1934年、ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサのコレクションに3点の絵が続けて加わり、マドリードの美術館の目録でも1934.37、1934.38、1934.39と番号が並んでいる。カラヴァッジョの《アレクサンドリアの聖カタリナ》、アルブレヒト・デューラーの《学者たちの間のイエス》、小ハンス・ホルバインの《ヘンリー8世の肖像》である。はじめの2点はローマのバルベリーニ宮から、3点目はイングランドのスペンサー家の領地オルソープから来たもので、男爵は3点ともその年のうちにルツェルンの画商から買った。

美術館の番号の最初の4桁は、その絵が、そのとき買い手だった人のコレクションに入った年を示している。買い手は父と息子だった。ハインリヒは1920年代の終わりに買いはじめ、末の息子ハンス・ハインリヒは1961年から、古典絵画にドイツ表現主義、ロシア・アヴァンギャルド、19世紀のアメリカ絵画を加えて、コレクションを1970年代の作品にまで広げた。そこにはエドワード・ホッパーの《ホテルの部屋》も、フランシス・ベーコンの描いた肖像画もある。

この記事は、1933年に買われたヤン・ファン・エイクの二連画から始まり、カミーユ・ピサロの街の風景で終わる。このピサロの絵をめぐっては、かつての持ち主の相続人たちが2005年から、カリフォルニアで美術館の財団を相手に裁判を続けている。

ルールの鉄鋼財閥の跡取りが旧家から買う(1933〜1935年)

1. ヤン・ファン・エイク《受胎告知の二連画》(1433〜1435年ごろ)

受胎告知
受胎告知ヤン・ファン・エイク, 1440, ティッセン=ボルネミッサ美術館

ハインリヒ・ティッセンは1875年、ルール地方の実業家アウグスト・ティッセンの家に生まれた。1906年にハンガリーの男爵ボルネミッサの娘マルギットと結婚し、息子のいなかった義父が1907年に彼を養子に迎えたので、ハインリヒはティッセン=ボルネミッサ男爵となった。一家はロホンツ城、いまのオーストリアのレヒニッツに住んでいたが、1919年のハンガリー革命のあとオランダへ移った。男爵が大きな買い物を始めたのは1920年代の終わり、父が亡くなってからで、美術館によれば、ドイツの大美術館、なかでもミュンヘンのアルテ・ピナコテークに並ぶような幅広いコレクションを集めたいと考えていた。1930年7月、彼の絵は「ロホンツ城コレクション」の名でミュンヘンのノイエ・ピナコテークで初めて公開された。1932年にはルガーノのヴィラ・ファヴォリータを買って画廊を建て、1936年9月にそれを客人に向けて開いた。もっとも多く買ったのは1933〜1935年で、美術館がこの時期の購入を挙げるとき、最初に来るのがファン・エイクである。

ファン・エイクは別々の小さな2枚の板を描き、左に大天使ガブリエル、右にマリアを置いて、二人とも白い石の彫像のように見せた。二連画にある色は灰色と白の諧調、黒、そして赤茶色の大理石の枠だけで、この枠もファン・エイク自身が描いたものである。それぞれの人物は浅い灰色の壁龕のなかで六角形の台座に立っている。ガブリエルの翼は壁龕の縁にかかってそこに影を落とし、マリアは両手で開いた本を持ち、その頭上では小さな白い鳩が頭を下にして舞い降りてくる。

壁龕の奥の壁は磨かれた黒い石として描かれ、そこに人物が映っている。マリアの右の黒のなかには、映った彼女の暗い背中と長い髪とマントが見え、ガブリエルの後ろには、もっと小さく、映った巻き毛と指を伸ばした手がある。美術館はこの鏡を、聖母の呼び名のひとつ「汚れなき鏡」と結びつけている。美術史家ルドルフ・プライメスベルガーは1991年、ここに絵画と彫刻の優劣をめぐる争いを見た。彫像はまわりを歩いてあらゆる側から眺められるが、絵が見せるのは一つの面だけで、そこでファン・エイクは映りこみによって背中まで見せた、というのである。人物の上の灰色の石には、のみで彫ったかのように、ルカによる福音書のラテン語の言葉が記されている。二人の会話の始めと終わり、ガブリエルの挨拶「おめでとう、恵まれた方」と、マリアの答え「わたしは主のはしためです」である。

受胎告知
受胎告知ヤン・ファン・エイク, 1440, ティッセン=ボルネミッサ美術館
アレクサンドリアの聖カタリナ
アレクサンドリアの聖カタリナカラヴァッジョ, 1598, ティッセン=ボルネミッサ美術館

二連画は1933年に買われたが、以前の持ち主について美術館が伝えているのは、フランスの個人コレクションだったということだけである。初期ネーデルラント絵画の目利きマックス・フリートレンダーがこれをファン・エイクの作品として発表したのは1934年、購入の1年後だった。

2. カラヴァッジョ《アレクサンドリアの聖カタリナ》(1598〜1599年ごろ)

カラヴァッジョは《聖カタリナ》を枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテのために描いた。1590年代の終わり、画家はローマにあるこの枢機卿の館に住んでいた。枢機卿は1626年に亡くなるまでこの絵を手もとに置いた。1628年、枢機卿の相続人は借金を払うためにほかの絵とともにこれを売り、その後、絵は教皇ウルバヌス8世の甥である枢機卿アントニオ・バルベリーニのものとなった。

伝説によれば、カタリナは刃のついた車輪で処刑されかけ、車輪が砕け散ると剣で首を斬られた。カラヴァッジョはそのしるしをすべて彼女のまわりに集めた。彼女は赤い模様のクッションにひざまずき、体は左へ向けながら顔をこちらへ振り向けて、まっすぐ見る者を見つめている。左には縁に鉄の刃を並べた木の車輪があり、その縁はひび割れ、スポークが1本折れている。下端を横切って殉教者のしるしである青白い棕櫚の枝が置かれ、カタリナの手には輪状の鍔のついたレイピアがある。彼女は左手で柄を胸に押し当て、右手はわずかに刀身に触れていて、刀身の下のほうは赤く光っている。頭の上には細い金の光輪の輪があるだけである。光は左上から顔と白いシャツ、手、鋼に落ち、背景はほとんど真っ黒である。ドレスは2種類の布でできていて、金のアラベスクのある鮮やかな青の布と、金刺繍の帯が入った暗い茶紫のビロードを組み合わせ、彼女はカラヴァッジョと同じ時代の貴婦人のような装いをしている。

美術館は、多くの研究者と同じく、モデルは画家の知り合いの輪にいた高級娼婦フィリデ・メランドローニだと考えていて、彼のほかの絵にも彼女の顔を認めている。ただし、この同定には反対する人もいる。1916年、美術史家ロベルト・ロンギは《カタリナ》を描いたのはカラヴァッジョの追随者オラツィオ・ジェンティレスキだと推測したが、その後の研究でカラヴァッジョの作であることが確かめられた。

