ボルゲーゼの剣闘士
ボルゲーゼの剣闘士エフェソスのアガシアス, -100, ルーヴル美術館

1807年、ナポレオンの妹パオリーナ・ボナパルトの夫だったカミッロ・ボルゲーゼ公は、一族のコレクションから古代の彫像、胸像、浮き彫り700点近くを、義兄ナポレオンに売り渡した。取引は9月27日の政令で定められ、代金は1300万フランとされて、カミッロはそのかなりの部分を土地で受け取った。売られたもののなかには《ボルゲーゼの剣闘士》と《眠るヘルマプロディトス》があり、二体とも以来ルーヴル美術館に置かれている。今日ヴィラに横たわっているヘルマプロディトスは、売られた像の代わりにここへ来たものである。

コレクションを始めたのは、教皇パウルス5世の甥で1633年に亡くなった枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼである。彼は1613年から1616年にかけて、絵や彫像を見せるための郊外の邸宅をピンチョの丘に建て、それらを金で、あるいは力ずくで手に入れた。

19世紀の末、ボルゲーゼ家は借金で首が回らなくなり、1901年12月26日、イタリア議会は二つの法律を同時に可決した。一つは国がコレクションを買い取ることを承認するもので(文献では360万リラという額が挙げられている)、もう一つは300万リラを上限として別に庭園を買い取り、ローマ市に引き渡すものだった。

甥枢機卿の獲物(1606〜1613年)

聖アンナと聖母子
聖アンナと聖母子カラヴァッジョ, 1605, ボルゲーゼ美術館

1. カラヴァッジョ《聖アンナと聖母子》

1605年の秋、教皇の馬丁や輿担ぎたちの信心会であるパラフレニエーリ信心会は、新しいサン・ピエトロ大聖堂にある自分たちの聖アンナの祭壇のために、カラヴァッジョに祭壇画を注文した。1606年4月8日に絵は信心会の代表に引き渡され、4月16日には信心会が運搬人に金を払って、絵を祭壇から下ろし、ヴァティカンにある信心会自身の聖堂サンタンナ・デイ・パラフレニエーリへ運ばせた。大聖堂に掛かっていたのは長くても八日間で、きちんと据えつけられることさえなかったのかもしれない。

主題は『創世記』にさかのぼる。そこで神は蛇を呪い、いつかその頭が砕かれると告げる。それを砕くのは聖母マリアなのか、その子なのかをめぐってカトリックとプロテスタントは論争し、1569年、教皇ピウス5世は、御子が母の助けを借りて蛇の頭を砕くという定式を認めた。カラヴァッジョはこの定式を文字どおりに描いた。マリアの素足が黒く光る蛇の頭を踏み、男の子はその足の上に自分の足を重ねて、二人で一緒に踏みつけている。マリアは、歩き方を覚えはじめた子を支えるように、息子の脇の下を抱えている。男の子は裸で、三つか四つくらいに見える。信心会の守護聖人である聖アンナは少し離れて立っている。年老いて首には皺が寄り、頭に黄色い布をかぶって手を組み、上から二人を見下ろしている。

絵がなぜ外されたのかについては、歴史家たちが今も議論している。カラヴァッジョと同時代の画家で伝記作者のジョヴァンニ・バリオーネは、大聖堂の建設を監督していた枢機卿たちの命令で撤去されたと書いた。ローマの伝記作者ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリは1672年、聖母と裸の幼子が「卑俗に」描かれていると嘆いた。20世紀には、カンヴァスが祭壇には高すぎたのだと考える研究者もいれば、新しい大聖堂での祭壇の配置替えと結びつける研究者もいた。マウリツィオ・マリーニは、聖母のモデルになったのが、ローマで顔を知られた評判のよくない女性レーナ・アントニェッティだと指摘し、サルヴァトーレ・セッティスは、祭壇の主である聖アンナが場面のなかで何もしていないことに目を留めた。反対にマウリツィオ・カルヴェージは、この絵の図像がピウス5世の定式に厳密に従っていると論じた。

1606年7月20日、枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼがこの絵を買い、信心会に100スクーディを払った。信心会がかつてカラヴァッジョに払った額より25スクーディ多い。そのころ画家はすでにローマから逃げていた。5月28日の喧嘩でラヌッチョ・トマッソーニを殺し、欠席裁判で死刑を宣告されていたのである。

聖アンナと聖母子
聖アンナと聖母子カラヴァッジョ, 1605, ボルゲーゼ美術館
バッカスに扮した自画像
バッカスに扮した自画像カラヴァッジョ, 1595, ボルゲーゼ美術館

2. カラヴァッジョ《バッカスに扮した自画像》

カラヴァッジョが最初に独り立ちして描いた絵について書き残したのは、彼のライバルで、決して好意的とはいえない伝記作者だったバリオーネである。1642年に彼は、カラヴァッジョがカヴァリエール・ダルピーノの工房を出た後「自分ひとりでやってみ」て、鏡を見ながら自分をモデルに小さな絵を描いたと書いた。バリオーネによれば、その最初の一枚は、バッカスと、色の違うブドウの房を描いたものだった。ふつうはこの絵のことだと考えられている。バッカスは手に白ブドウを持ち、前の石板の上には黒ブドウの房と黄色い桃が二つ置かれている。

2011年に見つかった文書から、カラヴァッジョが1596年3月にはすでにローマにいたことがわかり、美術館は《バッカス》を1595年ごろの作としている。医師で絵画の目利きでもあったジュリオ・マンチーニは、このころを貧窮の年月として描いている。カラヴァッジョは数か月ダルピーノのもとで働いた。あるとき病気になり、一文なしでサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院に入り、回復するあいだに、そこで院長のために何枚かの絵を描いた。

バッカスは見る者に背を向けて座り、肩越しに振り返っている。光の当たる肩は温かい黄土色で描かれているのに、顔と唇は灰色がかった緑で、白目は黄色みを帯びている。美術史家ロベルト・ロンギは1927年、この色を画家の病気と結びつけた。のちにマリーニは、緑色は下手な修復の後で現れたのだと論じたが、2001年の調査で、この色は画家自身が塗ったものだとわかった。バッカスの頭にはキヅタの冠がのっていて、頭頂の一枚の葉はもう黄ばんでいる。彼は親指で白ブドウの粒を押さえていて、今にもつぶそうとしているかのようである。

1607年までに、この絵は当時のローマで最も成功した画家、カヴァリエール・ダルピーノことジュゼッペ・チェザーリのものになっていた。その年、教皇庁の財務官吏たちは、火縄銃を不法に所持していたとして彼を逮捕した。マンチーニによれば、ダルピーノは実際に見事な火縄銃のコレクションを持っていたが、イタリアの伝記辞典トレッカーニはこの容疑を口実と呼んでいる。事件は取引で決着した。ダルピーノは自分の絵を、美術館の数えでは107点ほど、教皇庁会計院に譲り、教皇はそれを甥のシピオーネに贈った。《バッカス》はその目録に54番として載っている。この逮捕を仕組んだのが教皇だったのか枢機卿本人だったのか、歴史家の見方は分かれている。1790年の目録ではこの絵は「サテュロス」と記されていて、「病めるバッカス」というあだ名をつけたのは、先のロンギである。

