ブレラ美術館(ピナコテカ・ディ・ブレラ)は1809年、ナポレオンのイタリア王国の中心となる美術館としてミラノに開館した。コレクションの土台になったのは、新しい政府が北イタリア各地で廃止していった教会や修道院の絵である。そのためブレラの作品の多くは、もともと美術館のために描かれたものではない。祭壇画の一部であったり、信心会の巨大なカンヴァスであったり、かつては壁と一体だったフレスコ画であったりする。
ここにある作品のほとんどについて、それがいつ置き場所や立場を変えたのかをたどることができる。修道院が閉鎖された後に運び出された絵もあれば、交換や購入、遺贈によって入った絵もある。フレスコ画は壁から剥がされ、多翼祭壇画はばらばらの板に分けられ、ときには美術館が後になってそれを組み直そうとした。
最初に紹介するのはブレラ宮の中庭に立つブロンズのナポレオン、最後は通りを挟んだ向かいのチッテリオ宮に掛かるウンベルト・ボッチョーニの絵である。
ナポレオンの美術館

最初の絵は、廃止された教会や修道院、信心会からブレラへ運び込まれた。そのほとんどが、特定の祭壇や礼拝堂、広間のために描かれたものだった。
1. アントニオ・カノーヴァ《平和をもたらす軍神マルスとしてのナポレオン》、1807–1811年
1810年10月、フォンテーヌブローで、カノーヴァは皇帝を裸で表してよいかどうかをめぐってナポレオンと言い争った。彫刻家が1803年から1806年にかけて制作した大理石像は、そのころ海路でパリへ運ばれている途中で、この会話はのちにカノーヴァ自身が書き残している。フランス風のズボンをはかせたら、神様でさえ美しいものは作れないでしょう、と彼はナポレオンに言った。詩人の言葉が韻文であるように、彫刻家の言葉は裸体とそれにふさわしい衣の襞であり、彫刻に現代の服を着せれば、それは街なかの言葉づかいのように響くのだ、と。
1807年の春、ミラノのためにブロンズの複製を注文したのは副王ウジェーヌ・ド・ボアルネで、彼はローマのカノーヴァの工房でこの大理石像を見ていた。像を鋳造したのはローマのフランチェスコとルイジのリゲッティ父子で、材料にはサンタンジェロ城の大砲を溶かした金属が使われた。最初の鋳造は失敗し、二度目の鋳造が1811年までに仕上がって、1812年にブロンズ像はミラノに着いた。元老院の中庭に据える予定だったが、1814年にナポレオンが失脚し、像はアカデミーの地下倉庫にしまい込まれた。1857年、ミラノを訪れたオーストリア皇帝が、国費で市立公園に像を立てるよう命じたものの、その命令は1859年の戦争まで実行されなかった。
この像をブレラ宮の中庭に据えたのはロンバルディアの愛国者たちで、1859年8月14日、ナポレオン3世がミラノに入城してから二か月後のことだった。
胴体はまっすぐ正面を向いているが、頭は鋭くひねられ、伸ばした右手のほうへうつむいている。その手には、翼のある小さな勝利の女神ヴィクトリアをのせた球がある。左手は長い杖を高く掲げ、マントは肩の上で鷲の留め金で留められ、右脚の後ろの切り株には鞘に収めた剣が剣帯ごと掛けられている。武器がこうしてしまわれていることから、このマルスは「平和をもたらす」と呼ばれる。2013年から2014年にかけての修復の際に像の重さを量ると、予想よりも重く、3トンを超えていた。ローマの鋳造所の鋳型の土が、中にそのまま残っていたからである。有翼のヴィクトリアは1978年に球の上から盗まれて見つからず、現在の小像は1980年代の初めに写真をもとに作り直された。

2. ラファエロ《聖母の婚礼》、1504年
1798年1月29日、ウンブリアの小さな町チッタ・ディ・カステッロの当局は、軍を率いてやって来たジュゼッペ・レーキ将軍に、サン・フランチェスコ聖堂にあったラファエロの祭壇画を差し出した。それが自発的なものだったのかどうか、歴史家の意見は分かれている。2022年に公刊されたレーキ家の書簡には市からの贈り物と書かれているが、町にはほかに選択肢がなかったと考える研究者もいる。レーキは絵をブレシアへ持ち去り、ミラノの伯爵ジャコモ・サンナッザーリ・デッラ・リーパに売った。サンナッザーリは1804年に亡くなるとき、全財産をミラノの大病院オスペダーレ・マッジョーレに遺した。1806年、副王の政府が病院からこの絵を買い取り、アカデミーに引き渡した。
この絵はアルビッツィーニ家が聖ヨセフに捧げた一族の礼拝堂のために注文したもので、そのためヨセフが前景に出ている。ラファエロは21歳で、手本にしたのは師ペルジーノがペルージャ大聖堂のために描いた《聖母の結婚》だった。ラファエロは神殿を奥へ押しやり、神殿の円い平面をなぞるように人物を弧状に並べ、人物と建物のあいだに広々とした何もない広場を残した。

大祭司がマリアとヨセフの手首を取り、ヨセフがマリアに指輪をはめようとしていて、その指輪は画面のちょうど中央、多角形の神殿の扉の真下にくる。扉は開いていて、建物の向こう側の空が透けて見え、敷石の線はすべてこの扉に向かって集まっている。アーケードの上のフリーズには「ウルビーノのラファエロ」を意味するラテン語の署名があり、年号はその下のアーチの両側に分けて、左にM、右にDIIIIとローマ数字で記されている。ヨセフの手には花の咲いた杖があり、くじが彼に当たったことを示している。右下の隅では、深紅の長靴下をはいた選ばれなかった求婚者が、花の咲かなかった自分の杖を膝で折っている。
1958年6月、画家ヌンツィオ・グリエルミが二重の保護ガラスをハンマーで割り、錐で板を二度突いた。一度はマリアの肘のあたり、もう一度は神殿の階段の中ほどである。そして板に「イタリア革命万歳、聖職者政府を倒せ!」と書いたビラを貼りつけた。衝撃のほとんどはガラスが受け止め、グリエルミ本人はおよそ一年、ヴォルテッラの精神病院に収容された。

