1784年、トスカーナ大公ピエトロ・レオポルドはフィレンツェに美術アカデミーを創設した。付属のギャラリーは、もともとこの学校の教材を集めたものだった。最初は学生のための模型が置かれ、続いて教会や修道院の祭壇画が運びこまれた。それらの修道院は、1780年代にピエトロ・レオポルド自身が、1808〜1810年にはナポレオンが廃止したものである。金地の古い絵がここに集められたのは、学生に学ぶ材料を与えるためだった。

19世紀には、アカデミーのために描かれた絵も生まれた。教師や学生がコンクールや課題として制作した作品で、これもギャラリーに収められている。この記事でそれらを取りあげないのは、アカデミーそのもののためにつくられたからである。以下の10点はどれも、広場、庭園の洞窟、彫刻家の工房、修道院、メディチ家の楽器コレクションといった、ほかの場所のためにつくられた。どの作品の話でも、なぜそこから運び出されたのか、そしてそのときに作品がどうなったのかが要になる。

作品は、リカーゾリ通りにあるアカデミーの建物に入った順に並べた。創設の年にアカデミーが受けとった粘土の模型から始めて、2001年にここへ運ばれたストラディバリのヴィオラで終える。

教材としての模型(1784年)

サビニの女たちの略奪(等身大モデル)
サビニの女たちの略奪(等身大モデル)ジャンボローニャ, 1581, アカデミア美術館

1. ジャンボローニャ《サビニの女たちの略奪》のモデル(1579〜1580年)

1579年6月、フランドルの町ドゥエーの出身でメディチ家の宮廷に仕えていた彫刻家ジャンボローニャは、パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼに手紙を送り、二人の人物からなる自作の小さなブロンズ群像について書いた。主題は技量を存分に示せるように選んだもので、ヘレネの略奪とも、プロセルピナの略奪とも、サビニの女の略奪とも呼べる、と彼は説明している。のちに彼は三人目の人物を加え、大公フランチェスコ1世がヴェッキオ宮殿に用意してくれた工房で、等身大の群像を粘土でつくった。美術館によれば、この模型は注文を受けることなく、主題も決めないままつくられた。ラッファエッロ・ボルギーニは1584年に出た著書『イル・リポーゾ』のなかで、大理石の群像を広場に置くと決まったときに《サビニの女たちの略奪》という題が持ちだされたと伝えている。

模型は焼成していない粘土でつくられ、のちに石膏の層で覆われたため、ガイドブックではよく石膏像と呼ばれる。裸の三人の人物が、人の背丈を超える高さの一本の螺旋にねじり上げられている。若い男は両脚を大きく開いて立ち、女の腰を両腕で抱えて肩の高さまで持ち上げている。女は頭をのけぞらせ、左腕をまっすぐ上に突き上げて指を広げ、右手で男の頭を押している。その下、男の両脚のあいだには老人が片膝をつき、女に向かって開いた手のひらを上げている。三人の顔を一度にすべて見られる位置はなく、回りこむたびに前に来る人物が入れ替わる。老人の上げた腕の下にある細い金属の棒は、のちに支えとして入れられたものである。

大理石の群像は1581〜1582年に彫られ、1582年にシニョリーア広場のランツィのロッジアに据えられた。粘土の模型はその後ボルゴ・ピンティにあるジャンボローニャの工房に移され、1687年のボルゴ・ピンティの大公工房の財産目録にもまだ記載がある。1784年、模型は創設されたばかりのアカデミーに教材として引き渡され、ギャラリーそのものに移ったのは1911年である。

模型は何度も運ばれ、そのたびに傷んだ。ひびは厚い石膏で埋めて上から塗られ、欠けた部分は新たに造り足された。当時の館長フランカ・ファッレッティの指揮のもと、修復家たちは模型を展示室から動かさずに幕の内側で作業し、およそ1年かけてこうした層を取り除いた。その下から現れたのは、大理石の群像には見られない、すばやくスケッチのような造形だった。修復を終えた模型は2014年2月25日に公開された。

