
ヴェネツィアのサン・ジョッベ修道院は1810年5月31日に廃止され、フランチェスコ会の修道士たちはサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャへ移された。ジョヴァンニ・ベッリーニの祭壇画は、空になった教会の右側の二番目の祭壇に、石の額縁に収まったまま残った。この額縁は、ほぼ異論なくピエトロ・ロンバルドとその工房の作とされている。1812年、板絵は守るために祭壇から外され、1815年に美術アカデミーの画廊へ移されたが、額縁は教会に残った。
アカデミーは1750年に創設され、1807年にナポレオンの政令によって改めて設立されると、廃止されたサンタ・マリア・デッラ・カリタ同信会の建物と、その教会、さらに隣のラテラノ修道参事会の修道院に移された。この修道院の一翼は、パッラーディオが建てはじめて完成させなかったものである。ここには閉鎖された教会や修道院、同信会から絵が運びこまれ、のちには貴族の家々が自分たちのコレクションを画廊に寄贈したり遺贈したりするようになった。画廊が一般に公開されたのは1817年、アカデミーの総裁レオポルド・チコニャーラの時代である。
共和国の祭壇と法廷(14〜15世紀)
1. パオロ・ヴェネツィアーノ《聖母戴冠の多翼祭壇画》
この多翼祭壇画の中央の板は、1808年に別の祭壇画のものと見なされ、ミラノのブレラ美術館へ送られた。両側の翼と額縁は1812年にアカデミーに運ばれ、1828〜1829年の修復のときに、空いた中央には別の画家の《聖母戴冠》がはめこまれた。ヴェネツィアのサンタニェーゼ教会の主任司祭だったステファノという画家の作で、署名と1381年の日付がある。一世紀以上ものあいだ、多翼祭壇画はよその中央をつけたまま展示されていた。1950年、パオロ・ヴェネツィアーノの板がブレラから戻され、祭壇画は組み直された。
描かれたのはヴェネツィアのクララ会のサンタ・キアーラ修道院のためで、そのことは古い目録と、上段に並ぶ聖クララと聖フランチェスコの生涯の場面からわかる。修道院は1806年に廃止された。制作年については、1330年代から14世紀半ばまで説が分かれている。パオロは家族で工房を営み、息子たちとともに仕事をしていた。署名と日付のある彼の最初の作品は、ヴィチェンツァにある1333年の多翼祭壇画である。
中央では、キリストが右手で、彼のほうへ身をかがめて手のひらを上げたマリアの頭に冠をのせている。二人とも、一面に金の花を織りだした暗い色の衣を着ている。玉座の後ろには金の星を散らした青い帯が半円を描き、その上の金地にはリュートやヴィオラを手にした天使たちがひしめき、玉座の足もとには顔のある小さな金の太陽と三日月が見える。中央はビザンティンの手本にならって厳格に描かれている。一方、降誕や洗礼から磔刑や昇天にいたる翼の小さな場面には動きがあり、物語を追うことに力が注がれていて、この描き方の違いは研究者たちがつねに指摘してきた。
上段右の聖フランチェスコの死の場面では、下のまんなかに小さな暗い人影がひざまずいている。イタリアの国の文化財カタログはこれを多翼祭壇画を注文した修道女と見なしているが、歴史家エレーナ・ハラフは2024年に、娘が修道誓願を立てるときにこの祭壇画を修道院に寄進した裕福な未亡人だという説を出した。
2. ヤコベッロ・デル・フィオーレ《正義の三連祭壇画》
ヴェネツィア共和国の法廷の一つマジストラート・デル・プロプリオはドゥカーレ宮殿で開かれていて、1421年、その広間のために公費で三枚の板絵が描かれた。描いたのは、画家フランチェスコ・デル・フィオーレの息子ヤコベッロ・デル・フィオーレである。このころヤコベッロは共和国のために多くの仕事をしていて、1415年には画家組合の長を務めていた。
中央には冠をかぶった「正義」が座り、右手に剣を持ち、左手で天秤を支えていて、二つの皿は水平に釣り合っている。壇の両端には二頭のライオンが座り、まっすぐこちらを見ている。正義の頭上にはラテン語の詩句を記した帯がのびていて、そこで語っているのは正義自身である。天使たちの戒めと聖なる言葉を果たし、敬虔な者には優しく、悪しき者には敵となり、高ぶる者には高ぶりをもって臨もう、という内容だ。左では大天使ミカエルが頭上に剣を振りかざし、空の皿の天秤を持っていて、その紐に下から鉤爪のある獣の足がのびている。右からは、百合を持った裸足のガブリエルが正義のほうへ歩いてくる。
三枚とも背景は濃紺で、ほとんど黒に近い。金をヤコベッロは鎧、光輪、冠、文様のためにとっておき、石膏の下地を盛り上げて形をつくり、そこに金を置いて浮き彫りにした。そのため、ミカエルの鎧や正義の胸当てでは、金が絵の具の面より盛り上がっている。