絵は1934年までバルベリーニ家にあった。一族のコレクションには、相続財産の売却や分割を禁じるフィデイコミッスムという家の取り決めがかかっていたが、1934年、国王の勅令がこの禁止を解いた。イタリア国家は17点を引き取り、106点の絵には税を課さずに国外へ持ち出す許可を与えた。同じ年、《聖カタリナ》はルツェルンの画廊からティッセン・コレクションのために買われた。

アレクサンドリアの聖カタリナ
アレクサンドリアの聖カタリナカラヴァッジョ, 1598, ティッセン=ボルネミッサ美術館

3. アルブレヒト・デューラー《学者たちの間のイエス》(1506年)

板絵のちょうど真ん中に、4本の手が寄り集まっている。12歳のキリストは、論点を一つずつ数え上げるかのように右手で左手の指をつまみ、白い帽子の醜い老人は両手を彼のほうへ伸ばして、片方の手のひらを少年の手の上にかざし、もう一方の手の人さし指で下からそれを突いている。老人の手は少年の手より青白く、灰色がかっている。キリストのまわりには6人の律法学者がひしめき、顔は板の縁にほとんど触れんばかりで、暗い背景は上の両隅と頭のあいだにしか見えない。1926年ごろ、バルベリーニ宮の案内書を書いたヴィンチェンツォ・ゴルツィオは、デューラーの名のあとに疑問符をつけ、絵の中央を指がおぞましく絡み合った塊と呼び、帽子の老人を悪夢から抜け出てきたような男だと評した。

学者たちの間のキリスト
学者たちの間のキリストアルブレヒト・デューラー, 1506, ティッセン=ボルネミッサ美術館

デューラーがこの板絵を描いたのは1506年、2度目のイタリア旅行で滞在していたヴェネツィアで、ドイツ商人の教会のために祭壇画《ロザリオの祝祭》に取り組んでいたときだった。彼は手の形を前もって青みがかったヴェネツィアの紙に筆で素描していて、それらの素描はウィーンとニュルンベルクに残っている。左下では、立てて置かれた本から白い紙片がのぞき、そこに1506年の年記とADのモノグラムが、その下にはラテン語で「opus quinque dierum」、つまり「5日間の仕事」という一行が書かれている。ティッセン・コレクションの修復家エミール・ボスハルトは1993年、この言葉がすでに乾いた絵具の上に書かれていることを確かめたが、彼自身は、のちにデューラーが書き加えたものだと考えていた。デューラー研究者トーマス・シャウエルテは2009年、Qの字の尾が深いひび割れをよけて回りこんでいることに気づいた。つまりこの一行は表面にひびが入ったあとで書かれたことになり、だれが書いたのかはいまも議論が続いている。美術館はこの絵を留保なしにデューラーの作品としている。

17世紀までにこの板絵はローマのバルベリーニ家のコレクションに入っていたが、美術史の世界に紹介したのは1837年、バルベリーニ宮でこれを見つけたドイツの歴史家ゲオルク・カスパー・ナーグラーが最初だった。イタリアを離れたのは《聖カタリナ》と同じ1934年の勅令によってで、同じ年、ルツェルンの画廊メルクリアを通じてティッセンのために買われた。板の裏には、バルベリーニ家コレクションの蔵印が二つ残っている。

学者たちの間のキリスト
学者たちの間のキリストアルブレヒト・デューラー, 1506, ティッセン=ボルネミッサ美術館
ヘンリー8世の肖像
ヘンリー8世の肖像小ハンス・ホルバイン, 1537, ティッセン=ボルネミッサ美術館

4. 小ハンス・ホルバイン《ヘンリー8世の肖像》(1537年ごろ)

ホルバインが1537年にロンドンのホワイトホール宮殿で王の私室の壁に描き上げた壁画は、1698年に宮殿とともに焼失した。そこには4人の人物がいて、手前にヘンリー8世とジェーン・シーモア、後ろにヘンリーの両親ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークが描かれていた。この壁画は、ナショナル・ポートレート・ギャラリーに残るホルバイン自身の原寸下絵と、チャールズ2世のために作られて王室コレクションにある壁全体の小さな模写によって知られている。

マドリードの板絵はこの壁画とつながりがあり、美術館によれば、壁の模写にある王の頭部はここにあるものと同じである。ヘンリーは腰から上を描かれ、毛皮をまとった肩は小さな板の両端からはみ出している。平らな黒い帽子のつばには真珠と金の飾り台が縫いつけられ、白いダチョウの羽根が右耳の上で巻いている。銀灰色の胴衣は黒の密な刺繍で覆われ、切れ込みからはシャツの白いふくらみと金にはめた赤い石がかわるがわるのぞく。長い金の鎖は片側では斜めに、もう片側ではまっすぐに垂れ、二本の鎖は四角い黒い石のついた丸いメダイヨンで合わさる。王は右手にたたんだ手袋を持ち、指には暗い色の石の指輪がはまり、背後の地は濃い青で、むらがあってまだらになっている。

ホルバイン型のヘンリーの肖像は数多く残っていて、工房やのちの模写者たちが描いたものである。マドリードの板絵は、専門家が異論なくホルバイン本人の作と認めるヘンリーの唯一の肖像画である。美術館は、この肖像が王自身のものだった可能性を考えているが、王室の財産目録には見つかっていない。20世紀の初め、肖像はノーサンプトンシャーにあるスペンサー家の領地オルソープに掛かっていて、1913年にはアーサー・チェンバレンのホルバイン研究書の第2巻にカラーの口絵として載り、その説明には所蔵先としてオルソープのスペンサー伯爵のコレクションが記された。スペンサー家はおよそ1933年までこれを持ち、1934年にはルツェルンの画廊メルクリアの手にあり、同じ年にロホンツ・コレクションのために買われた。

騎士の肖像
騎士の肖像ヴィットーレ・カルパッチョ, 1510, ティッセン=ボルネミッサ美術館

美術専門紙『ジ・アート・ニュースペーパー』によれば、1988〜1989年、当時ロンドンのナショナル・ギャラリーの理事だったチャールズ皇太子は、男爵の息子ハンス・ハインリヒ(彼についてはコッサの肖像の項で述べる)から、この肖像をロンドンへ借りようとした。交渉は保険評価額で決裂した。ギャラリーが3000万ドルを提示したのに対し、持ち主は5500万ドルを求めたのである。

5. ヴィットーレ・カルパッチョ《風景の中の若い騎士》(1505年ごろ、画面の年記は1510年)

この騎士は1919年まで、ヨークシャーにあるヴァーノン=ウェントワース家の領地ウェントワース城に、デューラーの作として掛かっていた。絵には偽のADのモノグラムが入れられ、カルパッチョの署名は塗りつぶされていた。1919年11月、ロンドンのクリスティーズで一家のコレクションが競売にかけられたとき、この絵はもうカルパッチョの作として、水辺の鹿にちなんだ《聖エウスタキウス》という題で出品された。その後ロンドンの画商サリーの手に渡り、そこで偽のモノグラムが取り除かれた。続いてニューヨークの銀行家オットー・カーンが買い、カーンが亡くなった翌年の1935年に、ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサが買った。