3. ピエロ・デラ・フランチェスカ《ブレラの聖母》、1472–1474年
聖母の頭上に、細い鎖で白い卵が吊り下がっている。鎖は、半円蓋が巨大な貝殻の形に作られた後陣の頂から下りてきていて、卵は画面の中心軸のちょうど上にあり、灰色の石を背にすると小さく見える。アメリカの美術史家ミラード・ミースは、教会にはダチョウの卵を吊るす習わしがあったことから、これをダチョウの卵とみなし、キリストの処女懐胎の象徴と考えた。ダチョウはウルビーノの君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの紋章でもあり、美術館は解説文で二つの意味、処女のまま母となった奇跡と注文主の紋章を結びつけている。
フェデリーコ本人は右側に、全身を板金鎧に包んでひざまずいている。いつもそう描かれたとおり左の横顔で、それは彼が馬上槍試合で右目を失っていたからである。兜と籠手と指揮杖は彼の前の床に置かれている。祈りのために合わせた両手は、研究者の見方では、ウルビーノで仕事をしていた別の画家、おそらくスペイン人のペドロ・ベルゲーテが描き直したものだという。フェデリーコの妻バッティスタ・スフォルツァは1472年7月、息子グイドバルドを産んでから半年後に亡くなった。美術館は、聖母の膝で眠る幼子に死の予兆を、そして絵全体に墓碑としての意味を見ている。
ピエロはこの絵をフェデリーコのために板にテンペラで描いた。おそらくウルビーノ近郊のサン・ドナート・デッリ・オッセルヴァンティ聖堂のためで、公爵は最初そこに葬られた。のちにこの板絵は、彼の死後、1482年から1491年にかけてその墓の上に建てられたサン・ベルナルディーノ聖堂の主祭壇に置かれた。板はいつの時点かで左右と下を切り詰められていて、それがいつだったかはわかっていない。切断の跡は上の両隅に見え、そこでは穹窿や軒蛇腹が途中で途切れている。下の縁も、床に置かれた甲冑のすぐ際を通っている。1811年、修道院の廃止にともなってこの絵はサン・ベルナルディーノの祭壇から外され、ブレラへ運ばれた。

4. スフォルツァ祭壇画の画家(ジョヴァンニ・アンジェロ・ミロフォーリ)《スフォルツァ祭壇画》、1494–1495年
イル・モーロの通称で呼ばれたルドヴィーコ・スフォルツァが、左側に厳格な横顔でひざまずいている。袖がひどく幅広い青いダマスク織の衣を着て、重い金の鎖をかけ、その肩にミラノの守護聖人である聖アンブロシウスが白い手袋をはめた手を置いている。美術館はこのしぐさを絵のなかでいちばん大事なものと呼んでいる。祭壇画は1494年、同じアンブロシウスに献じられた市壁の外のサンタンブロージョ・アド・ネムス聖堂のために描かれた。その年の10月、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが死ぬと、ルドヴィーコは公の幼い息子を権力から遠ざけ、皇帝マクシミリアンに自分をミラノ公として認めさせようと動いた。美術館はこの祭壇画を政治的プロパガンダの作戦と呼んでいて、ここでは町の守護聖人自らが新しい支配者を聖母に引き合わせている。
右側にはルドヴィーコの妻ベアトリーチェ・デステが、やはり横顔でひざまずいている。髪は耳に沿ってなめらかになでつけられ、額には飾りのついた細いリボンが巻かれ、背中には紐を編み込んだ長いお下げが垂れている。ドレスは金と黒と青の幅広い縦縞である。父の後ろには四歳ほどの男の子がひざまずき、母の後ろには白い産着にくるまれた赤ん坊がいて、どちらも大人の横ではごく小さい。この子どもたちが誰なのかについては、美術館自身も答えを一つに絞っていない。コレクションの解説ではルドヴィーコの庶子チェーザレの可能性を挙げ、教育用の資料ではベアトリーチェが産んだ嫡出の息子たちとしている。
画家の名は長く知られず、この絵にちなんでスフォルツァ祭壇画の画家と呼ばれてきたが、ブレラの目録ではジョヴァンニ・アンジェロ・ミロフォーリの名が挙げられている。サンタンブロージョ・アド・ネムスの修道院は1798年に廃止され、祭壇画はナポレオン時代の廃止で接収されたほかの教会の絵とともにブレラに入った。美術館によれば、ルドヴィーコの青い衣の模様は彼の紋章である多肉植物ヤネバンダイソウをかたどったもので、それにはドイツ語の標語「ミット・ツァイト」、つまり「時とともに」が添えられている。
5. ジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニ《アレクサンドリアで説教する聖マルコ》、1504–1507年
丸屋根をいただく神殿の前の広大な広場を、キリンが一頭歩いている。左端にはラクダが立ち、右の日陰にもう一頭が寝そべっている。カンヴァスは高さよりはるかに横幅が大きく、その下の三分の一を群衆が埋めている。左には黒い帽子に暗色や深紅のガウンをまとったヴェネツィア人たちが壁のように立ち並んでいて、これがこの絵を注文した信心会の会員たちである。中央には頭からすっぽり白いヴェールをかぶった女たちがくさび形に身を寄せて座っていて、ここが絵の下半分でいちばん明るい。右側には、巨大な白いターバンや背の高い赤い帽子をかぶった男たちがいる。聖マルコは小さな演壇から説教していて、その背後の神殿はヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂に似ている。
ジェンティーレ・ベッリーニはエジプトに行ったことがなかった。彼はモチーフを、1486年に出版されたブライデンバッハの聖地巡礼記にエアハルト・ロイヴィヒが添えた版画から、また自分が東方で見たものから取った。1479年から1480年にかけて、ヴェネツィアはスルタン・メフメト2世の求めに応じて彼をコンスタンティノープルへ送り、スルタンは彼に金の鎖を贈った。美術館の音声ガイドは、前景の会員たちのなかに、赤い服を着てその鎖を首にかけたジェンティーレ自身がいると指摘している。
この絵を注文したのはヴェネツィアの主要な信心会のひとつスクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコで、1485年の火災で以前の内装が焼けた後、役員たちが集まる広間のためのものだった。ジェンティーレはこの信心会の会員で、1504年、スクオーラは新しい絵を描こうという彼の申し出を受け入れた。ナポレオンのもとで信心会が廃止されると、カンヴァスは1809年、同じ広間にあったジョヴァンニ・マンスエーティの《聖マルコによるアニアヌスの洗礼》とともにブレラへ運ばれ、連作のほかの絵はヴェネツィアに残った。
ジェンティーレは仕事を終えることができなかった。すでに病んでいた彼は1507年2月19日に遺言をしたため、カンヴァスの仕上げを兄弟のジョヴァンニに託した。美術館は左側の会員たちの肖像をジョヴァンニの手になるものとしている。その四日後にジェンティーレは亡くなり、仕事の報酬として、二人の父ヤコポの素描帳をジョヴァンニに遺した。