バッカスに扮した自画像
バッカスに扮した自画像カラヴァッジョ, 1595, ボルゲーゼ美術館
果物籠を持つ少年
果物籠を持つ少年カラヴァッジョ, 1594, ボルゲーゼ美術館

3. カラヴァッジョ《果物籠を持つ少年》

カンヴァスの右下の隅には白い絵具で606という数字が書かれ、左側の少年の白い袖には、もう一つの褐色の数字475が浮かび上がっている。1693年のボルゲーゼ家の財産目録は、果物籠を持つ少年の絵を「二つの番号、606と475のついた」ものとして記載していて、どちらの番号も今なおカンヴァスの上に見える。

ベッローリによれば、カラヴァッジョは生活に困ってカヴァリエール・ダルピーノのもとで雇われ、そこで花や果物を描いていた。研究者はふつうこの絵をその数か月の作とするが、ダルピーノの工房で描かれたことを示す文書は見つかっていない。確かなのは、この絵が1607年まではダルピーノのものであり、持ち主が逮捕されたときに《病めるバッカス》と一緒にシピオーネ・ボルゲーゼの手に渡ったことである。

籠はカンヴァスの下半分をすべて占めていて、いちばん細かく描き込まれている。2004年、アメリカのパデュー大学の園芸学者ジュールス・ジャニックが、その中身を一つずつ調べ上げた。籠に入っているのは、赤く色づいた桃、黒、赤、白のブドウ四房、実がこぼれ落ちる割れたザクロ、イチジク四つ、セイヨウカリン二つ、リンゴ、そして小さな洋梨のついた枝である。彼によれば、果実はほとんど完璧で、病んでいるのは葉のほうだという。ブドウの葉の一枚には菌による斑点があり、別の一枚にはハマキガの白い卵塊がついていて、桃の葉にはぽつぽつと斑点が散り、籠の右下の縁から垂れ下がったブドウの葉は黄ばんで、へりが枯れている。美術史家ジュリオ・カルロ・アルガンは1962年、これらの葉に衰えと死の暗示を見た。

少年は昔から、ローマでカラヴァッジョの近くに住み、のちに故郷で画家となったシチリア人マリオ・ミンニーティだとされている。この推測の根拠は、カラヴァッジョのほかの初期作品の顔と似ているということだけである。

この絵は1607年から途切れることなくボルゲーゼ家の目録に載っているが、それでも1921年から1922年にかけて、美術史家マッテオ・マランゴーニはこれを古い模写として発表し、1942年にはルートヴィヒ・シュットがそれに同意した。これに反論したのが1924年のヘルマン・フォス、1927年のロンギ、1950年代初めのデニス・マーンで、今ではカラヴァッジョの作であることを誰もが認めている。1790年の目録には、この「少年」の隣にカラヴァッジョの「花籠を持つ男」も記されているが、1833年の目録にはもう載っておらず、コレクションにもない。

果物籠を持つ少年
果物籠を持つ少年カラヴァッジョ, 1594, ボルゲーゼ美術館
キリストの埋葬
キリストの埋葬ラファエロ, 1507, ボルゲーゼ美術館

4. ラファエロ《キリストの埋葬》

1608年3月18日から19日にかけての夜、ペルージャのサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂の修道士たちは、ラファエロの祭壇画を聖堂から運び出す手助けをした。絵はローマの教皇パウルス5世のもとへ運ばれ、教皇はそれを甥の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼに贈った。誰の話を読むかによって、命令を下したのは教皇自身だったとも、動いたのは枢機卿の手の者だったとも、すべてを企てたのは修道士たちだったともいわれる。町には代わりに二点の模写が注文された。一点はジョヴァンニ・ランフランコが描いたが、行方がわかっていない。もう一点を描いたのは、前年に自分の絵がボルゲーゼの手に渡った、あのカヴァリエール・ダルピーノで、この模写は今ペルージャのウンブリア国立美術館にある。同じ美術館には父なる神を描いた祭壇の頂部が所蔵され、三つの徳を描いたプレデッラはヴァティカンにある。

この祭壇画を注文したのはアタランタ・バリオーニで、置き場所は、息子グリフォネットがすでに葬られていた一族の礼拝堂だった。スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルト以来、この絵は息子の死と結びつけられてきたが、ボルゲーゼ美術館はこの結びつきに慎重である。息子の死から祭壇画までに七年がたっているからだ。1500年7月、グリフォネットは、ペルージャで「血の婚礼」と呼ばれた陰謀に加わった。婚礼の祝宴のさなかに陰謀者たちがバリオーニ家の親族を殺し、その数日後、報復で彼自身も殺されたのである。この伝承では、右で体ごと後ろにのけぞってキリストの体を支えている赤い服の若い担ぎ手が、グリフォネットだとされる。

この板絵に署名したとき、ラファエロは23歳か24歳だった。祭壇画のための準備素描は16点ほど残っていて、それを見ると、ペルジーノ風の動きのない「哀悼」が、遺体を墓へ運ぶ場面へと変わっていく過程がわかる。二人の男が白い布にのせたキリストを、板の左端にある洞窟へ運んでいる。髭の男は石段に足を踏ん張り、若い男は後ろへのけぞり、マグダラのマリアはキリストのだらりと垂れた手を握り、右では聖母が気を失って三人の女性の腕に倒れ込んでいる。右上の緑の丘には空の十字架が三本立ち、真ん中の十字架には梯子が立てかけられている。左下の隅の石の上には、「ウルビーノのラファエロ、1507年」というラテン語の署名が金で記されている。

1809年、トリノの総督に任命されたカミッロ・ボルゲーゼは、この板絵をトリノの自分の邸宅へ持っていった。絵はそこからパリへ渡り、1816年、道中で傷を負ってローマに戻った。1874年、修復家ルイジ・ライスが板の裏に重い金属の枠組みを取りつけ、その枠組みがようやく外されたのは1966年から1972年にかけてのことで、外したのは中央修復研究所の修復家ラウラ・モーラとパオロ・モーラである。

キリストの埋葬
キリストの埋葬ラファエロ, 1507, ボルゲーゼ美術館

5. ティツィアーノ《聖愛と俗愛》

聖愛と俗愛
聖愛と俗愛ティツィアーノ, 1514, ボルゲーゼ美術館

ヴェネツィアの十人委員会の書記ニッコロ・アウレリオは、パドヴァのラウラ・バガロットとの結婚に合わせて、ティツィアーノに絵を注文した。花嫁の父でパドヴァの法律家だったベルトゥッチョ・バガロットは、1509年、カンブレー同盟戦争のさなかに、ほかのパドヴァ人たちとともに反逆者としてヴェネツィアで絞首刑にされ、最後まで無実を訴えていた。

