1878年にアテネで最初の公立の絵画館が開かれたとき、そこには117点の絵があり、その大半は外国の画家の作品だった。国立美術館が設立されたのはようやく1900年4月10日の法律によってで、その翌年、美術館は、絵画の美術館をつくるために財産を遺したアレクサンドロス・スツォスのコレクションを受けとった。1954年、スツォスの遺産財団は美術館と統合され、彼の名は美術館の正式名称の一部になった。
19世紀のギリシャ人はミュンヘンで絵を学んだ。ギリシャ王オソンがバイエルン出身だったからで、その世紀のギリシャの画家は、ほとんど全員がミュンヘンの美術アカデミーを経ている。帰国してアテネで教えた者もいれば、ドイツにとどまり、ギリシャの村を記憶をたよりに描いた者もいた。このリストの最初に来るのは、ヴェネツィアへ渡り、さらにトレドへ移って、故郷に戻らなかったクレタ島の画家である。最後に来るのは、1925年ごろ、夏の暑さのなか、島の家の中庭で描かれた一枚である。
1. エル・グレコ《キリストの埋葬》

1566年12月、若いドメニコス・テオトコプーロスがカンディアで描いた金地のイコン《キリストの受難》が評価され、金貨70ドゥカートで売られた。カンディアは現在のイラクリオンで、当時ヴェネツィア領だったクレタ島の中心の町である。国立美術館が2014年のカタログに書いているところでは、これはヴェネツィアでティツィアーノやティントレットの絵につけられたのとほぼ同じ値段だった。イコンそのものは失われている。まもなく画家はヴェネツィアへ渡り、1570年にローマへ移り、そこからスペインへ向かって、エル・グレコ、つまり「ギリシャ人」と呼ばれるようになった。1614年にトレドで亡くなるまでクレタには一度も戻らず、生涯ギリシャ文字で署名しつづけた。
《キリストの埋葬》もまた、購入されるまで一度もギリシャに来たことがなかった。この板絵の来歴をたどり直したのは、美術館の修復部門の責任者ミハリス・ドゥルゲリディスである。裏面には、1710年にスペイン王から伯爵の位を授かったレデスマ・デ・ラ・フエンテ家の紋章がある。その後、板絵はメキシコのコレクションにあり、19世紀のフランスのコレクターのもとにもあったが、いつどのように持ち主が変わったのかを、ドゥルゲリディスは書いていない。1995年1月、板絵はニューヨークのクリスティーズの競売で売られ、まもなくロンドンの画商デレク・ジョーンズの手に渡った。2000年ごろ、美術館はこれを買いとった。ドゥルゲリディスによれば、価格は70万ドルだった。資金はギリシャ全土での募金、国営企業の拠出、オナシス財団、そして美術館自身の予算から集められた。
美術館はこの板絵を1568〜1570年ごろ、画家のヴェネツィア時代の作としている。美術館によれば、イコン画から残ったのは木の支持体と卵テンペラだけで、そのテンペラにも、彼はヴェネツィアの画家たちにならって油を混ぜた。構図は二枚の版画、パルミジャニーノの《十字架降下》とバッティスタ・フランコの《キリストの埋葬》を組み合わせてつくられている。画家は白い石棺を斜めに、角をこちらへ向けて置き、視線が奥へ導かれるようにした。キリストはその縁に腰かけていて、青白く重たげで、頭は肩に落ち、目は閉じ、左腕は垂れ下がり、裸足の足は地面についている。左では、頭に白い布をかぶった茶色の服の男が、こちらに背を向けてかがみ、屍衣を棺の縁越しに引いている。遺体の後ろ、女たちのあいだでは、灰緑色のヴェールの聖母が頭をのけぞらせていて、美術館は、彼女は気を失いかけていると書いている。石棺の前の地面には、茨の冠と黒ずんだ三本の釘が置かれている。
右側には、ほかの人物から少し離れて、燃えるようなオレンジ色のマントの若者がうつむいて立っている。これは福音書記者ヨハネで、構図のなかにほかの人物より遅れて加わった。美術館の修復家たちが板絵を赤外線で調べたところ、画家は仕事の第一段階を終えてから、はじめてヨハネを描き加えることにしたとわかった。ドゥルゲリディスは、エル・グレコが使ったことの知られている版画のどれにも、この人物はいないと指摘している。

2. エル・グレコ《天使の合奏》