6. ヤコポ・ティントレット《聖マルコの遺体の発見》、1562–1566年
1562年6月21日、ラヴェンナ出身の医師で、同じスクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコの長だったトンマーゾ・ランゴーネは、聖マルコの奇跡を描いた絵三点を自費で注文させてほしいと会員たちに願い出て、許しを得た。ティントレットは三点すべてにランゴーネ本人を描き込んだ。この絵では彼は中央にひざまずいている。白い髭をたくわえ、重い金襴の衣をまとい、絵のなかで身分ある同時代人の服装をしているのは彼ひとりである。よく語られる話では、注文主があまりに目立つことに会員たちが嫌気がさし、「ラヴェンナの男」の姿を消すようにとカンヴァスを画家に送り返したという。もしそうだったとしても、カンヴァスは何も変わらないままスクオーラに戻ってきた。
長い穹窿天井の広間が、斜めに奥へと延びている。右では男たちが壁の墓を開け、裸の遺体を頭を下にして梯子で下ろしている。左端には聖マルコ本人が青白い姿で誰よりも高く立ち、威厳をもって片手を挙げていて、その足もとの絨毯には、足をこちらに向けて彼自身の遺体が横たわっている。右下の隅では悪霊に憑かれた男が床でもがき、その上に細い灰色の筋が立ちのぼっている。悪霊が煙となって彼から出ていくところである。この絵の伝統的な題名は17世紀にさかのぼるが、美術館は歴史家アウグスト・ジェンティーリの解釈に従っている。それによれば、描かれているのはアレクサンドリアの教会で起きたマルコの奇跡、つまり病の癒やし、死者のよみがえり、悪霊祓いである。
スクオーラはナポレオンのもとで廃止された。イタリア王国の美術行政を担っていた画家アンドレア・アッピアーニがこのカンヴァスをミラノの新しいギャラリーのために選び、1811年7月30日に絵はミラノに届いたが、展示はされなかった。1847年、ミラノのサン・マルコ聖堂の主任司祭がこの絵を預かりたいと願い出て、アカデミーの委員会はそれに応じた。委員会は絵に「まれな長所」を認めながらも、大きすぎるうえに「面白みのない建築の背景」だと判断したのである。ランゴーネのほかの二点のカンヴァスはヴェネツィアに残り、1920年になってようやくアカデミア美術館に入った。1886年、ブレラの館長ジュゼッペ・ベルティーニは最初に下した決定のひとつとして《聖マルコの遺体の発見》をギャラリーに戻し、これを「悲劇的な力の奇跡」と呼んだ。
7. ジョヴァンニ・ベッリーニ《ピエタ》、1460–1470年頃
下のほう、大理石の胸壁の正面に、石に貼りつけたような小さな紙片が描かれていて、そこに二行のラテン語の詩が書かれている。ベッリーニはローマの詩人プロペルティウスの詩句を作り替え、そこに自分の名を詠み込んだ。銘文のおおよその意味は、この場面を見る者の目は涙であふれ、ベッリーニの絵そのものも泣き出しかねない、というものである。
胸壁の向こうに三人の人物が腰から上だけ見えている。死んだキリストが中央に立ち、両側から支えられていて、茨の冠をかぶった頭は母の顔のほうへ傾いている。マリアは頬をキリストの頬に押しつけ、両手で彼の右手を胸もとに抱えていて、釘の傷がちょうど画面の中央にくる。右のヨハネは顔をそむけ、口を開き、目を赤くしている。キリストの左手は胸壁の上に置かれ、傷のある指が石の縁からこちらへ垂れ下がっている。空は冷たく淡い青で、細長い雲がたなびき、左の小さな風景では、枯れた切り株のまわりに水が渦を巻いている。
ベッリーニの姉妹はアンドレア・マンテーニャの妻で、キリストの体の硬い、ほとんど石のような描き方は、しばしばマンテーニャの影響と結びつけられる。
《ピエタ》を誰が注文し、どこのために描かれたのかは、研究者にも突き止められていない。この絵の来歴がたどれるのは、ボローニャのサンピエーリ家のコレクションからである。1811年にサンピエーリ家はコレクションを売り立て、同じ年、副王ウジェーヌ・ド・ボアルネがそこから出た《ピエタ》をブレラに寄贈した。

