オルセー美術館は1986年12月、建築家ヴィクトール・ラルーが1900年のパリ万国博覧会に合わせて建てた駅舎のなかに開館した。新しい美術館のコレクションは、ほぼすべて、もともと国が持っていたものでまかなわれた。19世紀後半のフランス美術が、ルーヴル美術館から、1947年から印象派を展示していたジュ・ド・ポーム美術館から、そして国立近代美術館から、ここへ移されたのである。多くの絵は、ルーヴルに入る前に何年も、国が存命の画家の作品を送っていたリュクサンブール美術館に掛かっていた。
1863年、ナポレオン3世はサロンでアレクサンドル・カバネルの《ヴィーナスの誕生》を買い、同じ年のサロンの審査員はエドゥアール・マネの《草上の昼食》を落選させて、この絵は落選展で公開された。《草上の昼食》が国のコレクションに入ったのは43年後、個人のコレクターが寄贈したときである。フランスが何を手もとに残すのかを決めたのは、時代によって、皇帝や議会であり、ルーヴルの学芸員や個人の寄贈者であり、金を出し合った画家たちであり、相続税を一枚の絵で納めた遺族だった。
皇帝と画家の妹(1879〜1881年)
1. アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》
1870年に第二帝政が倒れると、ナポレオン3世が帝室費、つまり皇帝個人の予算で買った財産は差し押さえられた。その扱いをめぐる争いは1879年まで続いた。最終的に、皇帝の住まいにあった作品は国のものとすることが決まり、ルーヴルの学芸員たちは、画家と作品そのものの知名度を見ながら、そのなかから「歴史的または芸術的な価値」のあるものを選び出した。皇帝が1863年のサロンで自分のために買った《ヴィーナスの誕生》は、残すほうに選ばれた。国の目録には、この絵は1879年の判決によって押収され、国立美術館に移管されたと記されている。1881年にリュクサンブール美術館へ、1923年にルーヴルへ送られた。
ヴィーナスは小さな波の頂に横たわり、足を左に、頭を右に向けている。右腕を顔の上に投げかけ、その肘の下から、まだ目覚めきらない人のように半ば閉じた目がのぞいている。赤みがかった金色の髪は、波に沿って水の上に広がる。その上を五人のキューピッドが弧を描いて飛び、二人がほら貝を吹いている。体はなめらかに、ほとんど影をつけずに描かれていて、筆の跡は見分けられず、画面でこの体より明るいのは、肩の下の白い泡だけである。
このなめらかさを、同時代の人々はさまざまに受け取った。テオフィル・ゴーティエは1863年、この体はまるで波の雪のような泡でこしらえたようだと書いた。エミール・ゾラは1867年の万国博覧会でこの絵を見て、ヴィーナスを「愛らしいロレット」、つまり囲われ女と呼び、乳の川に沈められていて、「白とばら色の、アーモンドペーストのようなもの」でできていると評した。作家ジョリス=カルル・ユイスマンスは、これに「クリーム添えのヴィーナス」というあだ名をつけた。

2. ギュスターヴ・クールベ《オルナンの埋葬》
1849年から1850年にかけての冬、30歳のギュスターヴ・クールベは、フランシュ=コンテ地方の故郷の町オルナンで、かつて母方の祖父母が住んでいた家の屋根裏部屋でこの絵を描いた。これほどのカンヴァスには屋根裏は狭すぎたので、クールベは残りを巻いたまま、一部分ずつ描き進めた。友人の批評家シャンフルーリに宛てた手紙で、彼は、目隠しをして描いているようなもので、絵から離れて見ることもできないとこぼしている。カンヴァスは長さが7メートル近くあり、人物は等身大である。当時この大きさで描かれたのは歴史画や宗教画だったが、ここでは地方の小さな町が住人の一人を葬っている。誰の葬儀なのかは画面からはわからず、歴史家たちは、1848年に亡くなった画家の祖父から、共和国そのものの葬儀まで、さまざまな答えを出してきた。
モデルになったのはオルナンの住人たちで、一人ずつ順にポーズをとった。クールベは手紙のなかで、町長、司祭、治安判事、公証人、自分の父、聖歌隊の少年たち、墓掘り人、そして1793年の革命を生きた二人の老人を挙げている。この二人は中央の右寄りに、半世紀前の服、半ズボンにゲートルという姿で立ち、その前には頭の黒い白い犬がいる。白いシャツの墓掘り人は墓穴の縁に片膝をつき、司祭のほうではなく脇に目をやっている。黒い服の群れのなかで目立つのは、赤い祭服を着て赤く高い帽子をかぶった二人の教会の下役だけである。墓穴そのものは画面の下端で切られていて、見る者はその向こう側の縁に立っていることになり、掘り返された土のそばには頭蓋骨と骨が転がっている。
クールベは1849年のサロンでメダルを受けたばかりだったので、1850〜1851年のサロンには審査を経ずに《埋葬》を出品することができた。批評家たちは人物の顔が醜いとこの絵をけなし、買い手はつかなかった。1864年、クールベは絵の状態をこう書いている。額は壊れ、木枠はほかのことに使ってしまい、カンヴァスは巻かれたまま傷んでいる。
パリ・コミューンのあと、クールベはヴァンドーム広場の円柱を倒した責任を問われ、その再建費用を払うよう命じられた。彼はスイスへ移り、1877年12月31日にその地で亡くなった。1881年、妹で相続人のジュリエットが《埋葬》を国に寄贈し、1882年に絵は初めてルーヴルで展示された。寄贈と同じ1881年、ジュリエットは兄のもう一つの大作《画家のアトリエ》を競売で売っている。