《天使の合奏》は、もとは《受胎告知》の上の部分だった。1608年、エル・グレコはトレドのタベーラ施療院の聖堂の祭壇画の注文を受け、《受胎告知》は右側の脇祭壇のためのものだった。1614年に画家が亡くなったとき、施療院のための絵は未完成のまま残された。カンヴァスはおそらく19世紀末に切り分けられた。聖母と大天使ガブリエルのいる下の部分はマドリードのサンタンデール銀行のコレクションにあり、アテネに来たのはその上の空である。
ハンガリーのコレクターで画商のマルツェル・ネメシュは、20世紀の初めにエル・グレコを再発見し、スペインで彼の絵を買い集めた人々の一人だった。ネメシュは1930年に亡くなり、1931年6月、そのコレクションはミュンヘンの競売にかけられた。ギリシャ国家はそこで、楽器を奏でる天使たちを描いた細長いカンヴァスを590万775ドラクマで買った。美術館はこれを、作家ザハリアス・パパンドニウが美術館を率いていた時期の最も重要な購入としている。
天使たちには翼がなく、美術館はわざわざそのことに触れている。天使たちは暗い灰緑色の空を背に雲の上に立ったり座ったりしていて、美術館は彼らの楽器として、スピネット、ハープ、フルート、ヴィオラ・ダ・ガンバを挙げている。スピネットはおそらく左端でほとんど切れていて、見えるのは暗い色の木の蓋だけで、そこに薔薇色がかった藤色の衣を着た端の天使が手を置いている。その隣では黄緑の衣の巻き毛の天使が、四角い音符の並ぶ楽譜を開いて持ち、中央には背の高いハープがそびえる。その右では銀白色の衣の天使がこちらに背を向けてフルートを口もとへ運び、右端では淡い青の衣の天使が上を見上げてヴィオラを抱えていて、その明るい胴が右下の隅を占めている。衣は長い光の帯で描かれ、一つの襞のなかで、色が薔薇色から白へ、緑から黄へと移り変わる。美術館はこのカンヴァスを未完成と見なしている。下の雲のなかでは小さな裸のプットーたちがもがいていて、カンヴァスの下端は、帯が《受胎告知》から切り離されたその場所で、彼らの上をまっすぐ横切っている。
3. ウジェーヌ・ドラクロワ《ギリシャ独立戦争の一場面》
白いフスタネーラ(襞の多い民族衣装のスカート)をはいたギリシャの蜂起兵が淡いクリーム色の馬で駆けていて、跳びあがった馬は前脚を折り曲げている。騎手は黄色い布を巻きつけた赤い帽子をかぶり、布の端と赤い裏地の緑のマントが背後にはためき、手綱を握る手には銀の柄の小さな武器、おそらくピストルがある。蹄の下、カンヴァスの下端に沿って、白いターバンのトルコ兵がうつぶせに倒れて死んでいる。右では、徒歩のギリシャ兵がこちらに背を向けて立ち、崩れた円い塔のほうへ長い銃を撃っている。塔は白い硝煙に包まれ、そばの地面には二頭の馬が死んで横たわっている。美術館はこの絵を反英雄的で反叙事詩的だと呼び、騎手に理想の化身を見ている。
ドラクロワは1820年代にギリシャを主題とした絵で名を上げた。《キオス島の虐殺》を1824年のサロンに出品し、《ミソロンギの廃墟に立つギリシャ》を1826年に描いた。ギリシャの蜂起は当時、パリの芸術界と社交界で目立つ話題の一つになっていた。ドラクロワ自身はついにギリシャを訪れなかった。このカンヴァスを彼が描いたのは1856年、戦争から30年後で、すでに名声の定まった巨匠になっていた。同じ年に彼は、ギリシャの騎手と降伏するトルコ兵を描いたよく似た絵も描いていて、そちらはハーヴァード大学の美術館にある。右下の隅には、ラテン文字の署名と1856年の日付がある。
1978年、この絵はパリの競売に現れ、ギリシャ国家が船主のヴァシリス・グランドリスとスタヴロス・ニアルコスの協力を得て購入した。ギリシャの公共放送は当時、価格はおよそ370万フランで、競り合った相手のなかには俳優のアラン・ドロンもいたと伝えた。
4. イワン・アイヴァゾフスキー《トルコの旗艦に火を放つカナリス》
1822年の春、トルコ軍はキオス島で虐殺を行った。二年後にドラクロワが描いた、あの虐殺である。6月、トルコ艦隊は島の沖に停泊して、ラマダン明けの祭りバイラムを祝っていた。6月18日から19日にかけての夜、そこへギリシャの火船が二隻近づいた。燃えやすいものを詰めこんだ船である。プサラ島出身のコンスタンティノス・カナリスは、自分の火船を、オスマン艦隊の司令長官カプダン・パシャ、ナスフザーデ・アリ・パシャの旗艦に結びつけて火を放ち、小舟で離れた。火は火薬庫に達し、旗艦は爆発した。ふつうの数え方では死者はおよそ2000人で、カプダン・パシャは致命傷を負い、岸で息を引きとった。カナリスはのちに提督になり、何度か首相を務めて、1877年に亡くなった。