解体し、壁から剥がし、組み直す

ブレラに入った後、祭壇画はしばしば解体された。多翼祭壇画は一枚ずつの絵に分けられ、不要とされた板はほかの流派の作品と交換され、フレスコ画は壁から剥がされて新しい支持体に移された。
8. ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ《聖母戴冠と聖人たち(ヴァッレ・ロミータ多翼祭壇画)》、1406–1410年頃
ファブリアーノ近郊にある厳修派フランシスコ会の庵サンタ・マリア・ディ・ヴァルディサッソは、ヴァッレ・ロミータと呼ばれていて、1810年6月4日に廃止された。その財産目録を作ったのはナポレオン政府の役人カルロ・ロゼーイである。彼は祭壇の上段にあった小さな板絵四枚を自分の手元に置き、それらはほぼ一世紀のあいだ彼の子孫の家に残った。1811年9月24日、三枚の大きな板絵がブレラに届いた。《聖母戴冠》と、それぞれ二人ずつ聖人が描かれた二枚の板である。美術館では二人組の板を鋸で切り分け、聖人を一人ずつ別の額に入れて別々に掛けたので、三枚の板から五点の絵ができた。1901年10月、館長コッラード・リッチの勧めでブレラはロゼーイの相続人から小さな場面四点を買い取り、1925年にはすべての部分を新しい支持体で補強して、新たに作ったネオ・ゴシック様式の金の額にまとめた。
この土地の出身であるジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは、ヴェネツィアに住んで仕事をしていた時期にこの祭壇画を描いた。注文に関する文書は残っておらず、研究者の多くは注文主をファブリアーノの領主キアヴェッロ・キアヴェッリと考えている。彼は1405年、荒れ果てていたこの庵を買い取り、一族の墓所にしようとしていた。

赤いマントのキリストが、深く頭を垂れたマリアに冠をかぶせている。二人の上には赤いセラフィムの輪に囲まれた父なる神がいて、そのあいだに鳩が浮かんでいる。この二人の下では小さな天使たちが歌い、楽器を奏でていて、さらにその下を金の星をちりばめた濃紺の弧が横切っているので、戴冠は星空よりも高いところで行われていることになる。金地には細い光線が引っかくように刻まれ、光輪には花の模様が打ち出されている。下段のヒエロニムス、フランチェスコ、ドミニクス、マグダラのマリアは暗い草地に立っていて、そこに咲く小さな花は一輪ずつ描き分けられている。
《聖母戴冠》の上の額の破風は、彫刻だけで埋められている。ここにはかつて最上段の板があったが、失われた。文書による証拠はないものの、状況証拠からこの場所と結びつけられているのが、ジェンティーレの《キリストの磔刑》である。ブレラは1994年にロンドンの美術市場でこの絵を買い、独立した作品として所蔵している。

9. カルロ・クリヴェッリ《蝋燭の聖母(マドンナ・デッラ・カンデレッタ)》、1490年頃
玉座の段の左端に、火のついていない細い蝋燭が一本、ひとしずくの蝋で留められて立っている。この蝋燭にちなんで絵は「蝋燭の聖母」と呼ばれ、美術館の解説は、これを見る者自身が描かれた世界の入り口に置いていった捧げ物だと説明している。その上の大理石の玉座には、冠をかぶり、大きな金の模様に覆われた濃紺のマントをまとった聖母が座り、幼子に洋梨を差し出している。上辺には葉、洋梨、リンゴ、キュウリ、サクランボの重い花綱がかかり、果物は絵の外へ垂れ下がってくるように描かれている。いちばん下の段にはユリとバラを挿した暗い色の花瓶が置かれ、そばにサクランボとバラが一輪ある。下の中央の小さな紙片には署名があり、そこでクリヴェッリは自分を騎士と名乗っている。騎士の称号は1490年にカプア公フェルディナンドから授けられたもので、署名のこの一語によって絵の年代が決められている。
ヴェネツィア生まれのクリヴェッリは、1457年に人妻との関係のためヴェネツィアの法廷で有罪とされ、その後ヴェネツィアを永久に離れた。彼はダルマティアで、次いでマルケ地方で仕事をし、1480年代の初めからはカメリーノに住んだ。カメリーノ大聖堂の主祭壇のために彼は二段からなる大きな多翼祭壇画を描いたが、早くも1548年には、内陣を改築していた司教がおそらくそれを祭壇から外した。1799年の地震で大聖堂は崩れ、多翼祭壇画の残った部分はサン・ドメニコ聖堂に移された。1811年9月24日、ナポレオン政府の委員会はクリヴェッリの板絵13枚をブレラに運び込み、そのうち12枚はカメリーノからのものだった。
1820年から美術館はこれらの板を独立した絵とみなすようになり、数が多すぎると判断した。そして、2009年にブレラ自身が出した展覧会の解説文にあるとおり、コレクションに欠けていた流派の絵と、まるでカードのように交換していった。数十年後には、聖母の隣にあった聖アンソヴィヌスと聖ヒエロニムスの板の番が来た。この板は、クリヴェッリを一点も持っていなかったヴェネツィアのアカデミア美術館に譲られた。もう一方の側翼、ペテロとパウロの板は、大聖堂の瓦礫の下から別に見つかり、これもヴェネツィアに渡った。こうしてブレラには、多翼祭壇画のうち中央の板一枚だけが残った。
2026年4月、カメリーノ市は、1811年に運び去られたクリヴェッリの板絵、全部で八枚を市に返還するよう文化省に正式に求めた。そのうち五枚はブレラにあり、残りはヴェネツィアとベルリンにある。ベルリンに渡った一枚は、19世紀にブレラ自身が交換に出したものである。