サビニの女たちの略奪(等身大モデル)
サビニの女たちの略奪(等身大モデル)ジャンボローニャ, 1581, アカデミア美術館
サビニの女たちの略奪(等身大モデル)
サビニの女たちの略奪(等身大モデル)ジャンボローニャ, 1581, アカデミア美術館
サビニの女たちの略奪
サビニの女たちの略奪ジャンボローニャ, 1582, ロッジア・ディ・ランツィ

倉庫と廃止された修道院から(1850年代まで)

2. スケッジャ《婚礼の踊り》(旧称《アディマーリ家のカッソーネ》、1450年ごろ)

この細長い彩色の板絵は、20世紀初めまで婚礼用の長持であるカッソーネの前板と考えられ、フィレンツェのアディマーリ家と結びつけられてきた。長持にしては長すぎるため、いまでは部屋の板張りにはめこむ彩色パネル、スパッリエーラとみなされている。美術館はこの絵の題を《婚礼の踊り》に改め、古い題の《アディマーリ家のカッソーネ》は「旧称」と添えて括弧のなかに残すだけにした。言い伝えでは、描かれているのは1420年のボッカッチョ・アディマーリとリーザ・リカーゾリの婚礼だという。しかし作風から見て制作は1450年ごろで、1420年の婚礼とは結びつきようがない。ある記述によれば、この板絵がアカデミーのコレクションに入ったのは1826年である。

通りの上には、左端のロッジアから右端の家まで、赤と白の太い縞の天幕が張られている。その下を何組もの男女がゆっくりと進み、相手とは指先だけで触れあっている。女たちは額を広く出して背の高い髪飾りをつけ、金の文様を織りこんだ黒や深緑の錦の、とても長い裾を引いている。中央より左では、絨毯をかけた長椅子に楽師たちが座っている。一人は長く曲がったスライド式のトランペットを、二人はまっすぐなトランペットを吹いていて、まっすぐな管からはフィレンツェの赤い百合を描いた白い旗が垂れている。楽師たちの後ろには、白と黒の縞模様をなす洗礼堂の大理石の壁が見える。左のほう、ねじれたばら色の柱が並ぶロッジアの下では、黒い服の召使いが大きな金色の盥を頭にのせて運んでいる。

婚礼の踊り(アディマーリ家のカッソーネ)
婚礼の踊り(アディマーリ家のカッソーネ)ジョヴァンニ・ディ・セル・ジョヴァンニ・グイディ, 1450, アカデミア美術館
聖マタイ
聖マタイミケランジェロ, 1505, アカデミア美術館

画家は長いあいだ「アディマーリ家のカッソーネの画家」と呼ばれていた。1969年、美術史家ルチアーノ・ベッロージはフィレンツェでの講演で、この画家を、マザッチョの弟でスケッジャの名で呼ばれたジョヴァンニ・ディ・セル・ジョヴァンニと同一人物だとした。スケッジャの工房はフィレンツェの名家の注文を受け、長持や壁のパネル、出産した女性に贈る盆といった高価な室内用の絵を手がけていた。ベッロージはこの板絵を、スケッジャの故郷の小さな町サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにある署名入りのフレスコと比べていたが、反論を受けて長いあいだ講演を活字にしなかった。原稿が刊行されたのは1999年になってからである。

3. ミケランジェロ《聖マタイ》(1505〜1506年)