作者を裏づける証拠が現れたのは1958年だった。ハインリヒの息子ハンス・ハインリヒがニューヨークの修復家ウィリアム・スーアに絵を預けたところ、後世の加筆の下から、カンヴァスに描かれた2枚の紙片が出てきたのである。右側では、細い二股の若木に紙片がとめられていて、VICTOR CARPATHIVS FINXIT M.D.X.、つまり「ヴィットーレ・カルパッチョ描く、1510年」と書かれている。左下の水辺の葦のなかでは、折りたたまれた紙片にMALO MORI QUAM FOEDARI、「汚されるよりは死を選ぶ」と書かれ、紙片の下には蛙が座り、下端に沿って白いオコジョが走っている。美術館によれば、これはオコジョ騎士団の標語で、騎士はその一員だったのかもしれない。そのうえで美術館自身は、この絵を1505年ごろの作としている。

暗い鋼の甲冑を着た若者が砂の小道に全身で立ち、長い赤みがかった髪が黒い小さな帽子からこぼれ、目は右へ流し、両手は腰の剣に置いている。左では、門のある塔の前で、黒と黄の格子柄の上着を着た騎手が黒っぽい馬にまたがり、その兜の上の壁には孔雀がとまっている。空では鷹が鷺に襲いかかり、鷺は真っ逆さまに落ちていく。湖のほとりには鹿が立ち、草むらには兎と犬がいて、騎士の足もとには白い百合とアイリスが咲いている。

若者がだれなのか、美術館は答えを出さず、これまでに挙がった名を並べている。ウルビーノ公フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレ、アラゴン王フェルディナンドとする説があり、最近の説では、ギリシアのモドン要塞を指揮していたヴェネツィア人マルコ・ガブリエルだという。1500年にモドンが陥落すると、ガブリエルは臆病だと非難され、捕虜となって処刑された。この説によれば、一族は彼の名誉を回復するためにこの絵を注文したのである。これが肖像画であれば、イタリア絵画で知られるもっとも早い全身像の肖像ということになる。X線写真では、カンヴァスの裏面、のちに施された裏打ちの下に、絵具で書かれた「A. Durer」という文字が見つかった。デューラーの作と考えられていたころの名残である。

騎士の肖像
騎士の肖像ヴィットーレ・カルパッチョ, 1510, ティッセン=ボルネミッサ美術館
ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像
ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像ドメニコ・ギルランダイオ, 1488, ティッセン=ボルネミッサ美術館

6. ドメニコ・ギルランダイオ《ジョヴァンナ・デッリ・アルビッツィ・トルナブオーニの肖像》(1489〜1490年)

ジョヴァンナ・デッリ・アルビッツィは1486年にフィレンツェのロレンツォ・トルナブオーニと結婚し、1487年に息子を産み、1488年10月、2人目の子を身ごもったまま19歳で亡くなった。

ギルランダイオは彼女を厳格な横顔で、左向きに、暗い壁を背にして描いた。淡い金髪はなでつけて後ろへまとめられ、こめかみと頬にはきつく巻いたらせん状の巻き毛が垂れ、後頭部には三つ編みが結い上げられている。彼女が着ているのは金色の錦の前開きの上衣ジョルネアで、肩には夫の頭文字Lが織り出され、下ろして組んだ両手に白いハンカチを持っている。背後では釘に珊瑚の首飾りが金の房とともに掛かり、壁の張り出しには閉じた緑の本と、赤い石と真珠のついた翼のある竜の形の金のブローチが置かれていて、彼女はそのブローチを身につけていない。右には白い紙片が貼られ、ローマの詩人マルティアリスの詩を書き換えたラテン語の銘が記されている。「芸術よ、もし人柄と魂を描くことができたなら、地上にこれより美しい絵はなかっただろう」。詩の下には年記の1488年があり、それは彼女が亡くなった年で、美術館はこの肖像を1489〜1490年の作としている。

ギルランダイオは、同じドレス、同じ髪型と装身具の彼女を、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂にあるトルナブオーニ礼拝堂のフレスコでも、聖母のエリサベト訪問の場面に全身像で描きこんでいる。このフレスコを注文したのはロレンツォの父だった。板絵に描かれたのがだれかは、ニッコロ・フィオレンティーノの作とされる、彼女の横顔と名を刻んだメダルによって突き止められた。

肖像はトルナブオーニ家に残り、17世紀にはフィレンツェのパンドルフィーニ家にあった。19世紀にはアシル・セイエール男爵とサガン公妃のコレクションを経てブライトンのヘンリー・ウィレットのもとへ、さらにパリのコレクター、ロドルフ・カンのもとへ渡り、1907年にアメリカの金融家ジョン・ピアポント・モルガンが買った。モルガンは1913年に亡くなり、1935年、肖像はニューヨークのモルガン家のコレクションを離れて、ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサのものとなった。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像
ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像ドメニコ・ギルランダイオ, 1488, ティッセン=ボルネミッサ美術館

遺産は分けられ、息子は買い戻し、やがて自分で買いはじめる(1947〜1957年)

指輪を持つ男の肖像
指輪を持つ男の肖像フランチェスコ・デル・コッサ, 1477, ティッセン=ボルネミッサ美術館

7. フランチェスコ・デル・コッサ《指輪を持つ男の肖像》(1472〜1477年ごろ)

1947年にハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサが亡くなると、相続人たちはコレクションを分けた。いちばん大きな取り分を受けたのは末の息子で、ハイニと呼ばれたハンス・ハインリヒであり、その後の数年間、彼はきょうだいたちが売りに出した絵を競売で買い戻していった。彼は1921年の生まれで、遺産が分けられたときには26歳だった。1948年には、ヴィラ・ファヴォリータの画廊が初めて一般に公開された。美術館によれば、古典絵画については、彼ははじめ父の好みにならい、父と同じ助言者ルドルフ・ハイネマンの手を借りて買っていた。

《指輪を持つ男の肖像》は1956年に買われ、彼が自分で選んだ最初期の絵のひとつである。雑誌『トレチャコフ美術館』は2015年、これを一族のコレクションの外から彼が買った最初の作品と呼んだ。板絵はオランダのベンネブロークにあったフォン・パンヴィッツのコレクションから来たもので、18世紀にはボローニャのボスキ侯爵家の館に掛かっていた。

若い男は顔を左へ向けながら、目は見る者のほうへ戻している。赤銅色の髪はあごの線でまっすぐ切りそろえられ、一筋ずつ描きこまれていて、頭には黒みがかった青のビロードの帽子、肩にはなめらかな灰色のマントをまとい、装身具は指輪ひとつだけである。小さな石のついた細い金の指輪が、人さし指の先にまっすぐ立っている。手は下端の石の欄干に置かれ、小指は欄干の縁を越えてこちら側へ曲がり、袖が石の上に影を落としている。背後には、赤茶色の石板を積み重ねたような塔状の岩がそびえ、上には天然のアーチと細い裸の若木がある。その足もとにはフードをかぶった小さな人影が立ち、入り江にはマストだけの船が浮かび、その先に町と雪をかぶった山々が見える。