10. ピーテル・パウル・ルーベンス《最後の晩餐》、1631–1632年頃
1812年、ルーヴルの館長ヴィヴァン・ドノンはブレラに交換を持ちかけた。イタリアの絵五点と北ヨーロッパの絵五点を取り替えようというのである。アカデミーの委員会は反対したが、副王ウジェーヌ・ド・ボアルネはこの取引を承認した。ルーヴルへ渡った絵のなかには、カルパッチョの《聖ステファヌスの説教》と、ブレラがその少し前にヴェネツィアの信心会から、そしてある教会から引き取ったばかりのモレットの板絵二点があった。
ルーベンスは《最後の晩餐》を、メヘレンの聖ロンバウツ大聖堂にある聖体礼拝堂の祭壇のために描いた。注文したのはカトリーヌ・レスキュイエで、その礼拝堂の下に葬られた父を記念するためだった。1794年、フランス革命政府の委員たちがこの絵をメヘレンからルーヴルへ運び去った。プレデッラの板絵二枚、《エルサレムに入城するキリスト》と《洗足》は1803年にディジョンの地方美術館へ送られていて、交換のときには忘れられたと考えられており、そのままディジョンに残った。
キリストは赤い衣で食卓につき、パンを祝福しながら、使徒たちの頭越しに上を見ていて、そのそばには蝋燭が燃えている。右の前景には、青いチュニックに巨大な黄土色のマントをまとったユダが座っていて、画中でいちばん大きな人物である。彼は手を口もとに当て、まっすぐこちらを振り返っていて、私たちを見ているのは彼ひとりである。食卓の下、ユダの足のすぐそばでは、犬が骨をかじっている。
ドノンから受け取った五点のうち二点は、考えられていたものとは違っていた。フランス軍がプロイセンのサンスーシ宮殿からルーベンスの作品として持ち去った《イサクの犠牲》は、ブレラでヤーコブ・ヨルダーンスの絵と認められ、レンブラントとして送られてきた《若い女性の肖像》はその追随者の作とされている。
11. ベルナルディーノ・ルイーニ《水浴するニンフたち》(ペルッカ荘のフレスコ画)、1514年頃
モンツァ近郊のペルッカ荘には、ナポレオン時代に副王ウジェーヌ・ド・ボアルネが住んでいた。1816年に荘はロンバルド=ヴェネト王国の国庫のものとなり、まもなく民間に売却されることが決まった。ブレラ・アカデミーの絵画常設委員会は、売却の前に「絵画館を豊かにするため」壁からフレスコ画を剥がすよう命じた。1821年から1822年にかけて修復家ステファノ・バレッツィがそれを剥がし、水浴の場面は1822年6月27日にブレラに届いた。フレスコ画はまだ国庫が所有していた建物から剥がされたので、買い取る必要はなかった。ブレラは1808年から教会の壁のフレスコ画を剥がしていたが、郊外の荘館の世俗的な連作がまるごと美術館に入ったのはこれが初めてだった。同じ荘のほかの断片は、その後それぞれ別の経路でルーヴル、シャンティイ、ロンドンのウォレス・コレクションに渡った。
この荘に絵を描いたのはベルナルディーノ・ルイーニで、注文主は1506年ごろに荘を相続したミラノの貴族ジェロラモ・ラビアだった。神話の場面と宗教的な場面がいくつもの広間と礼拝堂に続いていた。フレスコ画の年代は1509年から1520年代の初めまで幅があり、どの年代をとるかで、これがブラマンティーノの周辺にいた若いルイーニなのか、すでに円熟した画家なのかが変わってくる。ブレラの目録には「1514年頃」とある。
小川で八人の娘が水浴している。一人は左の岸で腕に頭をのせて眠り、もう一人は水の中でこちらに背を向けて立ち、白い肌着を頭から脱いでいるので顔は見えない。中央では、ほどいた赤みがかった髪の娘が頭と肩を水から出していて、まっすぐ見る者を見つめているのは彼女ひとりである。美術館は、これがオウィディウスの『変身物語』に出てくるディアナとニンフたち、そしてカリストかもしれないとしている。画面全体に、フレスコ画を新しい支持体に移したときにできた細かいひび割れの網が走っている。後年ピニン・ブランビッラ・バルチロンが修復を行った際、19世紀の木の支持体は、フレスコ画がどのように壁から剥がされたかを示す証拠として、あえて残された。


12. ドナト・ブラマンテ《武人たち》(パニガローラ邸の壁画)、1486–1488年頃
詩人で人文主義者、ルドヴィーコ・イル・モーロの宮廷の顧問官でもあったガスパーレ・アンブロージョ・ヴィスコンティは、1486年、サンタンブロージョ聖堂にほど近い、現在のランツォーネ通りに家を買った。建築家ドナト・ブラマンテはこの家で彼のもとに暮らしていて、1487年にはある取引の証人としてそこで記録に名が残っている。二人は友人としてソネットを贈り合った。ブラマンテはひとつの広間に、描かれた壁龕の中に立つ等身大より大きな武装した男たちを描いた。16世紀にまだ無傷だった広間を見た画家で著述家のジャン・パオロ・ロマッツォは、これらは当時もっとも名高い武人たちで、それぞれの横に名前が書かれていたと記している。美術館は、彼らの甲冑が古代風である一方で、顔は人がよさそうだったり滑稽だったりすることに注目し、この皮肉は意図的なものだと考えている。家の名の由来となったパニガローラという姓がこの家につくのは、1548年になってからである。
別の部屋の扉の上に、ブラマンテは大きな地球儀の両側に二人の哲学者を描いた。左のヘラクレイトスは泣いていて、頬には涙が一粒描かれている。右のデモクリトスは歯を見せて笑い、手で地球儀を指している。泣くヘラクレイトスにはレオナルドが、笑うデモクリトスにはブラマンテ自身が描かれているという説もあった。《ハルバードを持つ男》と呼ばれる人物像は、縁の破れた胸から上の断片しか残っていない。きつく巻いた金色の巻き毛の、口を少し開いた若者で、ハルバードそのものはもう見えない。
1901年、アンノーニ兄弟は建築家ルカ・ベルトラーミの指揮のもと、ストラッポという方法でこれらの壁画を壁から剥がした。絵具の層を貼りつけた布ごと壁から引き剥がし、カンヴァスに移す技法である。1901年から1902年にかけて、ブレラの館長コッラード・リッチがそれを美術館のために買い取った。立っている人物の八人目は、19世紀に描き足されたものと判断され、剥がす際に捨てられた。
13. モッキローロの画家、モッキローロのポッロ家祈祷堂のフレスコ画、1360–1370年頃
壁から剥がしたフレスコ画でブレラの館内に組み立て直された14世紀の小さな穹窿のアプスには、中に入ることができる。天井では、先の尖ったマンドルラの中のキリストが祝福を与え、開いた書物を持っていて、そのまわりの濃い青の地に四人の福音書記者の象徴が描かれている。奥の壁のアーチの下には《十字架刑》があり、十字架の両側の壁には細い尖頭窓が二つ開けられている。祈祷堂の現地と同じ本物の窓で、光が元の場所と同じように差し込むようにしてある。天井の頂から青の中を長い亀裂が下へ走り、移し替えの継ぎ目も見えるままに残されている。側壁には、玉座の聖アンブロシウスが二人の異端者を鞭打つ場面と、《聖カタリナの神秘の結婚》があり、その向かいには注文主の一家がひしめいて立ち、自分たちの礼拝堂を聖母に捧げている。