アイヴァゾフスキーがこの夜を描いたのは1881年、59年後のことである。1822年、彼は五歳で、フェオドシヤに住んでいた。空も海も岩も冷たい青紫色で、中央の左で黄色がかったオレンジ色の炎だけが燃えている。赤い旗を掲げた三本マストの船は艫をこちらに向け、炎は木片とともに船首から噴きだし、火の粉は帆桁より高く舞いあがり、左上の隅は黒煙に覆われている。右では、カンヴァスの端で切られながら、六人ほどを乗せた小舟が遠ざかっていく。一人が白いシャツに赤い帯を締めて立ち、上の炎を見上げていて、火から小舟まで、水面に金色の光の道がのびている。視点は低く、漕ぎ手の高さにとられている。
美術館の記録では、この絵は工科学校からの寄贈とされている。工科学校には1841年から国の所有する絵が集められていて、アイヴァゾフスキーのカンヴァスはおそらく、1900年に工科学校がそれらの絵を新しい美術館に引き渡したときに美術館に入ったのだろう。絵がどうやって工科学校に来たのかは、研究者にもわかっていない。1900年にアイヴァゾフスキーがフェオドシヤで亡くなったとき、イーゼルには未完成の《船の爆発》がのっていて、そこでもカナリスがキオス島の沖でトルコの旗艦を爆破している。
5. テオドロス・ヴリザキス《ミソロンギの脱出》

テオドロス・ヴリザキスの父ペトロスは、蜂起の最初の年の1821年に、トルコ人の手で絞首刑にされた。美術館は画家の経歴を、彼を独立戦争の孤児と呼ぶところから書きはじめている。少年時代、彼はアイギナ島の孤児院で暮らし、1832年、バイエルン王ルートヴィヒ1世が創設したギリシャ人孤児のための学校に入るためにミュンヘンへ連れていかれ、1844年にミュンヘン美術アカデミーに入学した。生年について美術館は二通りを挙げていて、1814年か1819年である。ヴリザキスは戦争のほとんどすべてをバイエルンで描いた。たよりにしたのは記憶と版画、そして1848〜1851年にギリシャで描いた習作だった。
トルコ軍とエジプト軍は、ミソロンギをまる一年包囲していた。1826年の春には町に飢えが広がり、枝の主日の前夜にあたる4月22日から23日にかけての夜、守備隊は住民とともに包囲を突破しようと打って出た。トルコ側は計画を前もって知っていて、多くの人が町を出たところで命を落とした。
ヴリザキスが《脱出》をミュンヘンで描いたのは1853年で、上部が丸い縦長のカンヴァスを、天上と地上の二つの領域に分けた。上では雲の上の玉座にキリストが座って両腕を大きく広げ、そのまわりに月桂冠や棕櫚の枝を持った天使たちがいる。下では戦士たちが木の橋を渡って突撃していて、白いフスタネーラの指揮官が反った剣を振りあげ、その頭上には青い十字の白い旗がひるがえる。男たちのなかでは、赤いフェズ帽の若い女が銃を構えている。右では、ナイフを口にくわえた男が壁を乗り越えながら、竿の先に三日月のついた赤い旗をつかんでいて、橋の下には倒れた女や子どもたちが横たわり、一人の母親が赤ん坊を抱きしめている。美術館は、構図は奥行きをもたずに縦方向へ展開していて、組み立てはイコンに似ていると書いている。美術館によれば、この絵は1853年にウィーンで一等賞を受けた。
ヴリザキスはこの主題を三度描き、残ったのはこのカンヴァスだけである。彼の作品の研究者カテリナ・スペツィエリ=ベスキによれば、この絵はバイエルン王ルートヴィヒ1世が買い、その後ミュンヘンのコレクションを離れて個人の手を経て、ローマのギリシャ大使館に行き着いた。1977年、スペツィエリ=ベスキはそこでこの絵を見つけた。いつ、どのようにして美術館に引き渡されたのかは、記録に見つかっていない。
彼女によれば、ほかの二つの版は1929年、ミソロンギの市庁舎が放火されたときに焼けた。それでも図柄は残った。1856年に、この絵をもとにパリでリトグラフがつくられていたからである。火事のあと、23歳のアンゲロス・カソラスがそのリトグラフからミソロンギのために模写を描き、この模写は脱出の聖なるイコンとして、毎年、十字行で町じゅうを運ばれる。

6. ニキフォロス・リトラス《セルピエリ夫人の肖像》