2025〜2026年の修復では、黄ばんだワニスが取り除かれ、それまで木枠の裏に折りこまれていた縁が広げられた。すると下端に、クールベが描いた細い帯が現れた。
未亡人、画家たち、そして詩人(1890〜1891年)
3. ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》
ランスのシャンパーニュ・メゾン、ポメリーを切り盛りしていた未亡人ジャンヌ=アレクサンドリーヌ・ポメリーは、ミレーの《晩鐘》をルーヴルのために買おうとして、果たせなかった。1889年10月3日、彼女の代理人でランスの篤志家ルイ・ギヨタンが一通の手紙を転送した。そこには、代わりに彼女が《落穂拾い》を手に入れたと書かれていた。彼女は絵の持ち主ビショフスハイムに30万フランを払い、すぐにこれを国への贈り物とすることに決めた。
ノルマンディーの農民の息子だったミレーは、1849年からフォンテーヌブローの森に近いバルビゾン村に住み、そこで農民の労働を描いた。この絵では、刈り入れの済んだ畑で三人の女が落ち穂を拾っている。二人は頭が背中より低くなるほど深く腰を折り、三人目は穂の束を手に身を起こしかけていて、左から右へ、手を伸ばし、拾い集め、体を起こすという一つの動作が読み取れる。太陽は左の低いところにあり、影は右へ延び、顔は陰になっている。遠くの金色のかすみのなかには巨大な麦の山、荷車、刈り手たちが見え、右手の建物のそばには馬に乗った小さな人影、監督人がいる。刈り入れのあとの落ち穂拾いは貧しい人々の昔からの権利だったが、土地ごとの決まりがそれを制限しており、監督人はその決まりが守られているかを見張っていた。
1857年のサロンで、保守的な批評家ポール・ド・サン=ヴィクトールは三人の女を「貧困の三人のパルカ」(パルカはローマ神話の運命の女神)と呼び、自由主義者のエドモン・アブーはこの絵の厳しい簡素さを称えた。サロンのあと絵は2000フランか3000フランで売れた。資料によって、どちらの額も挙がっている。
ポメリー夫人は、生きているあいだは絵を手もとに置く権利を残したうえで、国に寄贈した。ルーヴルの学芸員たちは1890年1月30日にこの寄贈を受け入れ、3月15日に政令が署名され、3月18日にポメリー夫人は亡くなった。
4. エドゥアール・マネ《オランピア》
女は二つの大きな白い枕に横たわり、表情を見せずに、まっすぐ見る者を見ている。身につけているのは、真珠の飾りのついた首の黒いリボン、金の腕輪、髪に挿したばら色の花、かかとのない室内履きだけである。左の手のひらは太ももにぴったりと押し当てている。肌の黒い召使いが白い紙に包んだ花束を差し出しているが、女主人は花に目を向けない。ベッドの足もとには、背中を丸めて尻尾を立てた小さな黒猫がいて、暗い壁に紛れてほとんど見分けがつかず、二つの黄色い目だけが見える。光は体に正面から平らに当たって影はほとんどなく、形を保っているのは輪郭線である。
モデルはマネがよく使ったヴィクトリーヌ・ムーランで、彼女はのちに自分も画家になり、サロンに出品した。《草上の昼食》に座っているのも彼女である。美術史家デニス・マレルが突き止めたところでは、召使いの名はロールといい、マネの住まいに近いバティニョール地区に住んでいた。
マネは1863年に《オランピア》を描き、1865年のサロンに出した。新聞『ル・シエークル』は、「少なくとも二日は死体置き場の台の上に横たわっていた」女、「腹が緑色になりはじめている」女について書いた。ひと月後、サロンの運営側は絵を扉の上の、人目から遠い場所に掛け替えた。絵は売れないまま残り、1883年にマネが亡くなると、未亡人のシュザンヌのものになった。


1889年7月、画家クロード・モネは作家オクターヴ・ミルボーとともに、《オランピア》を未亡人から買い取って国に贈るための募金を始めた。エドガー・ドガは100フランを出し、彫刻家オーギュスト・ロダンは25フランを出して、名簿に自分の名前を載せたいのだと手紙で説明した。1860年代から紙上でマネを擁護していたゾラは、加わるのを断った。1890年2月7日、モネは応募者を代表して、公教育大臣アルマン・ファリエールにこの絵を差し出した。集まった額は、あわせて1万9415フランだった。応募者たちはルーヴルを望んでいたが、国はリュクサンブール美術館のための贈り物としてこれを受け取った。1907年、モネの友人で首相になっていたジョルジュ・クレマンソーが、《オランピア》をルーヴルに移すよう命じた。
5. ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《灰色と黒のアレンジメント第1番(画家の母の肖像)》
フランスに買われるまでに、パリで絵を学び、ロンドンで暮らしていたアメリカ人ジェームズ・ホイッスラーは、この絵を何度も質に入れていた。1878年、彼は批評家ジョン・ラスキンを相手取った名誉毀損の裁判に勝ったが、判決で得たのは1ファージング、いちばん小さな銅貨一枚で、訴訟費用のために破産した。1878〜1879年、母の肖像は版画を扱うロンドンのグレイヴズ社の質草になっていて、破産の際には500ポンドと評価され、ホイッスラーは少しずつ金を払ってこれを取り戻した。1886年、彼はまたこの絵を質に入れた。今度の相手は劇場興行主のリチャード・ドイリー・カートで、額は同じ500ポンドだった。
描かれたのは1871年、チェルシーでのことである。モデルが来なかったので、ホイッスラーは60歳を過ぎた母アンナ・ホイッスラーにポーズを頼んだ。母ははじめ立ってポーズをとったが、疲れてしまったので、息子は彼女を座らせた。母は画面の右に、きっちりとした横顔で左を向いて座っている。黒いドレスは肩から床まで一つの平らな暗い塊として描かれ、シルエットのように見える。温かい色があるのは顔と手だけである。頭には長いリボンのついた白いレースの室内帽をかぶり、組んだ手には白いハンカチを持ち、足は低い足台に載せている。灰色の壁には、幅の広い白いマットをつけた黒い額に、テムズ川の倉庫を描いたホイッスラー自身のエッチングが掛かり、左の暗いカーテンには、小さな花模様のあいだに、円のなかの蝶という彼のサインがかすかに見える。
ホイッスラーは、色が最初に来るように題をつけた。「画家の母の肖像」という副題は、1872年にロンドンのロイヤル・アカデミーで初めて展示されたときから、すでについていた。
1891年、肖像はパリのグーピル画廊で公開された。買い上げに動いたのは、詩人ステファヌ・マラルメ、批評家テオドール・デュレとロジェ・マルクス、そして政治家ジョルジュ・クレマンソーである。国が承知するよう、値段はわざと低くつけられ、1891年11月30日、国はこの絵を4000フランで買い、「年配の婦人の肖像」として記録した。マラルメは、この絵にとってリュクサンブール美術館はルーヴルの控えの間にすぎないと書いた。1892年のはじめ、ホイッスラーはレジオン・ドヌール勲章を受けた。

1934年、アメリカの郵政省は母の日にこの絵の切手を発行した。構図を切り詰め、花を生けた花瓶を描き足した図柄だった。
カイユボットの遺贈(1894〜1896年)
6. ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》
ルノワールの友人だったジャーナリスト、ジョルジュ・リヴィエールは、この絵のなかでテーブルを囲む仲間の一人として描かれ、のちに自分でもこの絵について書いた。1921年の回想によると、1876年の夏、ルノワールはモンマルトルのコルト通りに古い小さな家を借りた。古い風車のそばのダンスホールの庭、ムーラン・ド・ラ・ギャレットのすぐ近くで、ルノワールはこの絵に取り組んでいるあいだ、ずっとそこに住んでいた。ポーズをとったのは、画家や文筆家の友人たちと、モンマルトルの娘たちである。テーブルの人物として、リヴィエールは自分自身、画家のフラン=ラミとノルベール・ゲヌット、そしてジャンヌとエステルの姉妹を挙げている。ベンチに座る縞のドレスの娘は、ふつうエステルだとされている。1877年の春、絵は第3回印象派展で公開され、リヴィエールは自分の小さな新聞『印象派』に、これは「歴史の一ページであり、パリの生活を伝える貴重な記念碑で、非の打ちどころのない正確さで描かれている」と書いた。
光は木の葉を通して落ち、地面にも、麦わら帽子にも、黒い上着の背中にも、淡い青と黄色の斑点になって散らばる。ルノワールは影を青く描いた。手前の顔はやわらかく温かいが、奥へ行くと人込みは筆触と揺れる帽子にほどけていく。左下の隅では、偶然撮ったスナップ写真のように、額縁が若い女と金髪の子どもの顔を切り取っている。