この壁画は、ミラノの北のブリアンツァ地方モッキローロにあるポッロ家の屋敷に付属した祈祷堂の内陣を飾っていた。ポッロ家はヴィスコンティ家に仕えていて、ブレラは注文主をジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの顧問官ステファノ・ポッロとし、地元の歴史家たちはランフランコ・ポッロとしている。美術館は画家を無名のまま、モッキローロの画家と呼んでいる。美術史家ミクローシュ・ボスコヴィッツはベルガモの画家ペキーノ・ダ・ノーヴァをその人とする説を出したが、ブレラは年代が合わないとしてこの帰属を退けている。
湿気が建物も壁画も損なっていった。1949年、屋敷の持ち主がフレスコ画を国に寄贈し、ブレラの館長フェルナンダ・ヴィットゲンスはローマで許可を取りつけて、壁画を剥がし、1943年8月の爆撃の後に再開したばかりの美術館へ移させた。剥がしたのはマウロ・ペッリッチョーリで、この決定は当時すでに議論を呼んだ。壁画は描かれた場所で保存するという原則に反していたからである。2000年、空になった祈祷堂には原寸大のフレスコ画の写真が掛けられた。修復工事の際には、その壁からシノピア、つまりフレスコ画の下に描かれた下絵と、移設のときに現地に残された預言者たちの像の名残が見つかった。
ナポレオンの後で
1814年以降、コレクションはゆっくりと、別の道筋で増えていった。絵は相続人や古美術商から買われ、寄贈として受け取られ、寄託として預けられた。
14. アンドレア・マンテーニャ《キリストの哀悼》、1483年頃(制作年には異説あり)
マントヴァのゴンザーガ家の宮廷画家アンドレア・マンテーニャの息子ルドヴィーコは、父の死から三週間後の1506年10月2日、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガに手紙を書き、一家が借金を返せるよう、工房に残された絵を買ってほしいと申し出た。そのなかに「短縮法で描いたキリスト」があり、翌年の11月までに絵はシジスモンド・ゴンザーガ枢機卿の手に渡った。17世紀のローマの文書にはもう一点の「短縮法で描いたキリスト」が出てきて、ブレラにあるのがどちらなのか、研究者の議論が続いている。美術館は自館の絵をルドヴィーコの手紙と結びつけ、マンテーニャが自分のために描いたものと考えて1483年頃としているが、国の目録では1470年から1474年となっている。
遺体は赤い大理石の板の上に、足をこちらに向けて横たわっている。釘の傷のある足の裏は、画面下の中央で板の縁から突き出ていて、正確な遠近法が求める大きさよりも小さく描かれているので、体を隠さない。手の甲の傷は、皮膚の縁がめくれ上がった小さな裂けた穴として描かれている。左端には三人の嘆く人々がひしめいている。ヨハネ、目をぬぐう年老いたマリア、そして鼻と開いた口しか見えない三人目の人物である。キリストの頭のまわりの光輪は細い線一本で描かれ、右上の隅には香油を入れる小さな石の器が置かれている。
ブレラ・アカデミーの書記ジュゼッペ・ボッシは、この絵を自分のコレクションのために手に入れた。美術館のある解説によれば、彼は1801年にローマでこれを買い、別の解説によれば、1806年の購入でカノーヴァが仲介をした。ボッシは1815年に亡くなり、1824年7月3日、アカデミーは長い交渉の末に彼の相続人からこの絵を買い取った。
2013年、エルマンノ・オルミは、その並外れた短縮の効果を強めようと、暗い壁龕の中にこの絵をごく低く掛けた。この展示は論争を呼び、2016年に展示方法が改められた。

15. ロレンツォ・ロット《フェボ・ダ・ブレシアの肖像》と《ラウラ・ダ・ポーラの肖像》、1543–1544年
1543年4月19日、ロレンツォ・ロットは自分の出納帳に、「マニフィコ・メッセル・フェッボ・ダ・ブレッサ」が「実物をもとにした半身の大きな肖像画二点」の手付金として十ドゥカートを払ったと書き留めた。取り決めた報酬は合わせて30ドゥカートと、クジャク一つがいだった。ロットは当時トレヴィーゾに住んでいた。その半年前に「もっと落ち着いた暮らし」を求めて移ってきたばかりで、金には困っていた。1544年3月、彼はフェボの支払いでは仕事に費やした時間に見合わないと書き記したが、それでもその報酬を受け取った。
フェボはトレヴィーゾに根を下ろしたブレシアの一族の出で、40歳ほど、妻のラウラはポーラ家の出で20歳ほどだった。二点の肖像はいつも一対のままだった。1596年のポーラ家の財産目録には二点が並べて記され、19世紀に市場に出たときも一緒だった。1859年、ミラノの古美術商からブレラ・アカデミーのために二点が買われ、買い手のなかには画家フランチェスコ・アイエツがいた。美術館は、アイエツがこの肖像がロンドンのナショナル・ギャラリーの手に渡るのを恐れていたことを強調している。1860年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がアカデミーの出費を補填した。

