ベルヴェデーレの二つのバロック宮殿は、建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントがサヴォイア家のオイゲン公のために建てたもので、1723年に完成した。18世紀の終わりから上宮には皇帝の絵画ギャラリーが置かれていたが、1891年、それは完成したばかりのウィーン美術史美術館へ移された。いまの美術館があらためて始まったのは1903年5月、下宮に近代ギャラリーが開館したときである。その開館にこぎつけたのはグスタフ・クリムトとウィーン分離派の画家たちで、彼らはそれに先立つ数年間、絵を買っては国に寄贈していた。

1938年3月20日、独墺合邦(アンシュルス)から八日後に、新しい館長ブルーノ・グリムシッツはギャラリーの近代美術部門を閉鎖し、彼のもとでの購入は、ウィーンのユダヤ人から奪われたコレクションからおこなわれた。1998年にオーストリアで美術品返還法が制定されると、美術館は所蔵作品の来歴を調べはじめた。美術館自身の数えでは、以前の所有者の相続人に返還したクリムトの絵は十点にのぼり、そのなかには1907年の金色の《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》もある。この肖像は2006年にニューヨークのノイエ・ギャラリーが買い取った。

1. ミヒャエル・パッハー《マリアの婚礼》

マリアの婚礼
マリアの婚礼ミヒャエル・パッハー, 1497, ベルヴェデーレ宮殿

板のちょうど真ん中で、手が重なり合っている。ヨセフとマリアが右手を結び合わせ、宝石をちりばめた高いミトラをかぶった大祭司が下からその手を支え、もう一方の手で祝福している。この場面のヨセフはふつう老人として描かれたが、パッハーのヨセフは黒い巻き毛に赤みがかったひげの若い男で、その巨大な朱色のマントが板の左側三分の一をすっかり占めている。ヨセフが手にする細い緑の杖は、言い伝えでは花を咲かせ、それによって彼が選ばれた花婿であることを示したという。杖は上端の外へ抜けていき、人物はみな左右と下で、ほぼ膝のあたりで断ち切られている。この板がかつて二倍以上の大きさだったからである。

これはザルツブルクの教区教会、現在のフランシスコ会教会の主祭壇の翼である。市は1484年、南チロルのブルネックの親方ミヒャエル・パッハーにこの祭壇を注文し、3300グルデンを支払った。ザルツブルクの史料によれば、それは当時最大にして最も高価な翼祭壇だった。パッハーは仕事を仕上げるために1495年にザルツブルクへ移り、1498年にその地で亡くなった。

1709年、ゴシックの祭壇に代わって、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハによるバロックの祭壇が据えられた。古い祭壇から残されたのは、そのころすでに奇跡をもたらす像として崇められていた玉座の聖母の木彫だけで、ほかの部分はばらばらに人手に渡った。両面に絵のあるこの翼がいつ切り詰められ、厚みの方向に二枚にひき割られたのか、歴史家たちは突き止められていない。裏面は独立した一枚の絵《キリストの鞭打ち》となり、これもベルヴェデーレにある。祭壇のもう一つの断片、旧約聖書のヨセフが兄たちに井戸へ投げ込まれる場面は、1951年、ザルツブルクのフランシスコ会修道院そのものから見つかった。

2. バルタザール・ペルモーザー《オイゲン公の神格化》

オイゲン・フォン・ザヴォイエン公の神格化
オイゲン・フォン・ザヴォイエン公の神格化バルタザール・ペルモーザー, 1720, ベルヴェデーレ宮殿

ハプスブルク家のためにトルコと戦った将軍、サヴォイア家のオイゲン公は、自分がヘラクレスの姿で表されたこの大理石の群像を、上宮の南西の塔の1階にある、自分に仕える士官たちの食堂に置いていた。彫ったのはザクセン選帝侯の宮廷彫刻家バルタザール・ペルモーザーで、ドレスデンで1718年から1721年にかけて制作した。オイゲンがペーターヴァルダインとベオグラードでトルコ軍に勝って間もないころである。美術館は注文主をオイゲン本人と考えているが、1887年のドイツの人名事典は、注文主の名はわかっていないと書いていた。

オイゲンは中央に立ち、当時の甲冑をまとい、豊かに巻いたかつらをかぶって、甲冑の上にライオンの毛皮をはおっている。その左から、ラッパを持った名声の女神が長い対角線を描いて飛び出してきて、公は左の手のひらでラッパの口をふさいでいる。まるで自分の手柄を吹聴させまいとしているかのようだ。足もとには捕虜のトルコ人がうずくまっている。ペルモーザーはこのトルコ人に自分の顔を与えたという言い伝えがあり、美術館もその可能性を認めている。

なぜこの群像を公式の広間から遠ざけたのか、オイゲン自身は説明していない。美術館は二つの推測を挙げている。公には大理石が古代風の度合いに欠けるように思えたのか、あるいは、はじめから自分の死後のための記念碑として注文したのか、である。それでいて、ペルモーザーの群像は、サロモン・クライナーが出したベルヴェデーレの景観版画集の扉を飾った。1736年に公が亡くなったあと、大理石は庭と宮殿のあいだの中庭の一角に置かれ、1836年には、彫刻家ゲオルク・ラファエル・ドナーによる皇帝カール6世の像と対をなすように1階の庭園広間へ移され、1922年には、下宮に開館したばかりのバロック美術館へ運ばれた。

3. フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミット《性格頭部》

性格頭部 第33号:大悪党
性格頭部 第33号:大悪党フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミット, 1780, ベルヴェデーレ宮殿