正義のそばに受胎告知の天使ガブリエルがいることを、一部の研究者は年代で説明している。言い伝えではヴェネツィアは421年3月25日、受胎告知の祝日に創建されたとされ、1421年は町の千年目にあたっていた。三連祭壇画は法廷の事務局におよそ四世紀半のあいだ掛かっていて、1884年にアカデミア美術館に入った。
ヤコベッロの署名は左側、ライオンと剣のあいだにある。古い写真では、ヤコベッロ・デル・フィオーレが1421年に描いたと記すラテン語の文が大きな大文字で読みとれ、1955年にアカデミアの目録をまとめたサンドラ・モスキーニ・マルコーニは、これを後世の書き入れとした。修復後に美術館が撮った写真では、同じ場所に、ゴシック体の小文字で書かれた「1421」の数字と画家の名がかすかに浮かんでいるだけである。
3. ジョヴァンニ・ベッリーニ《サン・ジョッベ祭壇画》
板の上に、ベッリーニは礼拝堂を描いた。格間に金のロゼットをあしらった筒形ヴォールトが奥のアプスへと続き、アプスの半円蓋はサン・マルコ大聖堂のように金のモザイクで覆われていて、その縁にはラテン語の銘が走っている。銘は、汚れなき純潔の乙女の花よ、めでたし、と呼びかけるところから始まり、その先はアーチに隠れて切れている。両脇の彫刻をほどこした付け柱は実際の石の額縁の付け柱を繰り返していて、信徒たちにとって、描かれた礼拝堂は教会の石の祭壇の続きになっていた。ベッリーニは視点を低くとったので、人物は下から見上げるように見える。高い祭壇の前で祈る人が見ていたとおりの角度である。
マリアは白い大理石の玉座に高く座り、膝には裸の幼子がいる。左には、茶色の修道服を着てまっすぐこちらを見ているフランチェスコ、その陰にほとんど隠れた洗礼者ヨハネ、腰布ひとつの老いたヨブが立つ。右では、ドミニクスが赤い表紙の本を読み、二本の矢に射抜かれた若いセバスティアヌスが聖母のほうへ頭を傾け、いちばん端には司教冠をかぶったトゥールーズの司教ルイが立っている。玉座の段では三人の天使が、二つのリュートと、ヴァイオリンに似たリラ・ダ・ブラッチョを弾いている。光は左から射し、セバスティアヌスとヨブは体の左側が照らされている。
1475〜1476年、ヴェネツィアではシチリア出身のアントネロ・ダ・メッシーナが仕事をしていた。彼がサン・カッシアーノ教会のために描いた祭壇画は、断片がウィーンに残っているが、そこでは聖母と聖人たちが一つの空間に立ち、油彩で描かれていた。サン・ジョッベ祭壇画はそれに対するベッリーニの答えとされ、この絵のあと、ヴェネツィアの祭壇画は長いあいだ同じ構成で組み立てられた。制作時期の見方は、1478年から1480年代の終わりまでさまざまである。
1815年よりあと、板は上部を切り詰められた。切り詰められる前の1815年の採寸によると、板はいまより半メートルほど高く、描かれたヴォールトの一部が失われた。支持体は13枚の横長のポプラ板を継いだもので、板の継ぎ目に沿って、アプスのモザイクを横切り、マリアの手の高さを通って、画面全体に長いひび割れが走っている。
同信会が自分たちの町を描かせる(1496〜1566年)
4. ジェンティーレ・ベッリーニ《サン・マルコ広場の行列》
1444年4月25日、聖マルコの祝日に、ヴェネツィアの同信会はそれぞれの聖遺物を掲げてサン・マルコ広場を行列していた。そこへ、息子が重傷を負っていたブレシアの商人ヤコポ・デ・サリスがやって来た。デ・サリスは、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ同信会が運ぶ十字架の断片を納めた聖遺物容器の前にひざまずいて祈り、家に戻ると、息子は治っていた。
ヴェネツィアでは同信会はスクオーラと呼ばれた。商人や職人がつくる俗人の団体で、とりわけ裕福なものは大広間のある自前の建物をもっていた。サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ同信会は1369年に十字架の断片を手に入れ、1490年代、それを納めた広間のために、聖遺物の奇跡を描いた大きなカンヴァスの連作を注文した。九枚のうち八枚が今に伝わり、そのうち三枚をジェンティーレ・ベッリーニが描いた。この一枚を彼が仕上げたのは1496年、奇跡から52年後のことで、彼は広場を自分の時代の姿で描いた。
巨大なカンヴァスのなかで、商人本人を見つけるのはむずかしい。画面の端から端まで、白い長衣の同信会員たちが金めっきの燭台に立てた背の高い蝋燭を持って進み、中央より左では金めっきの聖遺物箱を竿で担いでいる。そのすぐ右、彼らの背後に、赤い服を着た禿げ頭の男がひざまずいている。行列の最前列でひざまずいているのは、この男ひとりである。


ジェンティーレは画家ヤコポ・ベッリーニの長男で、サン・ジョッベ祭壇画を描いたジョヴァンニの兄である。1469年、ヴェネツィアを訪れた皇帝フリードリヒ3世は彼を騎士に叙し、1479〜1480年には、彼はコンスタンティノープルのスルタン、メフメト2世の宮廷で仕事をした。彼自身は別の同信会、サン・マルコ大同信会に属していた。1806年に同信会が廃止されたあと、このカンヴァスは1820年にアカデミーに入った。
広場の上には、緑がかった灰色の五つの丸屋根と金めっきのゴシック風の小尖塔をもつサン・マルコ大聖堂がそびえ、どの扉口の上にも金のモザイクがある。右にはドゥカーレ宮殿の角が見え、ばら色と白の石積みが菱形の模様をつくっている。大聖堂の扉口の上のモザイクのうち、今日まで残っているのは左端の一つだけで、ほかのモザイクがどんな姿だったかは、何よりもまずこのカンヴァスによって知られている。
5. ヴィットーレ・カルパッチョ《リアルト橋における聖十字架の聖遺物の奇跡》
当時、大運河を渡る唯一の橋だった木造のリアルト橋を、カルパッチョは、この橋を描いたほかの誰よりも細かく描いた。絵のなかで、橋は奥のほうで運河をまたいでいる。両側は板張りの橋桁で、まんなかには手すりのついた跳ね橋の部分が上がっていて、そこに人々がひしめいている。この橋は1524年に崩れ落ちた。
このカンヴァスは、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ同信会のための同じ十字架の聖遺物の奇跡の連作に属していて、当時30代だったカルパッチョは、年上のジェンティーレ・ベッリーニと並んでこの連作を描いた。ここでは総大司教フランチェスコ・クエリーニが、聖遺物で悪霊に憑かれた若者を癒やしている。カルパッチョは奇跡を左上隅の、二階の開いたロッジアに置いた。そこでは司祭が金めっきの聖遺物容器を掲げ、頭をのけぞらせた若者が両脇を抱えられている。ロッジアの下の岸辺では、誰も目を上げていない。そこには赤や青の衣の貴族たちが立ち、柱廊の下には白いターバンの商人たちがいて、その足もとにワインの樽が置かれている。
運河は右下の隅から橋に向かって斜めに走り、黒いゴンドラがぎっしり並んでいる。中央の下端に近いところで、赤い上着に白い羽根のついた赤い帽子をかぶり、色とりどりの格子柄の長靴下をはいた黒人のゴンドラ漕ぎが、ゴンドラの上に立って長い櫂で舟を押している。右下の別のゴンドラには白い小犬が座り、屋根の上には漏斗の形の煙突が突き出し、竿には洗濯物が干してある。このカンヴァスは1820年、ジェンティーレの《行列》と一緒にアカデミーに入った。


