ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869〜1939)はドイツに生まれ、オランダの海運・貿易界の大立者アントン・クレラーと結婚した。1907年、彼女は「実用美学」の教師ヘンク・ブレメルのもとで学びはじめた。ブレメルは、芸術は写実主義から理想主義へ、目に見えるものから精神的なものへと向かうと教え、その転換を体現する画家をファン・ゴッホだと考えていた。1908年からおよそ1929年まで、ヘレーネは彼の助言にしたがって、ときにはその助言に逆らって絵を買った。1935年に彼女はコレクションを国に譲ると申し出て、1938年、ホーヘ・フェルウェの公園に、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの設計による美術館が開館した。この建物は仮の美術館として建てられた。彼女のために最初は建築家ベルラーヘが、のちにはヴァン・デ・ヴェルデ自身が設計した大美術館が、ついに建てられなかったからである。美術館にはファン・ゴッホの絵画88点と紙の作品172点があり、ファン・ゴッホのコレクションとしては世界で二番目の規模をもつ。

ヘレーネは1939年12月14日、聖フーベルトゥス狩猟館で亡くなった。翌日、霊柩車が彼女を美術館へ運び、そのあとをアントン、息子のボブ、サム・ファン・デーフェンテル、そして彼女の付き添いの看護婦が歩いてついていった。ヘレーネは愛したファン・ゴッホの絵のあいだ、《四本の枯れたひまわり》のすぐ前に安置された。コレクションを始めた最初の年、1908年に彼女が買ったパリ時代のカンヴァスである。さらにその翌日、彼女はフランセ・ベルフの丘のふもと、この場所に構想されていた大美術館の土台のそばに葬られ、墓石には彼女の言葉「私は起こるすべてのことの完全さを信じる」が刻まれた。
この記事で取り上げる作品の大半は、ヘレーネ自身が買ったものである。残りは彼女の死後、彼女が遺した規則にしたがって美術館が手に入れた。はじめに取り上げるのは彼女が110ギルダーで買った暗い習作、最後は彫刻家が命を奪われてから18年後に鋳造されたブロンズである。
コレクションの始まり
1. フィンセント・ファン・ゴッホ《森の端》(1883年)
1883年7月の終わり、フィンセント・ファン・ゴッホはハーグで野外用のイーゼルを買い、弟テオに、これがあれば戸外でひざまずいて描くときほど汚れずにすむと書いた。美術館は、《森の端》の視点がやや高く、木々のあいだの小道や地面が少し上から見えることを、この買い物と結びつけている。9月のはじめ、フィンセントはテオに、カンヴァスにしようと買った布の話を書いた。彼はその布を、当時一緒に暮らしていた女性シーン・ホールニクに渡し、痩せた子どもたちのチョッキを縫わせたのだという。美術館は、この習作がまさにその布の切れ端に描かれた可能性があると見ている。それから数日後、フィンセントはシーンと別れ、ハーグを離れてドレンテ州へ移った。
画面の左側は、褐色がかった緑や暗い色の、高くまっすぐな幹の列でびっしりと埋まり、その梢は上端で断ち切られている。中央へ向かうにつれて幹はまばらになり、あいだから淡い空がのぞく。右には、灰色がかった薄紫の曇り空を背に、波打つような梢をもつ細い若木が二本立っている。画面全体を横切って、ほとんど黒に近い低い下生えの帯がのびていて、これが森の端にあたる。ばら色がかったベージュの砂の小道が左から入りこみ、下へ曲がりながら下端に沿って広がっていく。根のあいだには錆びた赤の土の斑点があり、右下には鮮やかで平らな緑の草の帯が見え、光は夕暮れどきのように一様にくすんでいる。

1908年、ヘレーネ・クレラー=ミュラーはブレメルの勧めにしたがい、この習作を競売で110ギルダーで買った。それが彼女にとって最初のファン・ゴッホで、彼がおびただしく描いては売らずにいた、戸外で描いた小さな暗い習作の一つだった。
古いカタログでは、《森の端》は1882年8月の作とされていた。美術館は手紙に出てくるイーゼルと布を根拠に、制作時期を一年後の1883年8月から9月へ移した。
2. フィンセント・ファン・ゴッホ《四本の枯れたひまわり》(1887年)
切り取られた四輪の大きなひまわりが、色のついた背景の上にじかに、カンヴァスを横切って一列に横たわっている。美術館はこの空間を、奇妙で見定めがたいものと呼んでいる。いちばん左の花は横向きに倒れ、黄土色の花びらを縁飾りのようにつけた緑褐色の裏側を見せている。中央の二輪は種の詰まった暗い花盤をこちらへ向け、いちばん右の花は裏返しになっていて、淡い麦わら色の萼のロゼットと、そのまんなかの切られた茎が見える。ほかにも切られた茎が何本か、丸く明るい切り口をまっすぐこちらへ向けている。花はもう盛りを過ぎ、花びらはほつれていて、くすんだ黄土色、オリーブ色、麦わら色で描かれ、オレンジは花びらの先にしか残っていない。
ファン・ゴッホがこの絵を描いたのは1887年の夏の終わりか秋、パリのルピック通りでテオと暮らしていたころである。その一年前、彼は画家ホレス・マン・リヴェンスに、花を色彩の習作の連作として描いていて、青とオレンジ、赤と緑、黄と紫の対比を探り、灰色の調和を抜け出して強烈な色を得たいのだと書き送っていた。この絵では花の上に、暗い青と青緑の筆触の帯が走り、そこに細かなオレンジがかった赤の線が散っている。左下の隅では、白っぽい緑の地に鮮やかなオレンジでハッチングが引かれている。

