1697年、トスカーナ大公位の継承者だったフェルディナンド・デ・メディチ大公子は、ペーシャの大聖堂からラファエロの未完の祭壇画を持ち出し、ピッティ宮の自分のもとへ運ばせた。祭壇には代わりにフィレンツェの画家ピエル・ダンディーニによる模写が置かれ、その模写はそのままペーシャに残った。

この宮殿は15世紀に、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティが自分のために建てたもので、1549年から1550年にかけて、メディチ家のコジモ1世の妻エレオノーラ・ディ・トレドが買い取った。メディチ家は1737年までここに住み、その後はハプスブルク=ロートリンゲン家のトスカーナ大公たちが住んだ。1865年から1871年にかけてフィレンツェがイタリアの首都だったときには、サヴォイア家の国王が宮殿に移ってきた。ロートリンゲン家は18世紀末から1834年までのあいだに、流派も時代も混ぜ合わせて、額と額が接するほどぎっしりと絵を掛け、1830年ごろ、大公レオポルド2世がギャラリーを一般に公開した。

最初に紹介するのは、作家ピエトロ・アレティーノが1545年にコジモ1世へ贈った肖像画、最後は、この宮殿に最後に住んだサヴォイア家の国王たちの玉座の間である。

贈り物とメディチ家最初のコレクション

ピエトロ・アレティーノの肖像
ピエトロ・アレティーノの肖像ティツィアーノ, 1545, パラティーナ美術館

1. ティツィアーノ《ピエトロ・アレティーノの肖像》

1545年の初め、ヴェネツィアの文筆家ピエトロ・アレティーノは、自分の肖像画の代金をティツィアーノに払った。フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチにそれを贈り、公の庇護を取りつけるためである。アレティーノは手紙や諷刺文、そして権力者たちの気前のよさで暮らしを立てていて、若いころには公の父である傭兵隊長ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレと親しかった。10月、肖像画はフィレンツェへ送られた。同じ秋、アレティーノはコジモに二つ目の贈り物を送った。ジョヴァンニ本人の肖像で、アレティーノが手元に持っていたデスマスクをもとに描かれたものである。彼は最初ティツィアーノにこれを頼んだが、ティツィアーノは結局引き受けず、肖像を描いたのはジャン・パオロ・パーチェだった。それでもメディチ家の財産目録では、1905年までティツィアーノの作とされていた。アレティーノの肖像は1553年から公の衣装庫の記録に現れるが、それがいつピッティ宮に移されたのかを示す文書は、研究者にも見つかっていない。

贈り物を送った後、アレティーノはそれについて二通の手紙を書いた。ティツィアーノには、肖像は「仕上げたというより、むしろ下描きしたもの」だと知らせた。コジモには10月17日に、この肖像は息をしていて脈を打っている、画家に払った金がもう少し多ければ、布地はもっと輝き、柔らかく、厚みのあるものになっていただろう、と書いた。

彼の言っていたことは、深紅のビロードの衣の折り返しを見るとわかる。折り返しは淡いピンクの絹で、ティツィアーノはそれを明るい絵具の長くゆるやかな帯にして赤の上にじかに置き、右の折り返しに沿っては、速い筆の運びで毛皮とも房飾りともつかないものを描き入れている。胸の金の鎖は濃い黄色の絵具で描き込まれていて、顔に次いで、カンヴァスのなかでいちばん仕上げの進んだ部分である。アレティーノ本人は見る者から目をそらして横を見ていて、左上からの光が、広い額と鼻、顎のあたりで白くなりかけた髭を照らしている。ウフィツィ美術館では、衣服のゆるやかな筆致をティツィアーノの意図した手法と見ている。

ピエトロ・アレティーノの肖像
ピエトロ・アレティーノの肖像ティツィアーノ, 1545, パラティーナ美術館

2. ブロンズィーノ《小人モルガンテの肖像》

小人ブラッチョ・ディ・バルトロは、コジモ1世の宮廷でモルガンテと呼ばれていた。ルイジ・プルチの叙事詩に出てくる巨人の名である。彼は公に仕えた五人の道化のなかでいちばん名を知られていて、1555年の文書では「わが公宮の小人にして、深く愛された召使い」と呼ばれている。宮廷肖像画家アーニョロ・ブロンズィーノは、コジモのために彼を裸の全身像で、一枚のカンヴァスの両面に描いた。1553年までに、この絵はヴェッキオ宮にあった公の衣装庫の目録に記載されていた。

表側では、モルガンテは両脚を開いてまっすぐに立ち、挙げた手にフクロウをとまらせていて、フクロウから下ろした左手へ紐が延びている。フクロウはここでは囮で、右上からは、翼に青い縞のあるカケスがもうそれをめがけて飛んでくる。裏側では同じ男がこちらに背を向け、右肩越しに振り返って顔をしかめ、挙げた手には仕留めた小鳥の束を持っている。こうして、ひとつの猟の前と後、二つの瞬間が描かれている。ウフィツィ美術館の説明では、ブロンズィーノが彼を鳥刺しにしたのは、大きな獣の狩りはもっと身分の高い人々のものとされていたからだという。美術史家ジェームズ・ホルダーバウムは1956年、この絵を、人文主義者ベネデット・ヴァルキが1546年から1547年にかけてフィレンツェの芸術家たちのあいだで始めた、絵画と彫刻のどちらが高貴かという論争と結びつけた。彫刻家たちは彫像ならまわりをぐるりと歩いて眺められると主張し、ブロンズィーノは一人の人間を二つの側から描いてみせた。

