこの板絵をすべてハルスの作としている。

19. クララ・ペーテルス《チーズ、アーモンド、プレッツェルのある静物》(1615年ごろ)

チーズ、アーモンド、プレッツェルのある静物
チーズ、アーモンド、プレッツェルのある静物クララ・ペーテルス, 1615, マウリッツハイス美術館

銀の柄のナイフがテーブルの縁に斜めに置かれ、彫刻をほどこした柄の端が縁からはみだしている。柄の側面には、大文字で画家自身の名が書かれている。美術館によれば、画家はここに自画像も残している。水差しの錫の蓋に映った、ごく小さな姿である。

テーブルはやや上から見下ろされ、背景はほとんど黒い。左には錫の皿の上にチーズが積み重なっている。大きな淡い色の円盤は切り分けられていて、切り口には長く細い溝が走り、そこからひびが広がっている。その手前には緑がかった灰色の熟成チーズのくさび形の一切れがあり、上には小さなチーズと、筋のついた巻いたバターを盛った皿がのっている。中央には錫の蓋と首に髭のある仮面の浮き彫りをつけた茶色の炻器の水差しがあり、右には蓋つきで金めっきの帯をめぐらした、琥珀色がかった赤のワインのグラスがある。青と白の磁器の鉢には干しイチジク、アーモンド、干しブドウが入り、左のむきだしのテーブルの上には二つのプレッツェルがある。

クララ・ペーテルス本人について知られていることは少ない。1607年ごろから1621年ごろまで、おそらくアントワープで仕事をし、静物だけを描いた。質素な食べ物と高価な器を並べた食卓を描いた最初の画家の一人でもある。杯や錫の器に自分の姿を映しこむことも、ヤン・ファン・エイクの凸面鏡に続いて、北方で最初に始めた一人だった。

チーズ、アーモンド、プレッツェルのある静物
チーズ、アーモンド、プレッツェルのある静物クララ・ペーテルス, 1615, マウリッツハイス美術館

1920年から、この静物はフランスの個人コレクションにあり、1998年のパリの競売ではペーテルスの作として最高の値がついた。2012年6月、マウリッツハイスはアメリカの個人所有者からこれを買った。館長エミリー・ゴーデンカーは、17世紀の女性画家の珍しい絵だと述べた。美術館自身の数えでは、コレクションの300人を超える画家のうち女性は五人で、コロ、レイステル(10番)、ファン・オーステルウェイク、ペーテルス、ライスである。

20. ウィレム・バイテウェッフ《テラスの陽気な集い》(1616〜1617年ごろ)

テラスの陽気な集い
テラスの陽気な集いウィレム・ピーテルスゾーン・バイテウェッフ, 1616, マウリッツハイス美術館

職業軍人だったクルト・ローデは1920年に軍を退き、ベルリンで画商を始めた。助言を与えたのは隣人の美術史家ヴィルヘルム・フォン・ボーデである。1926年、ボーデはローデの所有するほほえむ少女の絵をフェルメールの作として発表した。その絵はアメリカに売られ、ローデは35万ライヒスマルクの手数料で、ドイツ、オーストリア、ハーグ、アムステルダムの競売で絵を買った。この「フェルメール」は1970年から疑われはじめ、2008年からは贋作者ハン・ファン・メーヘレンの作とされている。1930年11月、ベルリンのパウル・グラウペの競売で、ローデはウィレム・バイテウェッフの《陽気な集い》を買った。

ローデは1950年に亡くなり、1958年から2016年まで、相続人たちはこの絵をベルリン絵画館に長期で預けていた。2018年、マウリッツハイスはバンクヒーロ宝くじの資金で相続人からこれを買った。美術館によれば、この購入まで、17世紀初めの典型的な風俗画は一点も持っていなかったという。

バイテウェッフはロッテルダムに生まれ、1612年にハールレムの画家組合に加わり、フランス・ハルスの絵を素描し、30歳を少し過ぎたところで世を去った。同時代の人々は彼を「機知のウィレム」と呼んだ。美術館は彼の絵をわずか六点と数え(ベルリンでは八点とされている)、素描はおよそ125点、エッチングは32点あるとしている。そしてこの絵を初期オランダ風俗画の要となる作品と呼び、バイテウェッフ自身を、陽気な集いの絵を描きはじめた画家の一人としている。

テラスの陽気な集い
テラスの陽気な集いウィレム・ピーテルスゾーン・バイテウェッフ, 1616, マウリッツハイス美術館

場面は舞台のようにしつらえられている。左では大きな灰褐色の幕が柱に寄せて束ねられ、右にはコリント式の柱頭をもつ柱が立ち、そのあいだにロッジア、庭、遠くの教会が開けている。絵を横切って長いテーブルが延び、白いテーブルクロスの下から鮮やかな赤い布が床まで垂れている。左では赤い羽根を挿した高い灰色の帽子の口ひげの男が籐の椅子にふんぞりかえり、その隣ではピンクがかった紫の絹の女が身をそらしてこちらを見ている。テーブルの中ほどには尾を広げたクジャクで飾ったパイが置かれ、床にはリュートと開いた楽譜が投げだされている。右端では、緋色のマントに切れ込み飾りのある赤と白の胴着、赤いリボンのついた靴の伊達男が、まっすぐ見る者を見てにやりと笑っている。

20点のあとに

ここで選んだのは、誰がいつこの館に何を掛けるかを決めたのかが見てとれる絵なので、多くの人に愛されている絵の多くはこのリストに入っていない。二度目に訪れるなら、バイテンホフのウィレム5世ギャラリーから始めるとよい。総督が1774年に一般に公開した、あのギャラリーである。マウリッツハイスのなかでは、ブレディウスの遺贈によるレンブラントの《ホメロス》、小ハンス・ホルバインの《ロバート・チェスマンの肖像》、ヤーコプ・ファン・ロイスダールの《漂白場のあるハールレムの眺め》、ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘームの《花瓶の花》を探すとよい。2026年9月、マウリッツハイスとアムステルダム国立美術館は、1625年ごろに描かれたヘンドリック・アーフェルカンプの《氷上でゴルフをする人々》を共同で購入し、アムステルダムとハーグで交互に展示することにした。

ホメロス
ホメロスレンブラント, 1663, マウリッツハイス美術館
ロバート・チェスマン(1485-1547)の肖像
ロバート・チェスマン(1485-1547)の肖像小ハンス・ホルバイン, 1533, マウリッツハイス美術館
漂白場のあるハールレムの眺め
漂白場のあるハールレムの眺めヤーコプ・ファン・ロイスダール, 1672, マウリッツハイス美術館
花瓶の花
花瓶の花ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム, 1670, マウリッツハイス美術館