《聖マタイ》は、ある部分はほとんど磨き上げられているのに、別の部分はまだ石の塊のままである。マタイは背の高い細長い石塊の正面に、きわめて高い浮彫りに近い形で彫り出され、両脇と下のほうの石は、欠けやえぐれの残る粗い肌のままになっている。頭はのけぞって左肩のほうへ鋭くひねられ、顔はおおまかに彫りおこされているだけだ。左膝は石塊から前に突き出し、艶が出るほど研がれていて、像のなかでいちばん仕上がった箇所である。胸や腕、衣の襞には、歯のついたのみが刻んだ細かな交差する線が編み目のように走り、横から光が当たるとよく見える。左肩に押し当てた本は平らな板のままで、その下半分は石から切り離されていない。

1503年、フィレンツェ大聖堂の造営局(オペラ・デル・ドゥオーモ)は毛織物商組合とともに、大聖堂のドームを支える柱のそばの壁龕に置くため、人の背丈を超える12使徒像をミケランジェロに注文した。1年に1体という取り決めだった。彼はまだ《ダビデ》(この像についてはあとで述べる)に取り組んでいて、使徒像のための大理石が切り出されたのは1504〜1505年になってからである。ミケランジェロがローマの教皇ユリウス2世のもとへ去ったため、1505年12月に契約は破棄された。12人の使徒のうち彼が手をつけたのはマタイだけで、フィレンツェ共和国の長ピエロ・ソデリーニの手紙から判断すると、1506年になってもまだこの像を彫りつづけていた。

1568年にヴァザーリは、この状態で残された像を見れば、彫刻家は人物を傷つけずに大理石から取り出す方法を学べる、と書いた。石を少しずつ取り除き、あとで手直しができるよう、つねに余裕を残しておくということである。造営局は300年以上にわたってこの像を中庭や倉庫に置いており、造営局自身の言葉によれば、何世代もの彫刻家が《聖マタイ》を手本に学んだという。

生命の樹
生命の樹パチーノ・ディ・ブオナグイダ, 1312, アカデミア美術館

1831年に像は美術アカデミーのアトリウムに移され、1909年7月21日、ギャラリーで《ダビデ》へ向かう順路が整えられていたときに、隣の中庭からギャラリーそのものへ移された。灰色の石の台座には長いイタリア語の銘文が刻まれている。この聖マタイ像はミケランジェロが彫りはじめたもので、長くサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営局の中庭に置かれていたが、MDCCCXXXI、すなわち1831年にこの美術アカデミーへ移された、という内容である。

4. パチーノ・ディ・ボナグイダ《生命の樹》(1310〜1315年ごろ)

大きな板絵の中央で、青白いキリストがオリーブグリーンの木の幹にじかに磔にされている。目は閉じられ、足から幹を伝って細い赤い血の筋が流れ落ちている。左右には、小さなラテン語の文字を記した明るい色の帯状の枝が片側に6本ずつ、あわせて12本のびていて、そこに果実のように金色のメダイヨンが下がり、なかにキリストの生涯の小さな場面が描かれている。

パチーノが絵にしたのは、13世紀のフランシスコ会士ボナヴェントゥラの『生命の樹』である。これは瞑想のための書物で、キリストの生涯を想像上の一本の木に割りふり、覚えやすいように12本の枝にそれぞれ4章ずつ配している。メダイヨンは47個あり、右上の枝だけは3個しかない。書物の最後の第48章、アルファでありオメガであるキリストを語る章を、画家が幹の根もとに移し、「ALPHA」と「ET ω」と記した2枚の札にしたからである。その下、岩山の洞窟には、開いた紙を手にした修道士が座っている。顔はほとんど消えているが、ふつうはボナヴェントゥラ本人とされている。

パチーノは何よりもまず写本の挿絵画家で、フィレンツェに大きな工房を構えていた。この板絵には、写本の挿絵ほどの大きさの場面を47も並べている。描いた画家の名は1885年まで知られておらず、その年に美術史家ヘンリー・トーデがこの絵をパチーノ・ディ・ボナグイダの作とした。