小人モルガンテの肖像
小人モルガンテの肖像ブロンズィーノ, 1553, パラティーナ美術館

のちにこの絵は描き直され、モルガンテはバッカスに変えられた。ブドウの葉の冠が描き足され、フクロウは杯に塗り替えられ、左手の下には水差しが置かれ、股間は房のついた葉の花綱で覆われた。国の目録ではこの改変を17世紀のものとしているが、美術館と修復工房オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレは19世紀の仕事と考えている。2010年、オピフィーチョの修復家たちが加筆をすべて取り除くと、その下から二匹のアゲハチョウが現れた。一匹は左下の小さな草のそばを飛び、もう一匹は股間にとまっていて、こちらはブロンズィーノ自身が描いたものである。

この絵がピッティ宮に移されたのは、ようやく2019年9月のことだった。2013年から2016年まではウフィツィの廊下に置かれていたが、そこでは来館者の足音で床が揺れ、絵具の層が剥がれ始めるおそれがあった。パラティーナ美術館では、この二重の肖像は衝撃を吸収する装置のついた専用のケースに収められ、そのまわりを歩けば両面が見られる。

小人モルガンテの肖像
小人モルガンテの肖像ブロンズィーノ, 1553, パラティーナ美術館

ウルビーノとボッティの遺産

ヴェールの女
ヴェールの女ラファエロ, 1513, パラティーナ美術館

3. ラファエロ《ヴェールの女(ラ・ヴェラータ)》

フィレンツェの貴族で外交官のマッテオ・ボッティは、1615年、大公コジモ2世と終身年金の契約を結んだ。絵のコレクションを大公に譲り、そのかわりに生涯、大公から金を受け取るという取り決めである。1619年の遺言がこの契約を確認し、1621年にボッティが亡くなると、彼の絵はメディチ家に移った。そのなかに、ヴェールをかぶった若い女性の肖像があった。

絵の大部分を占めているのは片方の袖である。袖は淡い色の絹で、襞のなかでは白からピンクや灰色へと色を変え、金色がかった黄色の縞が入り、同じ色の裏地が肩のところで折り返されていて、襞の一つひとつが別々に描かれている。女性は右手を胸に置き、指を広げている。左手はほとんど画面の縁の外に隠れていて、左下の隅には指先と、金の腕輪をはめた手首だけが見える。クリーム色の透けるヴェールが頭頂にかかり、両側へ下の縁まで垂れているので、人物全体が細く高い三角形のなかに収まっている。

ラファエロがこの肖像を描いたのは、1512年から1516年ごろのローマである。フィレンツェでは画家の名が絵から忘れられ、18世紀の末、ロートリンゲン家はこれをメディチ家の宮廷肖像画家ユストゥス・ススターマンスの作として掛けた。1839年、ドイツの美術史家ヨハン・ダーヴィト・パッサヴァンがこれをラファエロの作に戻し、モデルは画家の恋人フォルナリーナではないかと推測した。フォルナリーナの話のもとはヴァザーリで、彼は1568年、フィレンツェの商人マッテオ・ボッティのもとにあった、ラファエロが死ぬまで愛した女性の肖像について書いている。コジモ2世と契約を結んだマッテオ・ボッティは1570年ごろの生まれなので、ヴァザーリが書いたのは別のマッテオである。ヴァザーリは女性の名を挙げていない。「マルゲリータ」という名は、のちに誰とも知れない読者が『芸術家列伝』の一冊の余白に書き込んだもので、パン屋の娘を意味するフォルナリーナというあだ名はさらに後から現れた。そして1897年には、「シエナの故フランチェスコ・ルーティの娘、寡婦マルゲリータ」について記した1520年の記録が公刊された。ウフィツィ美術館では、衣装や装身具からすると、これはむしろ若い貴婦人を描いた注文肖像で、ヴェールは彼女が既婚であることを示していると考えている。

ヴェールの女
ヴェールの女ラファエロ, 1513, パラティーナ美術館
ラ・ベラ
ラ・ベラティツィアーノ, 1537, パラティーナ美術館

4. ティツィアーノ《ラ・ベラ》

ウルビーノ公フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレは当時ヴェネツィア共和国の軍を指揮していて、1536年5月2日、ヴェネツィア駐在の自分の使節に、「青い服を着たあの女のあの肖像」をティツィアーノに急がせるよう命じた。モデルについてわかっていることは、ほとんどこの言葉に尽きる。19世紀、ドイツの歴史家モーリッツ・タウジングは公の妻エレオノーラ・ゴンザーガだと考えたが、公が自分の妻を「あの女」と呼んだとは考えにくい。イタリアのレアンドロ・オッツォラはそこに若返ったイザベラ・デステを見て取り、高級娼婦だとする人々もいた。美術館はこの絵を美の理想を形にしたものと見ていて、多くの人が同じ顔を《ウルビーノのヴィーナス》に認めている。「ラ・ベラ(美しい女)」という呼び名は、18世紀のフィレンツェでつけられた。

青いダマスク織のドレスは、固い胴着に金の縞が刺繍され、青地には小さなリボン飾りが散らされている。袖の下の部分は暗いワイン色のビロードで、切れ目が入れられ、そこから白い麻の膨らみが引き出されて、金の紐で絞られている。左手は腰に置かれ、人差し指が下を向いている。左下に見える右手は、重い金の先端飾りのついた金の鎖を持ち、その前腕には暗い色の毛皮が掛けられていて、暗い背景に溶けてほとんど見分けられない。

この肖像がフィレンツェに来たのは1631年である。その年、デッラ・ローヴェレ家最後のウルビーノ公が亡くなり、そのコレクションを九歳の孫娘ヴィットリア・デッラ・ローヴェレが相続した。彼女は1623年、一歳のときにフィレンツェに連れてこられ、二歳で未来のトスカーナ大公フェルディナンド2世と婚約して、メディチ家のなかで育った。ヴィットリアは1694年に亡くなるまで、この肖像をピッティ宮の自分の居室に置いていた。その後、肖像は息子のフランチェスコ・マリア・デ・メディチ枢機卿の手に渡り、1711年には大公コジモ3世のものとなった。