ルネサンス期のヴェネツィアで黒人のゴンドラ漕ぎがどう暮らしていたかを研究した歴史家ケイト・ロウは、彼らの多くにとってこの仕事は奴隷の身から自由へいたる道だったと考えている。
6. ヴィットーレ・カルパッチョ《聖ウルスラの夢》
イギリスの批評家ジョン・ラスキンがこの絵を初めて見たのは1869年で、1872年7月、彼は『フォルス・クラウィゲラ』という総題で出していた書簡の一つでこの絵を描写した。彼は部屋、寝台、靴、「彼女の白い小犬」、そして天使を挙げ、天使を「ほとんど人形のよう」だと言った。
ウルスラは赤い掛け布の下にあおむけに横たわり、右手を頬の下に入れていて、頭には細い金の輪をつけている。冠は寝台の足もとの壇の段に置かれ、青い靴が床にそろえてあり、犬は下端に体の一部しか見えない。右から長い棕櫚の枝を持った天使が入ってきて、その背後の扉は光にあふれている。伝説によれば、天使は夢のなかでウルスラに、やがて殉教することを告げる。窓台には鉢が二つあり、ミルトとカーネーションが植わっている。
カルパッチョはウルスラを描いた九枚のカンヴァスを、聖ウルスラ同信会のために描いた。小さな同信会で、その広間はドミニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会に接していた。これは彼にとって最初の大きな注文だった。同信会が廃止されたあと、カンヴァスは1812年にアカデミーに入ったが、九枚のうちで最も傷みのひどかった《夢》が展示されたのは、ようやく1852年のことだった。
1876年、ラスキンはヴェネツィアに戻った。ある証言によれば、アカデミーは絵を壁から下ろし、模写できるよう彼に部屋を用意した。近くで見て、彼は主題についての考えを改めた。1876年11月の書簡で、彼は天使を死の天使と呼び、1872年には天使の手にある巻物だと思っていたものを経帷子と呼んで、絵が掛かっていた高さではこのしるしが見分けられなかったのだと注で説明した。
1876年のクリスマス、キャッスルタウン夫人はラスキンにカーネーションの鉢を贈り、カルパッチョが聖ウルスラの寝室の窓台に描いたのとそっくり同じ花だと書き添えた。ラスキンはそれを聖女自身からの知らせとして受けとった。

7. ヤコポ・ティントレット《奴隷を解放する聖マルコ》
聖マルコが天から真っ逆さまに落ちてくる。素足の裏は画面の上端すれすれにあり、ばら色の上衣とオレンジ色のマントがはためき、本は体に押しつけられ、顔は影になっている。その下には、裸の奴隷が画面を横切るようにあおむけに倒れている。まわりには裂けた杭や斧、槌、縄が散らばり、白いターバンにオリーブ色の長衣の男が、槌と折れた柄を頭上に掲げて主人に見せている。白いひげの主人は深紅の衣を着て、壇の上から身を乗りだしている。
物語は『黄金伝説』からとられている。プロヴァンスのある貴族が、許しを得ずにヴェネツィアへ聖マルコの遺骸を拝みに行った奴隷を拷問にかけるよう命じたところ、聖人が現れ、拷問の道具が砕けた。