1774年、彫刻家フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミットは、ウィーン美術アカデミーの教授職を拒まれた。それまで五年間彫刻の教授の代理を務め、その前にはマリア・テレジアとその夫の胸像もつくっていたにもかかわらずである。宰相カウニッツは、その書簡を伝える記述を信じるなら、女帝に宛てて、メッサーシュミットの才能は認めるとしながら、「頭の混乱」とふさわしくない振る舞いに触れていた。ポストの代わりに示された年金を彫刻家は受け取らず、ウィーンを去って、1777年、兄弟の住むプレスブルク、現在のブラチスラヴァに落ち着いた。

頭部の制作は1770年ごろに始まり、1783年に亡くなるまで続いた。注文主はなく、自分のためのものだった。ベルヴェデーレの学芸員たちは、彼が自分の顔を出発点にして表情の一揃いを集めていたと考えている。1781年に彼を訪ねたベルリンの出版者フリードリヒ・ニコライによれば、メッサーシュミットは肋骨の下を自分でつねり、そうしてできたしかめ面を鏡で見ていたという。

第33番の頭部は錫と鉛の合金で鋳造されている。頭は胸にめりこむように押しつけられて、あごは首のしわに沈み、目はこめかみにしわが寄るほどきつく閉じられ、鼻にもしわが寄っている。口は一文字に結ばれて両端がわずかに上がり、押し殺した薄笑いとも、力んでいるとも見える。ベルヴェデーレはこの頭部を1923年、ウィーンのアルベルト・ケンデの競売で買った。美術館には全部でおよそ16の頭部があり、そのうちいくつかは所有者から貸与されたものである。

20世紀には長いあいだ、頭部は彫刻家の心の病によって説明されてきた。ベルヴェデーレは2025年の展覧会でこれに異を唱え、頭部を18世紀の表情研究と同じ流れのなかに置いた。頭部に題名がついたのは、メッサーシュミットの死後である。兄弟のヨハン・アダムが遺品の競売で頭部を買い取り、1791年ごろウィーンの料理店主フランツ・シュトルンツに売った。1793年11月、シュトルンツは、当時自分が厨房を切り盛りしていた市の大きな救護施設、市民病院(ビュルガーシュピタール)で49の頭部を公開した。展示に合わせて出た匿名の小冊子が、頭部の一つひとつに名前をつけた。第33番は「大悪党」と名づけられ、美術館はいまも番号の横にこのあだ名を添えている。

4. ジャック=ルイ・ダヴィッド《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》

サン・ベルナール峠を越えるボナパルト
サン・ベルナール峠を越えるボナパルトジャック=ルイ・ダヴィッド, 1801, ベルヴェデーレ宮殿

ジャック=ルイ・ダヴィッドが描いた第一統領ボナパルトの肖像は、1803年にパリからミラノへ送られた。行き先は、当時フランスの支配下にあったイタリア共和国の宮殿だった。1834年、ミラノがふたたびオーストリア領になっていたころ、絵はウィーンへ運ばれ、当時上宮に置かれていた皇帝のギャラリーに入った。こうして、ついこのあいだまでハプスブルク家の敵だった男の公式肖像が、オイゲン公の宮殿に掛かることになった。1891年にギャラリーが新しい美術史美術館へ移ったとき、絵もいっしょに移り、いまもこの美術館の所有で、ベルヴェデーレには貸与されている。

ダヴィッドとその工房はこの肖像を五点描いており(一般にそう数えられている)、ウィーンの一点には1801年または1802年の年記がある。赤みがかったオレンジのマントと、灰色の連銭葦毛の馬で見分けがつく。馬は雪の積もった岩棚の上で後脚で立ち上がり、マントは騎手の頭上でふくらみ、ボナパルト自身は落ち着いてこちらを見つめ、腕で上を指している。左下の岩には三つの名が刻まれている。いちばん上がボナパルト、その下になかば消えかけたハンニバル、さらにその下にラテン語で「皇帝カロルス・マグヌス」、つまりカール大帝である。ハンニバルもカール大帝もアルプスを越えて軍を進めた人物で、三つのうちボナパルトの名がいちばんくっきりしている。実際には、1800年5月、彼は案内人をつけてラバの背で峠を越えた。

5. フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー《聖体の祝日の朝》

聖体の祝日の朝
聖体の祝日の朝フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー, 1857, ベルヴェデーレ宮殿

ウィーン美術アカデミーの絵画館を預かり、教授の肩書きをもっていたフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーは、1857年、上司たちの頭越しに、祖国の美術を活気づける方法を論じた小冊子を財務大臣に送った。彼はそれ以前にも、1846年と1849年に、印刷物でアカデミーの教育を攻撃し、模写をやめて自然から学ばせるべきだと主張していた。1857年の小冊子のために、国は罰として彼を半額の俸給で退職させた。1864年、皇帝は俸給を全額に戻して彼の名誉を回復し、翌1865年にヴァルトミュラーは亡くなった。

この絵にも同じ1857年の年記がある。1912年から美術館にあるが、所有しているのはベルヴェデーレ友の会で、会はその年、最初の購入作品としてこれを買い、国立ギャラリーに貸し出した。