泉に作り変えられた古代の長い石棺の両端に二人の女性が座り、そのあいだではクピドが縁から身を乗り出して、手で水をかき混ぜている。左の女性は赤い袖のついた銀白色のサテンのドレスを着て、手袋をはめ、留め金のついたベルトを締め、ミルトの冠をかぶっていて、美術館はそこに花嫁のしるしを見ている。右の女性は裸で、腰だけが白い布で覆われ、肩の後ろには大きな赤いマントがひるがえり、挙げた手にはランプを持っている。美術館は二人を同じ一人の花嫁、人前での姿と夫と二人きりのときの姿と考えているが、エルヴィン・パノフスキーは1939年、そこに天上のヴィーナスと地上のヴィーナス、二人のヴィーナスを見た。アウレリオと妻の紋章を、ティツィアーノは石棺の正面と、その縁に置かれた銀の鉢の底に描き入れている。

この絵がボルゲーゼ家にあることを初めて確かに証言したのは、1648年、ヴェネツィアの画家伝作者カルロ・リドルフィである。多くの研究者は、美術史家パオラ・デッラ・ペルゴラに従って、シピオーネが1608年に枢機卿パオロ・エミリオ・スフォンドラートの絵をまとめて買ったとき、そのなかにこの絵も含まれていたと考えているが、その一括購入の目録を見つけた者はいない。

聖愛と俗愛
聖愛と俗愛ティツィアーノ, 1514, ボルゲーゼ美術館
洗礼者聖ヨハネ
洗礼者聖ヨハネカラヴァッジョ, 1610, ボルゲーゼ美術館

1899年、一族がすでにコレクションを国に売る交渉をしていたころ、銀行家のロスチャイルド家がこの一枚だけに400万リラを提示した。後の著者たちの記すところでは、それは国がコレクション全体に払った額よりも多い。取引は成立せず、その理由は人によって語り方が違う。よく知られた説では、公がこの絵をヴィラから手放したがらなかったという。ジャーナリストのロデリック・コンウェイ・モリスは1995年に逆の話を紹介した。一族は、この絵を手元に残して国外へ持ち出すことを許してくれるなら、コレクション全体を無償で国に譲ると申し出たが、国が断ったというのである。いずれにせよ、ボルゲーゼ家がこの絵を個人の買い手に売ることはできなかった。1633年以来、コレクションは譲渡できない一族の世襲財産だったからである。

6. カラヴァッジョ《洗礼者聖ヨハネ》

1610年7月、カラヴァッジョが「わずかな持ち物とともに」ナポリから乗り込んだフェルーカ船には、シピオーネ・ボルゲーゼに届ける三点の絵、二点の「洗礼者聖ヨハネ」と「マグダラのマリア」が積まれていた。昔から語られてきた話では、画家はローマの北のパーロで船を降りてそこで逮捕され、金を払って釈放されたときには、フェルーカ船は絵を積んだまま彼を置いて出てしまっていた。歴史家フランチェスカ・クルティは2023年、彼が逮捕されたのはポルト・エルコレであり、殺したトマッソーニの一族と和解しに行く途中だったと論じた。この和解がなければ、法のうえで恩赦を願い出ることはできなかったのである。同じ7月、彼はポルト・エルコレで亡くなった。

絵の行方は、ナポリ駐在の教皇大使デオダート・ジェンティーレがシピオーネに宛てた手紙からたどることができる。これらの手紙は1991年に歴史家ヴィンチェンツォ・パチェッリが公刊した。1610年7月29日、大使は、フェルーカ船がナポリに戻り、三点の絵は無事で、カラヴァッジョが出発前に住んでいたキアイアのコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人の屋敷にあると知らせた。二日後、ジェンティーレは、マルタ騎士団のカプア管区長ヴィンチェンツォ・カラファが、かつての騎士の相続人を自任する騎士団の名で絵を引き取ったと書いた。続いて、自分で絵を手に入れたがっていたナポリの新しい副王レモス伯が割って入った。副王は「洗礼者聖ヨハネ」の一点を自分のものにしたが、シピオーネは、もう一点が自分の注文で描かれたものだと証明した。1611年8月29日、この《洗礼者聖ヨハネ》はローマへ送られた。

ゴリアテの首を持つダビデ
ゴリアテの首を持つダビデカラヴァッジョ, 1605, ボルゲーゼ美術館

少年は暗い斜面にもたれ、ほとんど寝そべるように座って、片膝を引き寄せてその上で両手を組み、疲れた不機嫌なまなざしで見る者を見ている。カラヴァッジョは洗礼者の持物のうち、細い葦の杖だけを彼に残した。ふつうはそれで聖人を見分ける、杖の先の十字架も、「見よ、神の小羊」と記した帯もついていない。カンヴァスの半分を巨大な赤いマントが占め、左、若者の背後では、雄羊が鼻面を上に伸ばしてブドウの葉を食んでいる。雄羊とブドウの蔓にキリストの犠牲を読み取る研究者もいる。

手紙が見つかるまで、この絵の年代はさまざまに考えられていた。デニス・マーンは1602年から1604年とし、ロンギは最初ローマ時代の末、のちにパレルモ時代とした。1991年以後になって、ようやく1609年から1610年に絞り込まれた。

7. カラヴァッジョ《ゴリアテの首を持つダビデ》

ダビデはゴリアテの首の髪をつかみ、腕をまっすぐ伸ばして、見る者の目の前に突き出している。巨人の片方の目は半ば閉じ、もう片方は開いたまま生気を失い、口は歯が見えるほど開いて、額には石の当たった赤い跡があり、カンヴァスの下の縁では首から血が筋になって流れ落ちている。この血が絵全体でただ一つの赤である。すでに1650年、ヴィラ・ボルゲーゼの案内記を書いたジャコモ・マニッリは、この首でカラヴァッジョは「自分自身を描こうとした」と記し、1672年にはベッローリが同じことを繰り返した。

ダビデは口の端を下げ、悲しげに首を見ている。マニッリは彼のモデルを「彼のカラヴァッジーノ」、つまり画家の身近にいた少年と呼んでいて、研究者たちはその候補の一人にチェッコ・デル・カラヴァッジョの名を挙げている。ダビデの手にある剣の刃にはH.AS O Sという文字が刻まれていて、1987年にマウリツィオ・マリーニは、これを「謙遜は傲慢を殺す」というラテン語の格言の略語と読んだ。