この絵は1547年、サン・マルコ大同信会が集会の広間のために注文した。ティントレットは30歳ほどで、大同信会の一つから注文を受けるのはこれが初めてだった。同じ年、のちに画家の義父となるマルコ・エピスコピが同信会の役職に就いていた。1548年4月には、作家ピエトロ・アレティーノが早くも新しいカンヴァスについてティントレットに手紙を書き、何よりも奴隷をほめた。その色は肉そのもので、輪郭は丸みを帯び、体は生きている、というのである。アレティーノは最後に釘を刺した。もし仕上げの速さを仕事の忍耐に変えたなら、ティントレットの名は祝福されるだろう、と。
ヴェネツィア絵画の歴史を書いたカルロ・リドルフィがこの絵に触れたのは、100年後の1648年のことで、彼の話は言い伝えと見なされている。リドルフィによれば、この絵をめぐって同信会員たちは仲たがいし、ほしいという者もいれば、いらないという者もいた。気分を害したティントレットはカンヴァスを壁から下ろさせて自分のところへ持ち帰り、のちに絵はまた掛けなおされた。
1797年、フランス軍がこの絵をパリへ持ち去り、戻ってきたのはようやく1815年だった。そのころには同信会は廃止されていたため、カンヴァスは1816年からアカデミーにあり、同信会の建物には陸軍病院が置かれた。
8. ヤコポ・ティントレット《聖マルコの遺体の救出》
ラヴェンナ出身の医師で占星術師のトンマーゾ・ランゴーネは、1562年、サン・マルコ大同信会の長だった。6月21日、彼は聖マルコの奇跡を描いた三枚の絵を自費で注文する許可を同信会から得た。描いたのはティントレットで、三枚すべてにランゴーネの肖像がある。そのころ、ヴェネツィアのサン・ジュリアーノ教会の扉の上には、すでにヤコポ・サンソヴィーノ作のランゴーネのブロンズ像が座っていた。
ここでは、アレクサンドリアのキリスト教徒たちが、異教徒が焼こうとしていた薪の山から福音書記者の遺体を運び去り、にわかに起きた嵐が迫害者たちを追い散らしている。遺体は右側を急な斜めの線に沿って運ばれていき、頭は青白く、目は閉じている。聖人の頭のすぐ後ろに、長い白ひげの老人が、白貂の毛皮で裏打ちした金茶色の錦をまとって立ち、こちらを見ている。これがランゴーネである。左半分はがらんとした広場で、敷石は遠くの建物へと走り、左のアーケードの下を、青白い、ほとんど透けた人影が逃げていく。まんなかには火刑のために用意された薪の山が黒々と積まれ、右では駱駝が毛むくじゃらの頭を振り向け、赤茶色の空を細いジグザグの稲妻が走る。
1573年、新しい長のもとで、同信会員たちは絵にランゴーネが多すぎると判断し、肖像を消させるためにカンヴァスをティントレットのもとへ送った。それは結局行われず、ランゴーネはそのまま絵に残った。
同信会は1807年に閉鎖され、絵はマルチャーナ図書館の、サンソヴィーノが建てた広間へ移された。そこで19世紀にカンヴァスの左側が切り詰められ、薪の山はアーケードで塗りつぶされて、それ以来、主題は《聖マルコの遺体の略奪》と呼ばれるようになった。1920年、絵はアカデミア美術館に入った。のちに上塗りは取り除かれ、薪の山はふたたび見えるようになった。

切り詰められたのは左端である。下の隅に男があおむけに倒れていて、薄紫がかったばら色のマントの端を拳に握っているが、そのマントを着ていた人物は、もうカンヴァスにはいない。
食堂と墓(1573〜1576年)
9. パオロ・ヴェロネーゼ《レビ家の饗宴》
1573年7月18日、ヴェネツィアの異端審問所はパオロ・ヴェロネーゼを尋問し、彼の《最後の晩餐》に道化や酔っぱらい、ドイツ人、小人、そのほかの不謹慎なものが描かれているのはなぜかと問いただした。この絵はサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ修道院のドミニコ会士たちが自分たちの食堂のために注文したもので、1571年の火事でそこで焼けたティツィアーノの《最後の晩餐》の代わりだった。
審問官たちは、鼻血を出している召使いや、ドイツ風の服装の矛槍兵、オウムや犬について尋ね、ドイツなど異端に毒された国々では、こうした絵が教会をあざけるのに使われていると念を押した。ヴェロネーゼは、矛槍兵は晩餐の行われている部屋の外に立っている、金持ちの主人の家にはそういう召使いがいるものだ、画家は詩人や狂人と同じ自由を自分に許すのだ、と答えた。審問所は、三か月以内に自費で絵を直すよう彼に命じた。
一般に受け入れられている説では、ヴェロネーゼは何も描き直さず、絵に新しい題をつけた。階段が中央部へ上がってくるところの二つの台座には、ラテン語で、レビが主のために盛大な宴を催したという言葉と、ルカによる福音書第5章を示す言葉が書かれている。この章でキリストは、徴税人レビの家で食事をする。同じ台座の基部には、1573年4月20日という日付がある。
キリストは長い食卓のまんなか、三つのアーチのうち中央のアーチの下に座り、ばら色の衣に青緑のマントをまとっている。レースの縁取りのあるテーブルクロスの下には縞の猫がいて、食卓の前には犬たちが座っている。手前では、赤みがかったオレンジの服にとがった帽子の小さな道化が緑のオウムを抱え、右の階段には縞の胴着を着た二人の兵士が立っていて、一人がグラスで赤ワインを飲んでいる。