この絵を買ったのは、裕福な家の出の画家ギュスターヴ・カイユボットで、彼は友人たちの作品を買い、その展覧会の費用も出していた。美術館の資料によれば、買ったのは1877年から1879年4月までのあいだである。カイユボットは1894年2月21日に亡くなり、コレクションを、まずリュクサンブール美術館に、のちにルーヴルに入れるという条件で国に遺贈した。遺言執行人にはルノワールを指名していた。国はコレクションの一部しか受け入れず、絵は1896年に引き渡されて、1897年からリュクサンブール美術館の別館で展示された。
《舞踏会》のもう一つのヴァージョンは、より小さく筆づかいも自由なもので、個人の手に残った。1990年、ニューヨークのサザビーズの競売で、日本の実業家、齊藤了英が7810万ドルでこれを買った。
7. クロード・モネ《サン=ラザール駅》
ルノワールの息子で映画監督のジャン・ルノワールは、1962年に出した父についての本で、モネにまつわる父の話を書き留めている。出来事から何十年もたって記録されたもので、一家に伝わる逸話として読むべき話である。金のなかったモネは、一張羅の服を着てレースのカフスをつけ、金の握りのついたステッキを持って、西部鉄道の社長のもとへ出向いた。社長はこの画家をたいそう丁重に迎え、列車を止めさせ、ホームを空けさせ、できるだけ濃く煙を吐かせるために機関車のかまに石炭を詰めこむよう命じたという。
記録からわかっているのは、1877年1月にモネが西部鉄道からサン=ラザール駅で描く許可を得たことである。この駅からは、ノルマンディー方面と、当時モネが住んでいたアルジャントゥイユへ列車が出ていた。1877年の最初の数か月で、彼はそこで十数点の絵を描いた。シカゴ美術館によれば、駅に近いモンセ通りの小さなアパルトマンの家賃は、カイユボットが代わりに払っていた。
眺めは内側から、駅の屋根の下から描かれている。重い二枚の傾斜した屋根面が中央で合わさって高い三角形をつくり、そのなかに昼の光と、ほぼ真ん中に青い蒸気の柱が見える。下では、白い煙に半ば隠れた黒い機関車が、まっすぐこちらを向いている。屋根の影のあいだからレールに日が差し、モネはそれを黄色、黄土色、紫の斑点で表した。鉄も蒸気も空も、同じ短い筆触で描かれている。

1878年3月10日、カイユボットはモネからこの絵を685フランで買い、絵は1896年、彼が遺贈した絵とともにリュクサンブール美術館に入った。
エミール・ゾラは1877年、モネの駅の絵について、そこには列車の轟音が聞こえ、巨大な屋根の下に渦巻く煙が見えると書いた。1890年には、サン=ラザール駅を小説『獣人』の舞台の一つにしている。
8. ギュスターヴ・カイユボット《床削りの人々》
1875年のサロンの審査員は、当時26歳だったギュスターヴ・カイユボットのこの絵を落選させた。上半身裸の労働者が仕事をしているという主題を、審査員は下品と見なしたのだと、ふつう考えられている。カイユボットは裕福な家の息子で、サロン画家レオン・ボナに学び、1873年に国立美術学校に入っていたから、この絵もサロンでのごく普通のデビューのつもりで用意していた。落選のあと彼は印象派に加わり、1876年4月の第2回印象派展に《床削りの人々》を出して、このグループのおもな買い手であり支援者の一人になった。ゾラは1876年に《床削りの人々》を見て、その力量を認めたが、正確すぎるとしてこれを「ブルジョワ的」な絵画と呼んだ。
カイユボットの遺言が対象としていたのは、友人たちの絵である。この絵は1894年、それとは別に、彼の相続人たちが遺言執行人のルノワールとともに国に寄贈し、1896年にリュクサンブール美術館に入った。
床は上から、まるで見る者が職人たちの上に立っているかのように眺められ、奥の壁へ向かって急にせり上がっていくので、壁は上端の細い帯しか残らない。上半身裸の三人の男が膝をつき、寄せ木の床から古いワニスを削り取っている。左と手前の板はもう明るく、ほとんど木地がむき出しになっているが、右はまだ暗く、その暗い板の上に、窓の映りこみが長く明るい筋になって延びている。手のまわりには削りくずが巻いて散らばり、右端にはワインの瓶と飲みかけのグラスが置いてある。右の二人は頭を寄せ合っていて、話をしているように見える。

コレクターたち(1906〜1911年)
9. エドゥアール・マネ《草上の昼食》
画家でコレクターのエティエンヌ・モロー=ネラトンは、1906年7月、自分の絵およそ100点と、水彩、パステル、素描をさらに20点ほど国に寄贈した。そのなかにはモネの《ひなげし》、コローの作品40点ほど、そして1900年に画商デュラン=リュエルから彼の手に渡ったマネの《草上の昼食》があった。彼はのちに1907年と1919年にも二度にわたって作品を加え、美術館にそれらを展示する義務を課す条件をつけた。コレクションはルーヴルの所属とされたが、1907年から1934年までは、ルーヴル宮の翼にあたるマルサン館の装飾芸術美術館で展示されていて、《草上の昼食》がルーヴル本館の展示室に入ったのは1934年になってからだった。
1863年の落選展では、この絵は《水浴》という題で公開されて嘲笑を浴び、買い手はつかなかった。1871年、マネはこれを2万5000フランと見積もっていたが、1878年、自分の絵を集めていたオペラのバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールに2600フランで売った。

裸の女が横向きに座り、手で顎を支えて、顔をまっすぐ見る者に向けている。その体は明るく平板で、男たちの暗いフロックコートの隣では、ほとんど白墨のように見える。男たちは彼女の向こうを見ており、右側の、房のついた柔らかい帽子をかぶった男は、手のひらを上にして手を差し出しながら何か話している。いちばんくっきりと描かれているのは左下の静物で、青いドレス、麦わら帽子、果物がこぼれ出た倒れた籠、丸いパン、銀の水筒がある。中景の小川にいる女は距離のわりに大きすぎ、手前の三人の上に浮かんでいるように見える。上の枝のあいだにはウソが一羽飛んでいる。
モデルは《オランピア》と同じヴィクトリーヌ・ムーランである。男たちは、彫刻家で妻の弟だったフェルディナン・レーンホフと、マネの弟ウジェーヌかギュスターヴのどちらかをモデルにしているが、どちらがどちらなのかについては研究者のあいだで意見が分かれている。構図は、当時ジョルジョーネの作とされ、いまはティツィアーノの作とされているルーヴルの《田園の奏楽》と、ラファエロの《パリスの審判》をもとにしたマルカントニオ・ライモンディの版画にならったものである。
モロー=ネラトンはのちにマネの伝記作者となり、その著書『マネ自身が語るマネ』は1926年に出版された。
10. ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》
1889年7月1日、パリで、実業家ウジェーヌ・セクレタンのコレクションが売り立てられた。セクレタンはその年の春、銅の相場が暴落して破産していた。競売は万国博覧会に合わせて開かれ、アメリカ人を呼びこむため、カタログはフランス語と英語で印刷された。《晩鐘》を争ったのは、マネの友人で元美術大臣のアントナン・プルーストと、ニューヨークのアメリカ美術協会のジェームズ・サットンで、プルーストは美術愛好家のグループを代表して、ルーヴルのために競り合っていた。絵は55万3000フランでプルーストが落とし、会場からは「フランス万歳!」の声が上がった。
購入の資金は議会が出すことになっていた。代議士エドゥアール・ロックロワは、そうしなければこの絵は「フランス議会が拒否」という札をつけてアメリカを巡回することになると警告し、ジャック・サリスは、55万3000フランは共和国には高すぎると主張した。法案は元老院に送られる前に時間切れとなり、7月半ばに撤回された。プルーストは絵をアメリカ人に譲り、絵は1889〜1890年にアメリカで展示された。1890年、パリの百貨店「グラン・マガザン・デュ・ルーヴル」の創業者アルフレッド・ショシャールが、資料によって75万フランとも80万フランともいわれる額でこれを買い戻し、フランスに持ち帰った。ショシャールは1909年に亡くなり、ほとんどがフランスの作品からなる、100点を超える絵とブロンズのコレクションをルーヴルに遺贈した。遺言は1910年1月15日の政令で承認された。
1875年1月に亡くなったミレーは、この絵の着想は子どものころの記憶から来たと語っていた。彼の祖母は、畑で教会の鐘を聞くと、いつも仕事の手を止めて、貧しい死者のためにみんなに「お告げの祈り」を唱えさせた。カトリック教徒が朝、正午、夕方に、鐘の音に合わせて唱える祈りである。絵のなかでは、日はもう沈んでいる。男と女がジャガイモ畑に立ち、頭を垂れている。女は顎の下で手を組み、男は帽子を胸に当てている。二人のあいだの地面にはジャガイモの籠があり、左には地面に突き立てたフォーク、右には袋を積んだ手押し車があって、地平線上、女の頭の右に、教会の尖塔がかすかに見える。
1932年8月11日、技師ピエール・ギヤールがルーヴルでこの絵をペンナイフで切りつけた。修復家たちは当時、空の裂け目を除けば、傷は目立たないようにすると約束した。