板絵は、モンティチェッリのクララ会修道女たちのために描かれた。サン・フレディアーノ門の外にあった、フィレンツェでもっとも古い聖クララ会の修道院である。1529〜1530年のフィレンツェ包囲戦のさなかに修道院は取り壊され、1531年に修道女たちは市壁の内側のマルコンテンティ通りへ移り、板絵も一緒に運んだ。1808年にナポレオンが修道院を廃止すると、板絵は近くのモンテドミニに行き着いた。かつての修道院を貧しい人々のための救貧院に変えた施設である。1849年10月にそこで見つかり、1850年にはもうアカデミーで展示されていた。

三位一体の三連祭壇画(恩寵の御座)
三位一体の三連祭壇画(恩寵の御座)ナルド・ディ・チオーネ, 1365, アカデミア美術館

5. ポントルモ《ヴィーナスとキューピッド》(ミケランジェロの下絵による、1533年ごろ)

この絵のいきさつは、1568年に出たヴァザーリの『ポントルモ伝』に書かれている。フィレンツェの商人で銀行家のバルトロメオ・ベッティーニは、友人のミケランジェロから、ヴィーナスとキューピッドを描いた実物大の下絵を譲り受け、それをもとにポントルモに絵を描かせようとした。絵はある部屋の中央に掛けられるはずだった。その部屋の半円形の壁面には、ブロンズィーノがすでにダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョを描きはじめていて、いずれはトスカーナの言葉で愛をうたった詩人がみな並ぶ予定だった。ヴァザーリによると、ポントルモが描き終えたとき、ベッティーニを困らせようとした人々が完成した絵をほとんど力ずくで画家から取り上げ、アレッサンドロ・デ・メディチ公に渡してしまった。公はポントルモに金貨50スクードを支払い、ベッティーニには下絵が返された。

ヴィーナスは横長の板いっぱいに、頭を右上にして横たわっている。体は青白く、ほとんど白に近く、重い腿と盛り上がった腹は石から彫り出したかのようだ。彼女は首をめぐらせてキューピッドに口づけしている。キューピッドは後ろから彼女の首に腕をまわし、頬に手のひらを当てている。ヴィーナスはのばした手の指のあいだに矢を1本はさみ、キューピッドが体の前に持つ矢の束から抜き取ろうとしている。左側では、弓に赤いリボンで2つの仮面が掛けられている。白い口ひげとあごひげのある年老いた仮面と、目を半ば閉じた若い仮面である。

ヴィーナスとキューピッド
ヴィーナスとキューピッドポントルモ, 1533, アカデミア美術館

のちにヴィーナスの裸体は、胸から腿の半ばまで、描き加えられた布で覆われ、その姿のまま絵は大公家の倉庫のなかで行方がわからなくなった。1850年にそこで見つかり、ベッティーニの絵だと確かめられ、1852年には修復家ウリッセ・フォルニが布の大部分を取り除いた。美術館は作者をポントルモとしているが、国の目録には、研究者の意見が分かれていて、ポントルモの原作とみる人もいれば模写とみる人もいる、と記されている。この構図の模写そのものは30点以上知られている。ヴィーナスの恥部に残った最後の布が取り除かれたのは、2002年の修復のときだった。

屋内に移されたミケランジェロ(1873〜1909年)

ダビデ
ダビデミケランジェロ, 1504, アカデミア美術館

6. ミケランジェロ《ダビデ》(1501〜1504年)

カッラーラ産の背の高い細長い大理石の塊は、かつて大聖堂造営局が巨人像のために取り寄せたものだった。大聖堂の控え壁の上に据える予定の預言者像のひとつである。1464年に彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョがこの石に取りかかり、荒削りを始めたものの途中で投げだした。1476年にはアントニオ・ロッセリーノが引き受けたが、やはり手を引き、その後、石はおよそ25年のあいだ造営局の中庭に放置された。