ナポレオンの時代にこの絵はパリへ運ばれ、修復家たちによれば、1804年にそこで裏打ちされ、加筆され、厚いニスを塗られた。1815年以後、絵はフィレンツェに戻った。2008年から2011年にかけて、オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレの修復家パトリツィア・リイターノがフランスでの加筆と黒ずんだニスを取り除くと、青いドレスがアズライトとラピスラズリで描かれていることがわかった。

ラ・ベラ
ラ・ベラティツィアーノ, 1537, パラティーナ美術館
悔悛するマグダラのマリア
悔悛するマグダラのマリアティツィアーノ, 1533, パラティーナ美術館

5. ティツィアーノ《悔悛するマグダラのマリア》

マグダラのマリアの体を覆っているのは、自分の髪だけである。髪は赤銅色がかった金色で長く、両肩から画面の下の縁まで流れ落ち、前で重い房にまとまっている。ティツィアーノはそれを一つずつの速い筆づかいで描いたので、房ごとにそれぞれの光がきらめいている。彼女は右の手のひらを広げて片方の乳房に髪を押し当て、もう一方の乳房はあらわになっている。頭は後ろへそらされ、目は右端のほうへ上げられて、涙に濡れて光っている。左上、暗い丘の稜線の上には雲の浮かぶ青空がわずかにのぞき、これが絵のなかで唯一の冷たい色である。左下の隅には、マグダラのマリアが香油を入れて持ってきた、蓋つきの明るい色の器が置かれている。美術館によれば、ティツィアーノはその縁に署名を入れた。

ウフィツィ美術館では、この絵はおそらく1533年から1535年にヴェネツィアで、《ラ・ベラ》を注文したのと同じウルビーノ公フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレのために描かれたと考えている。一方で一部の研究者は、今もこれを、1531年にマントヴァ公フェデリーコ・ゴンザーガが女流詩人ヴィットリア・コロンナへの贈り物として注文したマグダラのマリアだと見ている。ヴァザーリは1548年、フランチェスコ・マリアの息子グイドバルド2世公の衣装庫で、「髪をほどいた」胸から上の聖マリア・マグダレーナを見て、それを稀なものと呼んだ。この記述はふつうピッティの絵のことだとされている。このマグダラのマリアは1631年、《ラ・ベラ》とともに、同じヴィットリア・デッラ・ローヴェレの遺産としてフィレンツェに来た。

ティツィアーノは1560年代までこの構図を繰り返し描いていて、その作品はエルミタージュ美術館、ナポリ、シュトゥットガルト、ゲティ美術館にある。ピッティのマグダラのマリアは、現存するもののなかで最も早いものとされている。宗教画に慎みを求めたトリエント公会議の後に描かれた後期の作例では、マグダラのマリアは衣をまとっている。

フェルディナンド2世の宮廷

ユディトと侍女
ユディトと侍女アルテミジア・ジェンティレスキ, 1618, パラティーナ美術館

6. アルテミジア・ジェンティレスキ《ユディトと侍女》

アルテミジア・ジェンティレスキがフィレンツェに来たのは1612年の末か1613年の初め、ローマでアゴスティーノ・タッシが裁かれた裁判からまもなくのことだった。フィレンツェで彼女はメディチ家の宮廷のために仕事をし、1616年には女性として初めてフィレンツェの素描アカデミーに迎えられた。

このフィレンツェ時代に、彼女はホロフェルネスの首を持って彼の陣営から立ち去る二人の女を描いた。二人とも頭を鋭く右へ向け、画面の縁の外にある何かを見ている。ユディトは後ろに立ち、刃を上に向けた剣を自分の肩に担いで首のすぐそばに構え、左手を侍女アブラの肩に置いている。アブラはこちらに背を向けていて、黄色い服を着て明るい色のターバンを巻き、その顔は右の縁にかろうじて見える。アブラは腰に籠を抱えていて、そのなかに目を閉じた首が入っている。籠から流れる血は白い布に滴り、彼女の袖口にも染みを残している。アルテミジアはこの構図を父オラツィオ・ジェンティレスキから受け継いでいて、同じ主題の父の絵はオスロにある。クリストファノ・アッローリも同じ宮廷のために同じ主題を描き、その《ユディト》もこの宮殿に掛かっている。

この絵がメディチ家の文書に初めて現れるのは1637年、ピッティ宮の衣装庫の目録で、「アルテミジア作、籠にホロフェルネスの首を入れた、連れの女とともにいるユディト」と記されている。この目録より前の注文や購入を記録した文書は、知られているかぎり一つもない。アルテミジア自身は、そのころにはフィレンツェを離れてもう17年がたっていた。一家は夫の借金のために町を去り、1620年3月にはアルテミジアはすでにローマから手紙を書いていて、フィレンツェの工房には未完の作品が残された。

ユディトと侍女
ユディトと侍女アルテミジア・ジェンティレスキ, 1618, パラティーナ美術館

7. アンドレア・デル・サルト《パッセリーニの聖母被昇天》

1526年、コルトーナのマルゲリータ・パッセリーニは、コルトーナ近郊にあるセルヴィ会の聖堂の祭壇のため、《聖母被昇天》を155フィオリーノで描く契約をアンドレア・デル・サルトと結んだ。絵に描く聖人は注文主の一族にちなんで選ばれた。左にひざまずくのは白い髭のミラの聖ニコラウスで、パッセリーニ家の守護聖人である。金の刺繍のある重いピンクの祭服を着ていて、その前の床には金の球が三つ置かれている。右で祈っているのは、白いヴェールをかぶり、灰褐色の服を着てロザリオを持った年配の女性で、この土地の聖女であり注文主と同じ名をもつコルトーナの聖マルゲリータである。

