1661年、バーゼルのアメルバッハ家の相続人たちは、一族のコレクションをアムステルダムへ売ろうとしていた。そこには絵がおよそ50点あり、そのうち15点は小ハンス・ホルバインの作品で、ほかに素描、版画、硬貨、書簡、蔵書もあった。市長ヨハン・ルドルフ・ヴェットシュタインの勧めで、市と大学はこのコレクションを自分たちの手で、9000ライヒスターラーで買いとることに決めた。代金の三分の二を市参事会が、残りを大学が払い、コレクションは大学が預かって、1671年に一般に公開された。美術館はこれを、市が所有する公共の美術コレクションとしては世界最古のものだとしている。
一家の絵が市のものになる(1519〜1661年)

1. 小ハンス・ホルバイン《ボニファキウス・アメルバッハの肖像》
バーゼルの印刷業者ヨハン・アメルバッハの末息子ボニファキウス・アメルバッハは、1519年の秋、法学の勉強を続けるためにアヴィニョンへ発とうとしていた。長い旅になるうえ、南フランスではペストがはやっていた。美術館によれば、彼が肖像画を注文したのはそのためで、旅の途中で命を落としても、家族のもとに自分の顔が残るようにしたのだという。肖像に添えるラテン語の詩は、アメルバッハが自分で作った。
ホルバインはその詩を、画面の左端で木の幹に掛かった木の札に書きこんだ。詩は肖像画そのものの口から語られている。描かれた顔は生きた顔に劣らず、その主に等しい。主が三年を八たび、つまり24年を生きるあいだに、自然が主に与えたものを、芸術はこの肖像に写しとる、という内容である。その下にはアメルバッハとホルバインの名と、1519年の「10月のイドゥスの前日」、つまり10月14日という日付が記されている。アメルバッハが24歳になった数日後のことである。赤外線撮影によって、詩が板の上でも書き直されていたことがわかった。二行目ははじめ「絵の具で描かれた」という言葉で終わっていたが、最終的な形では、肖像は「その線によって気高い」と呼ばれている。
アメルバッハ自身は札のほうへほとんど横顔を向け、札を通りこして画面の外へ目をやっている。黒い帽子と黒い外套が冷たい青空に浮かび上がり、絵のなかでいちばん暖かい色は顔と赤みがかった栗色のひげで、右下の枝の下には、雪をかぶった小さな山々の頂が見える。
ホルバインはそのころ22歳ほどだった。彼はすでに数年前からバーゼルで仕事をしていて、町の印刷業者のために扉絵や挿絵を描いていた。1519年9月25日、肖像の日付の三週間足らず前に、彼はバーゼルの画家組合「ツム・ヒンメル」に迎えられ、これで自分の工房を構えられるようになった。1526年に彼はイングランドへ渡り、二年後に戻ったが、1532年にはロンドンへ移り、そのまま住みついた。
アメルバッハはアヴィニョンで博士号を取り、バーゼルでローマ法を教え、エラスムスが最も信頼を寄せる人物となった。1536年、エラスムスは彼を自分の相続人に指名している。肖像画は一族のもとに残り、ボニファキウスの息子バシリウスは、父の絵や素描を核に本格的なコレクションを築いた。1661年に市が買いとったのが、そのコレクションである。ボニファキウスが詩の冒頭を20回ほど書き写しては直した紙は、同じコレクションの書物や書簡とともにバーゼル大学図書館に保管されている。

2. 小ハンス・ホルバイン《墓の中の死せるキリスト》
1867年8月、その年の2月に結婚したばかりのフョードル・ドストエフスキーと妻アンナ・グリゴーリエヴナは、ジュネーヴへ向かう途中でバーゼルに一日立ち寄った。話に聞いていた一枚の絵を見るためである。絵は、バーゼルの公共コレクションのために1849年に開かれたアウグスティーナーガッセの建物に掛かっていた。アンナ・グリゴーリエヴナは日記にこう書いている。「もっと近くで見ようとして、夫は椅子の上に立った。罰金を取られはしないかと、私は気が気でなかった」。ずっとのちに書いた回想では、この絵が夫に「打ちのめすような印象」を与えたと語っている。彼女自身は見ていられずに別の部屋へ移り、15分から20分ほどして戻ってみると、夫は同じ場所に「釘づけにされたように」立っていた。その顔には、てんかんの発作の始まりに見覚えのある、あのおびえた表情が浮かんでいた。彼女は夫の腕をとり、隣の部屋の長椅子に座らせた。発作は起きず、帰りぎわになって、彼はもう一度戻って絵を見ると言い張った。
バーゼルのコレクションで最も名高いこの絵は、ひどく横に長く、高さの低い板に描かれていて、遺体は等身大である。遺体は狭い石の壁龕にひとり横たわり、台の縁から垂れた白い布の上にのっている。左端の頭はのけぞり、口は開き、見えているほうの目は上へ裏返り、影になった顔は灰緑色で、台からは長い暗い色の髪が垂れている。皮膚の下にはあばら骨が浮き、脇腹の傷の下には痣が黒ずんでいる。右手は手の甲をこちらへ向けて腿に沿って置かれ、そこには暗赤色の釘の傷があり、中指は台の端までのびている。足の上にあたる端の壁には、1521年を表すローマ数字と頭文字「H.H」が、石に刻んだように描かれている。
美術館は、この絵を注文したのはおそらくボニファキウス・アメルバッハで(彼とホルバインについては1を参照)、絵は1661年の購入まで彼の一族のもとにあったと考えている。2021年の調査で、壁龕ははじめもっと小さく、天井がアーチになっていたことがわかった。ホルバインはそれを長方形の箱に描き変え、新しい壁に署名と日付を描き直した。日付ははじめ1522年を表すローマ数字になっていたが、ホルバインは仕上げのときに、末尾の縦の一画を石の色で塗りつぶした。