1797年、フランス軍がこの絵をパリへ持ち去った。1815年に返還されたが、修道院はそのときすでに廃止されていて、カンヴァスはアカデミーに渡された。尋問のなかでヴェロネーゼは、修道院長がそれより前に犬をマグダラのマリアに描きかえるよう求めていたが、そうすると「さまざまな理由で」見苦しくなるので断った、とも語っている。
10. ティツィアーノ《ピエタ》
カルロ・リドルフィの話では、ティツィアーノはこの絵を自分の墓のために描いた。画家はヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂のフランチェスコ会士たちと、自分を聖堂の磔刑像の礼拝堂に葬ってもらう代わりに、その祭壇のために《ピエタ》を納めると取り決めた。1575年、絵はしばらくフラーリに置かれたが、取り決めた祭壇ではなかった。そして教皇大使の命令で、絵はティツィアーノに返された。
ティツィアーノはヴェネツィアの北の山あいの町、ピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれた。生年には諸説あり、《ピエタ》のころには80歳を超えていた。90歳近かったのかもしれない。半世紀以上にわたってヴェネツィア第一の画家であり、皇帝カール5世やスペイン王フェリペ2世のために描き、のちにその建物にアカデミーが入ることになるサンタ・マリア・デッラ・カリタ同信会のためには、《ピエタ》の40年前に《聖母マリアの神殿奉献》を描いていた。
マリアは石の壁龕に座り、死んだキリストを膝にのせていて、その上の金色の半円蓋には、古い言い伝えでは自分の血でひなを養うとされたペリカンがいる。左のマグダラのマリアは手を上げ、口を開いて、絵の外へまっすぐ踏みだしてくる。右には白いひげの禿げた老人がほとんど裸でひざまずき、キリストのほうへ身をかがめて、その手の下に自分の手を差し入れている。伝統的に、この老人はニコデモかアリマタヤのヨセフに扮したティツィアーノの自画像と見なされている。絵の具は荒々しく途切れがちな筆触で置かれ、多くの部分はただ示されているだけである。
1575年にヴェネツィアでペストが始まり、1576年、ティツィアーノはこの絵を奉納画に変えた。右下の台座に、描かれた小さな板が立てかけてあり、雲の上のピエタの前で二人の人物が祈っていて、そのそばに画家の一族ヴェチェッリオ家の紋章がある。この二人はティツィアーノと息子のオラツィオで、ペストから守ってくれるよう祈っているのだとされている。ティツィアーノは1576年8月27日、疫病のさなかに、絵を仕上げないまま亡くなった。オラツィオも同じ年にペストで死んだ。
絵を工房から引きとったのは、次の世代のヴェネツィアの画家パルマ・イル・ジョーヴァネだった。彼は右上に松明を持った天使を描き加え、段にラテン語の銘を残した。ティツィアーノが描きかけのまま残したものを、パルマがうやうやしく仕上げ、神に捧げた、という銘である。
ティツィアーノはフラーリに葬られたが、絵は彼の墓には置かれなかった。パルマは自分が死ぬまで絵を手もとに置き、1631年に絵はサンタンジェロ教会に納められ、1814年にアカデミーに移った。

貴族の館から(1523〜1932年)
11. ヒエロニムス・ボス《来世の幻視》
《至高天への上昇》では、画面のほとんどが黒い。天使たちが裸の魂を一組ずつ、ジグザグに上へ運び、押し上げていて、板の上から三分の一のところでは、ずれながら重なる輪でできた淡い灰青色の円が光っている。その輪は漏斗のように、中央より左の小さな輝く開口部へと集まっていく。板のなかで最も明るいのは、中ほどにいる天使の赤い翼である。光の手前の最後の一組、ひざまずく魂と白い衣の天使は、もう漏斗のなかに入っている。

板は四枚あり、どれも縦に長く幅が狭い。描かれているのは地上の楽園、義人の上昇、罪人の墜落、そして地獄である。おそらくこれらは失われた大きな祭壇画の翼で、中央には最後の審判があったのかもしれない。オーク材の年輪から、描かれたのは早くても1482年ごろ以降だとわかり、美術館はこれを1505〜1515年の作としている。ボスはブラバントのスヘルトーヘンボスに住んでいて、知られているかぎりヴェネツィアに来たことはない。
板は、北方の絵画を集めていたヴェネツィアのコレクター、ドメニコ・グリマーニ枢機卿のものだったとされているが、これは推測にとどまる。1521年、ヴェネツィアの家々で見た絵を書きとめていた目利きのマルカントニオ・ミキエルは、グリマーニのもとにボスの作品があると記していて、そのなかには「さまざまな怪物がひしめく地獄の画布」と「夢の画布」があった。ミキエルはこれらを画布と呼んでいるが、《幻視》はオーク材の板に描かれている。1523年の遺言で、枢機卿は絵と古代彫刻の大部分を共和国に遺した。ボスの板絵は何世紀ものあいだドゥカーレ宮殿に置かれ、最終的にアカデミア美術館に落ち着いたのは2010年である。同じコレクションのボスの三連祭壇画二点は1838年にウィーンへ運ばれ、1919年に戻ってきたが、《幻視》はウィーンへは行かなかった。
漏斗の開口部そのものには、こちらに背を向け、光のほうを向いて立つ小さな人影があり、開口部の下の縁には、手を上げたもう一人の姿が見える。

12. ジョヴァンニ・ベッリーニ《アルベレッティの聖母》
1838年、ジローラモ・コンタリーニは画廊に188点の絵を贈り、《アルベレッティの聖母》はそのうちの一点だった。コンタリーニは生前にこれらを手放し、亡くなったのは1843年である。
幼子は大理石を模した緑の欄干の上に、右足を左足に重ねて立ち、母の指をつかんでいる。マリアは両手で幼子を抱き、幼子は母の頬に頭を寄せてこちらを通りこした先を見ていて、マリアは目を伏せている。二人の後ろには平らな黄緑色の幕が下がり、その左右に風景の帯がのぞいていて、どちらにも細い木が一本ずつ立っている。この小さな木々、イタリア語で「アルベレッティ」から、絵はその名をとった。そばの野には葉の落ちた枯れ枝が立っていて、解釈者たちは生きた木と枯れた木に、新約と旧約を見たり、雅歌への言及を見たりしてきた。美術館は、マリアが幕に落としている影に注目している。影はかすかで、青いマントの右側の緑が、幼子の頭の後ろの左側より少し濃いだけである。
欄干の正面、幼子の足の下には、ジョヴァンニ・ベッリーニの名をラテン語で記した文字の初めの部分が読めるが、残りはすり減っていて、その下に「1487」とある。ベッリーニの作品の日付として知られているのはこれが二番目で、一番目は1474年のイェルク・フッガーの肖像だが、そちらの日付はもう見えない。