サルバドール・ダリは、ミレーがはじめ籠の下に子どもの小さな棺を描いていたと考えていたが、美術館や研究所の刊行物でそれを裏づけたものは一つもない。ダリの求めでルーヴルの研究所がエックス線写真を撮り、そこには籠の下に、塗りつぶされた暗い細長い形が写っていた。ダリはこの写真を、1963年に出た著書『ミレーの《晩鐘》の悲劇的神話』に載せた。
11. エドガー・ドガ《カフェにて(アブサン)》
女優エレン・アンドレと、画家で版画家のマルスラン・デブータンはドガの友人で、二人はドガのアトリエでポーズをとった。デブータンは、1876年ごろ印象派の画家たちが集まっていたピガール広場のカフェ「ヌーヴェル・アテーヌ」の常連だった。ドガは二人をこのカフェのテーブルに座らせ、たまたま目にした光景に見えるように場面を組み立てた。
脚の見えない灰白色の大理石のテーブル板が三枚、左下の隅からジグザグに続き、何も載っていない大理石が画面の左側と下側を占めている。二人は右上の隅に座っている。明るい色の服に小さな帽子の女は肩を落とし、下の、少し脇のほうを見ている。女の前には、濁った黄緑色の液体、アブサンの入ったグラスがあり、それは女自身のテーブルよりも男のテーブルに近い。黒い服でパイプをくわえた男は、右の、額縁の外を見ていて、画面の右端が彼の手とパイプを断ち切っている。二人の後ろの鏡には、暗くぼやけた後頭部だけが映っている。
ドガ自身はこの絵を《カフェにて》と名づけた。1876年、ブライトンのヘンリー・ヒル大尉がロンドンの画商を通じてこれを買い、ブライトンで《フランスのカフェのスケッチ》として展示したが、そのときは特に注目を集めなかった。1892年2月19日、ヒルのコレクションがクリスティーズの競売にかけられると、会場はこの絵にやじを浴びせた。1893年、絵はロンドンのグラフトン画廊で初めて《アブサン》という題で展示され、新聞紙上で大騒ぎになった。画家ウォルター・クレインはこれを「男と女の、人間の堕落の習作」と呼んだ。世間はアンドレとデブータンを本物の酒飲みだと思いこんだ。
同じ1893年、銀行家でコレクターのイザーク・ド・カモンド伯爵がパリでこの絵を買い、1911年、彼の遺言によって、所蔵していたドガ、モネ、セザンヌの作品とともにルーヴルに入った。

12. ポール・セザンヌ《カード遊びをする人々》
二人の男が小さなテーブルをはさんで向かい合い、自分のカードを見ている。二人のあいだには、白いハイライトが一筋入った暗いワインの瓶が立ち、カンヴァスをほぼ真ん中から二つに分けている。左の男は白く短い陶製のパイプをくわえ、暗い色合いで、背筋を伸ばして身を固くし、カードを胸もとに持っている。右の男は明るい色の上着を着て、背が高く体も重たげで、テーブルに低く身をかがめ、カンヴァスの右端で体が切れている。テーブルクロスは手前の縁から平たいひだになって垂れ、頭上の背景はオリーブ色、緑、紫の斑点ににじんでいる。
1890年代の前半から半ばにかけて、すでに50歳を過ぎ、主に故郷のエクス=アン=プロヴァンスで制作していたポール・セザンヌは、カード遊びをする人々の絵を五点描いた。そのうち二点ではテーブルに何人もの人物が座っていて、それらはいまメトロポリタン美術館とバーンズ財団にある。残る三点では、カードをしているのは二人である。オルセーのヴァージョンはこの三点のなかでいちばん小さく、長いあいだ連作の最後の一点とされてきたが、2010年の技術調査によって、その順序には疑問が投げかけられた。
この絵の最初の持ち主は、1895年にセザンヌの初めての個展を開いた画商アンブロワーズ・ヴォラールだった。1907年5月4日にイザーク・ド・カモンド伯爵がこれを買い、1911年、絵はルーヴルへの彼の遺贈に含まれた。
1961年、ルーヴルはエクス=アン=プロヴァンスのヴァンドーム館で開かれたセザンヌ展にこの絵を貸し出した。8月12日から13日にかけての夜、そこからセザンヌの絵が八点持ち去られ、《カード遊びをする人々》もそのなかにあった。当番の憲兵は一人だけで、階下にいて、警報装置は作動しなかった。絵の捜索が続いていた11月10日、フランスの郵政はセザンヌの《カード遊びをする人々》の切手を発行した。警察に匿名の電話があり、1962年4月11日、絵はマルセイユに乗り捨てられていた盗難車のプジョー404のなかから見つかった。
セザンヌのモデルになったのは、エクス近郊にあった一家の地所ジャ・ド・ブッファンで働く人々だった。作品目録によれば、プレーヤーの一人はポラン・ポレという名で、ポーズ一回につき5フランが支払われていた。
二つの大戦のあいだ(1920〜1936年)
13. ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ》
1881年に《オルナンの埋葬》を国に寄贈したあの妹、ジュリエット・クールベは、同じ年の12月9日、オテル・ドゥルオーの競売で《画家のアトリエ》をアロ画廊に2万1000フランで売った。その後、パリのコレクター、ヴィクトール・デフォセがこれを買った。彼の死後、遺品の売り立てで未亡人がこの絵を買い戻し、幅6メートル近いこのカンヴァスは、1919年まで、ガリレ通りのデフォセ邸で素人芝居の背景幕として掛けられていた。1920年2月13日、公募による寄付金とルーヴル友の会の資金で、この絵はルーヴルのために購入された。価格は70万フランとされることが多い。
クールベは1854年から1855年にかけての冬、パリ万国博覧会に向けてオルナンでこの絵を描き、「わが芸術的、精神的生活の七年間を定める現実的寓意」という副題をつけた。七年は1848年の革命から数えたものである。
中央にはクールベ自身が座って風景画を描いていて、イーゼルに載ったその風景画は、画面全体でいちばん明るく、いちばん青い部分になっている。彼の肩の後ろには裸のモデルが白いシーツを胸に押し当てて立ち、彼女の服はばら色と白の山になって床に落ちている。画家の膝のそばでは木靴をはいた少年がカンヴァスを見つめ、下では白い猫が遊んでいる。左側にクールベは、シャンフルーリへの手紙の言葉によれば「日常生活のもう一つの世界、民衆、貧困、富、搾取される者、搾取する者」を置き、右側には「株主たち」、つまり友人や芸術愛好家たちを置いた。右端では、シャルル・ボードレールが本を読んでいる。その隣にクールベは詩人の頼みで恋人ジャンヌ・デュヴァルを描いたあと塗りつぶしたが、時がたって絵の具が透けてくるにつれ、彼女のシルエットが浮かび上がってきた。