ドストエフスキーはこの絵を、1868年から1869年にかけて雑誌に連載された長編『白痴』に持ちこんだ。ロゴージンの暗い家にはこの絵の模写が掛かっていて、それを見たムイシキン公爵は、こんな絵を見ていたら信仰をなくしてしまう者もいるだろうと言う。のちに小説のもう一人の人物イッポリートがこの絵を詳しく描写し、こんな死体を見た人々がどうして復活を信じることができたのかと問いかける。美術館が数えたところでは、この絵は小説に五度登場する。
3. 小ハンス・ホルバイン《芸術家の家族の肖像》
チューリヒの画家ハンス・アスパーは、ホルバインがロンドンで亡くなった1543年にはもうこの絵を持っていて、誰にも、バシリウス・アメルバッハにさえ売ろうとしなかった。ホルバインの妻エルスベトはこの絵を手放したが、それがどのようにアスパーの手に渡ったのかを示す記録を、歴史家たちは見つけていない。バシリウスがこの絵を手に入れたのは、1571年にアスパーが亡くなってからのことで、チューリヒの薬剤師ゲオルク・クラウザーを通じて、六クローネで買った。美術館の記録では、絵がアメルバッハ・コレクションに入ったのは1579年である。
ホルバインがエルスベトと上の二人の子、フィリップとカタリーナを描いたのは1528年ごろ、最初のイングランド滞在から戻ってからのことである(彼については1を参照)。彼は紙に描き、その紙はのちに人物の輪郭に沿って切り抜かれ、菩提樹の板に貼られた。エルスベトは子どもたちを通りこして下を見ていて、まぶたは重く赤らみ、口角は下がり、大きく重たげな右手が息子の肩にのっている。フィリップはきっちりとした横顔で頭をそらし、右上を見上げている。母の膝の上の幼いカタリーナも右のほう、画面の外を見ている。

この絵はもとはもっと大きく、右側にはイーゼルに向かうホルバイン自身が描かれていたのかもしれない、と考える研究者もいる。彼らが根拠に挙げるのは、二人の子がそろって右を見ていることと、フィリップの頭がはじめは別の位置に描かれていたことを示す赤外線撮影である。切り抜かれた紙の縁は輪郭に沿って見てとれる。エルスベトの頭巾のまわりには細い明るい線が走り、カタリーナがのばした手の指は、右端でまっすぐ断ち切られている。右下の隅の赤みがかった腰掛けには「152」が残り、年の最後の数字は切り落とされた部分とともに失われた。
4. 小ハンス・ホルバイン《コリントスのライス》
灰色の石の欄干の手前の縁には、ラテン語で「コリントスのライス」という銘と、1526という年が書かれている。ライスは古代ギリシアの名高い遊女である。若い女性の右手は手のひらを上にして欄干に置かれ、指の力は抜けていて、そのそばには金貨が小さな山になり、一枚だけ離れて置かれている。女性は下の、開いた自分の手のひらのほうを見ている。彼女は切れ目から白い亜麻布をのぞかせた赤いビロードの胴着に、黄土色がかったオレンジの大きな絹の袖をつけ、髪には金の網をかぶっていて、背後には重たげな緑の幕がある。ホルバインがこの板絵をバーゼルで描いたのは1526年、イングランドへ発った年である(彼については1を参照)。
言い伝えでは、ライスは古代で最も名高い画家アペレスの恋人で、バーゼルの人文主義者たちはホルバインを「アペレス」と呼んでいた。そこから、一部の美術史家がとる解釈が生まれた。この絵の主題は絵画そのものであり、美には惜しまず払わねばならないということだ、という解釈である。
ホルバインのモデルについて知られていることは、すべて一行の記録に由来する。1580年代、板絵が描かれてからおよそ60年後に、バシリウス・アメルバッハはコレクションの目録に、二枚の小さな板にオッフェンブルク家の女性が描かれていて、一枚には「コリントスのライス」と書かれている、と記した。オッフェンブルク家はバーゼルの一族で、それ以来モデルは、未亡人マグダレーナ・オッフェンブルクとも、その娘ドロテアともいわれてきた。もっとも、この記述のほかに二人と絵を結びつけるものは何もない。のちに、マグダレーナはホルバインの愛人だったという、裏づけのまったくない伝説も生まれた。
同じ記述にあるもう一枚の小さな板、《ヴィーナスとアモル》もバーゼルにある。美術史家ヨッヘン・ザンダーは技術調査の結果から、これは工房の助手が描いた《コリントスのライス》の繰り返しで、助手はその輪郭を左右反転させて写し、手の位置を変えたと結論づけた。
市参事会が選帝侯を断る(1529〜1771年)

5. 小ハンス・ホルバイン《キリストの受難》
1641年10月4日、バーゼルの小参事会は、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の使者の申し出を断った。使者は、ホルバインが描いたキリストの受難の八つの場面を市から買いとるためにやって来たのだった。議事録によれば、使者は「あらゆる丁重さをもって」送り出され、ワインをふるまわれ、案内役までつけてもらった。のちの1673年、フランスの旅行家シャルル・パタンは、選帝侯がこの板絵に3万フローリンを出すと申し出ていたと書いている。マクシミリアンの肖像を描いた画家ヨアヒム・フォン・ザンドラルトは、1675年の著書で、肖像の制作中に自分が選帝侯にこの板絵をほめたこと、使者の交渉が不手際だったこと、そして断ったあと市がいっそうその価値を確信するようになったことを語っている。
ホルバイン(彼については1を参照)がこれらを描いたのは1520年代半ばのことで、彫刻をほどこした祭壇の扉の外側の面として描かれ、祭壇はおそらくバーゼル大聖堂のためのものだった。扉が覆っていた彫刻は残っておらず、扉そのものは、おそらく1529年、バーゼルで教会の聖像が打ち壊されたときに市庁舎へ移された。中央の板は両端の板より高く、そのため全体の額の上辺は中央へ向かって段々に高くなり、失われた祭壇の輪郭をなぞっている。どの板にも上下に二つの場面があり、そのあいだに金の装飾の帯が入る。上段の最初の三場面は夜の場面で、ゲツセマネの祈り、キリストの捕縛、大祭司カイアファの前のキリストが描かれ、光は画面のなかの松明や火から射している。その二番目の場面では、松明と矛槍を手にした群衆のなかで黄色い衣のユダがキリストに口づけし、左下では白いひげのペトロが、倒れたマルコスの上に剣を振りかざしている。兵士たちが身につけているのは1520年代に流行した鎧と切れ込みの入ったズボンで、まわりの建築はイタリア風である。ザンドラルトは、この板絵に見られる「昼の光と夜の光」の理解をほめた。
1770年、市参事会はバーゼル政府からの贈り物として、この扉を、当時大学が管理していた公共コレクションに渡した。1771年、大学は、シュトゥットガルト生まれでバーゼルで肖像画家をしていたヨハン・ニコラウス・グロートに、板を洗浄して傷みを直すよう依頼した。八つの場面がひとつの額に収められたのは、どうやらこのときからである。19世紀半ばから、グロートは絵を台なしにしたと非難されてきた。1997年、美術史家ベルント・リンデマンは板絵を調べ、後世の加筆の跡を見つけなかった。グロートが責められてきた平らでなめらかな画面は、ホルバイン自身の仕事だったのである。