肖像の作者をめぐっては長く議論があった。1913年には、1470年代にボローニャで仕事をしたフェッラーラの画家フランチェスコ・デル・コッサの作として発表された。美術史家バーナード・ベレンソンはエルコレ・デ・ロベルティの作と考え、ロベルト・ロンギはコッサ説を支持し、イタリアの人名辞典はこれをコッサの手になる唯一の説得力ある肖像としている。1915年、イギリスの美術史家ハーバート・クックは、ダイヤモンドの指輪がエステ家の標章のひとつだったことから、描かれているのはエステ家のだれかだと推測した。ボスキ家の目録では、この肖像はボローニャの金細工師で画家のフランチェスコ・フランチャを描いたものとされていた。

指輪を持つ男の肖像
指輪を持つ男の肖像フランチェスコ・デル・コッサ, 1477, ティッセン=ボルネミッサ美術館
ヴィーナスとキューピッド
ヴィーナスとキューピッドピーテル・パウル・ルーベンス, 1608, ティッセン=ボルネミッサ美術館

8. ピーテル・パウル・ルーベンス《ヴィーナスとキューピッド》(1606〜1611年ごろ)

マドリードのアルカサル宮殿の1636年の目録は、国王フェリペ4世の寝室にあったティツィアーノの絵を記録している。胸をあらわにしたヴィーナスが、寝床から起きたばかりのような身なりで赤い衣をまとい、右腕に真珠の腕輪、左手の小指に指輪をつけていて、その前では裸のキューピッドが鏡を差し出し、彼女はそれをのぞきこんでいる、という絵である。

ルーベンスのカンヴァスには同じ場面、同じ細部があり、美術館はそれをもとに、何点かあるティツィアーノのうちどれが手本だったのかを突き止めている。ヴィーナスは左に座り、肩からずり落ちる白いシャツと、黒っぽい毛皮で裏打ちした深紅のマントをまとっている。左手は胸の上に平らに置かれ、小指には小さな石のついた細い金の指輪があり、右手は膝のあたりの毛皮をつかんでいて、その手首には真珠が二重に巻かれている。キューピッドは背中をこちらに向けて張り出しの上に立ち、暗い枠の細長い鏡を掲げている。ヴィーナスは横目で鏡を見ているが、鏡のなかの彼女の顔は正面を向いて映り、片方の目だけが見えて、その目はまっすぐ見る者を見つめている。キューピッドの矢筒と弓は、右下の浮き彫りのある張り出しに置かれている。

美術館はこのカンヴァスを1606〜1611年の作としている。つまりルーベンスがこれを描いたのは、おそらく自分で王の寝室を目にする20年ほど前のことで、イタリアかアントワープで見たかもしれない同じ構図の別の作例をもとにした可能性がある。ルーベンスは生涯ティツィアーノを模写し、その模写を手もとに置いていた。美術館はこのカンヴァスを、1640年に彼が亡くなったあとに作られた財産目録にある絵と同じものとみている。

次にこのカンヴァスの消息が知れるのは1914年で、ブリュッセルのコレクター、レオン・カルドンの手にあった。1921年6月にはブリュッセルで競売にかけられ、1956年にはニューヨークのローゼンバーグ・アンド・スティーベル社が展示し、その後ルツェルン近郊ヘルギスヴィルの画商の手を経て、1957年にハンス・ハインリヒがルガーノのコレクションのために買った。王の寝室にあったティツィアーノは1734年のアルカサルの火災を生き延びたが、19世紀初めの半島戦争のさなかに行方がわからなくなった。

ヴィーナスとキューピッド
ヴィーナスとキューピッドピーテル・パウル・ルーベンス, 1608, ティッセン=ボルネミッサ美術館

父が買わなかったものを息子が買う(1961〜1983年)

彫刻された椅子の前のフレンツィ
彫刻された椅子の前のフレンツィエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー, 1910, ティッセン=ボルネミッサ美術館

9. エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《彫刻された椅子の前のフレンツィ》(1910年)

1961年5月初め、画商で競売会社シュトゥットガルター・クンストカビネットの経営者でもあったローマン・ノルベルト・ケッテラーは、ハンス・ハインリヒとその妻に白いカーネーションを贈った。男爵はその直前、ケッテラーの競売で粘り強く競り合った末に、エミール・ノルデの水彩《若い二人》を、紙に描いたノルデの作品としては当時の最高値で買っていて、これが彼にとって初めての20世紀美術の購入だった。美術館の雑誌によれば、父は20世紀の美術をあまり面白いと思っていなかった。ハンス・ハインリヒ自身は、表現主義の画家たちに惹かれた理由のひとつに、ナチスが彼らの芸術を「退廃芸術」と呼んだことがあったと何度も語っている。まもなくケッテラーは、美術館によれば当時お金を必要としていたこともあって、自分のコレクションからキルヒナーの絵2点、《ひだ襟のドリス》と《彫刻された椅子の前のフレンツィ》を男爵に勧めた。

ドレスデンの画家グループ「ブリュッケ(橋)」の創設者のひとりエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは、1910年、9歳のフレンツィを描いた。顔は酸のような黄緑で、目は赤く縁取られ、その下に青い筆跡があり、口は鮮やかな赤で、緑の筋の入った黒っぽい髪が肩に落ち、胸には菱形の筆致でできた大きな青い首飾りがのっている。頭の後ろには黒い椅子の背があり、そこにピンクの女の像が彫られている。黒い目と口の切れ込みのあるピンクの顔が少女の頭のすぐ上にあり、長いピンクの腕が画面の右端に沿って下へのびている。美術館によれば、椅子はおそらくキルヒナー自身が彫ったものである。ずっとのちに彼は、ドレスデンの民族学博物館でパラオ諸島の彫刻された梁を見たこと、その人物像が自分の作品と同じ形の言語でつくられていたことを書いている。筆はすばやく運ばれ、ドレスの色面のあいだや髪のまわりでは、塗り残されたカンヴァス地が明るくのぞいている。

1990年代まで、少女はあだ名でしか知られていなかった。キルヒナー研究者ゲルト・プレスラーが1926年の画家の記録のなかにフェールマンという姓を見つけ、教会と市の記録簿から、1900年にドレスデンの労働者の家に生まれたリナ・フランツィスカ・フェールマンであることが突き止められた。

彫刻された椅子の前のフレンツィ
彫刻された椅子の前のフレンツィエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー, 1910, ティッセン=ボルネミッサ美術館
三つの斑点のある絵、第196番
三つの斑点のある絵、第196番ワシリー・カンディンスキー, 1914, ティッセン=ボルネミッサ美術館

10. ワシリー・カンディンスキー《三つの斑点のある絵、第196番》(1914年)

カンディンスキーはこの絵を1914年の前半にミュンヘンで描いた。そのころにはもう、見てそれとわかる物を描くことをほとんどやめていた。ドイツがロシアに宣戦した2日後の8月3日、ロシア国民だった彼はミュンヘンを離れてスイスへ向かった。