ラウラは落ち着いた目でまっすぐこちらを見ている。肩には房のついた金刺繍のヨークがかかり、首には真珠、腰には重い金の鎖が巻かれ、右手には打ち出し細工の金の柄がついた白い羽根の扇を持っていて、柄から腰帯へ細い鎖が延びている。肩の後ろには暗赤色のビロード、右上には鮮やかな緑の絹のカーテンがあり、この緑が二点の絵のなかでいちばん強い色である。フェボはほとんど黒ずくめで、毛皮で縁取られたゆったりとした外套を着て、片手を石の張り出しの上、くしゃくしゃの白いハンカチに置き、もう一方の手に手袋を持っている。彼の頭は上の縁にほとんど触れそうで、それはこのカンヴァスがいつか上を切り詰められたからである。
16. フランチェスコ・アイエツ《接吻》、1859年
1859年6月8日、マジェンタの戦いの四日後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とナポレオン3世がミラノに入城し、町におけるオーストリアの支配は終わった。同じ年の9月、ブレラ・アカデミーの教授だった68歳のフランチェスコ・アイエツは、ここで開かれた年次展覧会に、アルフォンソ・マリア・ヴィスコンティ・ディ・サリチェート伯爵の注文で描いた《接吻》を出品した。
男は女の顔を手のひらで包んで口づけしていて、彼自身の顔は羽根飾りのついたつば広の帽子に隠れて見えない。左足はもう右手の階段のいちばん下の段にかかっていて、腰からは短剣の柄が突き出ている。美術館は教育用の資料で、この男を戦いに出ていく人物と見ている。女は頭を後ろへそらしていて、淡い青のサテンのドレスが光を受けて鋭い白い照り返しを放っている。左下、尖頭アーチの下の暗い通路には、フードをかぶってこちらに背を向けた小さな人影がかろうじて見分けられ、それは密偵とも、陰謀の仲間とも、召使いとも解釈されている。
美術館は、赤い長靴下と緑のマントの裏地が、ドレスの青と白とあわせて、イタリアとフランスの国旗を思わせると考えている。アイエツはこの絵を何度も描き直していて、1861年にジェノヴァのフェデリーコ・ミリウスのために描いた版ではドレスが白く、1867年のパリ万国博覧会のための版では白い布が階段の上に置かれている。ミラノのアンブロジアーナ絵画館には、同じ構図の楕円形の水彩画もある。原画は四半世紀以上も注文主の手元にあり、1886年にヴィスコンティ・ディ・サリチェートがブレラに譲った。1862年にジェロラモ・インドゥーノが描いた《悲しい予感》もブレラにあり、そのヒロインの部屋の壁には《接吻》の小さな版画が掛かっている。