ヘレーネがこのひまわりの絵を買ったのは1908年、《森の端》から数か月後のことで、これが彼女の二点目のファン・ゴッホになった。
同じ夏、ファン・ゴッホは切り取られたひまわりを二輪ずつ描いた小さなカンヴァスを二点描いている。1887年の終わりか1888年のはじめ、ポール・ゴーギャンが自分の絵と交換に二点とも引き取り、ベッドの上に掛けた。
3. フィンセント・ファン・ゴッホ《馬鈴薯を食べる人々》(1885年)
1942年、デルフトのコレクターで工場の経営者だったフーゴ・テュテイン・ノルテニウスは、《馬鈴薯を食べる人々》を美術館に売らないかとブレメルから持ちかけられた。ブレメルはこの絵をコレクションにとってきわめて重要な補いになると言い、美術館は彼に7000ギルダーまで出すことを認めたが、テュテイン・ノルテニウスは断った。彼は1944年12月に亡くなり、その死後、絵はハーグの画商ヘルマン・ダウドレッチの手に渡った。1946年4月、美術館はこの絵を彼との交換で手に入れた。代わりに差し出したのは、ヘレーネ自身が買っていたサン=レミ時代の晩年のファン・ゴッホ《散歩する男女と三日月のある風景》で、さらに2500ギルダーを上乗せした。美術館の館長ウィリー・アウピングは、《馬鈴薯を食べる人々》をオランダ時代のファン・ゴッホ作品のコレクションの頂点と呼んだ。
オッテルローにあるのは、アムステルダムの絵に先立って描かれた大きな油彩習作である。1885年の春、ヌエネンでファン・ゴッホはまず四人の人物を描いた小さな油彩スケッチを描き、これはファン・ゴッホ美術館にある。次に、完成作とほぼ同じ大きさのこの二点目の習作を描き、そのあとでようやく完成作に取りかかった。完成作もアムステルダムにある。モデルになったのはデ・フロート=ファン・ローイ家の人々で、ファン・ゴッホはこの習作を彼らの家で描いた。4月9日、彼はテオに、じゃがいもの皿を囲む農民たちにまた取り組んでいる、いま彼らのところから戻ったばかりで、今回は昼の光のなかで描きはじめたが、ランプの明かりのもとでも描きつづけたと書いている。完成作は、習作と記憶をもとにアトリエで描かれた。
五人が竿から吊るしたランプの下でテーブルを囲み、絵全体が深い緑、青緑、緑がかった黄土色で描かれている。顔はすばやい筆触をいくつか置いて示されている。まんなかには小さな人物が背を向けて座り、明るいテーブルクロスを背にほとんど黒いシルエットになっている。テーブルについた年配の男は開いた手のひらにカップをのせ、右の女は金属のポットから注いでいる。左の壁には丸い時計が掛かり、右上にはスプーン二本とフォーク二本を差した掛け具がある。
2021年、ファン・ゴッホ美術館は《馬鈴薯を食べる人々》の制作過程をたどる展覧会を開き、小さなスケッチと鉛筆の素描を展示した。オッテルローの習作は、この展覧会には貸し出されなかった。美術紙『アート・ニュースペーパー』によれば、この習作はオッテルローで最も人気のある絵の一つで、来館者はそこでこの絵を見られるものと思っている。
ファン・ゴッホ、目に見えるものから意味へ

4. フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》(1888年)
1888年9月30日、アルルの新聞『ラ・クロニーク・アルティスティーク・エ・ミュジカル』は読者に、印象派の画家ヴァンサン氏が、聞くところによれば、町の広場の一つでガス灯の明かりを頼りに夜に制作していると伝えた。広場はフォーラム広場といい、そこを描いた絵を、ファン・ゴッホはそのころもう仕上げていた。9月の半ば、彼は妹ヴィルに、夜にその場で描くのがたまらなく好きだと書いている。昔は夜に素描をして、その素描をもとに昼に絵を描いたものだが、自分はすぐに描くほうが性に合う、と彼は説明した。この絵を彼は、黒のない夜、青と紫と緑だけでできた夜と呼び、そのなかで明るく照らされた広場は淡い硫黄色とレモングリーンに染まっているのだと書いた。
大きな黄色い日よけが左上から画面に入り、中央の右で鋭い角になって終わっていて、その下のカフェの壁は黄緑とオレンジに光っている。手紙では巨大な黄色い灯りと書かれているランタンは、カンヴァスでは日よけの下の小さな多面体に見え、オレンジで縁どられている。丸いテーブルのあいだには、長い白の前掛けをつけた給仕が立っている。右半分は紫の家々が並ぶ暗い青の通りへと続き、その奥に淡い色の馬が見える。屋根の上の星は、淡い光の輪をもつ白っぽい黄色の丸い斑点で描かれていて、なかにはばら色やオレンジの芯をもつものもある。石畳は黄土色、水色、灰青色の短い筆触で組み立てられ、一つひとつの石が暗い、ほとんど黒い弧で縁どられている。
2025年の秋から一年近く、この絵は日本にあり、その名を冠した展覧会に出品されていた。そのあいだ、美術館はオッテルローにフォーラム広場の舞台装置を組み、来館者は「フィンセントのテラス」で記念写真を撮った。
ファン・ゴッホが星空を描いたのは、この絵が初めてだった。《ローヌ川の星月夜》は同じ9月の終わりに、《星月夜》は1889年6月に描かれ、道の上の星には、サン=レミを発つ数日前にもう一度立ち返っている(8を参照)。

5. フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》(1888年)
1912年5月21日、オランダのコレクター、コルネリス・ホーヘンデイクのコレクションがアムステルダムで競売にかけられ、ブレメルはクレラー夫妻に代わって入札した。その日、夫妻は15点の絵を手に入れ、そのうち四点がファン・ゴッホだった。《アルルの跳ね橋》にブレメルは1万6000ギルダー近くを払った。開始価格の五倍を超える額である。ヘレーネはこの絵を、最も美しく、最も力強く、最も水晶のように澄んだ絵の一つと呼んだ。
ファン・ゴッホがこの絵を描いたのは1888年3月半ば、アルルに来て最初の数週間のことで、そのころ彼はテオに、日本にいるような気がすると書いている。木造の跳ね橋は画面の中央に立ち、二つの黄色い枠と長い跳ね上げの梁がターコイズの空に浮かんでいる。橋桁は下ろされていて、その上を馬が小さな黄色い幌馬車を引いて渡っていく。左下では、水辺の木の足場で、水色、ばら色、赤、白の頭巾をかぶった洗濯女たちが働いている。一人は立って洗濯物を絞り、ほかの者は水の上にかがみこみ、そのそばの青い水面には波紋が広がっている。
4月のはじめ、ファン・ゴッホはこのカンヴァスをテルステーフのために選んだ。テルステーフはハーグの画商で、ファン・ゴッホは十代のころ、グーピル商会で彼のもとで働きはじめたのだった。テルステーフはテオに、テオ自身が最良と考える印象派の絵を送ってほしいと頼んでいて、フィンセントはかつての上司に、自分もまた印象派なのだと納得させたかった。彼はこの絵のために、平らな部分をロイヤルブルーに塗り、外側に金の帯をめぐらせた額を考え、カンヴァスにはテルステーフへの献辞を書いた。けれども、テルステーフがこの絵を受け取ることはなかった。献辞はのちに誰かに削りとられ、左下の隅の「フィンセント」の署名のすぐ上では、その部分の絵の具が薄くなっているか、カンヴァスの織り目まですり減っている。
2026年、美術館が1984年以来初めて所蔵するファン・ゴッホの絵88点をすべて並べて展示したとき、目の見えない来館者のために、手でさわって確かめられる《アルルの跳ね橋》の立体複製がつくられ、音声による解説も録音された。
6. フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》(1888年)
種まく人を描くことはファン・ゴッホの長年の願いで、1888年6月21日、彼はテオに、昔からの望みはいつもかなうとはかぎらないと打ち明けた。画家になると決めて以来、彼はジャン=フランソワ・ミレーの《種まく人》を何度も模写してきたが、彼の言葉によれば、ミレーのあとに残っているのは、種まく人を色彩で、大きな画面に描くことだった。そのころアルルで取り組んでいたカンヴァスのことで、彼は気をもんでいた。彼はそれを習作と呼び、のちにこれをもとに大きな絵を描こうかと考えていた。
画面は三つの帯に分かれている。黄色い空、熟した小麦の細い帯、そして高さの三分の二を占める耕された畑である。巨大な淡黄色の太陽が中央のやや左、ちょうど地平線の上にあり、そこから空いっぱいに、淡い緑の火花を交えた黄色の短い筆触の光線が広がっている。種まく人はカンヴァスの右三分の一にいて、左へ、見る者のほうへ向かって大股に歩いている。片腕を横へ振り出し、もう一方の手を種の入った灰色の袋に差し入れていて、その足もとから長い青い影がのびている。畑は青、紫、オレンジ、クリーム色、白の厚い筆触で塗られ、下のほうでは土の塊がほとんど浮き彫りのように盛り上がっている。畑の左半分の上を二羽の黒い鳥が飛び、三羽目は地面にとまっている。
6月19日ごろ、ファン・ゴッホは画家エミール・ベルナールにこの絵のことを書き送ったが、そのとき空はクロムイエローで、太陽とほとんど同じくらい明るく、種まく人のズボンは白だった。黄と紫のあまりに強い対比から目を休ませるためである。6月28日ごろ、ファン・ゴッホは絵をすっかり描き直し、いまカンヴァスの空は黄緑、ズボンは青になっている。そのベルナール宛ての同じ手紙で、彼は無限なるものへの憧れにいまも惹かれていると打ち明け、種まく人と麦束をその象徴と呼んでいた。一週間後、彼はベルナールにキリストのことを書いた。あらゆる芸術家にまさる芸術家であるキリストと、その喩え話のことで、なんという種まく人、なんという刈り入れ、なんといういちじくの木か、と。
2025年5月21日、教皇レオ14世は最初の一般謁見で種をまく人の喩えについて語り、《夕日の種まく人》に触れた。種をまく人は脇のほうにいて、絵全体を支配しているのは太陽だ、と教皇は述べた。


7. フィンセント・ファン・ゴッホ《ジョゼフ・ルーランの肖像》(1889年)
ジョゼフ・ルーランはアルルの駅の郵便局に勤め、郵便袋を積みこんだり仕分けたりしていた。ファン・ゴッホは1888年8月から1889年の春までに、彼を六度描いている。1888年12月の終わりにファン・ゴッホが自分の耳を傷つけると、ルーランは彼を家へ連れ帰り、病院に入れ、身のまわりのことを引き受けた。1889年1月21日、ルーランはマルセイユへ転勤になったが、4月4日ごろ、自分の48歳の誕生日に友人を訪ねてきた。ファン・ゴッホはそのときテオに、ルーランは自分の父親というほどの年ではないが、老兵が若い兵士に接するように、無言の重々しさとやさしさで自分に接してくれると書いた。
1月21日よりあとにモデルを務めてもらったことは手紙に出てこないため、研究者たちは、花を背景にした最後の三点の肖像を、ファン・ゴッホが以前の肖像と記憶をもとに描いたと考えている。美術館はオッテルローの一点を1889年2月から3月の作とし、ほかの研究者は4月のルーランの訪問と結びつけている。1888年9月にはすでに、ファン・ゴッホはテオに、かつては光輪がその象徴だった、あのとらえがたい永遠のものをたたえた男や女を描きたい、いまはそれを光の輝きそのもの、色の振動によって表そうとしているのだ、と書いていた。
ルーランは真正面からまっすぐこちらを見ていて、肩はカンヴァスの両端からはみ出している。青い制帽には、フランス語で郵便を意味する「ポスト」の文字がオレンジで書かれている。交差するハッチングで塗られた緑の背景には、壁紙のように花が散っている。黒と白の芯をもつ赤いけし、白いひなぎく、青い矢車菊、ふっくらした白いばら、そして曲がった茎についた、まだ開かないけしの蕾が三つである。顔とひげは一つの暖かい黄土色で描かれ、顎の右ではひげの一房が黒で縁どられ、固い渦巻きに巻かれている。
この肖像の最初の持ち主として知られているのは、画家エミール・シュフネッケルである。2003年に出たオッテルローのコレクション目録の執筆者たちは、ルーランの肖像のなかでただ一点署名のある、バーンズ・コレクションの肖像をファン・ゴッホが郵便配達人本人に贈り、この一点を妻のオーギュスティーヌに贈るつもりだった可能性は十分にあると考えていた。


8. フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星のある道》(1890年)
画面の中央には、ほとんど黒い背の高い糸杉が立ち、上端の外へとのびて、画面を二つに分けている。その左の空には、淡い黄色と緑の筆触の同心円でできた大きな星が輝き、その下にもう一つ、小さめの星がある。右には、水色の筆触の輪に囲まれた細いオレンジの三日月がある。空全体が、星と月のまわりを渦巻く青い筆触で埋められている。左下には黄土色がかった黄色の丈の高い葦が伸びている。淡い灰紫色の道をこちらへ二人の人物が歩いてくる。右の人物は明るい刃の鍬かつるはしを肩にかつぎ、その向こうを、白っぽい灰色の馬に引かれた黄色い幌の馬車が行き、右端には緑の屋根の低い家が立っている。
ファン・ゴッホがこの絵を描いたのはサン=レミで、1890年5月12日から15日ごろ、5月16日に療養院を去る前の最後の作品の一つだった。美術館はこれを《夜のプロヴァンスの田舎道》と呼び、プロヴァンスの印象をまとめた想像の風景と考えている。6月、すでにオーヴェールにいたファン・ゴッホはゴーギャンに宛てた手紙を書きはじめ、そのなかでこの絵のことを書いたが、手紙は書き上げられず、送られもしなかった。その下書きはのちに、テオの未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルが彼の遺した書類のなかから見つけた。「それから、あちらで描いた星のある糸杉もある。最後の試みで、輝きのない月の出た夜空、細い三日月が地面の暗い投影からようやく姿を現し、星は誇張された輝きをもち、そう言ってよければ、雲の流れる群青の空にばら色と緑のやさしい輝きがある」。続けて彼は、葦の生えた道、オレンジの窓の古い宿屋、黄色い馬車、遅くなった二人の旅人を挙げ、そう言ってよければとてもロマンティックだが、思うにプロヴァンス的でもある、と結んでいる。
テキサスの天文学者ドナルド・オルソンとラッセル・ドーシャーは、1890年4月20日ごろの夕方、サン=レミの上空で細い三日月が金星と水星のそばにあったことを計算で確かめ、ファン・ゴッホはその空を覚えていたのだと考えている。ただしカンヴァスの上では、天体の配置が左右逆になっている。
彼はこの絵を、プロヴァンスのほかの思い出とともにエッチングにしてゴーギャンに送るつもりでいたが、エッチングがつくられることはなかった。


9. フィンセント・ファン・ゴッホ《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》(1890年)
ハーグの救貧院に暮らす年金生活者で退役軍人のアドリアヌス・ザイデルラントは、禿げ頭に頬ひげをたくわえた老人で、ファン・ゴッホのために40回ほどモデルを務めた。1882年11月、ファン・ゴッホは二日続けて、膝に肘をつき、両手に顔を埋めて座る彼の姿を素描した。このポーズは、その一年前にエッテンで別の老人をモデルにすでに描いていて、テオへの手紙によれば、いつかもっとうまく描きたいと思ってその素描をとっておいたのだった。ハーグの素描には《疲れ果てて》という題がついていた。彼はその一つからリトグラフをつくり、知られている七枚の刷りのうち一枚に、英語で「永遠の門にて」と書き入れた。数日後、彼はテオに、ミレーが信じていた「何か高いもの」、つまり神と永遠が存在することの最も強い証しの一つは、自分の炉端に静かに座る老人の、言いようもなく胸を打つ表情だと思うと説明した。彼がリトグラフで伝えようとしたのは、まさにそのことだった。
八年後の1890年4月の終わり、サン=レミにいたファン・ゴッホは九週間ほど続いた発作からようやく抜け出し、テオに人物を描いた昔の素描を送ってほしいと頼んだ。5月、彼はこの老人を油彩で描いた。リトグラフの題は絵にも受け継がれ、美術館はそれを自分たちの題《悲しむ老人》のあとに括弧に入れて添えている。
顔は見えない。老人は体を二つに折り、両の拳を目に押しあてていて、見えるのはクリーム色の禿げた頭頂と緑がかった髪の房だけである。淡い水色の服は長い平行な筆触で塗られ、濃紺の輪郭がつけられている。椅子はからし色がかったオリーブ色で、履きつぶした明るい色の靴は左右に開いている。そのすねのすぐそばでは、炉のなかで小さな火が燃えている。オレンジの筆触がいくつかと赤い炭で、この絵のなかで赤で描かれているのはその炭だけである。
美術館の推測では、椅子と炉はファン・ゴッホが療養院の備品から借りたもので、モデルを務めたのはおそらく患者の誰かだった。

先達と同時代の画家たち
10. ハンス・バルドゥング・グリーン《ヴィーナスとアモル》(1524〜1525年)
1940年の夏、親衛隊員カイェタン・ミュールマンが美術館長サム・ファン・デーフェンテルのもとに現れ、「本国への返還」として16世紀のドイツの絵三点を要求した。ハンス・バルドゥング・グリーンの《ヴィーナスとアモル》、ルーカス・クラナッハ(父)の《蜜を盗むアモルとヴィーナス》、そしてバルテル・ブロイン(父)の二枚一組の板絵である。要求の理由は、これらの絵がドイツにとって大切なものだからとされ、ヘルマン・ゲーリングはそのうえ、クレラー夫妻が第一次世界大戦後にこれらを安く買ったのだと主張した。バルドゥングの絵を、ヘレーネはブレメルの勧めで、まだ戦争が始まる前の1913年に買っていた。7月には帝国弁務官ザイス=インクヴァルトが美術館を訪れ、ドイツ側の圧力のもとで、美術館は三点を60万ギルダーで手放した。この取引は年次報告には載せられず、「秘密報告書」にだけ記録された。バルドゥングの絵はゲーリングのコレクションに入った。
板は縦に長く細く、人の背丈より高い。暗い、ほとんど黒い背景の上に、裸のヴィーナスがほぼ等身大で立っている。緑のサテンの布の両端を、腰のあたりに上げた手と脇に下ろした手でつかんでいて、布は何も覆わずに彼女の背後に垂れている。左下では、アモルが大きな淡い色の球の上に座っている。片手には先が燃えている矢を持ち、もう一方の手で緑の布をつかみ、目隠しは額へずり上がっていて、片目で下から母を見上げている。