朝日が中庭の中央に差しこみ、白いモスリンのドレスに花冠をつけた四人の少女に当たっていて、画面でいちばん明るい光は彼女たちの上にある。右では、緑の上着の少年が、花とリボンを巻きつけた背の高いろうそくを持って歩み去りながら、満面の笑みで振り返っている。手前には、普段着のまま、はだしの子どもたちがいる。一人の少女はひざまずいて小さな花輪を差し出し、もう一人はしゃがんで、着飾った友だちが手にした花に手を伸ばしている。2021年、ベルヴェデーレはビーダーマイヤー期のウィーン絵画に描かれた貧困をテーマにした展覧会で、この違いをはっきり説明した。はだしの子どもは行列には加われない、というのである。左では、皆から離れて、青い仕事着の老人がうなだれてベンチに座り、そのそばの壁ぎわでは、少女が手の甲を目に押し当てている。

聖体の祝日の朝
聖体の祝日の朝フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー, 1857, ベルヴェデーレ宮殿

6. ハンス・マカルト《五感》

ヨーゼフ・アレクサンダー・フォン・ヘルフェルト男爵は、ウィーンのリングシュトラーセの一区画であるパルクリングの自宅のために、ハンス・マカルトに五点の絵を注文した。どの絵にも裸の女性が等身大の全身像で描かれ、どのカンヴァスも高さが3メートルを超えるのに、幅はふつうの扉より狭い。窓と窓のあいだの壁に掛けられる予定だったからである。美術館によれば、絵は結局ヘルフェルトの住まいには届かず、美術館はその理由を挙げていない。マカルトはこの連作を1872年に描き始め、1879年の末に仕上げた。彼がウィーンで最ももてはやされた画家だった時期である。

《視覚》の裏には「H・O・ミートケのために描く、1879年」という書き込みと、複製権についての但し書きがある。ウィーンの画商ミートケはこの連作を版画にして出版し、絵をドレスデン、ウィーン、ベルリンの展覧会へ巡回させた。ヘルフェルトの注文とこの書き込みを結びつける文書は、研究者たちもまだ見つけていない。

五感:視覚
五感:視覚ハンス・マカルト, 1879, ベルヴェデーレ宮殿
五感:聴覚
五感:聴覚ハンス・マカルト, 1875, ベルヴェデーレ宮殿

五枚のうちでいちばんよく展示されるのは《視覚》と《聴覚》である。《視覚》の女性は金めっきの枠の楕円形の手鏡を肩のあたりに掲げているが、目はよそを向いている。頭上には巨大な扇形のヤシの葉が広がり、画面で空がのぞくのはそこだけである。《聴覚》の女性は横顔を見せ、指を耳もとに寄せている。美術館は五人の姿を、ゆっくり向きを変えていく一つの体のさまざまな姿勢として説明している。

国は1901年、ミートケからこの連作を買った。皇帝が国立近代美術ギャラリーの設立を裁可したのと同じ年である。

7. ティナ・ブラウ《プラーター公園の春》

1882年、ティナ・ブラウは、ウィーンの美術家の中心団体の展示館キュンストラーハウスで開かれた第1回国際美術展に、高さおよそ2メートル、幅3メートルのカンヴァスを出品した。当時この大きさといえば大作のサロン絵画だったが、ブラウがそこに描いたのは、ウィーンの大きな公園プラーターの春だった。伝記作者たちが口をそろえて繰り返す話によると、審査委員会はこの絵を落とそうとした。ギャラリー調の暗い色合いでまとめられた絵のなかでは明るすぎ、委員会の言い方を借りれば、壁に穴をあけてしまう、というのだった。《五感》の画家ハンス・マカルトがこの絵を擁護して、絵は掛けられたものの、隅に回された。1899年、絵は皇帝の絵画ギャラリーのために買い上げられた。

プラーター公園の春
プラーター公園の春ティナ・ブラウ, 1882, ベルヴェデーレ宮殿

画面の上半分は、長くたなびく雲の浮かぶ淡い青空である。右には巨大な古木が並び、その裸の枝先はようやく淡い黄緑の若葉に覆われはじめたところで、日の当たる小道を、クリーム色の日傘の婦人、暗い色のドレスの婦人、小さな女の子がこちらへ歩いてくる。左では二人の男の子がズボンをまくり上げ、はだしで浅い水たまりに立っている。絵は黄土色、麦わら色、淡い青で描かれ、暗い色を置いているのはドレスと木の幹だけである。

当時ウィーン美術アカデミーは女性を受け入れておらず、ブラウは個人教師について学び、その後ミュンヘンで学んだ。1883年、《プラーター公園の春》はパリのサロンに出品され、多くの資料によれば、そこで選外佳作を受けた。

8. アントン・ロマコ《リッサ海戦におけるテゲトフ提督》

リッサ海戦におけるテゲトフ提督 I
リッサ海戦におけるテゲトフ提督 Iアントン・ロマコ, 1879, ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレの解説は、アントン・ロマコのこの絵には海も旗も燃える船もない、つまり海戦の勝利を称えるのに欠かせないはずのものが何一つないと書いている。アドリア海のリッサ島沖の海戦は、1866年7月20日に起きた。少将ヴィルヘルム・フォン・テゲトフの旗艦がイタリアの装甲艦「レ・ディタリア」に体当たりして沈め、オーストリア艦隊はより強力なイタリア艦隊を打ち破った。もっとも同じ年、オーストリアは陸の戦いで戦争に敗れ、ヴェネト地方をイタリアに譲っている。