1501年の春、26歳のミケランジェロ・ブオナローティがフィレンツェに戻ってきた。ローマではサン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》で、すでに名を知られていた。当時のフィレンツェは共和国で、放置されていたこの石は彼に任された。1504年1月、30人ほどの市民と芸術家が像の置き場所を決めるために集まり、それまでドナテッロの《ユディト》が立っていたヴェッキオ宮殿の入口の脇を選んだ。1504年9月8日、《ダビデ》は公開された。大聖堂の預言者として彫りはじめられたこの像は、メディチ家を追放して復活した共和国のしるしとして、政庁の扉の前に立つことになった。

《ダビデ》は右脚に体重をかけ、そのふくらはぎの後ろには支えとなる切り株が彫られている。左脚は横に開かれ、その指は粗い石の台座の縁からはみ出している。眉は寄せられ、頭は左へ鋭く向けられ、首には筋が張っている。左手は肩の高さに上がり、投石器のたるんだ部分をつまんでいる。投石器の帯は背中を斜めに横切って右の腰まで下り、紐につながっていて、その端は、血管の浮き出た右手が下に垂らしたまま握っている。下から見上げると、頭と手は体に比べて大きすぎるように見える。

《ダビデ》は広場に369年間立っていた。1527年、メディチ家に対する反乱のさなかに宮殿から長椅子が投げ落とされ、像の左腕は三つに砕けた。腕がつなぎ合わされたのは1543年になってからである。1843年には彫刻家アリストデーモ・コストリが塩酸の溶液と鋭い道具で大理石を清掃し、その表面をもろくしてしまった。像の下の広場の地面は不均等に沈み、《ダビデ》は少しずつ前に傾いて、足首にひびが入った。

1873年、像を屋根の下に移すことが決まった。7月31日から8月4日まで、像は鋼のばねで吊った木の台車に立てたまま載せられ、レールの上をアカデミーまで運ばれた。暑さのため、作業は朝4時から11時までに限られた。像を収める広間はまだ建設が始まったばかりで、《ダビデ》は1875年にミケランジェロ生誕400年に合わせて箱から出されるまで、木箱に入ったまま立っていた。建築家エミリオ・デ・ファブリスが像のまわりに設計したトリブーナは1882年に開かれ、1910年には広場のもとの場所に大理石の複製が置かれた。

1991年9月14日、服の下に金槌を隠してギャラリーに持ちこんだ男が像の左足を打ち、第二指を欠き取った。破片は拾い集められ、数日後、フィレンツェの修復機関オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレの修復家たちが指をもとの位置に戻した。

ダビデ
ダビデミケランジェロ, 1504, アカデミア美術館

7. ミケランジェロ《囚人たち》(1520〜1534年ごろ)

1564年にミケランジェロが亡くなると、甥で相続人のレオナルド・ブオナローティは、モッツァ通りにあった伯父のフィレンツェの工房から、未完成の大理石像4体をコジモ1世・デ・メディチ公に贈った。ミケランジェロはこれらを教皇ユリウス2世の墓のために彫っていた。墓の計画は1505年から1542年までのあいだに何度も描き直され、そのたびに縮小された。1542年の契約で囚人像は計画から完全に外され、1545年、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂には囚人像のない墓が建てられた。ミケランジェロがいつこれらの像を彫ったのかについては研究者のあいだで議論があり、1519年とする人もいれば、1530年代初めとする人もいる。

若い奴隷
若い奴隷ミケランジェロ, 1532, アカデミア美術館
ひげの奴隷
ひげの奴隷ミケランジェロ, 1532, アカデミア美術館
アトラス
アトラスミケランジェロ, 1532, アカデミア美術館
目覚める奴隷
目覚める奴隷ミケランジェロ, 1532, アカデミア美術館