相続人が裁判に敗れる(1667〜1823年)

6. ハンス・バルドゥング・グリーン《死と乙女》
バーゼルの法律家レミギウス・フェッシュは、法学教授で大学の学長を三度務めた人物で、絵画、硬貨、書物、版画、素描をそろえた、バーゼルで二つ目の大きな個人の収集室を築いた。バルドゥングのこの板絵は、彼の存命中からそこにあった。彼は1667年に独身のまま亡くなり、法学博士号をもつ子孫が管理できるあいだは、コレクションを一族のもとにとどめるよう遺言した。
若いころニュルンベルクのデューラーの工房で職人として働いたバルドゥングは、この板に1517年という年を記した。フライブルク・イム・ブライスガウの大聖堂の主祭壇に五年近く取り組んだあと、ストラスブールに戻った年である。上部には金文字で、古いドイツ語の「ここへおまえは入らねばならない」という言葉が書かれている。死はここでは、褐色の、革のような、半ば腐った屍として描かれ、むき出しの頭蓋とうつろな眼窩をもち、あばらには裂けた穴があいている。屍は娘の右肩の後ろに立ち、赤みがかった髪のひと房を拳に握っていて、その髪は下へ流れ落ち、屍の脚にまとわりつく肉の切れ端と見分けがつかなくなっている。青白い裸の娘は泣いていて、目は上を向き、頬を涙がつたい、組んだ両手を屍の骨ばった前腕に押しあてて、屍そのものに懇願しているかのようである。屍はもう一方の手で下を指していて、美術館の説明によれば、その先には開いた墓がある。娘の腰の透けた布は数本の白い線で描かれていて、何も覆っていない。
大学はフェッシュのコレクションを手に入れようと何度も試み、管理者が法学博士号をもたない法律家ヨハン・ヤーコプ・フェッシュになったとき、その口実が見つかった。バーゼルでは法学の講座が空席だったため、彼はそこで博士号を取ることができなかったのである。第一審は一族の側に立った。1823年、控訴審はコレクションをフェッシュ家から取り上げて大学に渡した。そのあいだに相続人がフライブルク・イム・ブライスガウで法学博士になっていたことは、考慮されなかった。
美術館が画家の名を見つける(1890年代)

7. コンラート・ヴィッツ《シナゴーグ(「救済の鏡」祭壇画)》
この祭壇画のバーゼルの板絵は、1890年代半ばまで「ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス派」の作とされていた。ヘールトヘンはハールレムで活動したネーデルラントの画家である。本当の作者の名はそのころにはすでに読まれていたが、それはジュネーヴでのことだった。1444年のジュネーヴの祭壇画の額には、ラテン語で「コンラドゥス・サピエンティス・デ・バシレア」と書かれている。バーゼルのコンラート・ヴィッツという名のラテン語形で、1845年、ジュネーヴの研究者ブラヴィニャックがこの銘を読み、そこに画家の名があるのではないかと考えた。それをバーゼルと結びつける者はいなかった。1890年代半ば、バーゼルのコレクションの学芸員ダニエル・ブルクハルトとジュネーヴのジャック・マヨールが、ジュネーヴの扉とバーゼルの板絵が同じ手によるものだと気づいた。マヨールは1896年に、ブルクハルトは1901年にそれを発表した。バーゼルの祭壇画に署名はなく、美術館はジュネーヴの祭壇画との類似から、ヴィッツの作である可能性はきわめて高いとしている。

祭壇画は1435年ごろ、バーゼルの聖レオンハルト教会のために描かれたと考えられていて、《シナゴーグ》は右翼の外側の一部だった。若い女性が灰色の壁に囲まれたがらんとした石の部屋に立っていて、刺すような黄色の大きな衣が、角ばった襞をつくって床に広がっている。目は閉じられ、その上を、細い白い線を数本引いただけの透けた目隠しが横切っていて、見落としやすい。顔は白墨のように白く、頭はうなだれている。右肩には灰色の石の律法の板が二枚立てかけられていて、彼女は右手で、腰のあたりからそれを下から支えている。板の文字はヘブライ文字に似ているが、美術館はそれを「空想のヘブライ語」と呼んでいる。左手には上のほうで折れた細い金の竿を持ち、そこには赤い小旗がついていて、右端の開口部には鮮やかな青がひと筋のぞいている。
目隠し、折れた槍、すべり落ちそうな律法の板は、中世美術でシナゴーグの擬人像につきものの印だった。中世美術はシナゴーグを「教会」の擬人像と対にし、そうしてキリストを認めなかったユダヤ人を表した。ヴィッツはそうした印をすべて残したうえで、シナゴーグを、対になる板の「教会」と同じ背丈と姿をもつ、若く優美な女性として描いた。「教会」は赤いマントをまとい、目を開いて、杯と十字架を持っている。
《シナゴーグ》は1843年、バーゼルのコレクター、ペーター・フィッシャー=パッサヴァンが美術館に寄贈したもので、ほかの板も19世紀に、バーゼルの家々からの寄贈で入ってきた。《教会》は1928年、政府と二つの財団、そして多くの美術愛好家の資金で美術館が購入し、受胎告知の天使も同じ年から、ゴットフリート・ケラー財団の寄託品としてここに保管されている(この財団については8を参照)。現存する祭壇画の14の部分のうち、九つがバーゼルにある。祭壇画はいつのころか解体され、板は厚みの方向に挽き割られて表と裏に分けられた。《シナゴーグ》の裏面は独立した絵《ソロモン王の前のシバの女王》となり、ベルリンに所蔵されている。
スイス連邦がバーゼル出身の画家の絵を買う(1920年)
8. アルノルト・ベックリン《死の島》(第一作)
バーゼル生まれで当時フィレンツェに住んでいたベックリンは、1880年の春、パトロンのアレクサンダー・ギュンターのためにこの絵を描いたが、ギュンターには渡さなかった。カンヴァスが未完成のまま置かれていたころ、金融家の未亡人マリー・ベルナがアトリエを訪ねてきて、「夢見るための」絵がほしいと頼んだ。ベックリンは彼女のために第二作を描き、それはいまニューヨークのメトロポリタン美術館にある。ベックリンはこの絵を全部で五点描いている。
島は横長のカンヴァスの中ほどの帯を占め、その上にはがらんとした暗い夜空、下にはほとんど黒い静かな水がある。暖かい金褐色の光を受けた二つの岩が左右に分かれ、そのあいだに背の高い黒い糸杉がそびえ、岩には長方形の墓室の入口が彫りこまれている。岩のあいだの白い船着き場へ、小さな舟が進んでいく。舟の一方の端には暗い色の服の漕ぎ手が座り、その後ろに、頭から足まで光るような白に包まれた人物が背を向けて立ち、もう一方の端、右側には白い布をかけた棺がある。左下の隅の暗い水のなかに、頭文字「A・B」の組み文字がかすかに見える。
1920年、この絵はゴットフリート・ケラー財団が買った。財団は1890年、リディア・ヴェルティ=エッシャーがスイス連邦に託した資金で設立され、詩人ゴットフリート・ケラーにちなんで名づけられた。財団が何を買うかは連邦参事会が任命する委員会が決め、買った作品は財団がスイスの美術館に預ける。その作品の生まれた土地の美術館に預けることも多い。《死の島》を所有しているのは財団、つまりスイス連邦で、バーゼル市立美術館は1920年から寄託品としてこれを保管している。
最初の近代絵画(1931〜1937年)