縦長の細い板は二つの帯に分かれている。上では艦橋に四人の士官が立ち、中央のテゲトフは両脚を開き、腕を下ろしてまっすぐこちらを見ている。下では六、七人の水兵が全身の力で巨大な舵輪に取りつき、舵輪は画面の下端で断ち切られている。一人は目をむき、もう一人は手のひらで口を押さえている。二つの帯のあいだには淡い煙がたなびく。出来事そのものは、右上の隅の書き込み「リッサにてテゲトフ、装甲艦レ・ディタリアに衝角攻撃」でしか示されておらず、ロマコが選んだのは激突の直前の数秒だった。

ロマコは、外国人のための肖像画を描いてローマでほぼ20年を過ごしたのち、1876年にウィーンへ戻り、歴史画家として成功しようとした。1882年、この絵のヴァージョンの一つがキュンストラーハウスで公開されると、テゲトフが英雄らしく見えないとして観客はそれを嘲笑した。ベルヴェデーレは大きいものと縮小版の二つのヴァージョンを所有しているが、展示室に出ているとは限らない。大きいほうは1955年、当時ニューヨークに住んでいたグスタフ・カウダースから買い入れた。この絵が認められたのはロマコが1889年に亡くなってからで、画家オスカー・ココシュカは彼を自分にとっての最も重要な手本の一人に数えていた。

9. ジョヴァンニ・セガンティーニ《悪しき母たち》

悪しき母たち
悪しき母たちジョヴァンニ・セガンティーニ, 1894, ベルヴェデーレ宮殿

1901年、ウィーン分離派の画家たちは、個人の美術愛好家たちと資金を出し合って買ったジョヴァンニ・セガンティーニの絵を国に贈った。分離派は1897年、クリムトと仲間たちが保守的なキュンストラーハウスを離れて結成したもので、以来彼らは、ウィーンに国立の近代美術ギャラリーを設けさせようと働きかけてきた。1903年5月にギャラリーが開館したとき、《悪しき母たち》は最初の展示に掛けられていた。分離派が自分たちの先駆者とみなしていたセガンティーニ本人は、1899年にアルプスで亡くなっていた。

描かれているのは、山々のふもとの雪に覆われた谷と、一本の裸のねじれた木である。その木の股に、一人の女が絡めとられている。頭をのけぞらせ、目を閉じ、赤みがかった髪は枝に広がり、下半身には暗いぼろぼろの布が巻きついて、その布がそのまま樹皮に変わっていく。胸もとには、枝から生えて乳を吸う赤ん坊の小さな頭があり、離れて見るとこの頭は見落としやすい。雪も空も含めて、セガンティーニは画面全体を、糸のように細い、一本ずつ分かれた筆触で描いている。

主題は、友人ルイージ・イッリカの詩『ニルヴァーナ』から取られている。のちにプッチーニの台本作家となるイッリカは、この詩を古代インドの文献の翻訳だと称していた。詩のなかでは、母となることを拒んだ母親たちが罰として氷の谷をさまよわされ、それはわが子と和解するまで続く。セガンティーニの母は、彼が七歳ほどのときに亡くなった。1911年、ベルリンにいたフロイトの弟子カール・アブラハムは、このことを軸に画家についての精神分析的な論考を書き、それはウィーンで出版された。

悪しき母たち
悪しき母たちジョヴァンニ・セガンティーニ, 1894, ベルヴェデーレ宮殿

10. フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの平野》

1890年7月2日、フィンセント・ファン・ゴッホはオーヴェール=シュル=オワーズから弟テオとその妻に宛てて、横長の畑の風景のことを書いた。フランスの風景画家ジョルジュ・ミシェルが選びそうな主題だが、色は柔らかな緑、黄、青緑だという。カンヴァスは横幅が高さの二倍あり、地平線は最上部まで引き上げられ、空は細く平らなターコイズの帯として残っている。その下には、淡い黄、明るい黄緑、青緑の畑が継ぎはぎのように広がり、一枚一枚が暗い輪郭で縁どられている。左には大きな干し草の山があり、下の草むらには赤とオレンジのケシの点が散っていて、画面で暖かな色はそこだけである。この手紙から四週間もたたないうちに、ファン・ゴッホは自分を撃ち、二日後に亡くなった。

オーヴェールの平野
オーヴェールの平野フィンセント・ファン・ゴッホ, 1890, ベルヴェデーレ宮殿

1903年のはじめ、ウィーン分離派は印象派の展開をたどる展覧会を開き、その最後のセクションでは、ゴーギャン、トゥールーズ=ロートレック、ボナールと並んでファン・ゴッホの絵が五点掛けられた。分離派はこの展覧会で新しい国立ギャラリーのために《オーヴェールの平野》を買い、1909年に正式に寄贈した。美術館に入ったファン・ゴッホの作品としては、最も早いものの一つである。ウィーンは彼の絵をあまり買わず、1914年の時点でウィーンのコレクションにあった彼の絵は13点、ドイツでは156点だった。

11. クロード・モネ《料理人(ポール爺さん)》

ポール爺さんの肖像
ポール爺さんの肖像クロード・モネ, 1882, ベルヴェデーレ宮殿

アルザス出身のポール・グラフは、妻ウジェニーとともにディエップに近いプールヴィルでレストランつきの宿を営んでいた。1882年2月、ノルマンディーの断崖と海を描きにやって来たクロード・モネがそこに宿をとった。天気の悪い日、モネは屋内で仕事をし、グラフの料理の名物だったガレットを二つ、内気なウジェニー、そして主人その人を描いた。モネのカタログ・レゾネを編んだダニエル・ウィルデンシュタインの言葉を借りれば、「白いコック帽をかぶった、髪もじゃの年老いた料理人」である。