1855年の万国博覧会の審査員はクールベの作品11点を受け入れたが、この絵と《オルナンの埋葬》は落とした。クールベは会場のそばに自前のパヴィリオンを建てて「レアリスム館」と名づけ、《アトリエ》を第1番として掛けた。ウジェーヌ・ドラクロワは一人でそこを訪れ、一時間近くとどまって、日記にこう記した。「私は彼の落選した絵のなかに傑作を見出す。この光景から目を離すことができなかった」
14. クロード・モネ《庭の女たち》
1866年の春、クロード・モネは、パリ近郊ヴィル=ダヴレーに借りていた家の庭で、高さ2メートル半を超える絵を描きはじめ、その一部は屋外でじかに描いた。視点を変えずに上のほうまで手が届くように、彼は庭に溝を掘り、そこへカンヴァスを下ろした。モネは25歳で、金はなかった。
左の三人の女のモデルになったのは、恋人で、のちに妻となるカミーユ・ドンシューである。クリノリンを着た四人の女が木の葉の天蓋の下に立ち、あるいは座り、二股に分かれた細い若木が絵を二つに分けている。中央に座る女の白いスカートは、黒い組紐で縁どられた大きな円になって草の上に広がり、日の光がそれを斜めに断ち切っている。日陰では、白いドレスが冷たい青みを帯びる。右の赤毛の女は枝へ手を伸ばし、地面にほとんど触れずに、枝のほうへ滑っていくように見える。2020〜2021年の修復で、モネが左の縞のドレスの女をあとから描き加え、サインを中央から右下の隅へ移していたことがわかった。
1867年のサロンの審査員はこの絵を落選させた。モネの友人の画家フレデリック・バジールは、カミーユが子どもを身ごもっていたあいだモネを助けようと、月50フランずつの分割払いで、この絵を2500フランで買った。バジールは1870年、普仏戦争のボーヌ=ラ=ロランドの戦いで戦死し、絵は彼の父が相続した。モネの作品目録をまとめたダニエル・ヴィルデンスタインが紹介している説によれば、1876年、バジールの父はこの絵を、ルノワールが描いた息子の肖像と引き換えにマネに渡し、マネはモネの作品一点と交換して、この絵をモネに返した。
それから45年、《庭の女たち》はモネの手もとにあり、はじめはアルジャントゥイユに、のちにジヴェルニーに置かれていた。1921年、国はリュクサンブール美術館のために、画家からこの絵を20万フランで買った。同じころモネは《睡蓮》の寄贈について国と交渉しており、19枚のパネルの寄贈証書は1922年4月12日に署名された。

15. ポール・ゴーギャン《海辺のタヒチの女たち》
ポール・ゴーギャンはこの絵を、タヒチで、アルノーという名の船長に贈った。船長の娘ウィルモット夫人は1920年までこれをパペーテの自宅に置いていたので、絵はおよそ30年を島で過ごしたことになる。その後、絵はギー・ド・ショレ子爵の手に渡り、1923年、子爵のきょうだいであるヴィタリ伯爵夫人が、彼をしのんで国に寄贈した。
1891年6月、旅費をまかなうためにオテル・ドゥルオーの競売で自作を売り払ったゴーギャンは、船でパペーテに着き、タヒチでの最初の数か月にこの絵を描いた。二人の女が黄色い砂の上に座ってカンヴァスのほぼ全体を占め、右の女は大きすぎて額縁に収まりきらず、膝とスカートの裾が右端の外へはみ出している。左の女はこちらに背を向け、片手をついて頭を傾けて座っている。長い黒髪に黄色いリボンを結び、耳の後ろに白い花を挿し、大きな白い葉の模様のある真っ赤なパレオを着ている。右の女は脚を組んで座り、喉もとまでボタンを留めた、長袖のゆったりしたばら色のドレスを着ている。宣教師たちが島に持ちこんだ種類の服である。彼女はオレンジ色のヤシの繊維で何かを編みながら、横目で見る者のほうをうかがっている。二人は互いに目を合わせていない。砂の向こうには、暗い水、鮮やかな緑の陸地、白い波頭の立つ暗い海が帯になって続いている。
1892年、ゴーギャンはこの構図を、いまドレスデンにある《パラウ・アピ(何か新しいことは?)》で繰り返し、右の女には縞のパレオを着せた。
16. フランソワ・ポンポン《シロクマ》
1922年、パリのサロン・ドートンヌに出した石膏のシロクマでフランソワ・ポンポンが有名になったとき、彼は67歳だった。それまでの数十年、彼はプラティシャン、つまり他人の原型を大理石に移す職人として働き、カミーユ・クローデルやオーギュスト・ロダンの仕事もしていた。1905年ごろから動物に取り組み、パリ植物園の動物園で動物を素描し、粘土で形にした。動物のあとについて歩きながら粘土を扱えるように、胸に取りつける携帯用の作業台までこしらえている。彼ははじめ細部まですべてつくりこみ、それから少しずつ削っていった。
1927年、国はリュクサンブール美術館のために、大きな石の作品を2万5000フランで注文した。雑誌『ルーロップ・ヌーヴェル』の編集長だったジャーナリストのルイーズ・ヴァイスがエドゥアール・エリオ大臣にポンポンのことを働きかけ、銀行家でコレクターのダヴィッド・ダヴィッド=ヴェイユが石灰岩のブロックを寄贈した。クマを彫ったのはプラティシャンのジャン=ジョアキム・シュペリで、パリ近郊マラコフの工房で、ポンポンの監督のもとで作業した。今度は立場が逆になり、ポンポン自身のために、別の職人が原型を石に移したのである。クマは1929年2月16日に納められた。1939年にリュクサンブール美術館から国立近代美術館へ、1986年にオルセーへ移った。1922年の有名な石膏像と、この石の像は、別々の彫刻である。
等身大のクマは、柱のようにまっすぐな脚で歩いていて、後ろ足の一本はもう台座からかかとを浮かせ、地面を蹴り出そうとしているかのようである。頭は長く太い首の上に持ち上げられ、鼻先を上に向けて、においを嗅いでいるように見える。石はなめらかでつやがなく、毛並みは一本の溝でも表されていない。目は小さな二つの点で、口は細く刻んだ一本の線で示されていて、その線のせいで、クマはかすかに笑っているように見える。ポンポンは「穴も影もない」彫刻が好きだと語っていた。