美術館はこの絵を教訓として説明している。目隠しをしたアモルには真理、つまり自分が座っている球が見えていない。もし見えていれば、神への霊的な愛が肉の愛より長続きし、ヴィーナスの美しさがはかないことを知っただろう、というのである。ファン・ゴッホのコレクターがなぜ16世紀のドイツの巨匠を必要としたのか、ヘレーネもブレメルも説明を残していない。
美術館によれば、受け取った金で1946年までにおよそ20点の絵が買われた。最初はマネの男性の肖像とセザンヌの湖への道、続いてドガ、ゴーギャン、ピサロ、コローである。そのうち二点は戦後に返さなければならなかった。ベルリンとパリのユダヤ人コレクターから奪われたものだったからである。
1945年11月7日、《ヴィーナスとアモル》はオランダに返還された。それ以来この絵は、戦後に取り戻された美術品を集めたオランダ国の所蔵品に属していて、NK2640という番号をもち、長期貸与としてオッテルローに置かれている。

11. ジョルジュ・スーラ《シャユ踊り》(1889〜1890年)
1922年、ヘレーネは、のちに彼女の美術館の館長となるサム・ファン・デーフェンテルに、一枚の絵を擁護する長い手紙を書いた。下の息子は、数ある絵のなかで母がなぜよりによって踊りの絵を買ったのかと驚いた。ヘレーネの書くところでは、息子が母を理解できなかったのはそれが初めてだった。彼女は、《シャユ踊り》を見て初めて、踊りのなかに、それまでいつもそう見えていた魂のない手足の振りまわし以上のものを見るようになったのだと説明した。
この絵は1922年2月、パリの競売場ドルーオで、リヒャルト・ゲッツのコレクションの売り立てで買われた。ゲッツは1900年からパリに住んでいたドイツの画家でコレクターである。戦争中、フランスはドイツ国民の財産として彼のコレクションを差し押さえ、1922年に競売にかけた。売り立てのことをヘレーネに知らせたのは、当時彼女のために大美術館を設計していた建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデだった。《シャユ踊り》は、1922年の財政危機の前に彼女が買った最後の大きな作品になった。この危機のために、その美術館の建設は止まった。
ジョルジュ・スーラは《シャユ踊り》を1889年から1890年にかけての冬に描き、1890年の春にアンデパンダン展に出品した。これは彼が完成させることのできた最後の大作で、1891年3月、スーラは31歳で亡くなった。
黒っぽい靴下をはいた四本の脚が、同じ角度の斜めの線をなして、平行に左上へ跳ね上がっている。目を閉じた踊り手たちの口角、暗赤色の上着の男の口ひげ、衣装のリボンが、どれも上へ反り返っている。スーラは、上へ向かう線は陽気さを伝えるという学者シャルル・アンリの理論にしたがっていた。右下の隅では、帽子の男が目を細め、笑みを浮かべて、下から踊り子たちを見上げている。すべてが一つひとつ離れた細かな点で描かれ、カンヴァスの縁には点描の濃紺の枠がめぐっていて、上ではゆるやかなアーチを描いている。
ワッセナールにあったクレラー家の邸宅フロート・ハーセブルークでは、《シャユ踊り》は豪華にしつらえた居間のソファの上に掛けられていて、その額に頭をもたせかけることもできた。


12. オディロン・ルドン《キュクロプス》(1914年頃)
オウィディウスの『変身物語』では、一つ目の巨人ポリュペモスが海の精ガラテイアを愛するが、ガラテイアはアキスを愛していて、最後にキュクロプスは岩のかけらでアキスを殺す。ルドンが描いたのはそれより前、ポリュペモスがまだ見つめているだけのときである。
山並みの上に、禿げた丸い黄土色がかったオレンジの頭がのぼってきて、顔のほとんどを一つの目が占めている。目は灰色がかった白で、暗い虹彩と黒い瞳をもち、赤で縁どられている。瞳がちょうどまんなかにあるので、キュクロプスは下を見るというより、むしろ見る者のほうを見ている。ガラテイアは右寄り、高さのなかほどの花咲く斜面に裸で横たわり、その体は斜面と同じ暖かいばら色がかった色で、斜面に溶けこんでいる。空は淡く、緑がかった灰青色で、紫で描かれているのは左の岩である。下の斜面は緑、ターコイズ、赤、オレンジ、黄、ばら色の斑点でできていて、そこに花が見てとれる。
美術館はこのまなざしに、のぞき見と脅威を見てとり、鮮やかで風変わりな色によってその印象はいっそう強まっているとする。ほかの書き手たちは、この巨人を、近づく勇気のない内気な恋する者と考えている。
ルドンは長いあいだ黒だけで、木炭とリトグラフで制作していて、彼が「ノワール(黒)」と呼んだそれらの作品には、宙に浮かぶ一つの目がよく現れる。美術館によれば、ルドンの目はしばしばそれ自体が一つの生き物になり、人間の魂と神秘的な内面の世界を表している。オランダではルドンは早くから知られていて、ブレメルは1920年ごろに彼の版画の複製を出版していた。美術館は《キュクロプス》を、画家の死の二年前にあたる1914年ごろの作としているが、ほかのカタログには1898年以降のさまざまな年代も見られる。
右下の隅には淡い黄緑の文字で「オディロン・ルドン」と書かれ、そのすぐ左には、それより薄い青で「オディロ……」という文字が浮かび上がっている。おそらく先に書かれた署名である。