高く柔らかなコック帽は左へ傾いている。モネはそれを白いすばやい輪を重ねるように描き、襞にはライラック色、水色、ばら色を入れた。絵の具はごく薄く、下からカンヴァスの織り目が透けて見える。いちばん厚く塗られているのはひげで、青黒、瓶の緑、オリーブ色の筆触が絡まり合った塊になっている。ひげはあごと口を覆っていて、笑みは頬からうかがえるだけだ。ミントグリーンの背景は輪郭のまわりをめぐるように幅広い筆で置かれ、胸から下の白い上着は、もうほとんど描きかけのように軽く示されている。

1883年3月、モネはパリの画商ポール・デュラン=リュエルのもとで開いた個展でこの肖像を見せたが、カタログでは主人の姓が「グラフト」と誤って印刷された。1903年、この絵はウィーン分離派の印象派展で買い上げられた。分離派が《オーヴェールの平野》を手に入れた、あの展覧会である。そして5月には、近代ギャラリーの最初の展示に掛けられた。代金を払ったのが省だったのか分離派だったのか、美術館の記録には残っていない。ベルヴェデーレにあるほかの二点のモネのうち、《ジヴェルニーのモネの庭の並木道》は、まったく別の道をたどって、1942年になってようやく美術館に入った。

12. グスタフ・クリムト《ユディト》

ホロフェルネスの首を持つユディト
ホロフェルネスの首を持つユディトグスタフ・クリムト, 1901, ベルヴェデーレ宮殿

《ユディト》の額縁をつくったのは、グスタフ・クリムトの弟で彫金師、彫版師だったゲオルクである。額の上の枠板には大きな文字で「ユディト」、その下に「ホロフェルネス」と打ち出され、脇には小さく、ドイツ語で「と」を意味する「ウント」の字がある。額縁の下絵は1898年にはもうクリムトの赤いスケッチ帳に現れていて、額は、1901年3月の第10回分離派展でこの絵が初めて公開される前にできあがっていた。つまり題名は、誰かがこの絵を目にするより前から額に記されていたわけだが、それでもウィーンでもミュンヘンでもベルリンでも、人々はこの絵をサロメと呼んだ。「これはユディトというより、はるかにサロメだ」と1901年4月1日の『ウィーナー・ツァイトゥング』紙は書き、1905年のベルリンの展覧会カタログでは、絵はそのまま「サロメ」として載っている。

クリムトは分離派の中心人物で、大学の大講堂の天井画をめぐって、大学側ともう二年越しの争いを続けていた。教授たちは《哲学》に抗議し、《医学》は《ユディト》と同じ展覧会で公開された。

ユディトは頭をのけぞらせ、重たげなまぶたの下からこちらを見ていて、唇はわずかに開いている。首を幅の広い金の首飾りが締めつけ、そこにはめこまれた青と赤の石は、画面から盛り上がるほど厚く塗られている。頭の後ろは金地で、そこには木々や山やぶどうの蔓が浮かび上がっている。美術館の見方では、これらはニネヴェにあったアッシリア王センナケリブの宮殿の浮き彫りから取られたものだという。ホロフェルネスの首は右下の隅にしか見えない。指を広げたユディトの手がその黒髪の上に置かれ、顔は閉じた目と頬の一部が残るだけで、その先は額縁に断ち切られている。

1901年、ウィーンの医師アントン・レーヴがこの絵を買った。1907年に彼が亡くなると絵は未亡人の手に残り、1920年にジュネーヴの競売で3750フランで売られ、1954年まではスイスの画家フェルディナント・ホドラーの未亡人ベルト・ホドラーのものだった。1954年、オーストリア・ギャラリーはベルト・ホドラーから《ユディト》を3000スイス・フランで買った。

ホロフェルネスの首を持つユディト
ホロフェルネスの首を持つユディトグスタフ・クリムト, 1901, ベルヴェデーレ宮殿

13. グスタフ・クリムト《接吻》

接吻
接吻グスタフ・クリムト, 1907, ベルヴェデーレ宮殿

1908年7月10日、宗教・教育省は、当時《恋人たち》と呼ばれていた絵を、展覧会「クンストシャウ」の会場からそのまま、グスタフ・クリムトから買い取った。この展覧会は、クリムトとその仲間たちが1905年に分離派を脱退したあとに開いたものである。省が支払ったのは2万5000クローネで、近代ギャラリーがそれまで存命の画家に払ったどの額よりも多く、しかも絵は未完成のまま買われた。省の内部メモには、左下の隅がまだ描き終わっていないと記されていて、7月16日、クリムトはアッター湖から、展覧会が終わりしだい《恋人たち》を仕上げると返事をした。彼はカンヴァスをアトリエに持ち帰り、ギャラリーに引き渡したのは1909年7月22日になってからだった。《接吻》という題がついたのはその年の秋、近代ギャラリーのカタログの補遺においてである。

紫、青、黄、白の小さな花が咲く草地は、画面の下の左側だけを占め、鋭い縁で途切れて、その先から背景が始まる。女のはだしの足はちょうどその縁に立ち、足の指は下へ折り曲げられている。二人のまわりの背景を、クリムトは暗いオリーブがかったブロンズ色のグラッシで覆い、それが乾かないうちに金属の粒をまいた。

買い上げのあとの手直しは、写真家モーリッツ・ネーアが撮った展覧会の写真と比べるとわかる。写真では草地の左側の花がひと株ずつ分かれているが、いまはひと続きの絨毯のように溶け合っている。エックス線調査によって、クリムトがこのとき男のマントの裾の文様をととのえ、女のすねを数センチ長くしたこともわかった。