パッセリーニの聖母被昇天
パッセリーニの聖母被昇天アンドレア・デル・サルト, 1526, パラティーナ美術館
パンチャティキの被昇天
パンチャティキの被昇天アンドレア・デル・サルト, 1523, パラティーナ美術館
木星の間の天井画
木星の間の天井画ピエトロ・ダ・コルトーナ, 1643, パラティーナ美術館

デル・サルトは、その数年前にフィレンツェのパンチャティキ家のために描いた自分の《聖母被昇天》を下敷きにし、多くの点を作り変えた。下の風景と空を暗い岩に置き換えたので、柩のまわりの使徒たちのピンクや赤、玉虫色のオレンジの衣が、ほとんど黒い背景から鮮やかに浮かび上がり、雲の上のマリアはまっすぐ見る者を見つめている。

アンドレア・デル・サルトは契約から四年後の1530年に亡くなった。パラティーナ美術館には、ルネサンスのほかのどの画家よりも多く彼の絵がある。1639年、パッセリーニ家の相続人がこの祭壇画を大公フェルディナンド2世に売り、大公はそれをピッティ宮の絵画コレクションに加え、祭壇には模写が置かれた。《パンチャティキの被昇天》は1687年、フェルディナンド大公子のもとでピッティ宮に入り、そのとき板の上部が継ぎ足されて、コルトーナの絵と同じ高さにそろえられた。

8. ピエトロ・ダ・コルトーナとチーロ・フェッリ、惑星の間の天井画

これらの広間の天井では、絵よりも漆喰装飾の占める部分のほうが大きい。金箔の枠、軒蛇腹に沿って横たわる白い漆喰の人物像、金色のプットや男像柱、ラテン語の標語を入れたメダイヨンやカルトゥーシュが天井のほぼ全体を埋め、フレスコ画は中央にだけ残されている。木星の間の天井では、四つ葉形の枠のなかで、青いマントをなびかせた裸の若い王子が、鷲に乗ったユピテルに向かって両手を伸ばしている。王子の後ろには、王子に棍棒を手渡した髭のヘラクレスが立ち、右では翼のある勝利の女神が盾にMの文字を刻んでいる。美術館は、この天井の人物たちのなかに「メディチ家の星」である四人の女性も見いだしている。1610年にガリレオが、自ら発見した木星の衛星をそう名づけたのである。

1641年、大公フェルディナンド2世はピエトロ・ダ・コルトーナに、自分の公式の居室の装飾を注文した。コルトーナは当時、画家であると同時に建築家であり、漆喰装飾の名手でもあって、その少し前にはローマのバルベリーニ宮の天井画を描き上げていた。構想を練ったのは宮廷の司書フランチェスコ・ロンディネッリで、そこでは惑星の名のもとに、君主が若いころから老いるまでに必要とする徳が順に並べられた。謁見を待つ場だった金星の間では、ミネルウァが若者をヴィーナスの腕から引き離し、使節たちが待った火星の間では王子が戦い、メディチ家の謁見の間だった木星の間では王子が冠を授けられる。最後は土星の間で、そこでは年老いた王子をサトゥルヌスが迎える。

1647年、コルトーナはローマへ去り、二度とフィレンツェには戻らなかった。アポロンの間は描きかけのまま残され、1659年から1661年にかけてコルトーナの弟子チーロ・フェッリが仕上げた。土星の間は1663年から1665年にかけて、フェッリが師の素描をもとに一人ですべて描いた。

木星の間の天井画
木星の間の天井画ピエトロ・ダ・コルトーナ, 1643, パラティーナ美術館

メディチ家のコレクターたち

9. ティツィアーノ《合奏》

大公フェルディナンド2世の弟で、のちに枢機卿となるレオポルド・デ・メディチは、フィレンツェの貴族パオロ・デル・セーラをヴェネツィアでの腹心の代理人にした。デル・セーラは若いころ商売のためにヴェネツィアへ渡り、そのまま生涯そこにとどまった人物である。30年のあいだに、デル・セーラは数多くの絵や素描、自画像をフィレンツェへ送り、レオポルド本人には650通ほどの手紙を書いた。1654年、レオポルドはデル・セーラ自身のコレクションからも一枚の絵を買った。それはジョルジョーネの作とされていた絵で、ヴェネツィアの画家伝作者カルロ・リドルフィは、すでに1648年に、どうやらこの絵をデル・セーラのコレクションにあるジョルジョーネとして記述していたらしい。

合奏
合奏ティツィアーノ, 1510, パラティーナ美術館

絵には腰から上の男が三人、暗い背景のなかにぎっしりと寄せて描かれている。中央の演奏者はまだスピネットの鍵盤に指を置いたまま、肩越しに右の男へ鋭く振り返っていて、白目が見えるほどである。右に立つ男は演奏者の肩に手を置き、弦楽器の棹を持っているが、楽器そのものは下の縁の外に隠れている。左では、大きな白いダチョウの羽根をつけた黒いベレー帽の若者が、まっすぐ見る者を見ている。顔の描き方はそれぞれ違い、演奏者は鋭くくっきりと、若者はより柔らかく平板に描かれていて、この違いから、ここにジョルジョーネとティツィアーノの共作を見る研究者もいた。三人が誰なのかについても議論がある。美術館は演奏者を毛皮つきの外套を着た俗人、右の男をドミニコ会士としているが、イギリスの批評家ウォルター・ペイターは演奏者を修道士と見ていた。若者の羽根は絵の上の縁に届いていて、それはもともとの意図どおりである。1976年から1978年にかけて、修復家たちが後から上に継ぎ足されたカンヴァスの帯を取り除いたからだ。

1675年、《合奏》はウフィツィのトリブーナに展示され、1697年にはピッティ宮のフェルディナンド大公子のもとへ戻った。19世紀を通じてこの絵はジョルジョーネの代表作のひとつとされ、ペイターは1877年、この絵をもとにジョルジョーネという画家の像を組み立てた。その三年後、イタリアの鑑定家ジョヴァンニ・モレッリが初めて、これをジョルジョーネが亡くなった1510年ごろに描かれたティツィアーノの初期作と見なした。