9. パウル・クレー《セネキオ》
画面のほとんどを短い首の上の丸い頭が占めていて、その顔は平らな色面に分けられている。頭蓋の右半分は淡い黄色、両頬を横切ってばら色の帯があり、顎は白、クリーム色、黄色の四角でできている。目は一本の細い線で囲まれ、その線は鼻柱のところで交差して数字の8の形をつくっている。瞳は平らな暗赤色の丸で、左目は右目より高い位置にある。左目の上には先のとがった白い三角、右目の上には暗緑色の弧があり、片方の眉が上がっているように見える。口は段違いに置かれた二つの小さな濃い紫の四角でできている。絵の具は薄く塗られていて、その下から白亜の地と、厚紙に貼ったガーゼの織り目が透けて見える。それがいちばんよくわかるのは白目の部分である。
ラテン語の「セネキオ」は、ノボロギクの仲間の雑草を指す名で、この草の白い綿毛の種の房は白髪の頭に似ている。植物の名そのものも、ラテン語の「老人」という言葉から来ている。クレーは自作目録で、この絵にドイツ語の題「バルトグライス」もつけていた。おおよそ「もうすぐ老人」という意味である。左端に彼は「クレー」と書き、その下に年と自作目録での番号を、「1922」と「181」を三本の斜線で区切って記した。
クレーは1879年にベルン近郊で生まれたが、父がドイツ人だったため、生涯ドイツ国籍のままだった。1921年からバウハウスで教え、《セネキオ》はヴァイマルで、そこで働いて二年目に描かれた。1933年、ナチスは彼をデュッセルドルフの美術アカデミーから解雇し、その年の終わりに彼はベルンへ移った。1937年にはドイツの美術館から彼の作品が押収された(その一点《ヴィラR》については13を参照)。1939年、クレーはスイス国籍を申請し、1940年6月29日、スイス人になれないまま亡くなった。
美術館が《セネキオ》を買ったのは1931年、ミュンヘンの画商ギュンター・フランケとゾフィー・フランケからである。エミール・ノルデの《青いアイリス I》とともに、これはコレクションに入った最初期の近代絵画で、1936年に開館した美術館の新しい本館には、この二点とわずかなほかの作品を除けば、近代美術はほとんどなかった。


10. フィンセント・ファン・ゴッホ《ピアノを弾くマルグリット・ガシェ》
40年以上のあいだ、この絵はオーヴェール=シュル=オワーズにある父ポール・ガシェ医師の家で、マルグリット・ガシェの寝室に掛かっていた。1934年、バーゼルの美術館の美術委員会の委員二人、館長オットー・フィッシャーとコレクターのルドルフ・シュテヘリンがオーヴェールへ出向き、ガシェ家でこの絵を見た。美術館はその年のうちにこれを買った。
ファン・ゴッホは1890年5月、ガシェ医師の近くで暮らすためにオーヴェールに来て、同じ年の夏にその娘を描き、7月の終わりに亡くなった。弟テオへの手紙で、彼は色を書き並べている。「ドレスはばら色。背景の壁は緑にオレンジの点、絨毯は赤に緑の点、ピアノは暗い紫」。カンヴァスは細長く、高さが幅の二倍ある。マルグリットは横顔で鍵盤の上にかがみ、髪をまとめて結い上げている。ピアノは左端で断ち切られ、その上には楽譜と火のついていない蝋燭がのっている。オレンジの点はカンヴァスの半ばの高さまで壁を覆い、右下には短い緑の筆触を散らした赤い絨毯がある。
ドレスの赤い絵の具は時とともに褪せ、ばら色のドレスはいまではほとんど白に見える。淡い緑や黄色の筆触のあいだに、ところどころばら色がかった赤の筋が残っている。