クレマンス・セルピエリは、高さ二メートル半近いカンヴァスに、等身大の全身像で立っている。1869年のこの肖像は、リトラスの作品のなかで最も格式の高いものである。彼女は肩をあらわにした暗いワイン色のビロードのドレスを着ていて、裳裾は左下の隅へ流れ落ち、光の当たったスカートの襞は鮮やかな赤に燃え、残りのビロードはほとんど黒い。腕には黒いレースのショールがかかり、髪には宝石をちりばめた三つの小さな星、首には二連の真珠、下ろした右手には半ば開いた扇がある。左には、正式の肖像画の決まりどおり、溝彫りのある巨大な円柱がそびえ、裾のそばの東洋の絨毯の上には、白い薔薇が一輪落ちている。彼女はまっすぐこちらを見ていて、落ち着いていて、微笑んではいない。
彼女の夫ジョヴァンニ・バッティスタ・セルピエリはイタリア人の冶金技師で、1864年、マルセイユの共同出資者たちとともに、アテネの南のラヴリオで銀と鉛を採る会社を興した。会社がおもに行っていたのは、古代の鉱山の鉱滓を精錬しなおすことだった。セルピエリはアテネのパネピスティミウ通りに邸宅をもっていて、このイタリア人と、フランス風の名をもつその妻は、リトラスが描いた新しいアテネ社交界の上層に属していた。
ニキフォロス・リトラスは1832年にティノス島のピルゴスで生まれ、アテネの美術学校で学んだのち、1860年にミュンヘンへ渡り、美術アカデミーでカール・フォン・ピロティに師事した。1865年にアテネへ戻ると、1866年から同じ美術学校で絵画を教え、1904年に亡くなるまで、40年近くその職にあった。美術館は彼を近代ギリシャ絵画の父と呼んでいる。彼の教え子には、このあと登場するアルタムーラスとヤコビディスがいて、やはり画家になった息子のニコスは、このリストの最後の絵を描いた。
美術館の記録には、セルピエリ家の一人、イオアニス・セルピエリの寄贈とある。2011年、肖像は美術館のコレクションに眠る知られざる名品の展覧会に出品され、館長マリナ・ランブラキ=プラカはこれを展覧会の中心となる一枚に選んだ。雑誌『ライフォ』によれば、肖像の金箔の額縁は国外に注文されたもので、あまりに重いので、絵を掛けるのに八人がかりだった。

7. イオアニス・アルタムーラス《スペツェス島のカイキ船》
この小さな絵の右下の隅に、イオアニス・アルタムーラスはギリシャ語で場所と日付を書きこんだ。スペツェス、1877年6月16日である。中央にいるのは横帆を張った帆船だが、ギリシャ語のカイキは、仕事に使う帆船ならどれでも指す言葉だった。帆はどれも、風のないときのように皺だらけでたるんで垂れ下がり、いちばん下の大きな帆だけが、温かいクリーム色がかった黄土色の光に照らされている。海は平らで青白く、船べりでは暗い色の小舟に二人が乗っていて、白いシャツの一人が櫂を漕いでいる。船尾の後ろの水面には空のボートが浮かび、空の薄い絵の具の層からは、カンヴァスの織り目が透けて見える。右端の、上から三分の一のあたりには、空の上に小さな不透明のオリーブがかった黄土色の四角形がのっている。描かれた情景とは関係がなく、後世の補彩か、埋められた欠損のように見える。
アルタムーラスは1852年にイタリアで生まれた。父はナポリの画家フランチェスコ・サヴェリオ・アルタムーラ、母はスペツェス島の船主の一族出身のギリシャ人エレニ・ブクラである。両親は別れ、1857年ごろ、母は子どもたちを連れてアテネに移った。1871〜1872年、彼はニキフォロス・リトラスのクラスで学び、1873〜1876年には王の奨学金を得て、コペンハーゲンの王立美術アカデミーで海景画家カール・フレデリク・セーレンセンに学んだ(ベナキ美術館によれば、奨学金を出したのは、自身デンマークの王子だったゲオルギオス1世である)。1876年、結核を患って帰国したアルタムーラスは、母の故郷のスペツェス島に住み、そこで船を描いた。彼がスペツェスで亡くなったのは1878年、26歳のときだった。
母のエレニ・ブクラ=アルタムーラは、アカデミックな教育を受けた最初のギリシャ人女性画家と呼ばれ、彼女自身がほとんど伝説の人物になった。イタリアでは女性は絵を学ぶことを許されなかったので、学ぶために髪を切り、男のふりをしたと語られている。この話をとりわけ広めたのは、1998年に出たレア・ガラナキの小説『エレニ、あるいは誰でもない者』だった。2011年にベナキ美術館で開かれた展覧会では、修道服に似た服を着て、髪を短く切り、結婚指輪をはめた彼女の自画像が展示された。娘のソフィアは1872年に、息子は1878年に亡くなり、別の言い伝えでは、二人の死のあと、エレニは自分の絵を焼いたという。その展覧会の学芸員エレニ・キプレウは別の考えで、1900年にエレニが亡くなったあと、スペツェスの家を片づけた親族が絵と書類を焼いたと見ている。