カンヴァスはほぼ正方形で、縁に沿ってピンク、深紅、黄土色、茶色の帯がぎざぎざの輪をつくり、その外の四隅は濃い青と鮮やかな緑である。輪の内側には題名にある三つの斑点があり、左に斜めに置かれた大きな緑、右にある、面積ではいちばん大きい深いウルトラマリン、そして上にある、ほかの二つに半ば隠された丸い深紅である。その上から細い青い線の束が降りかかり、中央には舟のような黄色がかったオレンジの三日月が横たわり、左下の隅には色とりどりの小さな筆致が散らばっている。美術館によれば、準備のための習作では、この隅に人の乗った舟が描かれていた。左下には小さく「KANDINSKY 1914」と書かれている。

のちにこの絵はニューヨークのソロモン・グッゲンハイム財団に入り、1971年に財団はこれを、当時の報道によればカンディンスキーとしては記録的な値段で売った。1975年、ハンス・ハインリヒがミラノでこれを買った。カンディンスキーが自分の手でつけていた作品リストでこの絵は196番にあたり、198番から201番の番号で画家が書きとめたのは、同じ1914年にアメリカ人エドウィン・キャンベルがニューヨークの自宅のために注文した大きなパネル4点である。

11. フランツ・マルク《夢》(1912年)

カンディンスキーは騎手を描いた《即興12》を1911年の夏にフランツ・マルクに送り、マルクは7月31日、絵は無事に届いて壁に掛けられ、勝利を収めたと彼に書き送った。マルクはその返礼として、仕上げてまもない《夢》を1912年か1913年の初めにカンディンスキーに贈った。マルクとカンディンスキー(彼については前の項で述べた)はともに年刊誌『青騎士』を編み、それは1912年5月に刊行された。

夢
夢フランツ・マルク, 1912, ティッセン=ボルネミッサ美術館

中央の緑の小山には、ピンクがかった紫の肌の裸の女が、膝を引き寄せ、目を閉じ、頭を垂れて座っている。左には尾を背中の上で輪に巻いた黄色いライオンと、赤い屋根に暗い窓のある黄色い家が一軒あり、右では面を組み合わせたような大きな青い馬が2頭、彼女のほうへ首を傾けている。上にはさらに1頭、赤みがかったオレンジの馬がいて、その後ろに淡いピンクの馬がいる。美術館によれば、マルクにとって色は、1910年に彼が画家アウグスト・マッケに書き送ったとおりの意味をもっていた。青は男性的で精神的なもの、黄は女性的で柔らかく官能的なもの、赤は物質、重く荒々しい力だという。

マルクは1916年3月4日、ヴェルダンで戦死した。36歳だった。カンディンスキーはそのころロシアにいて、絵はミュンヘンで彼の伴侶だった画家ガブリエーレ・ミュンターのもとにあった。マルクの未亡人マリアは1916年にミュンヘンとヴィースバーデンで遺作展を開き、そのためにミュンターから《夢》を借りた。美術館の研究者マルタ・ルイス・デル・アルボルによれば、マリアはその後少なくとも4年間、リートの自宅でこの絵を《即興12》と並べて手もとに置いていた。1926年までに絵はふたたびカンディンスキーのもとにあり、アメリカのコレクター、キャサリン・ドライアーが、自分の団体ソシエテ・アノニムがブルックリン美術館で開いた現代美術の大展覧会のために、バウハウスにいた彼のところでこれを選んだ。その後の半世紀に絵がどこにあったのか、研究者はたどりきれていない。1978年、ハンス・ハインリヒがニューヨークでこれを買った。

12. ピート・モンドリアン《ニューヨーク・シティ 3(未完成)》(1941年)

ニューヨーク・シティ 3(未完成)
ニューヨーク・シティ 3(未完成)ピート・モンドリアン, 1941, ティッセン=ボルネミッサ美術館
ニューヨーク・シティ
ニューヨーク・シティピート・モンドリアン, 1942, 国立近代美術館
ニューヨーク・シティ 3(未完成)
ニューヨーク・シティ 3(未完成)ピート・モンドリアン, 1941, ティッセン=ボルネミッサ美術館

このカンヴァスの線は色つきの粘着テープでできている。4本の赤い縦線が上から下まで通り、黄、青、白、赤、黒の横線がそれと交わり、交点ごとに上になるテープが入れ替わるので、格子は編まれているように見える。白い線は見落としやすい。ほとんど白い地の上に貼られた白いテープだからである。筆で塗られているのは二つの面だけで、左上の黄色の長方形と、右端の青い面である。青い面の下の縁はぎざぎざで、乾いた筆でこすった跡がある。この二つの面には筆の跡が見えるが、テープは平らでなめらかに貼られている。線のあいだからは、鉛筆の割り付けと消された長方形の跡が残る生地のままのカンヴァスがのぞいている。

モンドリアンは釣り合いに納得がいくまでテープを貼り替えることができ、最後の段階になってはじめてそれを絵具に置き換えた。美術館によれば、この連作のなかでモンドリアンが絵具まで仕上げたカンヴァスは、パリのポンピドゥー・センターにある1942年の《ニューヨーク・シティ》ただ1点である。このカンヴァスはロンドンで1938年ごろ《黄と青のコンポジション》として描きはじめられたものかもしれず、モンドリアンが1940年、ロンドン空襲のあとニューヨークへ持っていって描き直しを続けた絵のひとつである。ニューヨークへ彼を呼んだのは、アメリカの画家ハリー・ホルツマンだった。モンドリアンは1944年2月1日にそこで亡くなり、このカンヴァスは59丁目にあった最後のアトリエで見つかり、遺産の管理はホルツマンが引き受けた。

美術館によれば、1977年、ホルツマンはビル・スティーヴスとともに、はがれたテープを元の場所に貼り直し、破れたものは同じ色の新しいテープに同じ位置で取り替えた。そのためテープの一部はモンドリアンの死後に貼られたもので、どの線が新しいのかはどこにも記録されていない。ハンス・ハインリヒは1983年にこの絵を買った。右端の下のほう、下の黄色と白の横線のあいだで、黒い縦のテープがカンヴァスからはがれ、波のように反りかえって影を落としている。

同じころ買った古典絵画とアメリカの絵、そして姉から買い戻した絵(1971〜1986年)

揺れる踊り子(緑の踊り子)
揺れる踊り子(緑の踊り子)エドガー・ドガ, 1879, ティッセン=ボルネミッサ美術館

13. エドガー・ドガ《揺れる踊り子(緑の踊り子)》(1877〜1879年)

このパステルを1886年ごろに買ったのはイギリスの画家ウォルター・シッカートで、美術館の見方では、おそらく美術史家でコレクターのシャルル・エフリュッシを通してのことだった。シッカートは1883年にパリでエドガー・ドガと知り合い、素描と記憶をもとに描く方法を彼から学んだ。購入の少し前、シッカートの妻エレンは画家ジャック=エミール・ブランシュに、ドガが売ってくれるのを夫婦で喜んでいると書き送っている。1886年の春から、この作品はウェスト・ハムステッドの夫妻の家の目立つ場所に掛けられていた。