11. ロヴィス・コリント《ライヒ大統領フリードリヒ・エーベルトの肖像》
1937年、この肖像を買う資金を出したのは労働組合とバーゼル=シュタット州の教育局で、ロヴィス・コリントの未亡人から買いとったのは館長オットー・フィッシャーだった。美術館によれば、美術委員会ではこの購入は「強い反対」にあい、押し通すにはフィッシャー自身の票が必要だった。同じ年、ドイツの美術館からはコリントの絵が押収されはじめていた(このことは15で述べる)。
社会民主党員のエーベルトは当時ドイツ国の大統領で、コリントは1924年3月、ベルリンにある彼の住まいで肖像を描いた。画家は大統領を座らせたかったが、エーベルトは、そのポーズでは嫌な思いをしたことがあると言って断り、コリントは立ち姿で描いた。自伝のなかで彼は、エーベルトの頭に、その「興味深い醜さ」で惹かれたと回想している。エーベルトはほぼ正面を向き、まっすぐこちらを見ている。左端のレースのカーテンのかかった窓から射す光が顔の半分を照らし、もう半分は茶色の影に沈んでいる。光の当たる側の暗いダブルの背広は、ウルトラマリンと青紫の鮮やかな縞で描かれ、右手は上着の前に垂れ、左手は腰にあてられていて、カンヴァスの下三分の一の脚はざっと示されているだけである。右上の隅の壁には、ドイツ語で「ロヴィス・コリント 1924年3月」と書かれている。
コリントはそのとき65歳だった。1911年12月に脳卒中で倒れてから体の一部が麻痺していたが、描くことはやめなかった。彼は1925年7月に亡くなった。
1939年夏、第三帝国の倉庫から買う
12. フランツ・マルク《動物の運命》
このカンヴァスの右三分の一は、1916年から1917年にかけての冬、ベルリンの美術品運送会社の倉庫で焼けた。絵は、ベルリンのシュトゥルム画廊で開かれたマルクの遺作展のあと、そこに保管されていた。マルク自身は1916年3月4日、ヴェルダン近郊で戦死している。死の一年前、戦地でこの絵の複製の絵はがきを受けとった彼は、妻マリアにこう書いた。「この戦争の予感のようだ。恐ろしく、心をゆさぶる。これを描いたのが自分だとは、ほとんど信じられない!」
マルクはこの絵を1913年の春に描き、はじめ《木々はその年輪を、獣たちはその血管を示した》と名づけた。最初の展覧会の前に、彼は友人パウル・クレー(彼については9を参照)の勧めで題を改め、1919年にはそのクレーが、準備段階の水彩と写真をもとに焼けた部分を描き直した。美術館によれば、クレーははっきりと暗い色調を使い、失われた部分がそれとわかるようにした。マルクが描いた左の三分の二では、カンヴァスを対角線が横切っている。上から右端へ向かって巨大な赤褐色の幹が倒れかかり、中央では青い鹿が頭をのけぞらせて後脚で立ち、その左には口を開けた緑の馬の頭が二つある。その下には細い赤い筋の入った白い三角があり、これが最初の題の「血管」である。左端には年輪の見える丸太の切り口がある。クレーが描いた右の三分の一は濁った褐色がかったオリーブ色で、淡い赤と灰緑の線が走り、マルクの鮮やかな色との境目は、焼け焦げた縁のようにぎざぎざしている。
マルクの死後、絵は未亡人のもとに残り、1930年にハレ市立美術館が買った。1937年、ドイツの宣伝省はこれを「退廃芸術」として押収し、1938年、ベルリンのシェーンハウゼン宮殿の倉庫へ送った。当局が国外での売却に向くと見なした作品が集められていた倉庫である。1939年の夏、バーゼルはドイツの美術館から出た作品を21点買った。八点は6月30日にルツェルンのテオドール・フィッシャー画廊の競売で、13点はベルリンの画商カール・ブーフホルツとヒルデブラント・グルリットを通じて手に入れ、代金は州の特別予算5万フランから払った。7月、美術館の新しい館長ゲオルク・シュミットは批評家パウル・ヴェストハイムに、すべてがおとぎ話のように思える、「それをもたらした事情が、これほど痛ましいまでに現実的で残酷でさえなければ」と書いた。《動物の運命》はその購入の最初の一点だった。シュミットは5月にシェーンハウゼンの倉庫でこの絵を見て、州が予算を承認するより前に購入の話をまとめた。1939年5月10日の電報で、彼は宣伝省の代理としてこの絵を売っていたグルリットに6000フランを申し出て、最終的には6900フランを払った。


13. パウル・クレー《ヴィラR》
フランクフルトの画家でコレクターのパウリーネ・コヴァルツィクは、クレーがこの絵を描いた1919年の11月に、それを買った。1916年から、彼女はフランクフルト市立美術館の購入委員会に、女性として初めて加わっていた。1926年、インフレで財産を失ったコヴァルツィクは、終身年金と引き換えに、シュテーデル美術館のなかに置かれていたこの市立美術館へ、近代美術のコレクションのほぼすべて、34点を売った。1937年8月、《ヴィラR》はシュテーデルから押収された。
絵は小さな夜の情景で、地はほとんど黒い。中央の左に、白、ばら色がかった色、冷たい青、紫の平らなブロックを積んだ別荘が立ち、大きな窓は暗赤色の四角に仕切られている。幅の広い赤い道が左下から入り、家の前を通って、細くなりながら右端へと上っていく。家の右の道の上には、端に小さなひげ飾りのある大きな灰緑色のRの文字が立っていて、丘と同じくすんだ緑をしている。左上の隅には緑の半円、右上には黄色い満月がある。美術館によれば、これはクレーの最初期の油彩の一つで、それまで彼は長いあいだ紙の上だけで制作していた。同じ年、彼は大きな黒い文字の入った《町R》を描いていて、その絵を所蔵するミュンヘンのレンバッハハウスは、文字の意味を暗号めいたものだとしている。
1939年6月30日、テオドール・フィッシャー画廊はルツェルンで、ドイツの美術館から押収された125点を競売にかけ、そのうち86点がドイツ国外のコレクションに渡った。バーゼルの代表団は、カタログに59番《道ばたの家》として載っていた《ヴィラR》に入札するつもりはなく、予定していた購入のあとに残った金でこれを買った。この競売に出たクレーの油彩は《ヴィラR》と《修道院の庭》の二点だけで、《修道院の庭》は1940年に焼失した。


14. パウラ・モーダーゾーン=ベッカー《琥珀の首飾りをつけた半裸の自画像 II》
1906年2月、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーは画家である夫オットー・モーダーゾーンのもとを去り、ブレーメン近郊の芸術家村ヴォルプスヴェーデを離れて、パリでひとり制作を始めた。この年、彼女はおよそ15点の自画像を描いた。そのいくつかのために彼女は裸で写真を撮らせていて、撮ったのはどうやら妹のヘルマだった。美術館によれば、この自画像は写真をもとに描かれている。美術館はこれを歴史上最初期の裸の自画像の一つと考え、彼女はおそらくこれを人に見せるつもりはなかったとしている。
彼女は大きな暗い目でこちらを見つめ、頭をわずかに傾け、固く結んだ鮮やかな赤い唇に、小さな控えめな笑みを浮かべている。髪には三輪のばら色の花がある。大粒の琥珀の玉をつらねた長い首飾りは、平らなからし色がかった黄土色の丸で描かれ、胸の下で馬蹄形に垂れている。上げた右手の指先で短い茎のばら色の花を持ち、左手は体を横切り、手首から先は鋭く上へ曲がっている。背後には、淡い灰青色の地に、葉のついた濃紺の茎が茂っている。美術館はここに古代のミイラ肖像画の影響を見ている。正面を向き、目が大きく、手に花を持つ肖像である。
1907年の春、彼女は夫とともにヴォルプスヴェーデへ戻り、11月2日に娘を産んで、11月20日に31歳で亡くなった。この自画像が初めて展示されたのは1913年で、同じ年、ハノーファーのコレクター、ヘルベルト・フォン・ガルヴェンス=ガルヴェンスブルクがこれを買った。1928年、ハノーファーのケストナー美術館が彼からこの絵を手に入れ、1937年にそこから押収された。