8. コンスタンティノス・ヴォラナキス《網を引き揚げる》
国立美術館の館長を務めたマリナ・ランブラキ=プラカは雑誌『ライフォ』に、2002年に美術館がこの絵を有利な値段で買ったと語っている。ヴォラナキスの絵を買うのはたいていギリシャの船主たちで、彼女によれば、船主たちは船の絵を好み、古い小舟に乗った漁師たちにはあまり関心を示さないという。
小舟は中央より右にあり、重たげで使い古され、ほとんど黒いシルエットに見える。光が絵の奥から、海の上で夜が明けはじめた水平線のほうから来ているからだ。小舟には五人が乗っている。腕をむき出しにした漁師が網のほうへかがみ、もう一人は低く身を伏せていて、頭と背中しか見えない。ただ一人立っている男はつばの広い帽子をかぶり、その頭は水平線より少し上に来ている。四人目は船べりから身を乗りだして網を引き、船尾には帽子をかぶった小柄な男が、青いガラスの水差しの向こうに座っている。船べりからは濡れた網が垂れ、船尾の上には破れた帆をつけた帆桁が斜め上に突き出していて、絵のなかにこれより強い対角線はない。左手の離れたところには横帆の船が立ち、雲は真珠のような灰色とクリーム色で、水平線のあたりでは淡い黄色になる。左下の隅にはラテン文字の署名があり、ミュンヘンの地名と71という数字が添えられている。つまりこの絵は1871年、どの海からも遠いミュンヘンで描かれた。
ヴォラナキスは1837年にクレタ島のイラクリオンで生まれ、若いころはトリエステで、義兄ゲオルギオス・アフェンドゥリスの商会の帳簿係をしていた。ギリシャの新聞は、アフェンドゥリスが帳簿のなかに描かれた船を見つけ、それから彼の修業の費用を出したという話を伝えている。1864年、ヴォラナキスはミュンヘン美術アカデミーに入ってピロティに学び、数年後には、リッサ海戦を描く絵のオーストリアのコンクールで勝ち、その絵は皇帝フランツ・ヨーゼフが買いあげた。美術館は《網を引き揚げる》を、ギリシャ絵画で最初に印象派へ踏みだした試みの一つに数え、彼の作品のなかで最も自由な絵の一つと見なしている。ヴォラナキスがギリシャに戻ったのはようやく1883年のことで、ピレウスに住み、1895年にそこで自分の画塾を開いた。
9. ニコラオス・ギジス《子どもたちの婚約》
黒い法衣の村の司祭は、もう男の子に指輪をはめていて、美術館の説明では、女の子が自分の指輪を受けとれるように、開いた手のひらを彼女のほうへ差しだしている。赤い上着に白いだぶだぶのズボンの男の子は、胸に押し当てた手を戸惑ったように見つめ、小さな帽子をかぶった白ずくめの女の子は目を伏せて、小卓の上の開いた本に手をのばしている。子どもたちは天井の低い村の部屋のまんなかに立ち、大人たちは彼らを半円に囲んで、座ったり立ったりしている。右では口ひげの男が丸い瓢箪の水筒を持って大笑いしていて、美術館によれば、なかには乾杯のためのワインが入っている。左の男たちは目くばせしてにやにや笑い、戸口には白いスカーフの女たちが群がり、左下の隅では、刺繍の袖なし胴着を着た若い女が、赤ん坊の眠る揺りかごにかがみこんでいる。
美術館はこの風習をこう説明している。子どもたちが早くに婚約させられたのは、おそらくデヴシルメから守るためだった。デヴシルメとは、オスマン帝国の当局がキリスト教徒の男の子を連れ去り、イェニチェリや役人に育てあげた徴用のことである。
ニコラオス・ギジスは1842年にティノス島のスクラヴォホリ村で生まれ、八歳で家族とともにアテネに移り、美術学校で学んだ。1865年、ティノス島の主要な巡礼聖堂であるエヴァンゲリストリア聖堂の基金から奨学金を得てミュンヘンへ渡り、1868年からピロティに学んだ。1872年にギジスはギリシャに戻って二年を過ごし、1873年には、美術館が彼の友人であり同郷人であり師であると呼ぶニキフォロス・リトラスとともに、東方、小アジアを旅した。1874年に彼はミュンヘンに腰を落ち着け、そこでアカデミーの教授になり、二度とギリシャに戻らなかった。《子どもたちの婚約》は1877年、ミュンヘンのアトリエで、記憶とその旅の素描をもとに描かれた。美術館によれば、この絵には二つの版があり、どちらも賞を受けている。