合奏
合奏ティツィアーノ, 1510, パラティーナ美術館
ホロフェルネスの首を持つユディト
ホロフェルネスの首を持つユディトクリストファノ・アッローリ, 1611, パラティーナ美術館

10. クリストファノ・アッローリ《ホロフェルネスの首を持つユディト》

この絵にまつわる話を伝えているのは、ただ一人、美術史家フィリッポ・バルディヌッチである。彼は17世紀末、クリストファノ・アッローリの死から何十年もたってから、画家の友人だった小ミケランジェロ・ブオナローティから聞いた話をもとにアッローリについて書いた。バルディヌッチによれば、アッローリはユディトを、フィレンツェで名の知れた高級娼婦で自分の恋人だったマッツァフィッラをモデルに、年老いた侍女を彼女の母親をモデルに描き、切り落とされたホロフェルネスの首は自分自身の顔をもとに描いたという。ローマのコルシーニ図書館には、目を閉じた彼自身の頭部を描いたアッローリの素描があり、ホロフェルネスの首のための習作と考えられている。

ユディトは大きな模様の入った金色がかった黄色の絹のドレスを着て、房飾りのついた幅広いクリーム色の帯を締め、肩の後ろには深紅のマントがひるがえっている。ウフィツィ美術館では、このドレスをフィレンツェの絹織物産業への敬意の表れと見ている。ユディトは落ち着いてこちらを見つめ、左手で首の髪をつかんで、スカートのすぐそばに提げている。右手は画面の左端へ伸びていて、その手には金色の剣の柄だけが見え、刃は闇に消えている。右上の白いヴェールの侍女だけが、何かに耳を澄ますように、おびえた目を横へ向けている。右下の隅には金の組紐のついた緑のビロードのクッションが置かれていて、ホロフェルネスの寝台から残っているのはそれだけである。

アッローリは1621年に亡くなり、そのときこの絵はまだ彼の手元にあった。死後、絵はフェルディナンド2世のものとなり、1626年にはその叔父カルロ・デ・メディチ枢機卿の手に渡り、1666年にカルロが亡くなるとピッティ宮に移った。美術館の記録によれば、1799年から1815年まで絵はパリのリュクサンブール宮にあった。制作年については意見が分かれている。美術館は1610年から1612年としているが、1610年代の末とする研究者もいて、イギリスのロイヤル・コレクションは1613年の年記のある自館の作例を最初のものと考えている。

11. カラヴァッジョ《眠るクピド》

眠るクピド
眠るクピドカラヴァッジョ, 1608, パラティーナ美術館

1607年7月、カラヴァッジョは逃亡者としてマルタ島に渡った。その前年、ローマで喧嘩の末にラヌッチョ・トマッソーニを殺し、欠席裁判で死刑を宣告されていたのである。マルタでは聖ヨハネ騎士団の騎士となって恩赦を得ることを望んでいた。騎士団の騎士で、騎士団総長のイタリア関係の秘書を務めていたフィレンツェ人フラ・フランチェスコ・デッランテッラのために、彼は眠るクピドを描いた。1608年7月14日、カラヴァッジョは騎士団に迎え入れられた。8月の末、騎士の一人が負傷した喧嘩の後で彼は投獄され、10月の初めに脱獄し、12月1日、騎士団は彼を「腐って悪臭を放つ肢体」として除名した。

カンヴァスのほぼ三分の二を、むらのない黒が占めている。裸の幼児がそのなかに、左下の隅の足先から右ののけぞった頭まで、斜めに横たわっている。目は閉じ、口は開き、腹は丸くふくらんでいて、光はへそと膝にいちばん強く当たっている。体の下には弦をゆるめた弓があり、頭の下には枕のかわりに矢筒があって、もう一方の翼は頭の上の闇のなかに明るい弧が一本残っているだけである。デッランテッラは、騎士団のほかの騎士たちと同じく、貞潔の誓いを立てていた。このクピドは眠っていて、その武器はそばに投げ出されている。

1609年7月、絵はフィレンツェにいる注文主の兄弟、元老院議員ニッコロ・デッランテッラのもとに届いた。カンヴァスの裏には筆で、これが「1608年マルタにおけるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ氏の作」と書かれている。この書き込みは三人称で記されていて、画家の署名とは見なされていない。1619年から1620年にかけて、画家ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニは、サンタ・クローチェ広場に面したデッランテッラ邸のファサードのフレスコ画に、このクピドを描き写した。絵は59年間一族のもとにあった。1667年1月14日、注文主の甥にあたる修道院長ドナート・デッランテッラが子のないまま亡くなり、同じ年、レオポルド・デ・メディチ枢機卿がその相続人たちから絵を買い取った。

眠るクピド
眠るクピドカラヴァッジョ, 1608, パラティーナ美術館

12. ピーテル・パウル・ルーベンス《戦争の惨禍》

ユストゥス・ススターマンスはアントウェルペンに生まれ、1620年代から亡くなるまでフィレンツェでメディチ家の宮廷肖像画家を務めた。1637年、彼は同郷のルーベンスに自分のための絵を注文した。1638年3月12日、ルーベンスは彼にイタリア語で手紙を書き、その日に絵の代金の残り142フローリンを受け取ったこと、箱はもう三週間前にリール経由でイタリアへ送り出したことを伝え、絵に何が描かれているかを説明した。手紙の原本は失われていて、文面は歴史家フィリッポ・バルディヌッチが公刊した写しによって伝わっている。