1939年6月30日のルツェルンで、この絵は97番として出品された。競売の前日、州は求められた10万フランのうち5万フランを承認し、美術委員会は、委員会自身が決めた上限を価格が超えたにもかかわらず、この絵を買った。同じ日、バーゼルはピカソの《ソレール家の人々》を見送った。それを買えば予算のほとんどすべてが消えてしまうからだった。バーゼルにはモーダーゾーン=ベッカーの絵がほかに二点あり、どちらも1939年にブーフホルツを通じて買われた。そのうちの一点《猫と少年》も、ケストナー美術館から押収された作品だった。

15. ロヴィス・コリント《エッケ・ホモ》
1937年7月19日、ミュンヘンで「退廃芸術」展を開いたとき、画家アドルフ・ツィーグラーは、コリントは「二度目の発作のあと、病的でわけのわからない塗りたくりしか生み出さなかった」と述べた。展覧会に出たコリントの絵七点のうち三点はベルリンのナショナルギャラリーのもので、そのなかに《エッケ・ホモ》があった。この絵は7月7日、ミュンヘンの展覧会のために作品を集めた最初の押収の波で、ナショナルギャラリーから押収されていた。ドイツの美術館から押収されたコリントの絵は、全部で45点にのぼる。バーゼルの美術館の学芸員エーファ・ライフェルトは2017年に、この絵を「退廃的」とするかどうか、当時はどうやら意見が一致していなかったと語った。もっとも、この絵はミュンヘンの展覧会を写した多くの写真に収まっている。
コリントがこの絵を描いたのは1925年、生涯最後の年で(彼については11を参照)、美術館によれば、モデルを務めたのは知人たちだった。等身大の三人の人物が肩を並べて立ち、膝のところで画面の下端に断ち切られている。中央には茨の冠をかぶり、袖のない赤い衣を着た若いキリストがいて、顔にも肩にも腕にも血が飛び散り、交差させた手首は太い縄で縛られている。左では、白と冷たい青で描かれた白い上っ張りを着て、額に黄色い布を巻いたピラトが、開いた手のひらでキリストを示している。右には暗い鋼の鎧を着た禿げ頭の兵士がいて、縛られたキリストの手から縄が彼のほうへのびている。赤、黒灰色、白が三つの大きな色面をなし、筆づかいはどこも速く厚く、最も丁寧に描かれているのはキリストの顔である。左上の隅に、コリントは「エッケ・ホモ ロヴィス・コリント 1925」と書き入れた。
コリントの死後、絵は未亡人のもとに残り、1929年にナショナルギャラリーが買った。1938年8月、すでに押収されていたこの絵は、シェーンハウゼンの倉庫に入った。1939年5月の終わり、ゲオルク・シュミットはベルリンを訪れ、画商カール・ブーフホルツとともに作品を選び、それらはのちに下見のためにバーゼルへ送られた。6月12日、ブーフホルツはバーゼルのために宣伝省から《エッケ・ホモ》を買い、ルツェルンの競売のあと、美術委員会は送られてきた作品からさらに12点を選んだ。この絵もそのなかに入っていた。1949年、絵が押収されたときにナショナルギャラリーを率いていたパウル・オルトヴィン・ラーヴェは、自著『第三帝国の芸術独裁』の表紙に《エッケ・ホモ》を使った。「退廃芸術」に対するキャンペーンを扱った最初期の本の一つである。

亡命者が贈り、美術館は逃したものを買う(1941〜1977年)
16. ポール・ゴーギャン《タ・マテテ(市場)》
ロベルト・フォン・ヒルシュは1940年にスイス国籍を得たとき、この絵をバーゼルに贈り、絵は1941年に美術館の目録に登録された。ヒルシュは1883年、フランクフルト・アム・マインの同化したユダヤ人の家に生まれ、1898年にオッフェンバッハにある親族の皮革会社に入り、1913年にヘッセン大公から貴族の称号「フォン」を授かり、1917年に会社の単独の所有者となった。美術品を集めはじめたのは1907年ごろで、コレクションには中世の金工品や七宝、デューラーの素描、写本、近代のフランス絵画があった。彼はフランクフルトの美術館への大きな寄贈を考えていたが、1933年、ナチスが政権を握ると、会社の支店があったバーゼルへ移住し、一点の絵を除いてコレクションのすべてをそこへ運んだ(その一点については19で述べる)。