光は左の奥まった白い窓から部屋に射しこみ、絵のなかで最も明るいのは女の子の服と刺繍のテーブル掛けである。右下の隅に、ギジスは縞柄や赤や金色の布、銅の鍋、錫の皿、赤いフェズ帽を山のように積みあげた。美術館はこの山を、光る銅から絹まで、さまざまな質感を見せたいという画家の望みで説明している。
10. ニコラオス・ギジス《見よ、新郎が来る》

正教会では聖週間の最初の数日に、見よ、新郎が夜半に来る、と始まる聖歌が歌われ、その言葉は福音書の十人のおとめのたとえにさかのぼる。ギジスはこの聖歌の名を、1899〜1900年にミュンヘンで描いた最後の大作につけた。美術館によれば、主題はヨハネの黙示録に描かれたキリストの再臨であり、美術館が引用する手紙のなかで、ギジスは自分のキリストを、世界に光と救いと慰めをもたらす甘美な神と呼んでいる。
カンヴァスは正方形で、高さも幅も二メートルあり、すべてが垂直の軸を中心に組み立てられている。青みがかった黒い二本の太い帯のあいだに赤橙色の領域が立ちのぼり、その中心で、金の光輪をつけた小さな、ほとんど白いキリストが玉座に座っている。そのまわりには赤やオレンジの雲が丸天井のように弧を描いて広がり、上には両手を上げた翼のある人物が浮かび、両脇には天使たちが立っていて、二人がラッパを持っているのがはっきり見える。下からは、細い金の線を引いた幅の広い淡い青の階段が玉座へと上っている。段には誰もおらず、その両側には金の光輪をつけた小さな人々がひざまずいてひしめいている。多くの人物は薄い絵の具の層の上に輪郭線で描かれているだけで、そこからカンヴァスが透けて見える。
ギジスはずっと前からこの構図を考えていて、1894年の手紙ですでに、《見よ、新郎が来る》の楽園に触れ、それを描きあげる力が自分にあればと願っている。1900年、絵はミュンヘンで展示された。これはギジスが完成させられなかった大きな宗教画の連作の一部で、研究者スピロス・ペトリタキスによれば、《サタンの墜落》を描くはずだった下の部分を、彼はついに描かなかった。ギジスは1901年1月にミュンヘンで亡くなった。同じペトリタキスは、1910年にミュンヘンで哲学者ルドルフ・シュタイナーが、この絵だけを主題にした講演を一回まるごと行ったと書いている。
11. ヤコヴォス・リゾス《テラスにて》
大理石のテラスで、一人の将校が暗い色の椅子に横向きに座り、脚を組んでいる。立ち襟の黒い上着に、太い深紅の側章の入った青いズボン、拍車のついた長靴という姿である。手のひらを開いた右手を話の途中で上げ、下ろした左手には小さな赤い本を持って、指をページにはさんでいる。美術館は彼を美男の騎兵将校と呼んでいる。批評家フリストフォロス・マリノスは2023年、雑誌『ライフォ』で彼の襟の徽章、燃える榴弾と三つの星を読み解き、砲兵の大佐だと結論した。絵が描かれたのは1897年、ギリシャがトルコとの戦争に一か月で敗れた年で、マリノスはこの絵を、その戦争の影のなかの情景、敗戦の年に将校が婦人たちに囲まれてくつろぐ場面として見ている。
そばには二人の若い女性がいる。膨らんだ袖の白いブラウスの女性は両手で欄干にもたれ、ピンクのドレスの女性は曲木の肘掛け椅子に身をあずけて、足を小さな台にのせている。マリノスは二人の顔がよく似ていることに気づき、リゾスのために一人のモデルがポーズをとったのかもしれないと考えている。右には螺鈿をはめこんだ小卓があり、ロゼワインの入ったデカンタとグラスが三つのっていて、左の遠くには木々の上にアクロポリスがそびえ、夕方の光に薔薇色に染まっている。美術館は、ここはアクロポリスの下の古い地区プラカにある新古典様式の家のテラスだとしているが、マリノスは、この眺めは想像で描かれたものだと考えている。
マリノスによれば、リゾスは1875年からパリに住んでいて、この絵のアテネを記憶と写真のアルバムから組み立てた。彼はアレクサンドル・カバネルに学び、客間や庭園の優雅な婦人たちを描いた。署名は左下の床のタイルの上にあり、ラテン文字の名に97という数字が添えられている。1900年のパリ万国博覧会でこの絵は銀メダルを受け、のちに画家はこれを美術館に寄贈した。2021年、ルーヴル美術館は展覧会「パリ=アテネ 近代ギリシャの誕生 1675〜1919」のポスターにこの絵を使った。
12. テオドロス・ラリス《戦利品》