モンドリアン、グリス、レジェ
13. ピート・モンドリアン《黒と白のコンポジション10(桟橋と海)》(1915年)
オランダの画家ピート・モンドリアンは、戦前はパリで制作し、キュビスムから生まれた格子の絵を描いていたが、1914年の夏に家族を訪ねてオランダに戻り、始まった戦争のためにパリへ帰れなくなった。彼は神智学の信奉者で、美術館は彼の目標を、水平と垂直という対立するものの調和とリズムと説明している。1914年、彼は海辺のドンブルフとスヘフェニンゲンで暮らし、海や防波堤や星空を素描した。それらの素描から生まれたカンヴァスが、1915年10月にアムステルダム市立美術館で開かれた展覧会に間に合うように仕上げられた。
カンヴァスのほとんどを、短い黒い線でできた楕円が占めている。線は水平と垂直だけで、一本ずつ置かれたものもあれば、プラスやT字、H字の形に組まれたものもあり、同じものは二つとない。美術館の読み解きによれば、中央を横切る長い水平線は波を、下のまんなかにある垂直線の束は海へ延びる防波堤を表している。黒い線のそばには、塗りつぶされたか、半透明のまま残された淡い灰色の線も見える。楕円の内側の白は、ばら色がかった灰色の四隅よりも明るく冷たい。左下の隅には「P・モンドリアーン ’15」という署名がある。美術館はこれを、モンドリアンが黒と白だけで描いた最初の絵と考えている。
ブレメルは、最初に展示されてから数週間のうちに、ヘレーネのためにこの絵を買った。展覧会でこのカンヴァスを見た画家テオ・ファン・ドゥースブルフは、モンドリアンは手段を白いカンヴァスの上の白い絵の具と水平と垂直にまで切りつめながら、それでも純粋な印象を与えていると書き、この絵から受ける感情を静けさ、魂の不動と呼んだ。この展覧会から二人の交友が始まり、1917年、二人は雑誌『デ・ステイル』をともに創刊した。
1915年12月、アムステルダムのコンセルトヘボウで開かれた芸術会議で、ブレメルはこの絵を「クリスマスの気分」と解釈した。画家オットー・ファン・テュッセンブルックは客席から、作者自身のほうが解釈する者よりよく知っていると反論した。モンドリアンは会議に出ていなかったが、1916年1月、ブレメルに宛てて、あなたの考えに同意すると書いた。夏、ブレメルは自分の雑誌に、クリスマスの夜のなめらかな白い気分について論じた文章を載せ、モンドリアンはそれを褒めた。

ヘレーネのコレクションの目録では、この絵はオランダ語で「ケルストステミング」、つまり「クリスマスの気分」と記されていて、その題は第二次世界大戦後の最初の数年まで正式な名前だった。
14. ピート・モンドリアン《色彩の構成A》(1917年)
1916年3月から、ブレメルは将来の絵と引き換えにモンドリアンに毎月の手当を払うようになり、モンドリアンの作品はクレラー=ミュラー夫妻のコレクションに入っていった。モンドリアンは当時、画家の村ラーレンに住み、そこでバルト・ファン・デル・レックと知り合った。ファン・デル・レックもヘレーネから同じ手当を受けていた。ファン・デル・レックはすでに白の上に純色の平らな色面を描いていて、ハーグ美術館の解説によれば、モンドリアンは彼の色をとても気に入った。影響は双方向で、ファン・デル・レックはモンドリアンから「構成(コンポジション)」という言葉と、抽象への一歩を受けとった。
わずかに暖かみのある白い地の上に、ほぼ正方形の長方形がおよそ25個散らばっている。色は黄土色、鮮やかな群青、くすんだ深紅がかったばら色の三つである。独立して置かれたものもあれば、互いに重なり合うものもあり、右上では赤い四角が青い四角の角に重なり、左下では黄土色の四角が赤い四角の上にのっている。そのあいだには、白と黒の《コンポジション10》と同じ短い暗い線がおよそ27本ある。何もない白のなかに浮いているものもあれば、色面の角にかかっているものもある。カンヴァスの下の六分の一はほとんど空いている。白い地には細かなひび割れが密な網目のように走っているが、色面のひびはそれより少なく、左下にはPMの組み文字と「’17」がある。
1917年5月、モンドリアンはこの絵を、アムステルダム市立美術館で開かれたオランダ芸術家サークルの展覧会に、《色彩の構成B》と《線のコンポジション》とともに出品した。『デ・ステイル』の創刊号が出る数か月前のことである。美術館はこれを純粋な新造形主義へ向かう途中の習作と呼んでいる。そのあとモンドリアンは動きと奥行きの感覚を取り除き、赤、黄、青だけを残すことになる。