ゴーギャンが《タ・マテテ》を描いたのは1892年、最初のタヒチ滞在のときである。題はタヒチ語で「市場」を意味し、美術館もこの絵をそう呼んでいる。《今日は市場に行かない》という題でも知られているが、こちらはタヒチ語の題の訳ではない。丈の長い、襟の高い服を着た五人の女性が緑のベンチに一列に座っていて、服はそれぞれ平らな一色で、左のほとんど黒に近い緑から右の黄色まで並んでいる。頭はきっちりとした横顔だったり向きを変えていたりし、上げた手は手のひらを見せていて、まっすぐこちらを見ているのは真ん中の女性だけである。この並びを、ゴーギャンはエジプトの壁画をもとに組み立てた。大英博物館にある書記ネブアメンの墓の宴の場面で、彼はその写真をタヒチへ持ってきていた。彼はジュートの布に描いていて、薄くつやのない絵の具を通して、粗い織り目が画面全体に浮き出ている。
バーゼルでヒルシュは1945年に彫刻家マルタ・ドレフュス=コッホと結婚し、1955年にはバーゼル大学から名誉博士号を受けた。その後、彼は美術館と袂を分かった。ヒルシュは、現代美術を買うのは個人のコレクターの役目で、美術館は評価の定まったものにとどまるべきだと考えていた。フランツ・マイヤーが館長だった時代に美術館がアメリカの新しい絵画を買いはじめると、彼はコレクションのすべてを市に遺すという考えを捨てた。彼は1977年11月1日にバーゼルで亡くなり、遺言にしたがって、コレクションの大部分は1978年にロンドンのサザビーズで競売にかけられた。
17. フアン・グリス《マンドリンを持つ女(コローに倣って)》
1860年から1865年ごろ、カミーユ・コローはアトリエで、イタリアの衣装を着たモデルを描いた。モデルはマンドリンを膝にのせて座り、物思わしげにそれを見つめていて、この絵はのちに《マンドリンを持つ夢見る女》と呼ばれるようになった。1916年、この絵はブダペストのモール・リポート・ヘルツォーク男爵のコレクションにあり、いまはセントルイス美術館に所蔵されている。同じ1916年の9月、フアン・グリスはこの絵をもとに自分の絵を描いた。
グリスはコローの細部を受け継いだ。小さな玉を一列に並べた髪の飾り帯、真珠の耳飾り、暗い胴着の下の白い肌着、胴を左に、棹を右にして膝の上に横たえたマンドリン、そして頭の傾きである。コローの色はほとんど残さず、絵はスレートのような灰色、黒、白亜の白、暗い瓶の緑、錆びた茶色で描かれている。顔は明るい半分と暗い半分に分かれ、片方の目は細い白い線で縁どられ、マンドリンは白で引っかいた弦をもつ錆茶色の板となり、白い袖の丸い先には、吹きつけたような細かな灰色の斑点で陰がつけられている。

グリスは1887年にマドリードで生まれ、1906年からパリに住んでいた。1916年、彼の画商でドイツ国籍のダニエル=アンリ・カーンワイラーは戦争が終わるのをスイスで待っていて、5月、グリスはレオンス・ローザンベールと契約を結んだ。同じ年、彼は人物を描きはじめ、ラファエロ、ベラスケス、セザンヌの作品をもとにした素描を描いた。
この絵をバーゼルに贈ったのは、バーゼルの銀行家の息子ラウル・ラ・ロッシュである。彼は1911年から1954年までパリの銀行で働いていた。1918年から彼は建築家ル・コルビュジエや画家アメデ・オザンファンと親しくなり、二人は彼がキュビスムの作品を集めるのを手伝った。ル・コルビュジエは、パリのオートゥイユに、彼とそのコレクションのためのラ・ロッシュ邸を建てた。1952年、1956年、1963年に、ラ・ロッシュはキュビスムとピュリスムの作品90点をバーゼルに譲り、それからはキュビスムを見るためにバーゼルを訪れる人々が現れた。グリスは《マンドリンを持つ女》を合板に油彩で描いていて、背景の薄い灰色の絵の具を通して、縦に走る木目が見える。いちばんよくわかるのは右上の隅である。
18. アンリ・マティス《川岸》
1939年6月30日、ルツェルンで、バーゼルの美術館の館長ゲオルク・シュミットは、マティスの《川岸》が96番で競り落とされ、アスコーナのマックス・ミュラーの手に渡るのを見ていた。バーゼルはその日、ほかの作品を八点買った。この絵はフォルクヴァング美術館のもので、創設者カール・エルンスト・オストハウスが1908年2月、パリのベルネーム=ジュヌ画廊で買った。その数か月前、彼は、マティスの絵として初めて美術館に入る一点を手に入れていた。オストハウスの死後、彼のコレクションは1922年にハーゲンからエッセンへ移り、1937年、この絵は「退廃芸術」としてそこから押収された。

マティスがこの絵を描いたのは1907年の春、スペイン国境に近い地中海の漁村コリウールでのことだった。この数年のあいだに、彼はここでアンドレ・ドランとともにフォーヴィスムにたどり着いた。上端に沿って、アーモンド形の大きな暗緑色の葉をつけた枝がのびている。細い木の幹はれんが色がかった赤とばら色の線で描かれ、向こう岸の赤みがかったオレンジの帯より下では、青い水に映る影となって続いていて、どの木も二度描かれていることになる。緑、紫、赤みがかったオレンジ、青が、黒をまじえずに、純粋な色面として並んでいる。右端の幹のあいだには、麦わら帽子をかぶり、淡い藤色の服を着て、膝に何か白いものをのせた小さな人物が座っている。右下の隅の署名は、水の上に青で「アンリ=マティス」と書かれている。
1939年から1953年までの所有者を、美術館は突きとめていない。ルツェルンから14年後の1953年、バーゼルは画商エルンスト・バイエラーを通じて、個人のコレクションからこの絵を買わないかと持ちかけられ、まだ館長だったシュミットは、これをマティスの古典的なフォーヴィスム時代の「とりわけ貴重な作品」と呼んだ。
19. ルーカス・クラナッハ(父)《パリスの審判》
1933年、《パリスの審判》はドイツの国家的に価値のある美術品のリストに載っていて、ロベルト・フォン・ヒルシュがフランクフルトからバーゼルへ移るとき(彼については16を参照)、ほかのコレクションと一緒にこの絵を持ち出すことは許されなかった。1936年3月、絵はベルリンの画商ヨハネス・ヒンリクセンを通じてヘルマン・ゲーリングの手に渡り、ゲーリング・コレクションのデータベースには、この取引は強制売却と記録されている。よく語られる別の話もあるが、それを裏づける文書を歴史家たちは見つけていない。その話では、ヒルシュは残りのコレクションを持ち出す許可の代償として、クラナッハをゲーリングに差し出したことになっている。1937年、ゲーリングはベルリンのクラナッハ展にこの絵を貸し出した。戦後の1954年8月31日、絵は返還されてヒルシュのもとに戻り、1977年、マルタとロベルト・フォン・ヒルシュの寄贈としてバーゼルに入った。
左には銀の鎧を着たパリスが座っている。巻き毛でひげをたくわえ、足もとには白いダチョウの羽根のついた帽子と剣がある。その上にメルクリウスが立っている。白いひげの老人で、貝殻と渦巻きに覆われた奇抜な赤銅色の鎧を着て、ガラスの球を手にしている。右には三人の女神がいて、裸で、身につけているのは透けた布だけであり、その布は腰や腕のあたりに細い線で見える。まんなかの女神は背を向けて立ち、つば広の赤い帽子をかぶり、重い金の鎖をかけて、肩越しにまっすぐこちらを見ている。上の雲のなかからアモルが女神たちに狙いをつけ、木々の向こうには岩の上の城、町、青い山々が見える。右の女神の足の下の石に、クラナッハは「15」と「28」と記し、そのあいだに自分の工房の印、翼のある蛇を置いた。
板の裏には1937年のベルリンの展覧会のタイプ打ちのラベルが残っていて、絵の所有者として「首相ゲーリング」と記されている。