1850年、フランスの詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエはこの絵の前で数時間を過ごし、これを宝石、真珠、画廊の星と呼んだ。彼は同じ年に若い画家ルイ=マリユス・ガルサンが描いた模写を買った。模写は楕円形で、ガルサンはそこで、絵の名のもとになった木々も、幼子の重ねた足も切り落としてしまった。
13. ピエロ・デラ・フランチェスカ《聖ヒエロニムスと寄進者》
聖ヒエロニムスとひざまずく寄進者はほぼ同じ大きさで描かれていて、これは当時としては珍しい。注文主はふつう、聖人の足もとの小さな人物として描かれたからである。白いひげの禿げたヒエロニムスは白っぽい灰色の薄いシャツを着て石の腰掛けに座り、開いた本を膝にのせて、訪れた男のほうを不機嫌そうに横目で見ている。寄進者は手を合わせ、厳格な横顔を見せて身じろぎもせずにひざまずき、その赤い衣は襞をつくって地面に広がっている。二人の後ろには塔や鐘楼の立つ白い町があり、ふつうサンセポルクロとされている。
聖人の前にひざまずいているのが誰なのかは、はっきりしない。赤い衣の端のそばの地面には、ラテン語の略記で、アゴスティーノの息子ジローラモ・アマーディという名が記されている。アマーディはルッカ出身の一族に属するヴェネツィアの商人で、ヒエロニムス、イタリア語でいうジローラモは彼の守護聖人だった。この銘は画家の署名とは別の手で書かれていて、後世のものと見なす人も多い。アメリカの歴史家ジェームズ・バンカーは、ひざまずいているのはサンセポルクロの法律家ヤコポ・アナスタージだという説を出したが、美術館もニューヨークのメトロポリタン美術館もアマーディ説をとっている。
ピエロ・デラ・フランチェスカはトスカーナとウンブリアの境にある小さな町ボルゴ・サンセポルクロの出身で、この板には故郷の町の名を添えて署名した。署名があるのは左下の隅の切り倒された木の幹で、そこには細い竿に小さな金の十字架像がとりつけてある。ラテン語で、ボルゴ・サン・セポルクロのピエトロの作と記されている。ピエロの署名入りの作品は多くない。美術館は署名を本物と見なしているが、2022年に歴史家マッシモ・ジョンテッラは、署名も、ピエロの作であること自体も疑問視した。美術館はこの板絵を1460年代初めのものとしている。
1850年、ベルナルディーノ・レニエル伯爵の未亡人フェリチタ・ベルトラン・ヘルマンが、この板絵を美術館に遺した。風景の緑の絵の具は時とともに褐色に変わり、町のまわりの丘は茶色になった。
14. ジョルジョーネ《老女》
コレクターのガブリエーレ・ヴェンドラミンの死後、1567〜1569年に作成されたヴェンドラミン家の財産目録には、美術館が引用する文言によると、この絵が「ゾルゾン作、ゾルゾンの母の肖像」として載っていて、ヴェンドラミン家の紋章を描いた枠がついていた。ヴェネツィアでゾルゾンと呼ばれていたのはジョルジョーネ、つまりカステルフランコのゾルジである。彼は1510年にペストで若くして亡くなり、確実に彼の作とされる絵はわずかしか残っていない。美術館は《老女》を彼の作品と見なしているが、作者については何度も異論が出てきた。制作は1506年ごろとされる。

老女は体を右へ向けながら頭はこちらへ向けなおし、まっすぐこちらを見ている。話しているかのように口が少し開き、歯が一、二本見え、額には深いしわが刻まれ、柔らかな白い頭巾の下からまばらな白髪がのぞいている。右手で自分を指さしていて、その手からこちらへ向かって細長い紙片が反りかえり、そこにはイタリア語で「時とともに」と書かれている。背景は一面の黒で、光は左から、顔と手と、肩にかけた房飾りのある白い布に射している。
美術館によれば、この絵にははじめ男性の肖像を描いた蓋がついていた。1601年の目録では、蓋に描かれているのは黒い毛皮の服を着た男とされている。蓋そのものは残っていないか、まだ見つかっていない。

ヴェンドラミン家から絵は商人クリストーフォロ・オルセッティの手に渡り、彼は1664年の遺言でこの絵に触れている。その後、絵はヴェネツィアのマンフリン画廊に入った。1856年、絵はマンフリンの相続人からアカデミーのために買いとられ、代金はオーストリアの資金から出た。当時、ヴェネツィアはハプスブルク帝国の一部だったからである。
15. ロレンツォ・ロット《書斎の若い男の肖像》
1923年、美術史家ルーチョ・コレッティはトレヴィーゾのロヴェロ伯爵家の邸宅の客間でこの肖像を見て、ロレンツォ・ロットの作だと見抜いた。1930年、国はトレヴィーゾの分家の最後の子孫エドアルド・ロヴェロからこの絵を買った。美術館は、描かれているのはおそらくロヴェロ家の誰か、クリストーフォロか、その従兄弟のアルヴィーゼだろうと考えている。
ロットがこの肖像を描いたのは1520年代末、ヴェネツィアに住み、主に個人の注文主のために仕事をしていたころである。彼は横長のカンヴァスを選び、これは彼の肖像画としては珍しく、右半分をテーブルにあてた。青白く面長の若い男は黒い服を着て、型押しの革装の厚い本をめくっているが、本から目を離してこちらを見ている。テーブルの上にはばらの花びらが散らばり、開いた手紙、金の鎖と指輪が置かれ、小箱の上には鍵があり、房飾りのついた水色の絹のショールの上には小さな緑のトカゲがいる。左上の隅の細い窓からは、空と遠い青い山々が見える。
美術館はこの本を帳簿、つまり会計の記録と見なし、テーブル全体を、若い男が若さの楽しみを捨てて一家の仕事に就く物語として読んでいる。鍵、指輪、帳簿は、美術館の説明によれば暗い壁に掛かっているリュートと狩りの角笛に対置されていて、花びら、手紙、女物のショールを、美術館は終わった恋や実らなかった恋と結びつけている。トカゲの解釈はさまざまで、死と再生のしるしとも、トカゲが冷血動物であることから、抑えられた情熱ともいわれる。
当時の医学書では、ばらの花びらがメランコリーの治療に勧められていた。