その対になる《色彩の構成B》は、同じ年、同じ大きさで、同じ署名をもち、これもオッテルローに所蔵されている。
15. フアン・グリス《油ランプのある静物》(1912年)
ホセ・ビクトリアノ・ゴンサレス=ペレスは1906年にマドリードからパリへ来て、ピカソの隣人として洗濯船と呼ばれる建物に住み、数年のあいだ雑誌に風刺画を描いて暮らしを立てた。本格的に油彩を描きはじめたのは1910年から1911年ごろ、フアン・グリスという名のもとでのことで、この静物画が描かれた1912年は、彼にとって最初のキュビスムの年だった。
ランプと器は面に切り分けられているが、それとわかる。上のほぼまんなかには背の高い細い灰色の円筒、ランプのほやが立っている。その下には丸みを帯びた断面が積み重なり、ランプの油壺をいくつもの高さから同時に見たかのようである。右には、蓋と小さなつまみのついた、洋梨形の大きな灰色の器がある。右上の隅から左下へ、器物を横切って淡い斜めの帯が走り、光線のように見える。影は短い平行な筆触で置かれ、丸みの一つひとつの縁で明るい灰色からほとんど黒へと移っていく。暖かい色は平らな黄土色の斑点だけで、下には淡い水色の斑点が二つある。左下の隅には、小さな茶色の文字で「フアン・グリス」と書かれている。
美術館によれば、ヘレーネがこの絵を買ったのは1913年で、それは彼女が生まれて初めて目にしたキュビスムの絵だった。その後、彼女はグリスの作品をまとまった数集めた。
ヘレーネは1913年からハーグのランゲ・フォールハウトにある家で自分のコレクションを公開していた。そこではいちばん大きな部屋がファン・ゴッホにあてられ、グリス、オーギュスト・エルバン、ファン・デル・レック、モンドリアンといった「超現代的な」画家たちは、少しずつ上の階に掛けられていった。
16. フェルナン・レジェ《トランプをする兵士たち》(1917年)
三人の兵士がトランプの卓を囲んでいて、その体は管と円錐と円盤で組み立てられている。腕は鋼色と灰青色の磨かれた円筒で、片側に鋭い白の光があり、手は平たい板を積み重ねたものである。左には緑のリボンのついた灰色の帽子をかぶった人物が座り、胸には赤と白のジグザグの縞と、十字形の小さな勲章がある。中央の兵士はパイプをくわえ、右では暗い丸いヘルメットをかぶった大きな兵士が、縞模様の手でパイプを口もとへ運んでいる。まんなかには赤いダイヤのカードが扇形に広げられ、テーブルは傾いた黄色い平面になっていて、そこが画面でいちばん明るい。美術館は、兵士たちの腕は鍛えた鋼鉄の管のようで、兵士たち自身はむしろロボットに似ていると書いている。
フェルナン・レジェは1914年8月2日に動員された。工兵として塹壕を掘り、のちに担架兵になり、アルゴンヌとヴェルダンで戦い、前線では粗い包装紙に素描をした。トランプをする兵士たちの素描をつくったのは1916年、ヴェルダンでのことである。美術館によれば、彼がこの絵を描いたのは、ヴェルダンで毒ガス攻撃を受けたあと回復に向かっていたときだった。のちにレジェは、前線で日を浴びた75ミリ砲の砲尾に目がくらんだ、むき出しの金属に当たる光の魔法だったと回想している。1917年12月5日、彼はこの絵を、そのための素描や習作とともに、新しい画商レオンス・ローザンベールに売った。
1921年、ブレメルはヘレーネのためにアムステルダムでレジェの絵三点と水彩一点を買った。ヘレーネはモンパルナスのアトリエにレジェを訪ね、彼女のレジェへの傾倒は行き過ぎだとブレメルが考えていたにもかかわらず、その後も彼の作品を買いつづけ、1920年代のはじめには《トランプをする兵士たち》も買った。
ヘレーネ亡きあとの検証

17. フィンセント・ファン・ゴッホ《野の花とバラのある静物》(1886〜1887年)
2003年、クレラー=ミュラー美術館はこの静物画をみずからファン・ゴッホの作品から外し、所蔵目録では作者不詳の画家の作品とした。疑いは購入のときからあった。1974年、国はレンブラント協会とベルンハルト王子文化基金の支援を受けて、アイントホーフェンのフィリップス=デ・ヨング・コレクションからこの絵を美術館のために買ったが、そのときすでに関係者たちは、カンヴァスの珍しい大きさ、多すぎる花、ファン・ゴッホの画風の展開に合わない描き方、見慣れない署名に首をかしげていた。
1998年、X線撮影で、花の下に別の絵があることがわかった。互いの腕をつかみ合う、半裸の二人のレスラーである。1886年1月の終わり、美術アカデミーで学んでいたアントワープから、ファン・ゴッホはテオに、今週、裸の上半身を二つ、つまりアカデミーの校長シャルル・フェルラが決めたポーズの二人のレスラーを描いた大きな絵を仕上げ、とても気に入っていると書いていた。この手紙との関係が疑われたが、当時それを証明することはできなかった。
2010年から2012年にかけて、デルフト工科大学、アントワープ大学、ハンブルクのドイツ電子シンクロトロン研究所、ファン・ゴッホ美術館、そしてクレラー=ミュラー美術館自身の研究者たちがこの絵をスキャンし、両方の層の化学元素の分布図をつくった。両方の層の顔料は当時のファン・ゴッホのパレットと一致し、レスラーの層には彼の筆づかいが認められ、珍しいと思われていたカンヴァスの大きさは、人物画のためのアカデミーの標準的な寸法だとわかった。ファン・ゴッホはレスラーを乾きの遅い亜鉛白をたっぷり使って描き、下の層が固まらないうちに、その上に鉛白で花を描いた。そのため上の層にひび割れが生じた。2012年3月、美術館はこの静物画をふたたびファン・ゴッホの作品とした。
淡い緑の花瓶は中央のやや右にあり、花にほとんど隠れている。左上には白いひなぎくがかたまり、中央には赤いけしが燃え、右には青い矢車菊とオレンジの花がある。下にはふっくらしたばら色がかったクリーム色のばらが一列に並び、いちばん高いところ、上端に少し届かないあたりには、細い茎の赤いけしが一本だけ立っている。右上の「フィンセント」の署名はくすんだ錆色の黄土色で書かれていて、暗い背景にまぎれている。

2025年12月、美術館はその逆の例を展示した。ヘレーネがファン・ゴッホとして買い、美術館が贋作者レオンハルト・ヴァッカーの作としている《サント=マリー=ド=ラ=メールの海景》である。