これは紙にパステルとグワッシュで描かれている。ドガは舞台を桟敷席から見るように上から斜めに眺めていて、床はせり上がり、右下の隅はがらんとした灰褐色の床板が占めている。中央では、青い帯を締めた淡い緑のチュチュの踊り子が片足のポワントで回っていて、金の腕輪をはめた片腕は右上の隅へ跳ね上がり、もう片方は下の後ろへ投げ出されている。左はほかの踊り子たちの緑のチュールで埋めつくされ、彼女たちは紙の端で切られていて、チュールのなかからピンクのタイツの脚が、頭も胴体もないまま突き出ている。上の背景幕のそばでは、オレンジのスカートの踊り子たちが出番を待っている。

シッカート夫妻の結婚が破綻すると、パステルはエレンのものとなり、彼女から妹のジェーン・コブデン=アンウィンに渡り、1902年にコブデン家がこれをパリへ売った。その後パリの画商たち、スコットランドのウィリアム・カーギルのコレクション、1963年のロンドンでの競売を経て、パサデナのコレクター、ノートン・サイモンのものとなり、1971年5月5日、ニューヨークの競売会社サザビー・パーク・バーネットで開かれた彼の絵の売り立てでハンス・ハインリヒが買った。もう一つの題《緑の踊り子》はシッカートがつけたもので、美術館によれば、ドガ本人の示唆によるものかもしれない。

キリストとサマリアの女
キリストとサマリアの女ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ, 1311, ティッセン=ボルネミッサ美術館

14. ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ《キリストとサマリアの女》(1310〜1311年)

1777年8月1日、シエナのサンタンサーノ・イン・カステルヴェッキオ聖堂で、ドゥッチョの《マエスタ》が鋸で切り分けられた。シエナ大聖堂の主祭壇のために描かれた両面の祭壇画で、そのとき鋸がすべって聖母の顔を傷つけた。ドゥッチョは1308年10月9日に契約を結び、休まずに制作し、ほかの注文は受けないと約束していた。1311年6月9日、司教を先頭に、ろうそくと灯火を掲げた行列が、完成した祭壇画を担いで町を練り歩き、大聖堂へ運び入れた。前面には聖人たちに囲まれた玉座の聖母、裏面には受難の場面があり、下段のプレデッラには、キリストの生涯の出来事が長い板に続けて描かれていた。残ったプレデッラの場面はどれもそうした板から切り出されたもので、裏面の8場面はいまシエナ、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、フォートワース、マドリードにある。

キリストは緑の大理石の八角形の井戸の縁に横向きに腰かけ、赤い衣と青いマントをまとい、裸足を段にのせ、右手を女のほうへ上げている。サマリアの女は淡い黄色の長い衣と白いヴェールをまとい、頭に水がめをのせている。右では、ピンクの狭間のある町の門から、町へ食べ物を買いに行っていた使徒たちが出てきて、先頭にいる若くひげのない使徒のマントのひだには小さなパンが入っている。門のアーチの下には小さな灯火が吊るされている。背景の金箔はすり減っていて、その下地として塗られた赤いボーロが筋や引っかき傷となって透けて見えるので、空はまだらに見える。

1879年、この板絵はコッレ・ディ・ヴァル・デルサのディーニ兄弟のもので、その小さな町の展覧会に出品された。1886年、画家で画商のチャールズ・フェアファックス・マリーが、ほかの3枚のプレデッラの場面とともに、ロンドンのコレクターであるロバートとイヴリンのベンソン夫妻のためにこれを買った。1927年には画商のデュヴィーン・ブラザーズがベンソン夫妻のイタリア絵画コレクションを丸ごと買い取り、ドゥッチョの4枚の板絵はアメリカの買い手たちのもとへ散っていった。《山上の誘惑》はニューヨークのフリック・コレクションが買い、《ペテロとアンデレの召命》はいまワシントンにあり、《ラザロの蘇生》と《サマリアの女》はニューヨークのロックフェラー家のコレクションに入った。《ラザロ》は1975年にフォートワースのキンベル美術館が買い、《サマリアの女》はそれより早い1971年に、ハンス・ハインリヒがロックフェラー家のコレクションから買った。

サマリアの女は左手に白い縄の束と小さな銅の桶を持っている。ヨハネによる福音書では、キリストが彼女に水を飲ませてほしいと頼み、彼女は、あなたは汲む物を持っていないし、井戸は深いと答える。

キリストとサマリアの女
キリストとサマリアの女ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ, 1311, ティッセン=ボルネミッサ美術館
帽子と二本の鎖を身につけた自画像
帽子と二本の鎖を身につけた自画像レンブラント, 1642, ティッセン=ボルネミッサ美術館

15. レンブラント《ベレー帽と二本の鎖を身につけた自画像》(1642〜1643年ごろ)

1968年、美術史家ホルスト・ゲルソンが板の状態を気にしてこの自画像に疑いを示していたので、1976年にハンス・ハインリヒが買ったのは、すでに作者が疑問視されていた絵だった。1987〜1988年のX線と赤外線による調査では、鼻と目、ベレー帽、衣服、背景に、後世の加筆が多く見つかった。木材の分析で、板は1630年代か1640年代初めの木から作られていることがわかり、絵が17世紀のものであることが確かめられた。そして1990年、アイヴァン・ガスケルが編んだコレクション自身の目録は、この肖像をレンブラント工房の作とした。

レンブラントは自分を腰から上、ほぼ正面向きに描き、光は左上から顔に当たっている。幅広く平たい黒いベレー帽をかぶり、その下から赤みがかった巻き毛がのぞき、唇の上には口ひげ、下唇の下には小さなあごひげがあり、首には厚い毛皮の襟を巻いている。丸い環をつないだ短い金の鎖は毛皮の上に浅い輪を描き、長い鎖は胸を横切って深い弧を描いて垂れている。下端では手が毛皮で縁取られた衣の端をつかんでいて、その手はすばやく、ほとんど下描きのように描かれている。2022年にこの絵が貸し出されたリスボンのグルベンキアン美術館は、レンブラントの装いが、1572年にヒエロニムス・コックが刊行した2枚の版画に描かれた昔のネーデルラントの画家ディルク・ボウツとロヒール・ファン・デル・ウェイデンの装いと同じだと書いている。

1994年に行われた2度目の年輪年代学の調査で、板の木材がレンブラントのほかの4枚の板の木材と一致することがわかり、美術館によれば、レンブラント・リサーチ・プロジェクトには彼の作であることを認めない理由がもはやなくなった。2005年、この自画像は『レンブラント絵画コーパス』の、自画像を扱った第4巻に収められた。

16. フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェルのレ・ヴェスノ》(1890年)

この風景の小さな水彩の模写を1900年ごろに作ったのは、ポール・ガシェ医師の家政婦の姪で、医師の弟子でもあったブランシュ・デルースである。彼女は医師のコレクションの絵を小さく写しとっていた。模写はルーヴル美術館の素描部門にあり、それを見ると、この絵がガシェの家に掛かっていたことがわかる。美術館は医師をこの絵の最初の持ち主としている。ガシェはオーヴェル=シュル=オワーズでファン・ゴッホを診ていて、美術館によれば、レ・ヴェスノは医師自身が住んでいた村の一画だった。