14. リヒャルト・ゲルストル《笑う自画像》

笑う自画像
笑う自画像リヒャルト・ゲルストル, 1908, ベルヴェデーレ宮殿

1908年11月4日、25歳のリヒャルト・ゲルストルはアトリエで手紙や書類を焼き、鏡の前で自ら命を絶った。彼は作曲家アルノルト・シェーンベルクと親しく、ともに絵を描き、シェーンベルクに絵を教えてもいたが、1908年、シェーンベルクの妻マティルデと恋仲になった。マティルデは結局、夫のもとへ戻った。生前ゲルストルは一度も展覧会に出品したことがなく、ウィーンの美術家団体とは距離を置いていた。

彼の死後、絵は家族が保管していて、1930年か1931年に兄弟のアロイスがそれをウィーンの画商オットー・カリルに見せた。1931年9月、カリルは自分のノイエ・ギャラリーで展覧会「リヒャルト・ゲルストル、ある画家の運命」を開いた。それまでの23年間、ゲルストルの作品を見たのは家族だけだった。1938年からナチスは彼を「退廃」芸術家に数え、1945年まで彼の絵を展示することはできなかった。1946年、オーストリア・ギャラリーはノイエ・ギャラリーからこの自画像を買った。

自画像のゲルストルは、上の歯がすべて見えるほど大きく口を開けて笑っている。しかし目は細められてガラスのようで、ベルヴェデーレはこの笑いを、陽気というよりむしろ威嚇的だとしている。背景は茶、オリーブ、黄土の短い筆触に一面覆われ、頭のすぐきわまで迫っている。顔は熱を帯びたオレンジ、赤、ばら色で描かれ、口のまわりと無精ひげには緑がかった黄色の筆触が置かれ、首は黄緑の長い柱のように立っている。

ベルヴェデーレはこの肖像を、ゲルストルの生涯最後の年である1908年の作としているが、作品目録の編者たちは、彼がシェーンベルク一家の近くでトラウン湖畔のグムンデンに滞在した1907年の夏の作としている。

15. エゴン・シーレ《死と乙女》

死と乙女
死と乙女エゴン・シーレ, 1915, ベルヴェデーレ宮殿

ヴァリ・ノイツィルは1911年からエゴン・シーレのモデルであり恋人だった。1914年の終わり、シーレはアトリエの向かいの家に住むエーディト・ハルムスに言い寄りはじめ、1915年6月17日に彼女と結婚し、その数日後に軍に召集された。同じ1915年に彼はこの絵を描いた。ベルヴェデーレは、描かれているのはヴァリとシーレ自身だと考えているが、画家はこのカンヴァスを《男と少女》や《絡み合う人々》と呼んでいて、《死と乙女》という題はのちについたものである。

二人は、茶色い石ころだらけの地面に投げ出された、しわくちゃの巨大な白いシーツの上にひざまずいている。暗褐色の僧衣の男は、丸く見開いた目で見る者の脇も女の脇も通り越した先を見つめ、長く骨ばった指の手を女の後頭部に置いている。女は細い腕で男を抱きかかえ、指を広げた両の手のひらを男の胸にぴたりと当てている。女の短いドレスの裾を、シーレはばら色、赤、淡い緑の線でぎざぎざの鋸の刃のように描いた。

この絵はシーレの存命中にミュンヘン分離派が買い、1918年春にはウィーン分離派で開かれたシーレの大規模な展覧会に掛けられた。そこで批評家ヘルマン・メンケスは、これを「空想と素描と構図のすばらしい詩」と呼んだ。美術館は画家の死から12年後の1930年、ミュンヘン分離派からこの絵を買った。ヴァリ・ノイツィルは看護師の訓練を受け、従軍のために送られたダルマチアの小さな町シニで、1917年12月に猩紅熱で亡くなった。

死と乙女
死と乙女エゴン・シーレ, 1915, ベルヴェデーレ宮殿

16. エゴン・シーレ《画家の妻、エーディト・シーレの肖像》

画家の妻、エーディト・シーレの肖像
画家の妻、エーディト・シーレの肖像エゴン・シーレ, 1918, ベルヴェデーレ宮殿

1915年から国立ギャラリーの館長を務めたフランツ・マルティン・ハーバーディッツルは、1918年、分離派でのシーレの大きな春の展覧会の直後に、ウィーンの画商グスタフ・ネーベハイからこの肖像を買った。オーストリアの美術館が買った最初のシーレの絵で、画家の存命中の購入だった。その後、シーレは肖像のスカートを描き直した。ベルヴェデーレの作品解説には、色とりどりのチェックのスカートが館長には派手すぎて工芸品のように見えたため、彼の求めでくすんだ色に塗りつぶされたとある。シーレの作品を最も多く所蔵し、最初の状態を写した写真を持つウィーンのレオポルド美術館は、もっと慎重に、描き直しの理由は確定していないと書いている。

古い写真のエーディトは同じポーズで座り、大きな格子柄のスカートをはき、はっきり見分けられる木の肘掛け椅子に腰かけていて、背景は明るく、下には床が見える。絵のほうでは、スカートは茶と緑の筋の入った白っぽい灰色に変わり、首には長いリボンと小さな赤みがかったオレンジの房のついた黒い蝶結びが加わり、裾からは茶色の靴がのぞき、椅子と部屋は暗い背景に沈んでいる。2018年、ベルヴェデーレの修復家たちは、エックス線と赤外線の画像をもとに最初の状態をデジタルで再現した。