ポンポンは1933年に亡くなり、およそ300点の作品を国に遺した。その大半は1948年にディジョン美術館に移された。
17. アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ラ・グリュの見世物小屋のためのパネル
ムーラン・ルージュのカンカンの花形だったラ・グリュことルイーズ・ヴェベールは、1895年にそこを辞め、縁日フォワール・デュ・トローヌに場所を借りて自分の見世物小屋を開き、「東洋風」のベリーダンスを踊った。小屋の正面のために、彼女は友人のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックに大きなカンヴァスを二枚描いてくれるよう頼んだ。1891年にムーラン・ルージュのポスターで彼女を有名にしたロートレックは、それぞれ高さも幅も3メートルほどのパネルを二枚描き、パネルは入口のそばの外壁に、雨や日にさらされて掛けられた。

左のパネルでは、ラ・グリュがムーラン・ルージュで「骨なしヴァランタン」、ヴァランタン・ル・デゾッセと踊っていて、これは彼女の過去である。右のパネルでは、小屋のなかで観客を前に新しい「ムーア風」の踊りを踊っていて、これが彼女の現在である。ロートレックは背景をほとんどどこも描きこまず、人物は茶色のカンヴァスにじかに筆の暗い線で描かれ、色が塗られているのは一部だけである。すっかり色で描かれているのはラ・グリュ本人で、白いペチコートの泡の上に緑のスカートをはいている。一方、相手役の、シルクハットをかぶった長身のヴァランタンは、ほとんど線だけでできている。右のパネルの観客のなかに、研究者たちは、シルクハットをかぶった太った男としてオスカー・ワイルドを、そして右側にだれよりも大きく描かれた、とがった顎ひげの批評家フェリックス・フェネオンを見分けている。
1900年、小屋が立ち行かなくなると、コレクターの医師ジョルジュ・ヴィオーがカンヴァスを買った。1907年に彼のコレクションが売り立てられてパネルは画商オドベールの手に渡り、1926年、オドベールは二枚のカンヴァスを八つの大きな断片に切り分け、それぞれを別々の木枠に張って、独立した絵のように額に入れた。1929年、国はユーグ・シモンという一人の持ち主から断片とカンヴァスの切れ端を買い、「骨なしヴァランタン」の断片はオフレ氏が寄贈した。1930年、パネルは組み立て直された。
カンヴァスの継ぎ目は目に見える。まっすぐな線が画面を長方形に区切り、人物の上をそのまま横切っていて、左のパネルではヴァランタンの足もとに、ほかより明るいカンヴァスの帯がはめこまれている。
18. ベルト・モリゾ《ゆりかご》
若い女が左側に横顔で座り、手で顎を支えて、眠っている子どもを見つめている。ゆりかごは画面の下半分全体と右端を占め、上から白いモスリンの天蓋が垂れている。天蓋は絵を斜めに横切り、母親の胸の前にまでかかっている。子どもはモスリン越しに見え、目を閉じていて、頭のそばで曲げた小さな腕が、母親の曲げた腕と同じ形をなぞっている。もう一方の手で、女はゆりかごの縁に触れている。絵はほとんど白、青みがかった灰色、ばら色だけで描かれ、暗いまま残っているのは母親の上着と右端の帯だけである。
描かれているのは、ベルト・モリゾの姉エドマ・ポンティヨンと、1871年12月23日に生まれたその娘ブランシュである。姉妹は一緒に絵を学んだが、エドマは海軍士官アドルフ・ポンティヨンと結婚してロリアンに移り、絵をやめた。
1874年の春、キャピュシーヌ大通りにあった写真家ナダールの旧アトリエで第1回印象派展が開かれたとき、ベルト・モリゾは出品者のなかでただ一人の女性だった。彼女は九点を出し、《ゆりかご》もそのなかにあった。絵は売れず、モリゾはこれを売り物から外した。1895年に彼女が亡くなったとき、死亡証明書には「職業なし」と書かれた。
絵は家族のもとに残り、1930年、ルーヴルはこれをブランシュ・フォルジェ夫人、旧姓ポンティヨンから買った。あのゆりかごのなかの子どもで、そのとき58歳だった。


19. エドガー・ドガ《14歳の小さな踊り子》
マリー・ヴァン・ゴーテムは1865年6月7日、パリの貧しいベルギー人の家庭に生まれた。彼女も姉妹たちもオペラ座のバレエ学校で学んでいた。14歳になったのは1879年で、そのころエドガー・ドガが彼女をモデルに像をつくり、その年齢がこの彫刻の題になった。1882年5月、彼女は欠席を理由に学校を退学させられ、その後どうなったのかは、伝記作者たちにも突き止められていない。
ドガは骨組みの上に着色した蝋で彼女を肉づけし、本物の絹の胴着、チュールのチュチュ、タイツ、バレエシューズを身につけさせ、髪にはサテンのリボンを結び、本物の髪でできたかつらをかぶせた。1881年4月、彼はこの像をガラスのケースに入れて第6回印象派展に出した。ドガが一般に公開した彫刻は、これ一点だけである。批評家ポール・マンツは新聞『ル・タン』で、どうしてこれほど醜いのかと問い、ある評者はこれを「少し猿で、少しアステカ人」と呼んだ。
1917年9月にドガが亡くなると、アトリエからおよそ150体の蝋の像が見つかった。相続人たちは鋳造師アドリアン=オーレリアン・エブラールと取り決めを結び、エブラールはそれらをブロンズで鋳造して、《小さな踊り子》はおよそ30体つくられた。ドガが鋳造を許したことは一度もなく、彼のブロンズはすべて死後の鋳造なので、オルセーにあるのは作者の死後につくられた複製である。「P」の文字が刻まれたこの一体を国は1930年に買い、1931年にルーヴルに入った。記録には、この購入は画家の相続人とエブラール家の厚意によって実現したと書かれている。
少女は四番ポジションで立ち、左脚を後ろに引いて背中で両手を組み、顎を高く上げて、目をほとんど閉じている。胴着はボタンやひだごとブロンズで鋳造されているが、ブロンズのお下げ髪に結んだリボンとチュールのチュチュは本物の布でできている。
蝋の原型はワシントンのナショナル・ギャラリーにあり、1999年にポール・メロンのコレクションから入った。


20. アンリ・ルソー《蛇使いの女》
画家ロベール・ドローネーの母ベルト・ドローネーは、1907年、アンリ・ルソーにこの絵を注文した。よく語られる話によれば、彼女はインドを旅したことがあり、その旅の話を客にするのが好きで、旅の思い出に何か描いてほしいとルソーに頼んだという。ルソーはかつて、パリに持ちこまれる品物に入市税をかける関所で働いていたので「税関吏」とあだ名されたが、フランスの外へ出たことは一度もなかった。彼はジャングルを、植物園の温室と動物園、挿絵入りの雑誌、そして万国博覧会のたびに建てられた異国の村から組み立てた。
この絵は逆光で描かれている。左では緑がかった空に満月が水の上に浮かび、ほぼ中央にこちらを向いて立つ蛇使いの女は真っ黒で、光っているのは目だけである。彼女は笛を吹き、一匹の蛇は衣のように肩に掛かり、もう一匹は草のなかから彼女のほうへ伸び上がっている。左の葦のなかにはばら色のヘラサギが立ち、右には葉が壁のようにそびえていて、一枚一枚の葉が別々に輪郭をとられている。
その後この絵はロベールとソニアのドローネー夫妻のものになり、1922年5月、二人はこれを服飾デザイナーでコレクターのジャック・ドゥーセに5万フランで売った。取引をまとめたのは、当時ドゥーセに何を買うべきか助言していた詩人アンドレ・ブルトンである。売り手は、ドゥーセがこの絵をルーヴルに遺贈することを条件にした。ドゥーセは1929年10月30日に亡くなったが、未亡人が絵を手もとに置かせてほしいと願ったため、国が遺贈を受け入れたのは1936年になってからだった。
三点のゴッホ(1949〜1975年)

21. フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》
医師ポール・ガシェの子どもたち、息子のポール・ガシェとその姉マルグリットは、1949年、フィンセント・ファン・ゴッホのこの自画像を、医師本人の肖像とともに国に寄贈した。この寄贈を皮切りに、ガシェ家からの寄贈は1950年代まで続いた。ガシェ医師はオーヴェル=シュル=オワーズでゴッホを診ており、画家は1890年7月29日にその地で亡くなった。自画像がどのようにして医師の手に渡ったのかを伝えているのは、イギリスの雑誌『アポロ』という一つの資料だけで、同誌は2024年、ガシェがフィンセントの死後まもなく、画家の弟テオからこの絵を受け取ったと書いた。
オランダ人のゴッホは1886年からフランスに住み、1888年2月にアルルに移った。その年の末に発作を起こしたあと、1889年5月、彼はサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール療養院にみずから入った。7月には新たな発作に襲われ、数週間は制作できなかった。この肖像を描いたのは1889年9月で、9月20日ごろ、次のような手紙を添えてパリのテオに送った。「しばらく眺めてみてほしい。顔の表情は前より落ち着いたと思ってもらえるといいのだが、目つきは、自分では、前より頼りなくなったように思える」。これは彼の最後期の自画像の一つである。
顔は黄土色で描かれて影は緑、唇は結ばれ、目は横目で見る者に向けられている。赤い髪とひげは短い平行な筆触で置かれている。淡い青緑の背景は渦を巻く筆触で覆われ、同じ波打つ筆触が上着にまで続いているので、人物は壁にほとんど溶けこみ、暗い輪郭線とオレンジ色の頭だけが、人物を壁から分けている。
1890年5月、ゴッホはガシェ医師に見てもらうためにオーヴェルへ移り、テオからこのカンヴァスを引き取って医師に見せた。6月、彼は妹への手紙で、ガシェがこの自画像にすっかり夢中になったと書き、医師の肖像も描いた。同じ手紙で、その肖像は自分の自画像と「ほとんど同じ」だと書き添えている。

22. フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》
1959年4月、横浜港に、実業家松方幸次郎のコレクションから375点の作品が届いた。松方はパリでヨーロッパの美術品を買い集めた人物で、同じ年の6月、この作品群をもとに東京の国立西洋美術館が開館した。フランスはおよそ20点を手もとに残し、《アルルの寝室》もそのなかにあった。
松方は1920年代のはじめにパリのポール・ローザンベール画廊でこの絵を買ったが、絵は日本へは送られず、コレクションのうちパリに置かれた部分とともに残った。1944年、フランス解放のあと、コレクションは敵国財産として没収された。1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約の第14条によって、連合国は日本の財産を手もとに置けることになり、コレクションはフランス国家のものになった。1953年、かつて松方の相談役だった美術史家の矢代幸雄は、フランス美術館局長ジョルジュ・サルに、《寝室》とルノワールの絵一点を返してくれるよう求めた。交渉の末、ルノワールは返されたが、ゴッホは返されなかった。1959年5月27日の政令で、《寝室》はルーヴルに移管された。
2024年、団体「インターナショナル・レスティテューションズ」の代表ロベール・カザノヴァスは、フランスは形式上日本に宣戦布告していなかったのだから、1944年の没収には根拠がなかったと主張し、この絵を手放さないことを不法な横領だと呼んだ。フランスの公式の立場は異なり、この絵は1951年の平和条約と1959年の政令によって国のものとなり、コレクションの残りは寄贈のかたちで日本に返還された、というものである。
オルセーの《寝室》は三点のうち三番目で、いちばん小さい。ゴッホは最初のヴァージョンを1888年10月にアルルで描いたが、彼が入院しているあいだに、その絵は湿気で傷んだ。1889年9月、サン=レミで彼はそれを同じ大きさで描き直し、月末には、オランダにいる母と妹のために縮小版をつくった(最初のヴァージョンはいまアムステルダムに、二番目はシカゴにある)。あの部屋はもう彼のものではなかったので、彼は前の絵をもとに描いた。床は窓に向かって急にせり上がり、奥の壁はこちらへ迫ってくるように見える。血のように赤い掛け布団のかかった黄色い木のベッドが右半分を占めていて、それが画面で唯一の熱い赤である。ベッドの上にはオレンジ色の額に入った二枚の肖像が掛かっている。青い上着を着たひげのない赤毛の男と、目を伏せた黒髪の女である。アムステルダムのヴァージョンでは同じ場所に別の肖像が掛かっていて、この女がだれなのかを研究者たちは突き止めていないが、画家の妹ウィレミーナだと見る人もいる。
2019年、この絵は東京で、国立西洋美術館の開館60周年を記念する松方コレクション展に出品された。

23. フィンセント・ファン・ゴッホ《ローヌ川の星月夜》
ゴッホはおおぐま座をアルルの町の上に置いたが、彼はローヌ川の岸から南西を眺めており、この星座は北の空に見えるものである。天体物理学者ジャン=ピエール・リュミネは1888年9月の空を再現し、星々が北を向いたときに見える配置になっていることを確かめて、画家は一方の側に見える町と、反対側に見える星座を一つの画面に合わせたのだろうと推測した。
1888年9月29日ごろの弟への手紙で、ゴッホは「ついに夜に、ガス灯の下で描いた星空」について書き、緑がかった青の空、ロイヤルブルーの水、藤色の地面、そして黄色いガスの光を挙げて、その映りこみは「赤い金から緑のブロンズへ」移り変わると記している。星は淡い緑白色のロゼットとして描かれ、放射状の筆触の光輪に囲まれている。向こう岸には黄とオレンジのガス灯が一列に並び、その一つひとつから、黄と金のちぎれた筆触の柱が暗い水面へと、ほとんど手前まで伸びている。中ほどの岸辺には細いマストの小舟が二艘あり、右下の隅では、見落としてしまいそうなほど小さな二人が、腕を組んでこちらへ歩いてくる。手紙のなかで、ゴッホは二人を恋人たちと呼んでいる。

ローヌ川のこの岸は、ゴッホが借りていた黄色い家から歩いて二分のところにあった。彼はそのころゴーギャンの到着を待ちながら、その家に家具をそろえていた。1889年、テオはこの絵を《アイリス》とともにアンデパンダン展に送った。
テオの死後、絵は未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの手もとに残り、1899年、オランダの作家バス・フェトが、ゴッホの絵三点をまとめて1450ギルダーで買った。彼は友人に、このような聖なるものを金で自分の家に迎え入れられるとはどういうことなのかわからない、と書いている。1922年にフェトが亡くなると相続人たちが絵を売り、のちにこの絵はパリのフェルナン・モッシュのものになった。
1975年、ロベール・カーン=スリベールとその妻は、フェルナン・モッシュ夫妻をしのんで、生涯この絵を使う権利を自分たちに残したうえで、国に寄贈した。そのため国は、絵を掛けられるようになる前から、これを所有していたことになる。