彼女が見ることのなかった庭

18. オーギュスト・ロダン《うずくまる女》(原型1882年)
ヘレーネは美術館に一つの条件を遺した。彼女の死後、コレクションに加えてよいのは、すでにコレクションに入っている芸術家の作品だけだというのである。1940年代の終わりから館長を務めたブラム・ハマッハーは、この条件は絵画にしか関わらないと判断した。彫刻には一言も触れられていなかったからである。そして1950年、オーギュスト・ロダンのブロンズ三点を買った。日本の女優花子の仮面、《カレーの市民》のウスタシュ・ド・サン=ピエールのための小さな習作、そしてハマッハーが何よりも愛したこの女性像である。ハマッハーにとってロダンは近代彫刻の創始者であり、ロダンの彫刻家としての精神は表面の仕上げのなかに生きていると彼は書いた。
この像は1882年ごろ、《地獄の門》のために生まれた。ダンテの『神曲』地獄篇に題材をとったブロンズの扉で、1880年に国がパリの装飾美術館のためにロダンに注文したものである。その美術館は建てられず、ロダンは何十年にもわたって門の制作を続けた。扉の上のティンパヌムでは、この女性は小さく、《考える人》の近くにうずくまっている。オッテルローにあるのは、それを等身大に拡大したものである。
裸の女性がでこぼこしたブロンズの岩の上にしゃがみこみ、膝を高く引き寄せて大きく開いている。右足は岩の頂に、左足はそれより低い手前に置かれている。彼女は右の膝に頬をのせ、目を伏せている。左手は胸を押さえ、右腕は体の前を斜めに横切って左の足首をつかんでいて、体全体が一つの固い縦のかたまりにまとめられている。作家オクターヴ・ミルボーは、自分の持っていたこの像の大理石版を「私のカエル」と呼んでいた。ブロンズは暗褐色、ほとんど黒に近い色に光り、岩のくぼみには緑青が浮かんでいる。
1953年、この像は新しい彫刻ギャラリーに置かれた。1961年6月3日、大臣ヨー・カルスが発泡スチロールの壁を突き破って彫刻庭園を開いたとき、像は庭へ運び出され、そこで、粗く削った二つのばら色がかった灰色の砂岩の台座の上に立っている。
19. アリスティード・マイヨール《大気》(1939年、1962年鋳造)
1938年、トゥールーズ市はアリスティード・マイヨールに、フランスから南米へ郵便を運んだ航空郵便会社アエロポスタルの、殉職した乗員たちの記念碑を注文した。それより少し前の1936年12月、この路線の飛行士ジャン・メルモーズが南大西洋の上空で消息を絶っていた。マイヨールは77歳で、新しい像を古い像からつくりあげた。以前つくったセザンヌ記念碑の横たわる女性の石膏像を切り分けて組み直し、手を加えたのである。彼はこのやり方を、まだ親木から切り離していない枝に根を出させて新しい株をつくる、園芸の取り木にたとえた。石の像は1939年にバニュルスで完成した。
晩年、マイヨールは自分のモデルを務めたディナ・ヴィエルニとともに大きな石膏像に手を入れ、衣と支えを取り除いた。彼の死後、この石膏から六体が鋳造され、オッテルローの一体は1962年に鉛合金で鋳造された。《大気》ははじめ一時的に庭へ運ばれ、そのあとで美術館が買い取った。ハマッハーはこれを傑作と呼び、小高い場所のコンクリートの台座の上に据えた。マイヨールの作品はヘレーネ自身も買っていたので、彼女の条件は守られていた。
女性は右脇を下にして横たわり、胸をこちらへ向け、台に触れているのは右の腰だけである。頭も両腕も両脚も宙に浮いている。上の腕は体の上を足先のほうへまっすぐのび、手首は上へ反り、上の脚は持ち上げられて伸び、下の脚は台座にもう少しで触れそうである。顔は横顔で、彼女は自分の体に沿って視線を送っている。金属は銀灰色で柔らかく光り、腹や腰、のばした腕には暗い紫褐色の流れたような染みがある。
石の記念碑は1948年、トゥールーズの王の庭園に建てられた。マイヨールが自動車事故で亡くなってから四年後のことである。

20. オットー・フロイントリヒ《コンポジション》(1933年、1961年鋳造)
1937年にナチスがミュンヘンで開いた「退廃芸術」展の案内冊子の表紙には、オットー・フロイントリヒの石膏像《大きな頭部》の写真が「新しい人間」という説明つきで載せられた。その頭部そのものは、のちに失われた。
フロイントリヒは1878年にポメラニアのシュトルプで生まれ、最初期の抽象画家の一人で、1908年からたびたび長くパリに住んだ。ドイツのユダヤ人で左翼の考えをもっていた彼は、戦争が始まるとフランスの抑留者収容所に入れられ、のちにピレネーに身を隠した。1943年2月に密告されて逮捕され、3月4日にドランシー収容所から第50移送列車で送られ、1943年3月、占領下のポーランドで殺害された。おそらくソビボルでのことだが、古い文献ではマイダネクとされている。
《コンポジション》の石膏原型を、彼は1933年にパリでつくったが、生きているうちにそれがブロンズになるのを見ることはなかった。石膏は戦争のあいだもアトリエに残っていて、戦後、未亡人ジャンヌ・コスニック=クロスが画家の友人たちとともに、彫刻をブロンズで鋳造したいという彼の願いをかなえようとした。鋳造は1961年にパリで行われ、彫刻庭園が開かれたのと同じ年に美術館がそれを買った。これはおそらく、このモデルの最初のブロンズである。
人の背丈より少し高いこのブロンズは、積み重ねられ、もたれ合う、丸みを帯びた別々のブロックで組み立てられている。一方の側から見ると、下には先のとがったしずく形のブロック、丸い柱、ほぼ正方形のブロックがあり、上には細い首の上に最も重いかたまりがのっている。そのかたまりは左へ張り出し、くちばしか角のような曲がった先端となって後ろへ反り返っている。反対側から見ると、同じブロンズが別の組み立て方になっていて、大きな家の形のブロックの上に円錐が立ち、下には角材が横たわっている。ブロックのあいだの隙間から光が通る。表面全体が、敷石のような小さく平たい粒に覆われていて、日を浴びるとその一つひとつが銀灰色にきらめく。
ヘレーネは、自分の死後に買ってよいのはすでにコレクションに入っている芸術家の作品だけだと定めた。ブラム・ハマッハーは、この制限は彫刻には当てはまらないと判断した。1961年に彫刻庭園が開かれ、同じ年に美術館は、オットー・フロイントリヒが殺されてから18年後に鋳造されたブロンズ《コンポジション》を買った。

この20点のあとで
二度目に訪れるなら、ファン・ゴッホの残りの絵78点と紙の作品172点から始め、そのあとで、ヘレーネがスーラと並べて集めた新印象派の画家たちへ進むとよい。まずはポール・シニャックの《朝食》である。コレクションには、ヘレーネが何年も手当を払いつづけたバルト・ファン・デル・レックの作品も、1919年に彼女が競売で買ったヤン・トーロップの素描《三人の花嫁》もある。25ヘクタールの彫刻庭園には200点を超える作品が立ち、そのなかにはジャン・デュビュッフェの《エナメルの庭》、この庭のためにつくられたマルタ・パンの《浮かぶ彫刻》、アントワーヌ・ブールデルの《大きなペネロープ》がある。木々のあいだには、ヘリット・リートフェルトとアルド・ファン・アイクのパヴィリオンも立っている。







































