この絵の最もよく知られた解釈は、どの文書にも裏づけられていないが、美術館はそれをありうることと見ている。1985年、カルヴェージは、この絵を担保として見るよう提案した。トマッソーニ殺害の恩赦を叔父の教皇パウルス5世に取りなしてもらうため、シピオーネ・ボルゲーゼに送った絵だというのである。長いあいだこの絵は1605年から1606年の作とされていた。ベッローリが、シピオーネはまだローマにいたカラヴァッジョに直接これを注文したと書いていたからである。のちに制作地はナポリに移され、美術館は1606年から1607年、または1609年から1610年、つまり画家の一度目か二度目のナポリ滞在という二つの可能性を残している。絵具層の下の地塗りは、カラヴァッジョが1606年から1607年に使っていたものに似ている。

1613年には、この絵は確かにシピオーネのもとにあった。その年、詩人シピオーネ・フランチュッチが枢機卿のギャラリーをうたった詩のなかでこの絵を描写し、指物師アンニバーレ・ドゥランテが枢機卿から額縁の代金を受け取っていて、そのうちの一つが「巨人の首を持つダビデの絵」のためのものだった。

ゴリアテの首を持つダビデ
ゴリアテの首を持つダビデカラヴァッジョ, 1605, ボルゲーゼ美術館

枢機卿の注文と強要(1617〜1632年)

8. ドメニキーノ《ディアナとニンフたち》

ディアナとニンフたち
ディアナとニンフたちドメニキーノ, 1616, ボルゲーゼ美術館

ボローニャの画家でカラッチの弟子だったドメニキーノが、自分の最大の庇護者である、教皇クレメンス8世の甥の枢機卿ピエトロ・アルドブランディーニのために描いていた絵は、画家の手から奪い取られた。その話を書き残したのは伝記作者ジョヴァンニ・バッティスタ・パッセリで、彼の画家伝は17世紀に書かれ、1772年に出版された。ボルゲーゼ美術館もこの話を引いている。シピオーネ・ボルゲーゼはこの絵のことを耳にして、自分に譲るよう求めた。ドメニキーノは、これはアルドブランディーニの注文で描いたものだと詫びた。気を悪くした枢機卿は人を送って画家の家から絵を力ずくで持ち去らせ、ドメニキーノ本人を投獄させて、数日間牢に留め置いた。

1617年4月21日付の文書によれば、ドメニキーノは150スクーディを受け取っていて、文書にはそれがこの絵と《シビュラ》の二点に対する全額の支払いだと書かれている。美術館は伝記作者の話にある40スクーディという額も挙げていて、研究者の見るところ、これは清算の最後の支払い分である。

この絵は「ディアナの狩り」という名で知られるようになったが、ドメニキーノが主題をとったのはウェルギリウスの『アエネイス』第5巻である。アエネアスの父アンキセスをしのぶ競技で、帆柱に紐で鳩が結びつけられ、射手たちが順に矢を放った。一本目の矢は帆柱に当たり、二本目は紐を断ち切り、三本目は逃げ出した鳥を射落とした。ドメニキーノはこの競技をディアナのニンフたちにやらせている。ディアナは中央の小高いところに立って弓と矢筒を頭上に掲げていて、右端には矢の刺さった柱と切れた紐が突き出し、そこから射抜かれた鳩が落ちてくる。手前の水のなかには二人のニンフが立ち、その一人はまっすぐ見る者を見ている。右のピンクの服のニンフは灰色のグレーハウンドを金の首輪で押さえているが、犬は画面の端の茂みへ向かって飛び出そうとしていて、茂みからは二人の男がのぞいている。

ディアナとニンフたち
ディアナとニンフたちドメニキーノ, 1616, ボルゲーゼ美術館
アエネアス、アンキセスとアスカニウス
アエネアス、アンキセスとアスカニウスジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1619, ボルゲーゼ美術館

9. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《アエネアス、アンキセスとアスカニウス》

フィレンツェ出身の彫刻家ピエトロ・ベルニーニは1605年か1606年に、家族を連れてナポリからローマへ移った。教皇パウルス5世が、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のパオリーナ礼拝堂の浮き彫りを彼に任せたからである。この工事の現場で、教皇と甥のシピオーネは彫刻家の息子ジャン・ロレンツォに目を留めた。少年は父の工房で学び、ヴァティカンとボルゲーゼ家のコレクションで古代彫刻を素描していた。そして1618年から1619年、20歳のときに、シピオーネのために初めての大きな群像を彫った。

ドイツの画家で美術史家のヨアヒム・フォン・ザンドラルトは1675年、ジャン・ロレンツォが父と一緒にこの群像に取り組んだと書いていて、後期フィレンツェ・マニエリスム風の窮屈な縦長の構図のせいもあり、研究者たちには長いあいだ、むしろピエトロの作品のように思われていた。初期の伝記作者たち、1682年のフィリッポ・バルディヌッチと1713年の彫刻家の息子ドメニコ・ベルニーニは、群像をジャン・ロレンツォの作としたが、制作を彼が15歳だった1613年に置いていた。論争に決着をつけたのは、1950年代に歴史家イターロ・ファルディが公刊した1619年の文書、すなわちジャン・ロレンツォ本人への支払いの記録と、同じ日付の石工による台座の請求書である。群像の構想には父の手が入っていると今も見る専門家もいる。

アエネアスは『アエネイス』第2巻にあるとおり、燃えるトロイアから父を背負って逃れる。年老いたアンキセスは息子の肩に座り、トロイアの家の神々ペナテスの二体の小さな像を入れた器を抱え、幼いアスカニウスはアエネアスの脚の陰から顔をのぞかせて、ウェスタの火をともした灯火を運んでいる。美術館は三つの年齢の肌の違いに目を向けている。少年の肌は柔らかくふっくらとし、アエネアスの肌は筋肉の上にぴんと張り、アンキセスの肌はたるんで、腕には血管が浮き出ている。美術館はこの群像を、年老いた叔父の教皇を背負う若いシピオーネ、つまり注文主への暗示とも読んでいる。ラテン語のスキピオという言葉が「杖」を意味するので、なおさらそう読める。

1619年、群像の台座として選ばれたのは、牛の頭蓋骨と花綱で飾られた古代の円形の祭壇だった。美術館の記録によれば、石工ジュゼッペ・ディ・ジャコモはこの祭壇を五分の一ほど削り落とし、群像を壁にぴったりつけて置けるようにした(元館長のクリスティーナ・ヘルマン・フィオーレは、削られたのはもっと後の19世紀かもしれないと考えている)。祭壇は今も美術館にあり、群像とは別に置かれている。

プロセルピナの略奪
プロセルピナの略奪ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1622, ボルゲーゼ美術館

10. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》

シピオーネ・ボルゲーゼは、この群像が自分の屋敷に来る前に、それを人に贈ってしまった。ベルニーニは1621年6月に最初の300スクーディを受け取り、1622年9月に群像は完成し、10月には彫刻家の工房から直接、ピンチアーナ門のそばのヴィラ・ルドヴィージにいる枢機卿ルドヴィーコ・ルドヴィージのもとへ運ばれた。その一年半前、彼の叔父がグレゴリウス15世として教皇になっていて、今では甥枢機卿はルドヴィージであり、ボルゲーゼは終わった教皇在位の枢機卿にすぎなかった。美術館は、シピオーネの素早い決断をこの変化によって説明している。美術史家クリスティーナ・シュトルンクは、もっと暗い読み方を示した。地上の生きものがみなしおれていくあいだに冥界へ連れ去られる娘の神話は、病気の教皇に、残された命が長くないことを思い出させたかもしれない、というのである。グレゴリウス15世は1623年7月に亡くなった。

髭をたくわえ、ぎざぎざの冠をかぶったプルートは、プロセルピナを左の脇に抱き寄せ、地面から持ち上げて前へ踏み出している。彼女は身をよじり、手のひらで彼の頭を押しのけていて、そのせいで彼の顔はゆがみ、髭は横にずれている。プルートは右手で彼女の腿をつかみ、指が深く食い込んで、指のあいだの肌が盛り上がっている。プロセルピナの頬には涙が彫られている。後ろ、プルートの両脚のあいだでは、三つの頭をもつケルベロスが牙をむいていて、その毛並みは、磨き上げられた人間の肌のすぐそばで、鑿の細かな平行の溝を残したつや消しのままにされている。

枢機卿マッフェオ・バルベリーニの詩を刻んだ最初の台座は失われ、今の台座は1911年に彫刻家ピエトロ・フォルトゥナーティが作った。1883年、ボンコンパーニ・ルドヴィージ家は自分たちのヴィラを建設会社に売り、庭園は区画に切り分けられて、群像はヴェネト通りに建てられた一族の新しい宮殿へ移された。この宮殿にはのちにマルゲリータ王妃が住んだ。1908年、イタリア国家が《プロセルピナの略奪》を買い取り、群像は初めてヴィラ・ボルゲーゼにやって来た。

プロセルピナの略奪
プロセルピナの略奪ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1622, ボルゲーゼ美術館
ダヴィデ
ダヴィデジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1624, ボルゲーゼ美術館

11. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《ダヴィデ》

教皇シクストゥス5世の甥である枢機卿アレッサンドロ・ペレッティ・モンタルトは、1623年3月、自分のヴィラのためにダビデ像をベルニーニに注文し、同じ年の6月2日に亡くなった。美術館の記録によれば、注文はシピオーネ・ボルゲーゼが引き継いだ。バルディヌッチはモンタルトに触れず、ベルニーニはボルゲーゼのためにこの像を七か月で作ったと書いていて、美術館は、そのために彫刻家が《アポロンとダフネ》の制作を一時中断したと付け加えている。

ベルニーニは石を投げる直前、振りかぶった瞬間のダビデを表した。両脚を大きく開き、片方の足は地面を平らに踏み、もう片方ははるか後ろで爪先を台座に突いている。胴はひねられて前に傾き、両手は投石器を握っていて、大理石から彫り出された紐が両手のあいだにぴんと張っている。ダビデは眉をひそめ、下唇をかんで、石が飛んでいく先を肩越しに見ている。足もとにはサウル王の胸甲が置かれている。『サムエル記上』では、決闘の前にサウルが自らダビデに自分の鎧を着せたが、ダビデは着慣れていないので歩けず、それを脱いだ。そばには竪琴があり、その端は小さな鷲の頭の形に曲がっている。鷲はボルゲーゼ家の紋章の鳥だった。像ははじめ壁際に置かれていたので、背中とマントの後ろ側は、大きな平面で粗く仕上げられている。

60年近く後に書いたバルディヌッチは、ベルニーニがダビデの顔を自分自身の顔をもとに彫ったこと、そして枢機卿マッフェオ・バルベリーニが何度も工房を訪れ、自ら彼の前で鏡を持ってやったことを伝えている。1623年8月、バルベリーニは教皇に選ばれ、ウルバヌス8世と名のった。

アポロンとダフネ
アポロンとダフネジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1624, ボルゲーゼ美術館

12. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《アポロンとダフネ》

オウィディウスの物語では、ニンフのダフネがアポロンから逃げ、追いつかれそうになったとき、河の神である父に、追う者の心をとらえた自分の姿を奪ってほしいと願う。たちまちその体は樹皮に包まれ、髪は葉に、腕は枝に、足は根に変わる。ベルニーニが選んだのは、アポロンの手のひらが彼女の腰に触れ、その手の下ですでに樹皮が閉じた瞬間である。樹皮は彼女の脚をはい上がり、足の指は根になって岩にしがみつき、手の指と髪の房からは、薄く透きとおる月桂樹の葉が噴き出している。アポロンの顔はまだ穏やかだが、ダフネは頭をのけぞらせて叫んでいる。

シピオーネがこの群像のための大理石を買ったのは1622年8月2日である。ベルニーニが《ダヴィデ》を作っていたあいだ、制作はおよそ一年中断し、1625年8月に群像はヴィラに据えられ、11月24日にベルニーニは最後の支払いを受け取った。報酬は全部で1000スクーディだった。

異教の裸体の追跡劇を枢機卿の屋敷で見せられるように、マッフェオ・バルベリーニが群像に添える詩を作ったと一般に考えられている。台座にある竜の皮の形のカルトゥーシュには、彼のラテン語の二行詩が刻まれている。「愛して、逃げ去る美の喜びを追う者は、手に葉を満たし、あるいは苦い実を摘む」。1785年に群像が部屋の中央に移されて向きを変えられたとき、彫刻家ロレンツォ・カルデッリが、ボルゲーゼ家の鷲の形をした二つ目のカルトゥーシュをオウィディウスの詩句とともに加え、台座には今その両方がある。

伝記作者パッセリは、葉と根はベルニーニの助手ジュリアーノ・フィネッリが彫ったと書いたが、美術館は、それは工房のふつうの手伝い程度のことにすぎないと考えている。1996年から1998年の修復のとき、ベルニーニが制作中、いちばん薄い部分を石膏の小さなクッションで覆って鑿の衝撃で割れないようにし、それを最後の最後になって外したことがわかった。

アポロンとダフネ
アポロンとダフネジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1624, ボルゲーゼ美術館

13. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像二体

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第一作)
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第一作)ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1632, ボルゲーゼ美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第二作)
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第二作)ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1632, ボルゲーゼ美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第二作)
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像(第二作)ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1632, ボルゲーゼ美術館