オーヴェル近郊レ・ヴェスノの眺め
オーヴェル近郊レ・ヴェスノの眺めフィンセント・ファン・ゴッホ, 1890, ティッセン=ボルネミッサ美術館

ファン・ゴッホがこの村はずれを描いたのは1890年、生涯の最後の数週間のことだった。カンヴァスの下3分の2を占める黄緑の畑は短く曲がった筆致でできていて、そこにレモンイエローの点が何百も散りばめられている。右側では溝のような波打つ水色の帯が畑を横切り、右端には渦巻くオリーブ色の塊でできた大きな木が、画面の端で切られて立っている。その上には麦わら屋根や灰色の屋根の白い家並みがカンヴァスを横切り、中央より少し右の一軒だけ屋根が赤く、これが絵のなかで唯一の強い暖色である。その家の下の右寄り、畑の向こうの淡い帯の上には、馬と荷車を連れた小さな人影が数筆で描かれている。家並みの上には縞模様の丘の斜面が立ち上がり、空は上端の細い帯だけになって、厚く盛った絵具で白い雲が描かれている。

ハンス・ハインリヒは1978年にこの絵を買った。2023年7月、美術館は《レ・ヴェスノ》をもとに初めてのNFTコレクションを発行した。デジタル・トークン100点で、1点3万ユーロである。

17. トマス・コール《追放:月光と火の光》(1828年ごろ)

追放:月光と火の光
追放:月光と火の光トマス・コール, 1828, ティッセン=ボルネミッサ美術館

トマス・コールは楽園追放を一枚の風景として描いた。中央では断崖の上に巨大な天然の石橋がかかり、その奥の峡谷には細く白い滝が落ちていて、橋と滝は直角に交わり、そこに美術館は十字架を見ている。右には暗い塔のような岩がそびえ、その細い開口部の奥で黄白色の炎が燃え上がっていて、ここがカンヴァスでいちばん明るい。開口部からの光は橋の右端に広がっている。塔の向こう、右上の隅は昼で、ピンクの雲の浮かぶ青空、日の当たる斜面、緑の谷があり、美術館によればこれが楽園である。左の、堕罪のあとの世界は夜で、端近く、中央より少し下に、水がきらめく遠い平原の上に小さな満月がかかっている。岩山の頂の上では煙る雲のなかに赤い光が立ちのぼり、美術館の学校向け資料はこれを火山と呼んでいる。手前には、ねじれた枯れ木が白く浮かび上がっている。

エデンの園からの追放
エデンの園からの追放トマス・コール, 1828, ボストン美術館
追放:月光と火の光
追放:月光と火の光トマス・コール, 1828, ティッセン=ボルネミッサ美術館

断崖にかかるこの橋を、コールは1827年にニューハンプシャーのホワイト山地で見ている。1828年に彼はニューヨークで《エデンの園からの追放》を出品した。いまボストン美術館にあるこの絵では、輝く門のなかに小さなアダムとエヴァが見える。マドリードのカンヴァスには同じ橋と光の差す同じ門が描かれているが、コールは人物を消し、左半分を月夜にした。コールはイングランドに生まれ、1818年に一家でアメリカへ移住し、ハドソン・リヴァー派の創始者とみなされている。

ハンス・ハインリヒが19世紀のアメリカ絵画を買いはじめたのは1970年代の終わりで、雑誌『トレチャコフ美術館』によれば、市場はまだそれにほとんど関心を向けていなかった。彼のコレクションは、ヨーロッパでこうした絵を持つ数少ないコレクションのひとつになった。回想録で彼は、美術史家バーバラ・ノヴァックの著書『自然と文化』に背中を押されたと書き、1984年のカタログでは、祖母がデラウェアの出なので自分はたぶん4分の1はアメリカ人なのだと、関心の理由を説明している。《追放》を彼は1980年に買った。ノヴァックの本の後の版のひとつでは、この絵が表紙に使われている。

18. ルーカス・クラナッハ(父)《泉のニンフ》(1530〜1534年ごろ)

泉のニンフ
泉のニンフルーカス・クラナッハ(父), 1534, ティッセン=ボルネミッサ美術館

左上の隅の明るい銘板には、ラテン語の大文字でFONTIS NYMPHA SACRI SOMNVM NE RVMPE QVIESCO、「私は聖なる泉のニンフ、眠りを破らないで、休んでいるのだから」と書かれている。これはあるエピグラムを縮めたもので、15世紀には本物の古代の碑文として書き写されていたが、いまはふつうイタリアの人文主義者ジョヴァンニ・アントーニオ・カンパーノの作とされている。1518年からクラナッハの工房はこのニンフを何度も描き、知られている作例は20点を超える。

この板絵では、ニンフは横幅いっぱいに、頭を左にして深紅のビロードの上に横たわり、片腕を頭の後ろに回している。まぶたは重く下りているが、そのあいだに黒い瞳が見え、ニンフはまどろんでいるようにも、こっそりのぞいているようにも見える。体は透けるヴェールに覆われていて、ヴェールとわかるのは額、腹、腿、すねを横切る細く明るい線だけである。左では黄土色の岩の割れ目から細い水が弧を描いてほとばしり、池の向こうの林のはずれには4頭の鹿が立ったり伏せたりしている。右ではなめらかな灰色の幹に弓と赤い矢筒が掛かり、ニンフの足もとの草むらでは2羽のヤマウズラが餌をついばんでいる。

板絵はベルリンの画家ヴィルヘルム・トリュープナーのもので、1918年にベルリンで競売にかけられ、その後ベルリンのハーバーシュトック画廊とアムステルダムのグッドスティッカー商会を経て、1928年にハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサが買った。1933〜1935年の大量の購入より5年前のことである。1930年、ニンフはミュンヘンで開かれた彼のコレクションの最初の展覧会に出品された。遺産が分けられたとき、この絵は彼の娘でバッチャーニ伯爵夫人となっていたマルギットのものとなり、1986年、ハンス・ハインリヒがヴィラ・ファヴォリータのために姉からこれを買い戻した。

泉のニンフ
泉のニンフルーカス・クラナッハ(父), 1534, ティッセン=ボルネミッサ美術館

板はかつて四辺すべてを切り詰められていて、銘板は上端と左端に接している。下には細い帯状の板が継ぎ足され、ニンフの曲げた脚のかかとはその継ぎ足された部分にかかっている。

いまはだれのものか(1984年から)

マタ・ムア
マタ・ムアポール・ゴーギャン, 1892, ティッセン=ボルネミッサ美術館

19. ポール・ゴーギャン《マタ・ムア(昔々)》(1892年)