戦争の惨禍
戦争の惨禍ピーテル・パウル・ルーベンス, 1637, パラティーナ美術館

鎧をつけ、大きな赤いマントをまとったマルスが、開かれたヤヌス神殿から出てくる。ローマ人が平時には閉じておいた神殿で、ルーベンスの言葉によれば、マルスは諸国の民に大きな災いをもたらそうとしている。裸のヴィーナスが彼を抱きとめて引き止めようとし、松明を持った復讐の女神アレクトが彼を前へと引きずっていく。左の神殿の扉のそばには、黒い服の女が裂けたヴェールをつけ、両腕を天に挙げて立っている。「もう何年も略奪と侮辱と災いに耐えてきた、不幸なヨーロッパ」である。床には、結んだリボンのほどけた矢の束とカドゥケウスの杖が転がっていて、調和と平和の象徴が打ち捨てられている。右下には、コンパスを手にした建築家があおむけに倒れ、そばには折れたリュートを持つ女がいて、その上には泣く子を抱いた母がいる。マルスは開いた本と素描の紙を踏みつけていて、ルーベンスはそれについて「私の記憶が正しければ」と書いている。絵がすでに発送された後で、記憶をたよりに説明していたからである。追伸で彼は、長く梱包されていたせいで肌や白の部分が少し黄ばんだのではないかと心配し、ときどきカンヴァスを日に当てるよう勧め、必要ならススターマンスが手を入れてもかまわないと書いている。

ルーベンスは当時60歳ほどで、三十年戦争はもう20年目に入っていた。彼は1640年5月に亡くなった。ススターマンスは1681年に亡くなるまでこの絵を手元に置き、1691年ごろ、その相続人たちがコジモ3世の息子フェルディナンド大公子に売った。1799年、フランス軍が絵をパリへ運び去った。1815年に返還されるときの目録には、パリで木枠から外されたときに生じた、ヴィーナスの背中の絵具層のひび割れが記録されている。

戦争の惨禍
戦争の惨禍ピーテル・パウル・ルーベンス, 1637, パラティーナ美術館
天蓋の聖母
天蓋の聖母ラファエロ, 1507, パラティーナ美術館

13. ラファエロ《天蓋の聖母》

フィレンツェのデイ家は1506年から1507年ごろ、サント・スピリト聖堂にある一族の礼拝堂のための祭壇画をラファエロに注文した。1508年の秋、画家が教皇ユリウス2世のもとへ行くためローマに去ったとき、板絵は未完のまま残された。1987年から1991年にかけて、オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレの修復家たちは、下の部分に仕上げの透明な上塗りがかかっていないことを確かめていて、その違いは目で見てもわかる。玉座の足もとで広げた巻物を見ながら歌う翼のある二人の幼子は、聖母に比べて色が明るく、明暗による肉づけがほとんどない。聖ペテロの衣や玉座の段も、ところどころ下塗りのように薄く描かれている。

ラファエロの死後、工房を継いだジュリオ・ロマーノとジャンフランチェスコ・ペンニは、この板絵をペーシャ出身のバルダッサーレ・トゥリーニに譲った。トゥリーニは教皇庁の要職ダタリオを務め、画家の友人で、その遺言執行人でもあった。1534年から1542年にかけて、トゥリーニはペーシャの大聖堂に礼拝堂を建て、のちにこの祭壇画はそこに置かれた。1697年にフェルディナンド大公子がそれを持ち去ったとき、美術館の話では、ペーシャの人々が反対していたため、板絵は夜のうちに運び出されたという。

大公子のコレクションに入れるため、板絵の上には継ぎ足しがなされ、その部分は宮廷画家ニッコロ・カッサーナが描いた。金色の花綱で飾られた緑の天蓋より上は、すべて彼の手になる。天蓋そのものの尖った頂と、その後ろの金色の格間のある半円蓋である。この帯は人物たちよりも灰色がかって平板である。右では白いミトラをかぶった聖アウグスティヌスがまっすぐ見る者を見つめ、開いた手のひらで聖母を指し示している。その後ろには巡礼の杖を持った髭の老人が立っていて、美術館はこれをピサの守護聖人聖ラニエーリとし、古い文献は聖ヤコブとしている。ラファエロを失ったデイ家は1522年、同じ祭壇のためにロッソ・フィオレンティーノに絵を注文したが、大公子はサント・スピリトからその絵も持ち去り、代わりに模写を残した。

フランス軍と亡命、そして帰還

椅子の聖母
椅子の聖母ラファエロ, 1513, パラティーナ美術館

14. ラファエロ《椅子の聖母》

ドイツの作家エルンスト・フォン・ホウヴァルトは1820年ごろ、この絵の由来をめぐる子ども向けのお話を書いた。ぶどう農家の娘が、隠者ベルナルド神父を狼から守るため、樫の木の上にかくまった。隠者は娘と木を祝福し、両方ともいつまでも人々の記憶に残るだろうと予言した。年月がたち、樫は切り倒されて樽になり、娘は二人の子の母となった。ある日そこを通りかかったラファエロは、子どもたちといる彼女を見て、あの樫で作ったワイン樽の底板に三人の姿を木炭で描きとめた。絵が円形になったのはそのためだという。このお話はその後も語り継がれ、19世紀には画家たちがそれを絵にした。

ラファエロがこの板絵のトンド(円形画)を描いたのは1512年ごろのローマで、家庭での祈りのためだった。聖母は幼子の頭に頬を寄せ、まっすぐ見る者を見ている。幼子もわずかに眉をひそめて外を見ていて、右端で手を合わせた小さな洗礼者ヨハネだけが、二人を見上げている。絵の名前のもとになった椅子そのものは、左下に、上に球のついた金色の挽物の支柱が一本見えるだけである。美術館ではこれを、教皇庁の高位の人々が使った「カメラ(私室)の椅子」と呼んでいる。