大理石のシピオーネ・ボルゲーゼの額には、生え際から枢機卿の帽子の下へと、細く黒いひびが一本走っている。はっきり見えるようになったのは1997年の洗浄の後だが、ひびに気づいたのはすでに工房にいたときだった。バルディヌッチによれば、最後の磨きのときに髪の毛ほどのひびが枢機卿の額に入り、そんな胸像を人に見せるわけにはいかなかった。ベルニーニは新しい胸像を15晩で彫り上げた。息子ドメニコによれば三日で彫ったという。バルディヌッチの話では、彫刻家はまずシピオーネに傷ものの胸像を見せ、枢機卿はがっかりしたが、彫刻家を傷つけないようにそれを隠し、そこでベルニーニは二つ目の胸像の覆いを取って見せたという。1632年12月、シピオーネは肖像の代金として500スクーディを払い、1633年10月に亡くなった。

一つ目の胸像では、枢機卿は顔を横に向けて唇を少し開き、まるで脇にいる誰かに話しかけたかのようで、美術館はこれをベルニーニの「話す肖像」の最初のものと呼んでいる。二重顎の重たい顔は襟の上にかぶさり、口髭は上にひねり上げられ、顎髭は尖っていて、小さなボタンが一列に並ぶ短いケープ、モッツェッタには深い皺が寄っている。二つ目では、枢機卿はほとんど正面を見ていて、モッツェッタは下のほうに横一本の襞があるだけで落ち着いており、大理石もより白い。このモッツェッタにも、斜めにひびが走っている。

胸像は一族の譲渡できない財産には含まれておらず、1892年、相続人たちはローマの競売に二体を一つのロット、341番として出した。買ったのは国で、胸像は1908年までヴェネツィアのアカデミア美術館に保管され、その後ヴィラに戻った。美術館の記録によれば、シピオーネ自身は、ひびの入った胸像を下の階のローマ皇帝の胸像のあいだに置き、傷のないほうを上の階の絵画ギャラリーに送った。

ボルゲーゼ家の当主たちが売り、買う(1804〜1839年)

14. アントニオ・カノーヴァ《勝利のヴィーナスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ》

カミッロ・ボルゲーゼ公は1804年、妻パオリーナ・ボナパルトの像をカノーヴァに注文し、1807年には一族の古代彫刻をナポレオンに売った。そのなかには、若いころのベルニーニが大理石のマットレスを彫った《眠るヘルマプロディトス》があり、カノーヴァはパオリーナの下のマットレスを、ベルニーニのものにならって彫ったと考えられている。美術館の記録では、1808年5月15日にカノーヴァは像の代金6000スクーディを受け取ったが、ほかの資料ではこの支払いは1809年とされている。

眠るヘルマプロディトス
眠るヘルマプロディトス不詳の古代ローマの彫刻家(帝政期), 125, ルーヴル美術館
勝利のヴィーナスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ
勝利のヴィーナスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼアントニオ・カノーヴァ, 1806, ボルゲーゼ美術館

パオリーナは二つの枕にもたれて半ば横たわり、右手で耳の後ろの髪に触れ、左手には小さなリンゴを腿のそばに持っている。パリスが女神のなかで最も美しい者、ヴィーナスに与えたのがこのリンゴで、だからこの像は「勝利のヴィーナス」と呼ばれる。薄い布が腰から足首までを覆い、布越しに膝の形が見え、マットレスと枕には縫い目や縁取り、四隅の房飾りが彫られている。カノーヴァは体の部分を砥石の水で磨き、美術館によれば、大理石のピンクがかった輝きは蝋燭の光で見ることを考えたものだという。同時代の証言では一つも裏づけられていない逸話もある。ほとんど裸でどうしてポーズをとれたのかと尋ねられたパオリーナは、アトリエにはストーブが焚いてあったから、と答えたというのである。

1809年、像はカミッロが住んでいたトリノのキアブレーゼ宮へ送られ、1814年にローマのボルゲーゼ宮に戻り、ヴィラへ移されたのはようやく1838年のことだった。大理石のマットレスの下の木の台は石に見えるように塗られ、金色のロゼットで飾られている。その内部には、観客の前で像を回転させるための仕掛けが隠されていて、これはトリノで作られたものである。

15. コレッジョ《ダナエ》

ダナエ
ダナエコレッジョ, 1531, ボルゲーゼ美術館

1827年、教皇庁の税関で、《ダナエ》はコレッジョの作かどうか疑わしい絵としてローマに持ち込まれた。この絵をパリの画商ボヌメゾンから285ポンドで買ったのはカミッロ・ボルゲーゼ公で、美術館の記録によれば、彼の代理人エヴァジオ・ゴッツァーニは、教皇庁の関税を安くするために、わざと作者の格を下げて申告したのだという。ローマでは画家たちがコレッジョの作であることを認め、画家ヴィンチェンツォ・カムッチーニはその明暗法と、透きとおって光を放つ色彩をほめた。《ダナエ》は1891年までローマのボルゲーゼ宮に掛かっていて、ヴィラに来たのはその後である。

コレッジョがこの絵を描いたのは1530年から1531年ごろ、マントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガのためで、四点からなる「ユピテルの愛」の連作の一つだった。ヴァザーリによれば、公はこの連作を皇帝カール5世に贈るつもりだったが、フェデリーコは自分のために注文したのだと考える研究者もいる。その後《ダナエ》はミラノの彫刻家レオーネ・レオーニのもとに、ついでプラハの皇帝ルドルフ2世のもとに渡り、1648年、スウェーデン軍がプラハを略奪したとき、ストックホルムのクリスティーナ女王のもとへ運ばれた。退位したクリスティーナは、この絵をローマへ持っていった。女王の死後、《ダナエ》は相続人の枢機卿デチオ・アッツォリーノ、リヴィオ・オデスカルキ公、フランスの摂政オルレアン公、イギリスの収集家たち、そしてパリの画商の手を次々に渡った。

ダナエは白い枕に半ば身を横たえてシーツの端を持ち、もう一方の端を、寝台の縁に座った翼のある男の子が持っている。美術館はこの子を婚姻の神ヒュメナイオスとしているが、案内書ではふつうクピドと呼ばれている。男の子は天蓋の下の暗い雲を見上げていて、それは、父に閉じ込められたダナエのもとへ黄金の雨となって忍び込んだユピテルである。右下の隅では二人のプットが石の上にかがみ込んでいる。美術館の解釈では、これはエロスと、おそらくアンテロスで、試金石で金と矢じりを試しているのだという。ヴァザーリは『芸術家列伝』で、石で矢を試すクピドたちに触れていて、このプットたちから、彼の言う絵がこれだとわかる。