17. ドナト・ブラマンテ《鞭打ちの柱のキリスト》、1490年頃
1927年、この板絵で剥がれかけた絵具を何度も繰り返し固定していた修復家マウロ・ペッリッチョーリは、これを「慢性病の患者」と呼んだ。ブレラに入った1915年には、絵はすでにひどく傷んでいた。美術館によれば、この絵はミラノ近郊のキアラヴァッレ修道院から、安全のため、また保管状態が悪く絵具層に深刻な剥落や浮き上がりが生じていたために運び出された。シトー会の修道士たちは1798年にすでにそこを追われていて、修道院の聖堂は教区教会となり、修道士たちが戻ったのは1952年になってからだった。1915年からこの絵はブレラに寄託されていて、美術館の記録ではキアラヴァッレ修道院からの寄託品とされている。
ブラマンテは何より建築家として知られていて、この板絵は、現存する彼の唯一の板絵とよく言われる。帰属は長く揺れ動き、1871年から1958年までは彼の追随者ブラマンティーノの作ともされ、ある目録では二人の合作とされたことさえあった。
キリストは腰から上が、胴が板のほとんどを占めるほど間近に描かれている。両手は背中に回され、太いより縄が首に輪をかけて胸骨の上で結ばれ、もう一本の細い縄が肩を柱に押しつけて筋肉に食い込んでいる。唇は少し開き、上の歯がのぞいている。光は左から差して顔を二分し、一方の半分は明るくくっきりと描かれ、もう一方は緑がかった影に沈んで、目がほとんど見分けられない。背後の柱は四角い付け柱で、燭台とアカンサスの葉の金の浮き彫りがあり、その葉は頭の両側で渦を巻いている。左の窓には、青い山々、丘の上の小さな町、舟の浮かぶ川が見える小さな風景があり、窓の敷居には蓋つきの背の高い金の器、聖体を納めるピクシスが置かれている。
1923年にはオレステ・シルヴェストリがこの板絵を修復し、ペッリッチョーリの後も1970年代と1980年代に手が入れられたが、2017年1月、温湿度の変化のために絵具がまた浮き上がった。板絵はブレラ自身の工房で五か月にわたって修復され、2017年6月1日に再び展示される前に、ゴッピオン社が額の中に直接空調ケースを組み込んで、温度と湿度の変化から絵を守るようにした。
18. カラヴァッジョ《エマオの晩餐》、1605–1606年
ブレラの元監督官エットレ・モディリアーニは、1935年に美術館から外され、1938年の末には人種法によって公職を追われた。ユダヤ人だったからである。1939年4月27日、すでに職を失っていた彼は、教育大臣ジュゼッペ・ボッタイに宛てた内密の手紙で、三世紀以上ローマのパトリツィ家が持っていたカラヴァッジョの《エマオの晩餐》をブレラのために買うよう提案した。この件には彼とともにフェルナンダ・ヴィットゲンスも取り組んだ。同じ年、ブレラ友の会とミラノの後援者たちが集めた資金でパトリツィオ・パトリツィからこの絵が買われ、絵画館に寄贈された。その後まもなく、ファシスト政権は友の会を解散させた。
カラヴァッジョがこの絵を描いたのは逃亡中のことで、1606年5月28日の夕方、ローマでの喧嘩でラヌッチョ・トマッソーニを殺した後だった。彼は負傷し、死刑を宣告され、ローマの外にあるコロンナ家の領地に身を隠した。それがどの町だったのかは、史料によっても、美術館自身の解説によっても異なる。10月6日には、彼はもうナポリにいた。
カンヴァスの上半分はほとんど一面の暗がりで、五人の人物と食卓は下のほうに寄り集まっている。キリストは目を伏せて食卓につき、二本の指でパンを祝福している。美術館の解説によれば、その顔は疲れてやつれていて、美術館はこれを数年前に描かれたロンドンの《エマオの晩餐》と比べている。ロンドンの絵のキリストは髭のない若者で、食卓には料理がたっぷり並んでいる。こちらの食卓にあるのはパンと水差しと二枚の質素な皿である。右の弟子は両手で食卓の縁をつかみ、いまにも立ち上がりそうである。キリストの肩の後ろの宿の主人はキリストの手を見つめ、肉の皿を持った老婆は下を見ていて、キリストに目を向けていないのは彼女だけである。
2010年、フィレンツェの専門家たちがこの絵を赤外線で調べ、左上の隅に、風景と広葉樹の見える窓を見つけた。カラヴァッジョは後にそれを暗い背景で塗りつぶしていた。
新しいブレラ
最後の二点は、ブレラ通りを挟んだ向かいのチッテリオ宮に掛かっている。20世紀のコレクションのために2024年12月に開館したこの館は、絵画館とあわせてグランデ・ブレラを形づくっている。
19. ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード《人の奔流》、1895–1896年
ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペードはこのカンヴァスに満足できず、描きかけのまま放り出して、1898年に同じ主題を最初から描き直した。その新しいカンヴァスから生まれたのが、1901年から1902年に完成した《第四身分》である。この二点より前には1891年から1892年の《飢えの使者たち》があり、三点ともに描かれているのは、画家の生まれ故郷であるピエモンテの村ヴォルペードの、マラスピーナ宮の前の同じ広場である。
横長のカンヴァスの下の三分の一を占める白い土埃の道を、群衆がまっすぐこちらへ向かって歩いてくる。少し前に出ているのは三人で、胸の前で腕を組んだ男、上着を肩に引っかけた赤いチョッキの髭の男、そして黄色い産着にくるんだ子どもを抱いた黒い服の女である。その後ろには帽子の下の顔が端から端まで壁のように並んでいる。群衆の中央と前の三人はしっかり描き込まれているが、右端の人物たちはざっと下描きされただけで透き通り、その体を通して隣の人の脚が見えている。白い道には、足もとから紫とばら色の長い影が伸びている。
1986年、ミラノの金融家アンジェロ・アッボンディオが競売でこのカンヴァスを買い、自分の会社を通じてブレラに寄贈した。息子の話では、絵をミラノの別のコレクションに向かわせようとする動きもあったが、アッボンディオはこの絵を誰もが見られるようにしたいと考えていた。

20. ウンベルト・ボッチョーニ《ガッレリアの騒動》、1910年
明かりのともったカフェの入口の上の看板は、CAFFという文字と次の語の書き出しで切れている。ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアの夜で、付け柱もアーチも床も人々も、この絵のすべてがオレンジ、紫、ばら色、緑、青の点と短い筆触で組み立てられている。左上には電灯の球が二つ下がっていて、それぞれから点でできた光の輪が広がっている。群衆はひとつの斜めの波となって光る入口へ押し寄せていて、研究者によれば、そこではカフェ・カンパリの前で二人の女がつかみ合っている。前景には花や果物を盛った巨大な帽子の女たちと、両腕を振り上げた黒い服の男がいて、右下の隅の床には落とされた花籠が転がっている。
レッジョ・カラブリア生まれのボッチョーニはローマでジャコモ・バッラに学んでからミラノに移り、1910年の2月と4月に未来派の画家たちの二つの宣言に署名した。《ガッレリアの騒動》を描いたのはその数か月後で、1910年から1911年の変わり目に、ミラノの芸術家協会ファミリア・アルティスティカで《いさかい》という題で初めて展示された。のちにこの絵はミラノの実業家エミリオ・イェージとその妻マリアのものとなった。夫の死後、マリアはコレクションをまとめて残したいという夫の望みに従って、1976年にそれをブレラに寄贈し、1984年には寄贈を追加した。2024年12月、イェージ・コレクションは絵画館から新しいチッテリオ宮へ移された。
これら20点を見た後では、ブレラで絵の縁や表面に目が向くようになる。ピエロの板絵は切り詰められた。ジェンティーレの多翼祭壇画の二人組の板は鋸で分けられ、のちに再びひとつの額にまとめられた。ルイーニ、ブラマンテ、モッキローロのフレスコ画は壁から剥がされた。《鞭打ちの柱のキリスト》はいま空調ケースの中に収まっている。こうした移動の跡はすべて、いまも作品そのものに見てとれる。
ほかに見るなら

この20点のほかにも、ブレラには足を止める価値のある絵がまだたくさんある。ヴェネツィア派ではカルパッチョとヴェロネーゼを、ロンバルディア派ではブラマンティーノと、ヴィンチェンツォ・フォッパの《聖セバスティアヌスの殉教》をとくに探してみてほしい。フォッパのこの絵は、早くも1808年にサンタ・マリア・ディ・ブレラ聖堂の壁から剥がされたものである。チッテリオ宮では、イェージ・コレクションのほかに、ヴィターリ、ユッカー、マッティオーリの各コレクションが展示されている。《ガッレリアの騒動》とともにブレラに入ったイェージ・コレクションには、アメデオ・モディリアーニの《モイズ・キスリングの肖像》もある。











































