テオドロス・ラリスがこの主題を初めて描いたのは1885年で、個人のコレクションにあるその絵では、捕らわれたギリシャの娘が、トルコ兵と略奪品のなかにおとなしく立っている。1906年のパリのサロンのために、彼は場面を描きなおし、兵士たちを消した。荒らされた正教会の聖堂に、娘はひとり裸足で立っている。ブラウスは腰まで裂け、両手は背中で縛られていて、眉を寄せ、口を少し開いて、まっすぐこちらを見ている。頭には金貨を一列に縫いつけた白いスカーフをかぶり、肩には三つ編みが垂れ、腰には幅の広い赤い帯を締めている。
ラリスは1852年にコンスタンティノープルで、キオス島出身の商人の家に生まれ、しばらくロンドンの一族の会社で働いたのちパリへ移り、ジャン=レオン・ジェロームに学んだ。1875年からは毎年サロンに出品し、1904年までは冬をカイロで過ごして、ハーレムや捕らわれの女やギリシャの聖堂を描き、パリの人々に東方を売った。彼は1909年にローザンヌで亡くなった。サロンのカタログでは、《戦利品》にフランス語の詩が添えられていた。鎖につながれたギリシャの娘は戦利品のなかで涙を流さず、トルコの勝者に挑み、兄弟たちの仇を討つだろう、という詩である。この絵は実業家で収集家のエヴリピディス・クトリディスの財団のもので、美術館は長期の取り決めにより、財団のコレクションを自館のコレクションとともに展示している。
聖堂の床には祭具が投げだされている。銀や金めっきの杯、燭台、吊り灯明があり、祭壇の段を横切るように、倒れた金めっきの大燭台が横たわっている。天井からは空の鎖が三本垂れていて、フリストフォロス・マリノスは、そこに灯明が吊るされていたと指摘している。洗礼者ヨハネのイコンの下には、顔の部分がくり抜かれた打ち出しの銀のイコンの覆いが立てかけてある。右下には赤い小口の本が開かれ、その横の床には白い蝋燭が落ちていて、くすぶる先から細い煙が立ちのぼっている。

13. ゲオルギオス・ヤコビディス《子供の音楽会》
裸足の男の子が四人、村の部屋で楽隊をつくっている。一人はこちらに背を向けて椅子にまたがり、太鼓のばちを持っている。赤毛の子は体をそらして真鍮のラッパを吹き、その後ろの小さな子は両手を口に当てている。四人目のぼろを着た子は離れて立ち、真鍮のじょうろの長い注ぎ口を吹いている。美術館によれば、本物の楽器が彼には回ってこなかったからである。聞いているのは、ベンチで赤い服の幼い女の子を抱いている若い母親と、テーブルについた金髪の姉で、幼い子は楽隊のほうへ両手をのばしている。美術館はこの部屋をバイエルンの農家としている。
光は二方向から、緑に覆われた左の窓と中央の奥まった窓から射し、部屋全体が青い影を帯びたオレンジ色に満たされている。太鼓の男の子の白いシャツは、光を通して輝いている。美術館はこの絵をヤコビディスの最も大胆な作品の一つと見なし、ここで彼は印象派に近づいたと書いている。この主題を彼は二度描いた。初期の冷たい色調の版は1890年代に、1896年のアテネをはじめいくつかの場所で展示され、記述から判断すると、そこでは祖母が耳をふさぎながら子どもたちの演奏を聞いていた。明るい版は1900年のパリ万国博覧会のために描かれ、そこで金メダルを受けた。
ヤコビディスは1853年にレスボス島で生まれ、アテネでニキフォロス・リトラスに学び、1877年からはミュンヘン美術アカデミーで学んで、20年以上ミュンヘンで暮らした。パリでメダルを受けた1900年、ギリシャ政府は、設立されたばかりの国立美術館の体制を整えさせるため、彼を祖国に呼び戻した。彼の職名はエフォロス、つまり管理者で、1900年7月28日、工科学校とアテネ大学は彼に258点の作品を引き渡し、美術館はそこから始まった。この絵の右下の床板に、彼はギリシャ文字の大文字で名の頭文字と姓、それに年を書き入れたが、姓の最初の文字は、ラテン文字のJに似た形に書いている。ミュンヘンでは、彼はラテン文字でヤコビデスと署名していた。
14. コンスタンティノス・マレアス《デルフォイ》
マレアスが《デルフォイ》を描いたのは1922〜1923年で、彼は山と谷と水を上から見下ろしている。左では灰青色と薄紫の斜面が対角線を描いて下り、そこに暗い青緑の浸食の溝が刻まれている。谷底を一つの大きな濃い緑の色面が占め、その上を左下の隅から細い明るい線が蛇行してのぼっていく。道とも川床ともつかない線である。その上には淡い青の水が二本の帯となって横たわり、その向こうに砂のような黄色やピンクの山々が、正面から光を受けて、ほとんど影もなく並んでいる。絵のなかで最も明るいのは遠くの山々で、手前の斜面と谷は冷たい灰色と濃い緑である。絵の具は薄く、乾いた筆で置かれていて、カンヴァスの織り目が透けて見え、形は輪郭の柔らかい平らな色面にまで単純化されている。左下には、錆びたような赤い色のギリシャ文字で、名の頭文字と姓が署名されている。