16. ジョルジョーネ《嵐》
第二次世界大戦の前にこの絵はエックス線で調べられ、杖を持つ若い男の下から別の人物が見つかった。岸辺に座り、足を水に浸した裸の女性である。ジョルジョーネは左側にまず二人目の女性を描き、そのあとで同じ場所に男を描いたのである。
肩から落ちかけた赤い上着の若者が、長い杖を手に左下の隅に立ち、女を見ている。右の隅では、肩に白い布をかけた裸の女が草の上に座って赤ん坊に乳を与え、まっすぐこちらを見ている。二人のあいだには開けた草地と小川があり、れんがの台座の上に折れた円柱が二本立ち、その先に木の橋と、塔や丸屋根のある青白い町がある。町の上の青緑の空に小さな黄色い稲妻が光り、中央より右の高い家の屋根の棟には、コウノトリかサギらしい小さな白い鳥がとまっている。
この絵を最初に書きとめたのはヴェネツィアの目利きマルカントニオ・ミキエルで、1530年、ガブリエーレ・ヴェンドラミンの家でこれを見て、「嵐とジプシー女と兵士のいる、カンヴァスの小さな風景画」と記した。題名はこの記述から生まれた。主題はいまも解き明かされておらず、解釈は数多い。美術史家エドガー・ウィントはここに「剛毅」と「慈愛」の寓意を見て、イタリアの美術史家サルヴァトーレ・セッティスは1978年、楽園を追われたアダムとイヴと幼いカインだという説を出した。
ヴェンドラミン家から《嵐》は《老女》と同じ道をたどり、オルセッティ家を経てマンフリン・コレクションに入った。1875年の出来事は、人づての話でしか知られていない。その年、ベルリンの美術館がこの絵を買おうとしたが、イタリア当局は国外への持ちだしを許さず、ヴェネツィアのジュゼッペ・ジョヴァネッリ公が買ったという。1932年、イタリア国家はジョヴァネッリ家から《嵐》を買いとった。
第二次世界大戦中、ヴェネツィアの絵画はマルケ州の保管所へ避難させられ、その責任者はパスクアーレ・ロトンディだった。ロトンディがのちに自ら語ったところでは、1943年9月、彼は《嵐》とほかに数点の絵をウルビーノの自宅へ持ち帰り、ベッドの下に置いていた。

アカデミーの学生のために(1490年ごろ〜1765年)

17. レオナルド・ダ・ヴィンチ《ウィトルウィウス的人体図》
光が紙を傷めるため、今日ではほとんど展示されることのないこの素描は、もともと学生たちが手本にするためにヴェネツィアのアカデミーに買われたものだった。1822年、長い交渉の末に、オーストリア政府はアカデミーのために、1815年に亡くなったミラノの画家ジュゼッペ・ボッシの素描コレクションを購入した。購入を強く求めたのは、アカデミーの総裁レオポルド・チコニャーラだった。《ウィトルウィウス的人体図》とともに、ほかに25枚のレオナルドの素描がヴェネツィアにやって来た。ボッシの前、この素描はチェーザレ・モンティ枢機卿のもので、その後、枢機卿の相続人の女性の手に渡り、さらに彼女からデ・パガーヴェ家に移って、1807年にボッシがこの一家から買いとった。
レオナルドがこれを描いたのは1490年ごろ、ルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷に仕えていたミラノでのことである。古代ローマの建築家ウィトルウィウスは著書『建築について』で、神殿の比例を人体の比例から導きだしていて、レオナルドはこの紙の上でその計算を検討している。
一人の裸の男が、二つの姿勢で同時に描かれている。足をそろえ、両腕を横に広げた姿では正方形に収まり、足を開き、両腕を肩より少し高く上げた姿では、へそを中心とする円に触れている。体を横切って比率の区切りを示す短い線が引かれ、正方形の下には目盛りのついた尺度があり、人物の上と下には、レオナルドの鏡文字で書かれた文章がある。足をそろえた姿勢では、片方の足が外へ向けられ、正方形の下辺に沿って横向きに描かれている。

美術館はこの素描を、温度と湿度を一定に保った暗所で保管している。下の文章のなかでレオナルドは、ほかの寸法とともに、人が両腕を広げた長さは身長に等しいと書きとめている。
18. カナレット《柱廊のある透視図》
1763年1月、ヴェネツィアのアカデミーは、カナレットこと本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナルの入会を拒んだ。八か月後、アカデミーは考えを改め、彼を建築と透視図法の教授に選んだ。彼はすでに60歳を超えていた。カナレットは主に外国人、とりわけイギリス人のために描き、イギリスにもおよそ九年住んでいて、ヴェネツィアに残る彼の絵は少ない。
アカデミーの慣例では、新しい会員は自分の作品を一点寄贈することになっていて、1765年、カナレットはこのカンヴァスを納めた。透視図法の講座のために、彼は架空の宮殿の中庭を描いた。カンヴァスは縦長で、格天井の暗い柱廊が左上の隅から右奥へ斜めにのび、左には階段と邸館のある日の当たる中庭が開けている。柱は石の床に長く斜めの影を落としている。上の大きなアーチの向こうには回廊が見え、召使いたちが手すりに赤い絨毯を掛けていて、右下の隅では、赤いスカートの女が空の籐椅子のそばに座って縫い物をしている。
カナレットの研究者ウィリアム・ジョージ・コンスタブルは、この構図の繰り返しを八点数えた。カナレットは1768年4月に亡くなり、1777年、この絵はセンサ、つまりキリスト昇天祭の祭りのあいだにサン・マルコ広場に展示された。この祭りのとき、ヴェネツィアでは野外で絵画の展覧会が開かれていたのである。