ダナエ
ダナエコレッジョ, 1531, ボルゲーゼ美術館

16. 3〜4世紀のローマのモザイク職人たち《剣闘士のモザイク》

1834年、ローマの南東、カシリーナ街道沿いにあるボルゲーゼ家の領地トッレノーヴァで、剣闘士の戦いと猛獣狩りを描いた、大きな古代ローマのヴィラの柱廊の床が掘り出された。発掘を命じたのは、1832年に亡くなったカミッロの弟で相続人のフランチェスコ・ボルゲーゼ・アルドブランディーニ公である。1807年の売却の後、ヴィラの広間はがらんとしていて、カミッロ、続いてフランチェスコが、収蔵庫や市場や一族の領地から集めた彫像でそこを埋めていった。モザイクは下地からはがされ、長方形のパネルに切り分けられ、ヴィラの庭園にある時計の館で修復されて、1839年までに主広間の大理石の床と同じ高さにはめ込まれた。

剣闘士のモザイク
剣闘士のモザイク不詳の古代ローマのモザイク職人(帝政期), 300, ボルゲーゼ美術館

戦士の一人ひとりの頭上には、黒い大文字で名前が記されている。名前の後にギリシア文字のΘがついている者もいる。ギリシア語で「死」を意味する言葉の頭文字で、こうして死んだ者が示され、勝者には職人がVICという略語を添えた。いちばん有名なパネルでは、剣闘士アスタキウスが両手で短剣を振り上げて、仰向けに倒れたアスティウスの上に立っている。アスティウスは自分の巨大な長方形の盾に足を引っかけていて、その名の下にはΘがある。パネルの端で仰向けに倒れたロダンの名の下にも同じ印がある。別のパネルでは、脇腹の傷から血を流すヒョウが、狩人セルペンティウスの腕にかみついている。

モザイクは、人々が長いフリーズに沿うようにその脇を歩いた柱廊に敷かれていて、美術館は、ヴィラの主人が自分で費用を出した競技をこうして記念したのだと考えている。1845年、ドイツの碑文学者ヴィルヘルム・ヘンツェンが、その詳しいラテン語の解説を出版した。白い地のまっすぐな継ぎ目や色調の段差から、断片が組み直された箇所がわかり、19世紀の修復家たちは、柱廊にあったときとは大きく違う順序で床を組み立てたと考える研究者もいる。

美術館の時代:購入、修復、そして新しい作者名

時に暴かれる真実
時に暴かれる真実ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1649, ボルゲーゼ美術館

17. ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《時に暴かれる真実》

ベルニーニがサン・ピエトロ大聖堂のファサードに建て始めた鐘楼は、1646年、新しい教皇インノケンティウス10世の命令で取り壊された。鐘楼の建設を命じたのはウルバヌス8世だったが、ファサードにひびが入って1642年に工事は止められ、1644年にウルバヌスが亡くなって、ベルニーニは庇護者を失った。ベルニーニ贔屓の伝記作者バルディヌッチは、審理で主な告発者となったのはライバルの建築家フランチェスコ・ボッロミーニだったと書いている。同じ1646年、ベルニーニは自分の金で、カッラーラ産大理石の一つの塊から、「時」にヴェールをはがされる「真実」を彫り始めた。

「真実」は岩の上に裸で座り、頭をのけぞらせて、口を大きく開けてほほえみ、ほとんど笑っている。伸ばした右手には人の顔をもつ太陽を掲げ、左足で地球儀を踏み、背後では、誰かが上から引っ張っているかのようにヴェールが舞い上がっている。翼のある老人の姿の「時」が彼女の上を舞うはずだったが、ついに彫られることはなかった。ヴェールは上で、ぎざぎざの鑿の跡が残る四角い粗い大理石の突起となって終わっていて、そこは「時」の手がヴェールを持つはずだった場所である。1665年、パリでベルニーニはフランスの廷臣ポール・フレアール・ド・シャントルーに、この像は家族に残すために作っていること、「時」はまだできていないこと、模型では「時」を柱やオベリスクや霊廟が支えていたことを語り、「翼があるのに」と言って笑った。

鐘楼が取り壊されてから二年後、ベルニーニはすでに同じインノケンティウス10世のために四大河の噴水に取りかかっていて、注文が次々に舞い込み、「時」の像には二度と戻らなかった。その像のために用意された大理石の塊は、彫刻家が亡くなるまで彼の家のそばに置かれたままで、その後、相続人たちが売った。ベルニーニは「真実」を男系の長子相続人たちに遺し、売ることを禁じた。1846年、子孫のプロスペロ・ベルニーニは像を新しい台座にのせ、ベルニーニが「かつて中傷に傷つき、その痛みを慰めるためにこれを彫った」というラテン語の銘を刻ませた。

一族の系譜研究によれば、像の譲渡禁止は1841年ごろに終わり、1858年にプロスペロが亡くなると、像は彼の養女を通じてほかの家へ移ったので、20世紀の「ベルニーニの相続人」はもはや男系の直系子孫ではなかった。1924年、彼らは像をボルゲーゼ美術館に寄託し、美術館の英語の記録によれば、像は収蔵庫に入れられた。1958年、国がこれを買い取った。

時に暴かれる真実
時に暴かれる真実ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1649, ボルゲーゼ美術館
一角獣を抱く貴婦人
一角獣を抱く貴婦人ラファエロ, 1505, ボルゲーゼ美術館

18. ラファエロ《一角獣を抱く貴婦人》

1833年の目録では、この絵は「車輪を持つ聖カタリナを表した肖像、ペルジーノ派」とされている。誰かが肖像の上から殉教者の持物を描き加えていたのである。一角獣の場所には歯のついた車輪、肩には重いマントが描かれていた。1927年、ロベルト・ロンギはこの加筆の下にラファエロを見抜いた。1933年、館長アキッレ・ベルティーニ・カロッソがX線写真を撮り、加筆の下の人物像が現れた。1934年から1936年にかけて、修復家アウグスト・チェッコーニ・プリンチペは、傷んだ板から絵具層をカンヴァスに移し、後の加筆をメスで取り除いた。車輪とマントが消え、女性の膝の上に一角獣が現れた。カンヴァスに移したために、空と顔には布の織り目が見える。

1959年から1960年にかけて中央修復研究所が撮ったX線写真で、一角獣の下に犬が描かれていたことがわかった。犬は忠実を、一角獣は貞潔を表し、どちらも花嫁か若い妻の肖像にふさわしい。犬の上に一角獣を描いたのがラファエロ自身なのか別の画家なのか、研究者の結論は出ていない。誰が描かれているのかについても議論がある。フィレンツェ人アーニョロ・ドーニの妻マッダレーナ・ストロッツィ、一角獣がファルネーゼ家の紋章だったことからジュリア・ファルネーゼ、そしてカテリーナ・ゴンザーガ・ディ・モンテヴェッキオの名が挙げられてきた。シドニー・フリードバーグとルイトポルト・ドゥスラーに始まる少数派の研究者は、作者をリドルフォ・デル・ギルランダイオと考えている。