コンスタンティノス・マレアスは、1879年に生まれた町コンスタンティノープルで、まず建築家としての教育を受け、絵画は1901〜1908年にパリで、装飾美術学校と新印象派の画家アンリ・マルタンのもとで学んだ。1913〜1917年にはテッサロニキで市の技師を務め、彼の絵の多くは1917年の大火でそこで焼けた。同じ年、彼は「芸術」グループの創設者の一人になった。アカデミックな絵画にともに立ち向かうために、ニコス・リトラスが集めたグループである。
美術館はマレアスを、画家コンスタンティノス・パルテニスと並べて、ギリシャのモダニズムの創始者に数えている。彼は、ミュンヘン派の褐色の明暗法を使わずに、ギリシャの風景を純粋な色の平面で描いた最初の画家の一人で、1923年には文学・芸術賞を受けた。1919年、「芸術」グループはパリで展覧会を開き、ギリシャ首相エレフテリオス・ヴェニゼロスが開会を告げ、マレアスとパルテニスはそれぞれ30点ほどの絵を出品した。
15. ニコス・リトラス《麦わら帽子》

美術館はこの絵の説明で、日焼けした女の子と書き、すぐに、これは女の子なのだからと念を押している。短い黒髪で額に前髪がかかった子どもが、落ち着いて、微笑まずにこちらを見ていて、その顔は男の子と見まちがえそうだ。顔は日焼けで黒く、鼻の線で二つに分かれていて、半分は濃い茶色の影に、もう半分は温かいオレンジ色の光のなかにある。オリーブ色と黄緑色の麦わらでできたつばの広い帽子が円盤のように頭を囲み、女の子はゆったりした灰青色のシャツを着ていて、深い襟ぐりに小さな藤色のリボンがついている。
冷たい色をリトラスは下に、暖かい色を上に集めた。灰青色と藤色はシャツから背後の白く塗られた壁へと移り、その上には乾いた草が金色とオレンジ色の幅広い帯となって横たわっていて、その黄色が帽子の麦わらへとつながる。絵の上部は島の家々の白い立方体がふさいでいる。リトラスは空も海も残さなかったので、美術館は閉ざされた地平線について書いている。絵の具は厚く、筆触は幅広く、筆がどの方向へ、どれほどの速さで動いたかが見てとれる。美術館はこの絵を、エーゲ海の島のギリシャの夏を表す表意文字と呼び、画家の一族の出身地ティノス島かもしれないと書いている。
ニコス・リトラスは、《セルピエリ夫人の肖像》を描いたニキフォロス・リトラスの息子で、1883年にアテネで生まれ、美術学校で父とゲオルギオス・ヤコビディスに学んだ。1907年からは、かつての父と同じくミュンヘン美術アカデミーで学んだが、そこで彼が出会ったのは、すでにドイツ表現主義と「青騎士」の画家たちだった。彼は1912〜1913年のバルカン戦争に従軍し、1917年には「芸術」グループの発起人となり、1923年には美術学校の絵画の教授に選ばれた。その選挙で彼はパルテニスを破った。《麦わら帽子》を描いたのは1925年ごろである。ニコス・リトラスは1927年12月、44歳で亡くなった。

ほかに見ておきたい作品
ニキフォロス・リトラスでは《プサラの哀歌》(1888年)、ヴリザキスでは《ミソロンギでのバイロン卿の歓迎》(1861年)を見ておきたい。ギジスには、ギリシャの情景のほかに、ミュンヘンで描いた寓意画《芸術とその精霊たち》と《春の交響曲》がある。ミュンヘン派より前の時代のものとしては、コレクションにポスト・ビザンティンのイコンがあり、そのなかには15世紀後半に描かれたアンドレアス・パヴィアスの《キリストの磔刑》がある。20世紀を代表するのは、コンスタンティノス・パルテニスの《アタナシオス・ディアコスの神格化》(1930〜1933年)と、ニコス・ハジキリアコス=ギカの《アトリエ》(1960年)である。ピート・モンドリアンの《スタンメル風車と夏の家》は2012年、ピカソの《女の頭部》とともに美術館から盗まれ、2021年にケラテア近くの峡谷で見つかった。

















