失われた天井画と、一枚の絵のための壁
19. ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ《ロレートの聖なる家の移送》
1915年10月24日の夜、鉄道駅を狙ったオーストリア軍の爆弾が、隣のサンタ・マリア・ディ・ナザレト教会に落ちた。ヴェネツィアの人々が、跣足カルメル会の修道士にちなんでスカルツィと呼ぶ教会である。爆弾は瓦屋根と薄いヴォールトのあいだで爆発し、ヴォールトはティエポロの天井画もろとも崩れ落ちた。
この天井画では、天使たちが聖なる家を空へ運んでいた。マリアが受胎告知を受けたナザレの家で、伝説によれば天使たちはそれをイタリアのマルケ地方のロレートへ移した。カルメル会士たちは1743年9月13日にティエポロと契約を結び、同じ日に彼に100ツェッキーノ金貨を支払った。おそらくこの楕円形の下絵の代金である。フレスコにより近い二つ目の下絵はロサンゼルスのゲッティ美術館にあり、戦前に撮られた天井の写真も残っている。
下絵の空は、蜂蜜のような黄土色をしている。聖なる家は灰緑色の簡素な箱で、下から見上げる形で描かれ、オレンジがかった赤や灰青色の衣の天使たちが下からそれを押し上げていて、マリアはばら色がかった赤の服に青いマントで屋根の上に座っている。左上からは暗い色の翼の天使が、白い百合の長い茎を持って頭から飛びこんでくる。左端では筋骨たくましい黒っぽい裸の人物たちが真っ逆さまに落ち、楕円の下の縁には矛槍を持ったごく小さな人々が立って上を見上げている。多くの人物は、下地の上に素早い筆を数回走らせただけで示されている。
1930年、美術館はこの下絵を彫刻家アントニオ・ダル・ゾットの相続人から買った。フレスコそのものの破片、祈る見物人たちを描いた欄干の断片は1916〜1917年に拾い集められ、これもアカデミア美術館に保管されている。
20. ティツィアーノ《聖母マリアの神殿奉献》
サンタ・マリア・デッラ・カリタ同信会は1534年8月21日、アルベルゴの間のためにこの絵をティツィアーノに注文した。同信会の幹部が集まり、文書や聖遺物が保管されていた部屋である。ティツィアーノは1538年3月6日に絵を納めた。1807年、同信会の建物にアカデミーが入り、アルベルゴの間は画廊の一部になった。
カンヴァスは低く横に長く、左から右へと読んでいくように組み立てられている。左からは群衆が進み、右では青い服の小さなマリアが、金色の光の楕円に包まれて、灰色の石段を大祭司のほうへ上っていく。階段の端にいる緑の服の男は、マリアの光をさえぎるかのように手を額にかざしている。階段の下には、行列に背を向けて、青灰色の服に白い頭巾の大柄な老女が座り、そばには卵の入った籠があり、右の深い影のなかには古代の胴体像の断片が転がっている。光は左から射している。
カンヴァスの下の縁には、扉のための開口部が二つ切りこまれている。右の扉はティツィアーノ以前から壁にあり、彼はそのまわりに描いた石組みをめぐらせたので、階段は本物の開口部の上へ立ち上がっているように見える。
この絵はこの部屋のために描かれ、いまはふたたび最初の壁に掛かっている。展示のため、また二度の世界大戦のときには保護のために、何度も下ろされたが、そのたびに元の場所へ戻された。左の扉は1572年3月10日に同信会がカンヴァスを貫いて切りあけたもので、群衆の一部が失われた。そのとき、ティツィアーノはまだ生きていた。
アントニオ・ヴィヴァリーニとジョヴァンニ・ダレマーニャによる1446年の三連祭壇画も、カリタ同信会がアルベルゴの間のために注文したもので、同じ部屋の別の壁に掛かっている。二つの絵の上には15世紀の金めっきの彩色天井が残っていて、美術館によれば、これはヴェネツィアの潟で唯一現存する、人物を描いた当時の天井である。
ほかに見ておきたいもの
カルパッチョのウルスラ連作の残り八枚も、そのうちの《使節の到着》を含めてアカデミア美術館のものであり、ジェンティーレ・ベッリーニ、ラッツァロ・バスティアーニ、ジョヴァンニ・マンスエーティ、ベネデット・ディアナが描いた、十字架の聖遺物の奇跡の連作の残りのカンヴァスも同様である。グリマーニ・コレクションのボスの三連祭壇画二点、《隠修士たち》と《聖ウィルゲフォルティス》は、1838年から1919年までウィーンにあった。ティントレットが共和国の役所の一つのために描いた《カメルレンギの聖母》、アンドレア・マンテーニャの《聖ゲオルギウス》、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタの《女占い師》も探してみる価値がある。リアルト橋のそばにあったドイツ商人の商館フォンダコ・デイ・テデスキの正面をジョルジョーネが飾ったフレスコからは、壁からはがされた《裸婦》がこの画廊に入っていて、その絵の具は淡い赤い痕跡としてしか残っていない。













































