相続税とパトロン(1995〜2022年)
24. ギュスターヴ・クールベ《世界の起源》
1889年6月29日、エドモン・ド・ゴンクールは、ある商人に仕掛けのある絵を見せられたことを日記に記した。外側の扉には雪のなかの村の教会が描かれていて、その下に、クールベがハリル・ベイのために描いた、「女の腹と下腹部」を表すもう一枚の絵が隠されていた。ゴンクールは、自分はクールベに詫びなければならないと認め、その肉体をコレッジョの絵にたとえた。彼は商人の名を記しておらず、文献ではふつう骨董商アントワーヌ・ド・ラ・ナルドだとされている。
パリ駐在のオスマン帝国の外交官ハリル・ベイは官能的な絵画を集めていて、クールベの《眠り》やアングルの《トルコ風呂》も持っていた。クールベは1866年、彼のためにこの絵を描いた。一般に認められている説では、注文によるものである。クールベに敵意を抱いていた作家マクシム・デュ・カンは、コミューンのあとになって書いたもののなかで、この絵がハリル・ベイの化粧室に緑のカーテンの陰に掛かっていたと回想している。1868年、ハリル・ベイは賭けで大負けしてコレクションを売り、この絵は個人的な取引でラ・ナルドの手に渡った。
カンヴァスは小さい。そこには、白いシーツの上に仰向けに横たわる裸の女の体が、足のほうから間近に見た姿で描かれている。画面は胸と腿のところで切られていて、頭、腕、すねは枠の外にある。開いた腿は下の両隅へ伸び、黒い陰毛はカンヴァスのほぼ中央にあり、上半身はしわくちゃのシーツで覆われ、右上に片方の乳房が見える。当時のアカデミックな画家たちは裸体をなめらかに、毛のないものとして描いたが、クールベは毛を細かく描きこんだ。
1910年ごろ、ブダペストのコレクター、ハトヴァニ・フェレンツ男爵が、パリのベルネーム=ジュヌ画廊でこの絵を買った。第二次世界大戦中、彼のコレクションはブダペストの銀行の金庫に保管されていた。絵がどのように戦争を生きのびたのかについては話が食い違っており、ハトヴァニ自身は、絵はいったん行方がわからなくなり、「幸運な偶然によって」手もとに戻ってきたと書いている。1947年、彼はパリに移り、この絵を持っていった。
1955年、精神分析家ジャック・ラカンと、その妻で女優のシルヴィア・バタイユが、半分ずつ金を出してこの絵を買った。二人はギトランクールの別荘にこれを掛け、シルヴィアは姉の夫である画家アンドレ・マッソンに、絵を覆うパネルをつくってくれるよう頼んだ。マッソンは引き戸式の木の蓋をつくり、そこに同じ体を、明るい線で風景のように描いた。ラカンは1981年に、シルヴィア・バタイユは1993年12月に亡くなり、1995年、相続人たちは相続税の支払いに代えてこの絵を国に引き渡した。フランスでこのように美術品で税を納めることを認めたのは、1968年の法律である。それまでこの絵が美術館で展示されたのは一度だけで、1988年、ブルックリンでのことだった。
長いあいだ、モデルはホイッスラーの恋人だったアイルランド人ジョアンナ・ヒファーナンだと考えられていたが、彼女の髪は赤かった。2018年、デュマ研究者クロード・ショップは、アレクサンドル・デュマ・フィスがジョルジュ・サンドに宛てた手紙を、フランス国立図書館にある手稿と照らし合わせた。手紙には画家の筆と「オペラ座のケニョー嬢」のことが書かれていて、印刷された版で「インタビュー」と読まれていた語は、手稿では「内側」という語だった。指していたのは、元オペラ座のバレリーナで、ハリル・ベイの愛人だったコンスタンス・ケニョーである。同じ図書館のシルヴィ・オブナスもこの説を支持したが、説の拠りどころは一通の手紙だけである。
2024年5月6日、ラカンをテーマにしたポンピドゥー・センター・メスの展覧会にこの絵が貸し出されていたとき、その保護ガラスに赤い塗料で「Me Too」と書かれた。ガラスは取り替えなければならなかったが、カンヴァスの絵の具は無傷だった。
25. ギュスターヴ・カイユボット《舟遊び》
この絵を持っていたカイユボット家の子孫は、2019年10月2日、絵をフランス国外へ持ち出す許可を申請した。つまり外国で売るつもりだったのである。1894年に画家が亡くなったあと、絵は弟のマルシャルに、1910年にはマルシャルの娘ジュヌヴィエーヴに渡り、それ以来ずっと一族のもとにあった。2019年12月18日、国宝委員会は輸出を認めないよう答申し、2020年1月30日に持ち出しは拒否されて、絵は国宝に指定された。これで国は、30か月のうちにこの絵の買値を提示すればよいことになった。2022年3月25日、国は4300万ユーロを出してくれるメセナを募ると発表した。全額を出したのはLVMHグループで、国宝に関する法律により、企業はこうした拠出のおよそ90パーセントを法人税から差し引くことができる。絵は国の所有となり、2023年1月30日にオルセー美術館で披露された。

見る者は軽いボートの船尾に座り、漕ぎ手と向き合っている。ニスを塗った黄土色の船底は肋材や座板ごと画面の下三分の一を占めて左右の端の外へ続き、オールは画面をほぼ端から端まで横切っている。漕ぎ手はちょうど真ん中に膝を開いて座り、ひと漕ぎの終わりに腕を胸もとへ引き寄せている。彼は背の高い黒い絹のシルクハットをかぶり、黒いベストに、袖の広い青と白の縞のシャツを着て、蝶ネクタイを締めている。委員会の答申には、彼は「街着の上着を脱いだだけ」だと書かれている。彼は見る者の向こう、左のほうを、上の空の様子で見ている。その後ろの川は、おそらくカイユボット家が夏を過ごしたイエール川で、人物より自由な、速くちぎれた筆触で描かれていて、麦わら帽子の漕ぎ手二人を乗せたもう一艘のボートがこちらへ向かってくる。
カイユボットは1879年の第4回印象派展でこの絵を公開した。彼は自分でもヨットを走らせ、舟をつくっていた。文化省によれば、彼は32艘の舟を持ち、さらにおよそ20艘の設計図を描いている。
1863年、ナポレオン3世はサロンでカバネルの《ヴィーナスの誕生》を買い、マネの《草上の昼食》は審査員によってサロンから締め出された。1890年には、画家たちが金を出し合って《オランピア》を国に贈った。1906年にはモロー=ネラトンが国に《草上の昼食》を贈り、1911年にはルーヴルがカモンドのコレクションを遺贈で受け取り、1995年にはラカンの相続人たちがクールベの絵で相続税を納め、2022年には、カイユボットの《舟遊び》がフランスから出ていかないように、国が4300万ユーロを見つけ出した。

ほかに見るなら
この25点のほかにも、1951年、やはりガシェ家の協力によって収蔵されたゴッホの《オーヴェルの教会》や、パリがドイツ軍の砲撃を受けていた1918年に、画家のアトリエの売り立てで買われたドガの《ベレッリ家族》がある。彫刻では、1964年にパリ・オペラ座の正面から外されて複製に置き換えられたジャン=バティスト・カルポーの《ダンス》と、カミーユ・クローデルの《分別盛り》を探してみるとよい。国は1899年にこの群像の注文を取り消し、ブロンズの鋳造費は個人が負担した。






































