《若い奴隷》《ひげの奴隷》《アトラス》《目覚める奴隷》という名は、それぞれの姿勢からのちにつけられたものである。《アトラス》の頭があるはずの場所には四角く粗い石の突起が残り、神話のアトラスが天を支えたように、像がその石を肩に担いでいるように見える。《ひげの奴隷》はほかの3体より先まで彫り進められていて、胸と腹の筋肉はくっきりと、ほとんど磨かれた状態にあるが、下げた腕の手はまだ形のない塊のままだ。《若い奴隷》は頭の上に曲げた腕で顔を覆い、背中側はほとんど手つかずの石塊で、そこから肩がようやく現れはじめている。

1580年代になって、この未完成の姿が思いがけず生かされることになった。コジモの息子、大公フランチェスコ1世の時代に、囚人像は、メディチ家の建築家ベルナルド・ブオンタレンティがボーボリ庭園に築いていた大洞窟の、最初の部屋の四隅に据えられた。像はそこで、多孔質の石でつくられた羊飼いや動物たちに囲まれ、洞窟の天井を支えているかのように立っていた。粗い大理石は、体がほんとうに岩から抜け出してくるように見えた。1909年、《ダビデ》へ向かう通路の両側に並べるため、像は洞窟からアカデミーへ運ばれた。洞窟の四隅のもとの場所には、型取りした複製が置かれている。

ウフィツィが祭壇画を手放す(1954年)

十字架降下
十字架降下フィリッピーノ・リッピ, 1504, アカデミア美術館

8. フィリッピーノ・リッピとピエトロ・ペルジーノ《十字架降下》(1504〜1507年)

画家フラ・フィリッポ・リッピの息子でボッティチェッリの弟子だったフィリッピーノ・リッピは、1504年4月に亡くなり、この板絵の上半分しか描きあげられなかった。注文したのはセルヴィ会の修道士たちで、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の主祭壇のためだった。両面に絵をもつ巨大な祭壇で、一方の面が《十字架降下》、もう一方の面が《聖母被昇天》になる予定だった。フィリッピーノとの契約は1503年に結ばれていた。1505年8月5日に仕事を引き継いだのは、その10年前にはイタリアでいちばん成功した画家だったピエトロ・ペルジーノで、1507年11月には完成した絵の評価が行われた。

上の部分では何もかもが動いている。横木の左端に巻きつけた長いばら色の布は輪を描いてひるがえり、右の梯子を十字架に縛りつける黄色いリボンは風にあおられ、深紅の服の男は右の梯子に頭をほとんど下にしてぶらさがり、素足を一番上の段に引っかけて、キリストの腕を支えている。下の人物たちは重い襞の衣をまとい、じっと立っている。聖母は三人の女の腕のなかへくずおれ、長い金髪のマグダラのマリアは十字架の根もとにひざまずいて、ほとんどこちらに背を向けている。右下の隅には、オレンジ色の布の上に釘が3本置かれている。

画家の交代は、同時代の人々のすべてに歓迎されたわけではない。ヴァザーリによると、フィレンツェの若い画家たちは完成した祭壇画をソネットと公然の罵倒で迎えた。ペルジーノが以前に描いた人物をそのまま繰り返したというのである。ペルジーノは、かつて彼らがほめていたのとまさに同じ人物を使ったのだ、と答えた。

細部については歴史家の見解が分かれるが、梯子の上の男たちはふつうフィリッピーノの手、地上の群像はペルジーノの手とされ、キリストの体はフィリッピーノが描きはじめてペルジーノが仕上げたと考えられている。

1546年に祭壇は解体され、その場所には木製の祭壇天蓋が置かれた。《聖母被昇天》は聖堂に残り、《十字架降下》はやがてトスカーナ大公家のコレクションに入った。そのあいだ板絵がどこにあったのかは、歴史家にも突きとめられていない。1954年、ウフィツィ美術館はこの板絵をアカデミーに移した。ウフィツィ自身の展示の順路に収まらなかったためである。

十字架降下
十字架降下フィリッピーノ・リッピ, 1504, アカデミア美術館
十字架降下
十字架降下フィリッピーノ・リッピ, 1504, アカデミア美術館
聖母被昇天
聖母被昇天ピエトロ・ペルジーノ, サンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂

1996〜1997年の修復は、板絵が大きく、傷みもひどかったため、アカデミーのなかでそのまま行われた。国立光学研究所の専門家が赤外線で撮影したところ、絵の具の下からフィリッピーノの下描きが見つかり、そこではマグダラのマリアが別の姿勢で描かれていた。仕事を引き継いだペルジーノが、その姿勢を変えたのである。

洪水のあとで、そして音楽院から(1966〜2001年)

サソリとニンフ(石膏原型)
サソリとニンフ(石膏原型)ロレンツォ・バルトリーニ, 1835, アカデミア美術館

9. ロレンツォ・バルトリーニの石膏像と《サソリとニンフ》(1837年以前)

ロレンツォ・バルトリーニの石膏のニンフには、肩や鎖骨、胸、腹、腿、膝、さらに髪の生え際のすぐそばにまで、小さな黒っぽい点が散らばっている。これは動かない目印として石膏に打ちこまれた、小さな金属の釘の頭である。この目印から計測器で距離をとって大理石の塊に移していったので、釘が多いほど写しは正確になった。

裸の娘が楕円形の台に低く腰をおろしている。片脚はのばし、もう一方の脚は曲げて、その足をのばした脚の上に横向きにのせている。彼女は頭を傾けてその足をじっと見つめ、たったいま刺されたかのように足の指をつかんでいる。サソリはすぐそばにいる。小さく平たいサソリが、のばした脚と持ち上げた足のあいだの台の上に、低い浮彫りで表されている。白地に白なので、足のほうから見るといちばん見つけやすい。

大理石の《サソリとニンフ》は、ボーヴォー=クラオン公シャルル=ジュストが、ロレーヌ地方の自分のアルエ城のために注文した。1837年、バルトリーニが大理石でもう1体つくるといくらかかるかと尋ねられたときには、石膏像はすでに工房にあった。大理石像は1845年のパリのサロンに出品され、1994年からはルーヴル美術館にある。2体目の大理石像はロシア皇帝ニコライ1世が注文し、バルトリーニの死後に彫刻家ジョヴァンニ・デュプレが完成させた。この像はエルミタージュ美術館に収められている。

バルトリーニはフィレンツェのボルゴ・サン・フレディアーノに大きな工房を構えて外国の注文主のために仕事をしており、石膏の原型はそこに残されていた。1850年1月20日に彼が亡くなると、同じ月のうちに遺族は石膏像の売却交渉を始めた。1884年に相続人たちはコレクションを国に寄託し、1889年9月17日、国はそれを1万2000リラで一括して買い取った。石膏像は分けられて、チェナーコロ・ディ・フォリーニョの食堂やサン・サルヴィなど、いくつもの場所に保管されたが、1966年11月4日に氾濫したアルノ川の水をかぶって損傷した。洪水のあと、原型はピッティ宮殿に集められ、その後アカデミーに移された。移った先は14世紀のサン・マッテーオ病院の、かつての女性病棟だった細長い広間で、1985年からそこで400点を超える石膏像が展示されている。

1825年、アカデミーはバルトリーニを彫刻の教授に迎えることを拒んだ。彼がその職を得たのは1839年、62歳のときである。彼の死後、何百点もの教材用の石膏像のおもな保管場所となったのは、ほかならぬそのアカデミーだった。

エマとジュリア・キャンベル(石膏原型)
エマとジュリア・キャンベル(石膏原型)ロレンツォ・バルトリーニ, 1820, アカデミア美術館
メディチ家のテノール・ヴィオラ
メディチ家のテノール・ヴィオラアントニオ・ストラディバリ, 1690, アカデミア美術館

10. アントニオ・ストラディバリ《メディチ家のテノール・ヴィオラ》(1690年)