見直された購入(1940年、2021〜2023年)

20. アンリ・ルソー《詩人に霊感を与えるミューズ》
1940年6月12日、シャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンはジュネーヴから、バーゼルの画商クリストフ・ベルヌーイの妻アリス・ベルヌーイに手紙を書き、手もとにある自分の絵12点を挙げて、いまそのうち一点を売りたい、「どうしても必要なので」と書き添えた。旧姓ライヒェンハイム、ベルリンのコレクターの娘でユダヤ人の彼女は、以前、銀行家パウル・フォン・メンデルスゾーン=バルトルディと結婚していて、1913年、夫妻はパリの画商ポール・ローザンベールからこの絵を買った。1927年に離婚すると、絵は彼女のものになった。1930年、彼女はヌーシャテル出身の退役したプロイセンの騎兵大尉フォン・ヴェスデーレン伯爵と結婚し、スイス国民となった。カンヴァスの裏の税関のシールによれば、絵は1935年10月5日にブリークでスイスの国境を越えている。シャルロッテ自身がベルリンを離れたのは1938年だった。ドイツ国は彼女からユダヤ人財産税と出国税を取り立て、それで彼女の個人財産はすべて消えた。
パリ市の入市税関の元職員で、独学の画家だったルソーは、死の前年の1909年、ギヨーム・アポリネールの注文でこの絵を描いた。これは二人の肖像画で、詩人が、ミューズに扮した恋人の画家マリー・ローランサンと並んで立っている。モスクワのプーシキン美術館にある第一作では、ルソーは、フランス人が「詩人のなでしこ」と呼ぶビジョナデシコの代わりにアラセイトウを描き、アポリネールは新聞でそれを冗談の種にした。バーゼルにある第二作では、二人の前に丈の高いビジョナデシコの茎が並び、その平らな花房は、ばら色、白、暗赤色の小さな花でできている。ミューズは灰色がかった藤色の長い衣をまとい、右手を挙げて人差し指を上へのばし、髪と首には緑の葉のついた暗い色の花をつけている。黒い服のアポリネールはまっすぐ前を見ていて、右手に白い羽根ペン、左手に巻いた紙を持ち、二人の頭上では、一枚ずつ輪郭をとった葉をつけた木々の枝がアーチになって合わさっている。アポリネールの回想によれば、最初にモデルを務めた日、ルソーは彼の鼻、口、耳、額、手、そして体全体の寸法を測り、それを縮小してカンヴァスに写した。1913年、ローランサンと別れた一年後に、アポリネールはこの絵をローザンベールに託して売りに出した。

1940年の夏、館長ゲオルク・シュミットはまずシャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンに、美術館には金がない、すべてコレクションを爆撃から守られた保管庫へ移すのに使われていると伝えたが、7月の終わりには自らジュネーヴの彼女を訪ねた。8月1日、彼はベルヌーイに書いている。自分は彼女を「ファルセットの高みから現実の地面へ」引き下ろした、彼女は「どんな値でも売らねばならない」らしい、もし1万2000を机に置けば飛びつくだろう、と。美術館に金を立て替えたコレクターのルドルフ・シュテヘリンには、これはルソーの古典的な主要作の一つに対して「関係者は皆、本質的には恥ずべき安値だと知っている」とシュミットは書いた。1940年9月2日の美術委員会の議事録では、シュミットはこの申し出を「戦争の結果として予期すべきだった幸運」の一つと呼んでいる。美術館が払ったのは1万2000フランで、シュミット自身の言葉によれば、平時ならこの絵には3万から4万フランの値がついたはずだった。シャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンは、のちにこの売却について不満を口にすることはなく、1946年にジュネーヴで亡くなった。
2001年、第二次世界大戦期のスイスの役割を調べたスイスの独立専門家委員会は、この購入を「逃避財」の典型例として取り上げた。委員会はこの言葉で、ドイツからの亡命者たちがナチスの支配の及ばない国々で売ったものを指し、略奪された美術品と区別した。2021年、シャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンの権利継承者の一人を代理する弁護士たちが美術館に取引の見直しを求め、2022年には絵の返還を要求した。2023年12月20日、美術委員会は54ページにわたる決定を下した。そこには、当時の美術館職員たちのふるまいに「シャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンという人間に対するぞっとするような敬意の欠如と、かなりの冷淡さが見てとれることは否定できない」とあり、それは「バーゼル市立美術館の歴史の一部である」と記されている。委員会は、迫害がなければ売却はなかったこと、そしてシャルロッテ・フォン・ヴェスデーレンが生活のためにその金を必要としていたことから、売却は迫害と結びついていたと認めた。美術館は2020年にも、1933年にコレクターのクルト・グレーザーのコレクションの売り立てで買った版画について、同じような合意に達していた。委員会は《ミューズ》の返還を退けたが、「相応の額」の金銭補償をめぐる交渉は支持した。
ほかに見ておきたいもの
ピカソの二点、《二人の兄弟》と《座るアルルカン》は、1967年にバーゼルの市民が住民投票で購入に賛成したのを受けて市が買ったもので、ピカソはその礼として、さらに四点を美術館に贈った。1939年夏の購入品からは、オスカー・ココシュカの《風の花嫁》、マルク・シャガールの《ひとつまみの嗅ぎたばこ》、フランツ・マルクの《二匹の猫、青と黄色》がコレクションにある。ホルバインをさらに見るなら、1523年と1532年のロッテルダムのエラスムスの肖像と、1516年の初期の作で、マイアー・ツム・ハーゼン夫妻を描いた二連画がある。『白痴』のムイシキン公爵はバーゼルで見たもう一枚の絵を思い出していて、それはふつう、やはりこの美術館が所蔵するハンス・フリースの1514年の《洗礼者聖ヨハネの斬首》だとされている。美術館の30万点を超える作品の大部分を収める版画素描館には、アメルバッハの収集室の素描も収められている。


































