構図をラファエロは、そのころレオナルドがフィレンツェで描いていた《モナ・リザ》から借りた。女性は二本の円柱のあいだのロッジアに座り、低い胸壁の向こうには湖と青い丘の風景が広がり、座敷犬ほどの大きさの小さな金色の一角獣が彼女の腕に抱かれている。肖像のなかでいちばん精密に描かれているのはペンダントで、ゆるく結ばれた細い金の鎖に、金の台にはめた四角いルビーと、いびつな形の大きな真珠が下がっている。

一角獣を抱く貴婦人
一角獣を抱く貴婦人ラファエロ, 1505, ボルゲーゼ美術館

19. 伝ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《牝山羊アマルテイアと幼子ユピテル、そして牧神》

ザンドラルトは1675年、ベルニーニの最初の名高い作品として、「横たわる山羊の乳を二人のバッカス的な幼子が飲んでいる白大理石の群像」を挙げた。彼は1620年代の末にローマに住んでいて、半世紀近く後に記憶をたよりに書き、その群像がどこにあるかは記さなかった。1926年、ロンギは彼の言葉をボルゲーゼ・コレクションの小さな大理石群像と結びつけ、ルドルフ・ウィットカウアーから、のちに長年この美術館を率いたアンナ・コリーヴァまで、ほとんど誰もがそれに同意した。アーヴィング・ラヴィンは、ベルニーニが十歳ほどだった1609年ごろにまで制作年をさかのぼらせた。

ロンギ以前、この群像には作者がいなかった。シピオーネは遅くとも1615年8月にはこれを所有していて、そのとき彫り師ジョヴァン・バッティスタ・ソリアが、この群像のためのクルミ材の台座の代金を受け取っている。1650年、ジャコモ・マニッリは彫刻家の名を挙げずにこれを記し、1796年のヴィラの彫刻目録は16世紀の作者不詳の作品としていた。

牝山羊アマルテイアと幼子ユピテル、そして牧神
牝山羊アマルテイアと幼子ユピテル、そして牧神ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1615, ボルゲーゼ美術館
男性の肖像
男性の肖像アントネロ・ダ・メッシーナ, 1476, ボルゲーゼ美術館

山羊は脚を折って横たわり、首をひねって、歯が見えるほど口を開けていて、首には鈴のついた首輪が巻かれている。ブドウの葉の冠をかぶったユピテルは、見る者に背を向けて山羊の脇にひざまずき、乳を搾っていて、山羊の背の向こうからは小さな牧神が顔をのぞかせ、鉢から乳を飲んでいる。山羊の毛には長く波打つ溝が刻まれ、子どもたちの体はつやつやに磨かれている。

2022年、コリーヴァの編集によるこの美術館の彫刻の新しいカタログが出て、そこではこの群像は「作者不詳の彫刻家」の作とされた。コリーヴァは、ベルニーニの初期の伝記作者二人がこの群像について何も書いていないこと、山羊の角と牧神の尻尾が別に彫られて金属の心棒で取りつけられていること、表面全体が平鑿だけで仕上げられていて、ベルニーニが最初から使っていたぎざぎざの鑿の跡がないこと、そして葉が平板で顔がこわばっていることを指摘した。2023年には歴史家マリア・グラツィア・ベルナルディーニとフランチェスコ・ペトルッチが彼女に反論し、美術館のサイトでも2024年の記載で、群像は今も「ベルニーニに帰属」とされている。コリーヴァは、かつては自分もこうした欠点を若いベルニーニの未熟さと受け取っていたと認めた。

20. アントネロ・ダ・メッシーナ《男性の肖像》

黒い帽子に赤い服の男は体を左に向け、目だけを右の見る者のほうへ流していて、唇の端がわずかに上がっている。上唇と顎の無精髭はごく細かな点で描かれ、眉は一本一本の毛まで引かれている。赤い襞の山には、灰色がかった煙のようなしみが見える。アントネロは服のハイライトを辰砂で置き、それが時とともに黒ずんで、2002年の修復まで、その部分は緑がかって見えていた。

1790年ごろ、この肖像はジョヴァンニ・ベッリーニの作としてボルゲーゼ家の目録に記載された。1869年、ドイツの鑑定家オットー・ミュンドラーは、ヤーコプ・ブルクハルトのイタリア美術案内の第2版で、これをアントネロ・ダ・メッシーナの作とし、あわせて自画像ではないかと推測したが、美術館はこの推測を根拠のないものと見ている。シチリア人のアントネロは1475年から1476年にかけてヴェネツィアに住み、商人や裕福な市民の肖像を描いていて、美術館はこの肖像を1476年ごろの作としている。赤い服と、長い垂れを肩に垂らした黒い帽子は、ヴェネツィアの貴族の装いだった。この肖像が1790年より前にどうやってボルゲーゼ家に来たのかは、研究者にも突き止められていない。

1871年、美術史家ジョゼフ・クロウとジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァルカゼッレは、この絵を、ヴェネツィアの目利きマルカントニオ・ミキエルが1532年にヴェネツィアのある家で見た、「ピンクの服を着て、頭に黒い頭巾をかぶった」ミケーレ・ヴィアネッロの肖像と同一視した。ミキエルが記した肖像には署名と年記があったが、この絵には署名がないので、クロウとカヴァルカゼッレは板が切り詰められたのだと考えた。しかし絵具は四辺すべてで、板の縁の少し手前で手つかずのまっすぐな縁をなして止まっていて、パオラ・デッラ・ペルゴラはこの縁をもとに、板が切り詰められていないことを証明した。

シピオーネ・ボルゲーゼは、教皇の権力と金、そして時にはあからさまな圧力によって、この館のために絵と彫像を集めた。二世紀後、その子孫はナポレオンに古代の彫像、胸像、浮き彫り700点近くを売り、1901年には国が一族から残りのコレクションとヴィラそのものを買い取った。《ボルゲーゼの剣闘士》と、1807年に売られた《眠るヘルマプロディトス》はルーヴルに残った。カラヴァッジョ、ラファエロ、ティツィアーノの絵とベルニーニの大きな群像は、ヴィラ・ボルゲーゼに残った。

男性の肖像
男性の肖像アントネロ・ダ・メッシーナ, 1476, ボルゲーゼ美術館

ほかに見るなら

青年期の自画像
青年期の自画像ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1623, ボルゲーゼ美術館
壮年期のジャン・ロレンツォ・ベルニーニの自画像
壮年期のジャン・ロレンツォ・ベルニーニの自画像ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ, 1635, ボルゲーゼ美術館

この20点に入らなかった作品のなかには、晩年のティツィアーノの《キューピッドに目隠しをするヴィーナス》、カラヴァッジョの《聖ヒエロニムス》、ルーカス・クラナッハ(父)の《蜂の巣を持つヴィーナスとクピド》、ドッソ・ドッシの《メリッサ》がある。若いベルニーニが描いた二点の自画像も探してみるとよい。一点は1911年にメッシンジャー男爵が美術館に寄贈したもの、もう一点は1919年に国がアンドレア・サッキの作として買ったものである。