大型のテノール・ヴィオラは、ほとんど残っていない。17世紀の終わりにはすでに使われなくなりつつあり、そうした楽器の多くはのちに切り詰められて、ふつうのヴィオラの大きさにされたからである。この1挺は一度も切り詰められておらず、知られているかぎり、ストラディバリがつくった唯一のテノール・ヴィオラである。

ストラディバリを高く買っていたクレモナの貴族バルトロメオ・アリベルティは、大公コジモ3世の息子である大公子フェルディナンド・デ・メディチへの贈り物として、ヴァイオリン2挺とチェロ1挺をストラディバリに注文した。贈り物は喜ばれ、ストラディバリはさらに大きなテノールと小さなコントラルトの2挺のヴィオラを加えるよう頼まれて、五重奏の一揃いができあがった。テノール・ヴィオラの内側、バスバーのそばには「Prima 20 ottobre 1690 per S. A. da Fiorenza」と書かれている。1690年10月20日、フィレンツェの殿下のために、という意味である。

ヴィオラとしては胴が大きく、上部と下部の幅が広い。表板は木目がまっすぐにそろったスプルース材である。指板の下端、f字孔のすぐ上には、真珠母貝でメディチ家の紋章がはめこまれている。6つの球を配した冠の下の盾を、2人のプット、つまりふくよかな幼児が支える図柄である。テールピースには、弓を持つ翼のあるキューピッドが真珠母貝で表されている。

1700年のフェルディナンドの楽器目録には、このヴィオラが五重奏の一部として記載されている。1737年にメディチ家が断絶し、トスカーナをロートリンゲン家が治めるようになると、楽器の管理は行き届かなくなり、1776年までにコントラルト・ヴィオラは目録から姿を消したが、テノール・ヴィオラは残った。1863年3月10日、このヴィオラは、のちのルイジ・ケルビーニ音楽院となる音楽学院に引き渡された。演奏にはあまり向かないこの大きなヴィオラの評価額は1000リラだった。1869年12月、学院の楽器管理者で修復家のジュゼッペ・スカランペッラが木食い虫の害を治すためにこれを開けたところ、内部に当て木があり、そこにストラディバリ本人の「Correto da me Antonius Stradivarius」、つまり「わたしが直した」という書きこみが見つかった。ヴィオラは1690年以来フィレンツェにある。2001年からはアカデミーの楽器部門で展示されているが、所有者はいまも音楽院である。

五重奏のほかの楽器のうち、チェロも同じくアカデミーにあり、ヴァイオリンの1挺はローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミーに、コントラルト・ヴィオラはワシントンのアメリカ議会図書館にある。

この10点のほかに

ここで選んだのは、移動の経緯が記録に残り、もとの場所から運び出された理由がわかっている作品である。リストにいちばん近かったのは、1939年にアカデミーが購入した《パレストリーナのピエタ》だが、ミケランジェロの作とすることには異論があり、美術館自身もその帰属に議論の余地があるとしている。金地の板絵では、ロレンツォ・モナコの《受胎告知の三翼祭壇画》と、ジョヴァンニ・ダ・ミラノの1365年の《ピエタ》を見ておきたい。楽器部門には、ヴィオラのほかに、メディチ家の宮廷で楽器の管理を任され、ピアノを発明したバルトロメオ・クリストフォリの楕円形のスピネットと黒檀のチェンバロが展示されている。

パレストリーナのピエタ
パレストリーナのピエタミケランジェロ, 1555, アカデミア美術館
受胎告知の三翼祭壇画
受胎告知の三翼祭壇画ロレンツォ・モナコ, 1406, アカデミア美術館
ピエタ:聖母、マグダラのマリア、福音記者聖ヨハネによって嘆かれるキリスト
ピエタ:聖母、マグダラのマリア、福音記者聖ヨハネによって嘆かれるキリストジョヴァンニ・ダ・ミラノ, 1365, アカデミア美術館