この絵は16世紀の末までにフィレンツェに入り、1589年にはウフィツィのトリブーナで、ほかのラファエロ二点と並んで記録されている。そのころは四隅にブロッカテッロ大理石をはめ込んだ四角い額に入っていた。この額は、1648年に画家ジョヴァンナ・ガルツォーニが銅板に描いた模写で見ることができる。フェルディナンド大公子はトンドをトリブーナからピッティ宮の自分の寝室に移し、四隅に仮面のついた新しい長方形の金の額に入れた。1799年、フランス軍が絵をパリへ運び去り、1816年からは再びピッティ宮の所蔵として記録されている。椅子の支柱の球をメディチ家の紋章の球と見て、メディチ家出身の教皇レオ10世の注文と考える研究者もいれば、教皇ユリウス2世の一族デッラ・ローヴェレ家の紋章のどんぐりと見る研究者もいる。

椅子の聖母
椅子の聖母ラファエロ, 1513, パラティーナ美術館
グランドゥーカの聖母
グランドゥーカの聖母ラファエロ, 1506, パラティーナ美術館

15. ラファエロ《グランドゥーカの聖母》

聖母は膝から上が、ほとんど真正面を向いて、むらのない黒い背景の前に描かれている。目は伏せられ、息子から視線をそらしている。幼子は片方の手のひらを母の胴着に当て、もう一方の手の指を肩にかかった母の青いマントの縁に引っかけて、わずかに眉をひそめ、真剣な顔で見る者を見ている。二人の光輪は細い金の線で描かれていて、黒地の上ではほとんど見えない。ラファエロがこの板絵を描いたのは1506年から1507年ごろのフィレンツェで、ウフィツィには、長方形に落ち着く前に同じ群像を円形や楕円形に収めようと試みた彼の素描が所蔵されている。

1983年から1984年にかけて板絵が修復されたとき、オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレのX線写真によって、黒い背景の下に、アーチを支える柱のある室内と、わずかな風景が見つかった。オピフィーチョの修復家たちは、黒い背景は後から塗られたものだと結論づけた。一方、ラファエロ研究者のマイヤー・ツア・カペレンは、人物に重みを与えるために画家自身が背景を暗くした可能性もあると考えている。修復家たちは黒い背景を取り除かなかった。

この絵に関する文書は1799年から始まる。その年の春、フランス軍がトスカーナを占領し、大公フェルディナンド3世はウィーンへ去った。11月23日、ウフィツィの館長トンマーゾ・プッチーニは大公に、フィレンツェの商人ガエターノ・ガリエルがラファエロの聖母を売りに出していると知らせ、1800年1月、フェルディナンドはウィーンから手紙で購入を許可した。ガリエルには300ゼッキーノが支払われ、10月、絵は大公のもとへ送られた。絵は亡命のあいだずっと大公とともにあり、トスカーナの代わりにフェルディナンドが与えられたヴュルツブルクにも移り、1814年に彼とともにフィレンツェに戻った。「大公の聖母(マドンナ・デル・グランドゥーカ)」という名は、この大公の愛着から生まれた。ロートリンゲン家はこの絵を私的な居室に置き、ほかのラファエロと同じ一般のギャラリーに移されたのは、ようやく1882年のことだった。

16. アントニオ・カノーヴァ《ヴィーナス・イタリカ》

メディチのヴィーナス
メディチのヴィーナスAttributed to Cleomenes, son of Apollodorus of Athens, -100, ウフィツィ美術館
ヴィーナス・イタリカ
ヴィーナス・イタリカアントニオ・カノーヴァ, 1812, パラティーナ美術館
Napoleon's Bathroom, Palazzo Pitti
Napoleon's Bathroom, Palazzo PittiDimitris Kamaras from Athens, Greece, 2016 (Wikimedia Commons), CC BY 2.0

1800年、ウフィツィのトリブーナの中心をなす古代彫刻《メディチのヴィーナス》は、フランス軍の手に渡らないようパレルモへ運ばれた。それでもフランス軍は1802年にパレルモでそれを接収し、1803年8月までに像はルーヴルに立っていた。ナポレオンからトスカーナを与えられたエトルリア王ルドヴィーコ1世は、空いた場所のためにアントニオ・カノーヴァに模刻を注文した(美術館は1802年、伝記辞典トレッカーニは1803年としている)。カノーヴァは模刻を望まず、自分で構想した立ち姿のヴィーナスを提案した。ルドヴィーコは1803年に亡くなり、その未亡人で摂政となった王妃マリア・ルイーザが1805年に注文を確認した。1809年には、トスカーナ女大公となったナポレオンの妹エリザ・バチョッキが兄を説き伏せて、彫刻家に約束の2万5000フランを払わせた。

カノーヴァのヴィーナスは身をかがめて立っている。体全体が前へ傾き、肩をすぼめ、膝はわずかに曲がり、体重は前に出した脚にかかって、もう一方の脚のかかとは台座から浮いている。両手で胸に布を押し当てていて、布は長い一枚となって腹と片脚をつたい、足首まで垂れている。頭は、誰かが入ってきたかのように、肩越しに鋭く振り向いている。背中と脇腹はすっかりあらわで、この像がいちばんよく見えるのは横からである。

1812年4月29日、像はトリブーナで、どの方向からも回して眺められるよう新しく作られた回転台の上に据えられた。詩人ウーゴ・フォスコロは同じ年、《メディチのヴィーナス》は美しい女神だが、自分がいつまでも見入ってしまうこちらのヴィーナスは美しい女だと書いた。ナポレオンの失脚後、《メディチのヴィーナス》はトリブーナに戻り、カノーヴァの像は1815年以降ピッティ宮に移された。

17. ジュゼッペ・カチャッリ、ナポレオンの浴室

カノーヴァの報酬を兄から引き出したエリザ・ボナパルト・バチョッキは、女大公としてトスカーナを治め、ピッティ宮に住んでいた。1813年、彼女の注文で宮廷建築家ジュゼッペ・カチャッリは、皇帝と皇后、つまりナポレオンとマリー・ルイーズを迎えて住まわせるはずの居室を、宮殿のなかに整え始めた。浴室はその居室の一部だった。ナポレオンが皇帝としてフィレンツェを訪れることはついになく、1814年の春にはその権力が崩れた。