ベルヴェデーレはシーレの絵を入れ替えながら展示しており、この肖像がいつも展示室に掛かっているとは限らない。最初の状態を写した写真は、2023年にレオポルド美術館が買い入れた。

17. エゴン・シーレ《うずくまる男女(家族)》

家族
家族エゴン・シーレ, 1918, ベルヴェデーレ宮殿

ほぼ正方形のカンヴァスに、三つの人物が暗い茶色の背景の上でピラミッド形に組み上げられている。いちばん上には、シーレ自身の顔をした裸の男がしゃがみ、膝を大きく開いて、その脚で女を囲むようにしながら、まっすぐこちらを見ている。女はその下に座っていて、男より青白く柔らかく、目を伏せて脇へそらしている。女の両足のあいだでは、濃い緑の毛布にくるまれた子どもが、二人の大人のどちらからも外れた横のほうを見ている。三人のうち誰も、互いに目を合わせていない。

2018年の赤外線撮影によって、最初は男が右手であごを支えていたことがわかった。シーレはその手を下ろし、いまその手は胸の前に上げられ、手のひらを自分に向けて指を広げている。

シーレ自身はこの絵を《うずくまる男女》と呼んでいて、彼の死後に《家族》と名づけたのは、ウィーンのジャーナリストで文学サロンの主宰者だったベルタ・ツッカーカンドルである。1918年からこの絵は、製鋼業の一族に生まれた画家ハンス・ベーラーのもとにあり、美術館は1948年、ニューヨークで彼から買った。

エーディト・シーレは1918年の春から子どもを身ごもっていた。彼女は妊娠六か月で、10月28日にスペイン風邪で亡くなり、シーレはその三日後に亡くなって、絵は未完成のまま残った。膝から垂れた男の左手はかろうじて示されているだけで、カンヴァスの下の両隅は下描きの段階にとどまっている。

18. グスタフ・クリムト《花嫁》

1918年2月6日、グスタフ・クリムトは1月に起こした脳卒中がもとで亡くなり、ヒーツィングのアトリエのイーゼルには、描きかけの絵が何点か残された。そのなかに大きな寓意画があり、それは彼の死後に《花嫁》と名づけられた。

カンヴァスの左半分は描き終えられている。そこには、色とりどりの文様をもつ赤みがかったオレンジの布をまとった裸の女たちが折り重なり、多くは目を閉じていて、端では赤ん坊が眠り、上には、ただ一人目を開けているオレンジ色の服の男がいる。その男のほうへ、二本の長く黒いお下げ髪の花嫁が頭を傾けていて、体の代わりに描きかけのドレスの紺色の柱が立っている。右半分はほとんど地のままのカンヴァスである。そこには脚を開いた大きな裸婦がいて、頭は木炭で輪郭がとられているだけだが、腰にはクリムトがすでに、黄、緑、赤、青の平たい三角形や渦巻きや輪でできたスカートを置いていて、そのあいだから下に描かれた体が透けて見える。クリムトはまず人物を全身裸で描き、そのあとで装飾をまとわせていたが、ここではその作業が途中で止まっている。

この絵はウィーンの私設クリムト財団の所有で、2014年からベルヴェデーレに貸し出されている。画家の死後、絵は彼の生涯の伴侶で相続人だったエミーリエ・フレーゲに渡り、その後、彼の婚外子である映画監督グスタフ・ウチッキーの手に移った(どういう経路でかは、財団は明らかにしていない)。2013年、ウチッキーの未亡人ウルズラが、自分で設立したばかりの財団にこの絵を譲った。

花嫁
花嫁グスタフ・クリムト, 1917, ベルヴェデーレ宮殿

クリムトの最後のスケッチ帳には、この絵のための下絵が40枚以上あり、そのいくつかで彼は、右側の人物の頭の傾きをあれこれ試している。

19. クロード・モネ《ジヴェルニーのモネの庭の並木道》

ジヴェルニーのモネの庭の並木道
ジヴェルニーのモネの庭の並木道クロード・モネ, 1902, ベルヴェデーレ宮殿

ベルリンの銀行家ローベルト・フォン・メンデルスゾーンは、1904年にパリの画商デュラン=リュエルからこの絵を買った。1917年に彼が亡くなると、絵はイタリア人ピアニストだった未亡人ジュリエッタ・フォン・メンデルスゾーンに受け継がれた。1941年、イタリアに住んでいたジュリエッタは、ベルリンのグリューネヴァルトにある邸宅を第三帝国に売り、代理人たちがコレクションの絵をウィーンに運んだ。1942年、ウィーンのナチス総督府はウィーンの画商オットー・シャッツカーを通じて32点を買い、それらを各地の美術館に振り分けた。レンブラントの自画像は美術史美術館へ、オーストリア・ギャラリーにはコロー、ドガ、マネ、モネの絵五点が渡り、この絵もそのなかに含まれていた。1943年1月、ギャラリーは1942年の購入品を集めた展覧会でこの絵を公開した。

モネがこの並木道を描いたのは1902年、1883年から住んでいたジヴェルニーの自宅の庭でのことである。砂の小道はカンヴァスのちょうど真ん中を、下端からまっすぐ家へと向かっている。家は、ばら色がかった赤い正面の一部と暗い扉が見えるだけで、それも半ば緑に隠れている。淡い砂の上には青と紫の影が落ち、両側ではアスター、ナスタチウム、ダリアの花壇が高く盛り上がり、上では木々の梢がほとんど閉じてトンネルのようになっている。モネは右下の赤い花のあいだに、赤い絵の具で「クロード・モネ 02」と署名した。