2020年、パンデミックで美術館が閉まっているあいだに、《マタ・ムア》はマドリードから、持ち主であるハンス・ハインリヒの未亡人カルメン・セルベラが住むアンドラへ運ばれた。彼が彼女と結婚したのは1985年、コレクションの恒久的な落ち着き先を探していたころだった。スイスはヴィラ・ファヴォリータの拡張費用を出そうとせず、イギリス、ゲティ美術館、ドイツの諸都市、スペインから申し出があり、美術館によれば、スペインを選ばせたのはカルメンだった。1988年、男爵はスペイン国家と契約を結び、売却を見込んで775点をマドリードへ貸し出した。1992年10月8日、建築家ラファエル・モネオが内部を改築したビリャエルモサ宮で美術館が開館し、1993年6月、国家はこの775点を3億5000万ドルで買い取って、国の財団に託した。《マタ・ムア》はこの取引に含まれず、カルメン・セルベラ自身のコレクション、いわゆるカルメン・ティッセン・コレクションに属している。この建物でいちばん有名なゴーギャンは、一度も美術館のものになったことがない。

ゴーギャンは1892年にタヒチでこの絵を描いた。1895年、ふたたびオセアニアへ旅立つ資金をつくるために自作を売り払った競売で、この絵は売れ残った。1984年5月、ニューヨークのサザビーズの競売で、ハンス・ハインリヒとボリビアのコレクター、ハイメ・オルティス=パティーニョが折半でこれを買い、報道によれば価格は400万ドルに満たなかった。1989年、やはりニューヨークの競売で、ハンス・ハインリヒが単独の持ち主となった。カルメン・セルベラは雑誌『オラ!』のインタビューで、自分たちはこの絵を3度買ったのだと語っている。

灰青色の木の幹がカンヴァスを二分し、上端の外へと伸びている。左の奥には大きな暗紫色の偶像が座り、そのまわりで上半身裸の3人の女が踊っている。右の手前では暗緑色の草の上に白いパレオの女が2人座り、ひとりが笛を吹いている。その向こうに赤みがかったオレンジの地面の帯、鮮やかな緑の草地、ピンクがかった紫の山々が続く。美術館によれば、偶像は月の女神ヒナを表していて、その姿はゴーギャン自身が組み立てたものである。左下には小さな文字でMATA MUA、タヒチ語で「昔々」と書かれ、右には「P Gauguin 92」の署名がある。

2022年2月7日、《マタ・ムア》はマドリードに戻り、その2日後の2月9日、文化省はカルメン・ティッセン・コレクションのおよそ330点を15年間、年650万ユーロで借りる契約に署名した。それ以来、このコレクションは、2022年にスペイン国家と結ばれたこの15年間の賃貸借契約にもとづいて美術館で展示されている。優先購入権はティッセン=ボルネミッサ・コレクション財団にあり、財団はこの権利を国家に譲ることができる。契約によれば、持ち主はコレクションのうち3点を自由に売ることができ、どの3点を選んでもよいが、《マタ・ムア》だけは除かれる。

マタ・ムア
マタ・ムアポール・ゴーギャン, 1892, ティッセン=ボルネミッサ美術館
午後のサントノレ通り、雨の効果
午後のサントノレ通り、雨の効果カミーユ・ピサロ, 1897, ティッセン=ボルネミッサ美術館

20. カミーユ・ピサロ《午後のサントノレ通り、雨の効果》(1897年)

1939年、リリー・カッシーラーはドイツを出る出国ビザを得るために、この絵をベルリンの画商ヤーコプ・シャイトヴィマーに900ライヒスマルクで売るほかなく、その代金は彼女が引き出せない口座に振り込まれた。絵はベルリンの彼女の家に掛かっていた。1900年、ピサロが作品を託していた画商が、ベルリンの美術商一族のパウル・カッシーラーにこれを売り、のちにリリーが相続していたのである。アメリカの連邦控訴裁判所は2024年の判決のなかで、ナチスがリリーからこの絵を盗んだことにはだれも異論を唱えていないと記した。

1943年、絵はベルリンで競売にかけられた。戦後リリーは返還を求め、1958年、絵が行方不明とみなされていたなかで、ドイツ連邦共和国は彼女に補償として12万マルクを支払った。その間、1951年に絵はドイツからアメリカへ運び出されていて、1952年から1976年まではセントルイスの個人コレクションにあり、1976年、ハンス・ハインリヒがニューヨークのスティーヴン・ハーン画廊を通して27万5000ドルで買った。1992年からマドリードにあり、1993年には国が買い取った775点のひとつとなった。

ピサロは1897年、パリのホテルの窓からサントノレ通りを描いた。これは、1897〜1898年の冬に彼が同じ窓から描いた15点の絵のひとつである。通りは下から左上へ斜めに遠ざかり、灰色がかったもやのなかに溶けていく。左の歩道に沿って黒っぽい馬車が列をなし、右下には通りの中の小さな島に丸い噴水があり、左のショーウィンドウの上には赤と白の縞の日よけが張り出している。いちばん広い面積を占めるのは、ピンク、黄土色、紫の筆致で描かれた濡れた路面で、馬車や人の下には映りこみがあり、中央より少し右の下端近くを、シルクハットの男がひとり歩いていて、その下に彼の姿が映っている。

2005年、リリーの孫クロード・カッシーラーが、カリフォルニアでティッセン=ボルネミッサ・コレクション財団を相手に訴えを起こした。財団は、男爵が善意でこの絵を買ったのであり、絵は財団のものだという立場をとり、相続人たちは盗まれた絵だと考えている。2024年1月9日、第9巡回区連邦控訴裁判所はスペイン法にもとづいて財団勝訴の判決を下した。スペイン法では、財団は取得時効によってこの絵を取得したことになる。2024年9月、カリフォルニア州はこの種の訴訟にはカリフォルニア州法を適用するよう定めた法律を成立させ、2025年3月10日、合衆国最高裁判所は2024年の判決を取り消し、審理をやり直すよう事件を差し戻した。2025年9月12日には双方が略式判決を求める申し立てをそれぞれ提出し、11月にはカリフォルニア州司法長官が新しい州法を擁護するために訴訟への参加を求めた。2026年4月13日には、ホロコーストの際に奪われた美術品の返還に関する連邦法(HEAR法)が署名された。この法律の条文はこの事件を念頭に置いて書かれ、取得時効を理由とする抗弁を認めていない。2026年9月29日の時点で、事件はカリフォルニア州中部地区連邦地方裁判所で審理中であり、最終的な判決は出ていない。

午後のサントノレ通り、雨の効果
午後のサントノレ通り、雨の効果カミーユ・ピサロ, 1897, ティッセン=ボルネミッサ美術館

ほかに見ておきたい作品

ハインリヒが買った絵では、1935年にニューヨークのモグマー美術財団から買ったフランス・ハルスの《風景の中の家族の肖像》と、ハンス・マーラーの《ハンガリーとボヘミアのアンナの肖像》も探してみたい。後者は1937年、デューラーとホルバインを売ったのと同じルツェルンの画廊メルクリアを通してコレクションに入った。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの《復活祭の朝》は1973年にハンス・ハインリヒが競売で買ったもので、コールのアメリカの風景画では、コレクションにはほかに《夕暮れの十字架》もある。20世紀の絵画では、エドワード・ホッパーの《ホテルの部屋》、ロイ・リキテンスタインの《浴槽の女》、フランシス・ベーコンの《鏡に映るジョージ・ダイア》がある。フラ・アンジェリコの《謙遜の聖母》は、ハンス・ハインリヒが1986年、クラナッハのニンフと同じ年に買った。