2019年、メンデルスゾーン・コレクションの絵の来歴があらためて調べられることになり、2023年5月、オーストリアの美術品返還諮問委員会は《並木道》を返還しないよう勧告した。売却は政治的迫害や売り手の困窮の結果ではなかった、と判断したのである。

20. グスタフ・クリムト《アマーリエ・ツッカーカンドルの肖像》

アマーリエ・ツッカーカンドルの肖像
アマーリエ・ツッカーカンドルの肖像グスタフ・クリムト, 1917, ベルヴェデーレ宮殿

ウィーンの作家ジークムント・シュレジンガーの娘アマーリエ・ツッカーカンドルは外科医オットー・ツッカーカンドルの妻で、1913年か1914年に、夫がクリムトに彼女の肖像を注文した。仕事は戦争で中断し、1917年にクリムトはふたたびこれに取りかかったが、1918年2月に彼が亡くなったとき、肖像は未完成のまま残った。

仕上がっているのは、頭と首とむき出しの肩だけである。ばら色の頬の青白い顔、小さな赤い口、高く結い上げた黒髪、喉もとの白いレースのついた黒いリボン。アマーリエの後ろの背景はミントがかったターコイズで塗られているが、肩から下はすべて地塗りのままで、そこにショールの襞や手や花模様が鉛筆で描かれている。その素描のところどころに、ばら色と水色の斑点がぽつりぽつりと置かれていて、クリムトが色を試しはじめたかのようだ。赤外線撮影によって、口ははじめ閉じた形で素描され、絵の具では少し開いた形に描かれたことがわかった。

1919年にツッカーカンドル夫妻は離婚し、肖像はアマーリエの手もとに残った。1920年代、金に困った彼女は、金色の肖像のアデーレの夫で製糖業者のフェルディナント・ブロッホ=バウアーにこれを売った。スイスへ移るにあたって、ブロッホ=バウアーは代金を取らずに絵を一家に、つまりアマーリエの娘ヘルミーネ・ミュラー=ホフマンに返した。1942年、ヘルミーネは肖像を1600ライヒスマルクでヴィタ・キュンストラーに売った。キュンストラーは1938年から、亡命したオットー・カリル(1931年にゲルストルの絵を初めて公開した画商)に代わって、ノイエ・ギャラリーを経営していた。同じ1942年、アマーリエは強制移送され、殺害された。1988年、肖像はヴィタ・マリアとグスタフ・キュンストラーからの寄贈としてオーストリア・ギャラリーに入った。

その後、肖像の権利を主張したのは二つの相続人のグループ、フェルディナント・ブロッホ=バウアーの相続人とヘルミーネの相続人だった。二者の争いを審理したのは、2006年1月にアデーレの肖像をブロッホ=バウアー家に返還するよう決定したのと同じ、三人からなる仲裁委員会である。アマーリエの肖像について、委員会は2006年5月に別の裁定を下し、どちらのグループにも絵への権利はないとした。こうして肖像はウィーンにとどまった。2008年4月1日、オーストリア最高裁判所はこの裁定を支持した。

近代ギャラリーが1903年に開館できたのは、分離派の画家たちに負うところが大きい。合邦のあと、新しい館長は没収されたユダヤ人のコレクションから作品を買った。1998年から、ベルヴェデーレはそうして入った作品の来歴を調べている。2006年、美術館はブロッホ=バウアーの相続人にクリムトの絵五点を返還し、2008年、最高裁判所はアマーリエ・ツッカーカンドルの肖像を国のコレクションに残した。

アマーリエ・ツッカーカンドルの肖像
アマーリエ・ツッカーカンドルの肖像グスタフ・クリムト, 1917, ベルヴェデーレ宮殿

ほかに見るなら

美術館自身の数えでは、ベルヴェデーレにあるクリムトの油彩画は24点で、世界のどこよりも多い。二度目に訪れるなら、ゾニヤ・クニップスとフリッツァ・リードラーを描いた彼の肖像と、アッター湖の風景画から始めるとよい。ほかに、オスカー・ココシュカの絵、ウィーンのビーダーマイヤー、なかでもフリードリヒ・フォン・アマーリングの《ルドルフ・フォン・アルトハーバーと子どもたち》、そしてカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵二点も、別に時間をとって見ておきたい。ベルヴェデーレのコレクションに属するもう一つのクリムト作品《ベートーヴェン・フリーズ》は、分離派会館にある。

ゾニヤ・クニップス
ゾニヤ・クニップスグスタフ・クリムト, 1898, ベルヴェデーレ宮殿
フリッツァ・リードラー
フリッツァ・リードラーグスタフ・クリムト, 1906, ベルヴェデーレ宮殿
アッター湖畔のカンマー城 III
アッター湖畔のカンマー城 IIIグスタフ・クリムト, 1910, ベルヴェデーレ宮殿
アッター湖畔の田舎家
アッター湖畔の田舎家グスタフ・クリムト, 1914, ベルヴェデーレ宮殿
ルドルフ・フォン・アルトハーバーと子どもたち(ルドルフ、エミーリエ、グスタフ)
ルドルフ・フォン・アルトハーバーと子どもたち(ルドルフ、エミーリエ、グスタフ)フリードリヒ・フォン・アマーリング, 1837, ベルヴェデーレ宮殿