エリザの時代に鋳造が間に合ったのは、ブロンズの蛇口だけだった。花綱を持つ翼のある二人の守護霊にはさまれた金色の女性の仮面で、その下から水が出る。漆喰装飾、浮き彫り、床、彫像は、戻ってきた大公フェルディナンド3世のもとで作られ、職にとどまったカチャッリは、ナポレオンの妹のために始めた仕事を、今度は大公のために仕上げた。床は象嵌大理石で敷かれ、ピンク、クリーム色、紫がかった褐色の扇形を組み合わせたロゼットと、中央の白い円のなかの月桂冠が描き出されている。

部屋は細長く、天井が高い。両端が丸い白大理石の浴槽が奥に据えられていて、アーチ形の窓の下の壁龕のなか、濃い緑の大理石の二本の円柱のあいだにある。両側の壁龕には大理石の海のニンフ、ガラテイア、ドーリス、テティス、アンフィトリテが立っていて、これらはさらに後の1819年から1821年にかけて彫られた。

ロートリンゲン家と公開ギャラリー

聖母子と聖アンナの生涯の場面
聖母子と聖アンナの生涯の場面フィリッポ・リッピ, 1452, パラティーナ美術館

18. フィリッポ・リッピ《バルトリーニのトンド》

フラ・フィリッポ・リッピは、フィレンツェのレオナルド・バルトリーニに、1452年12月8日までに円形の絵を仕上げると約束していた。1453年4月になっても絵はまだできておらず、4月16日、バルトリーニは画家から22フィオリーノの違約金を取り立てた。この違約金の取り決めは、プラート大聖堂の管理委員会を通して交わされていた。リッピはちょうどそのころ、この大聖堂の内陣の壁画に取りかかったところだった。

聖母は手前に大きく、斜めに向けた椅子に座り、幼子と一緒に割ったザクロを持っていて、幼子は手を上げて一粒の実を指でつまんでいる。二人の後ろ、奥のほうには、聖母の母である聖アンナの生涯の場面が続いている。左の赤いカーテンの寝室では、出産を終えたアンナが寝台で半身を起こし、そばの女性が産着にくるまれた生まれたばかりのマリアを抱いている。右上では、戸口の前の外階段をヨアキムがアンナのほうへ上っていき、アンナは彼を抱きしめようと身をかがめている。聖母の近くを、灰色の服の若い女が頭に籠をのせて歩いていて、その衣は歩みにつれてひるがえっている。それまで円形は、出産した女性に贈る盆によく使われる形で、リッピのトンドは、聖母を描いた最初期の円形画のひとつとしばしば呼ばれる。

このトンドが確実に記録に現れるのは1761年のピッティ宮の目録が最初で、一説には屋根裏に置かれていたといい、1834年までにはすでにギャラリーに掛けられていた。その年に刊行された目録には、「フラ・フィリッポ・リッピ。膝に幼子イエスを抱く聖母、遠くに産婦を囲むさまざまな人物」と記されている。板の裏にはグリフォンの紋章が描かれている。美術史家ジェフリー・ルーダはこれをマルテッリ家の紋章と考え、トンドの制作を十年ほど後とするが、ウフィツィ美術館はこの紋章を未同定としていて、注文主は今もバルトリーニと考えている。

聖母子と聖アンナの生涯の場面
聖母子と聖アンナの生涯の場面フィリッポ・リッピ, 1452, パラティーナ美術館
妊婦
妊婦ラファエロ, 1505, パラティーナ美術館

19. ラファエロ《妊婦(ラ・ドンナ・グラヴィダ)》

この若い女性の肖像は1813年に大公の衣装庫へ移され、その後ピッティ宮に戻されて、フランス軍が絵をパリへ運び去った後に空いた場所のひとつに、ギャラリーの一枚として掛けられた。1815年の目録では作者はインノチェンツォ・ダ・イーモラ、1829年の目録では無名のフィレンツェの画家とされていた。1839年、《ヴェールの女》をラファエロの作に戻したのと同じドイツの鑑定家パッサヴァンの権威を拠りどころに、この肖像はラファエロの作とされた。この板絵には、購入の記録も贈与の記録も、以前の持ち主の名も残っていない。

女性は体を斜めに向けて座り、まっすぐこちらを見ている。金色がかった黄土色の胴着には黒いビロードの幅広い縞が入り、模様のある絹の幅広い赤い袖は、肩のところで黒いリボンで結ばれている。指輪を二つはめた左手は、腹のところでたっぷり寄せられた白いスカートの上に平らに置かれ、そのやや下で右手がしわくちゃの黄色みがかった手袋を持っている。ウフィツィ美術館は、この姿勢とまっすぐな視線を、ラファエロがフィレンツェで見たレオナルドの《モナ・リザ》に由来するものとしている。X線調査によって、最初は黒い背景にほつれた髪が描かれていたが、のちにラファエロがそれを消したことがわかった。

モデルについては二つの説があり、美術館はどちらも採っていない。研究者フィリッピーニはエミーリア・ピア・ダ・モンテフェルトロを挙げ、歴史家ヴィルツィは金の髪網に二頭の水牛を見つけて、水牛(ブーファロ)にちなむ名をもつチッタ・ディ・カステッロのブファリーニ家の婦人ではないかと考えた。「妊婦」という題は19世紀に、腹に置かれた手をそう読んでつけられたもので、美術館自身もこれを疑っている。そのふくらみは座った女性のスカートの襞にすぎないかもしれず、手はもしかすると指輪を見せているのかもしれないからである。

妊婦
妊婦ラファエロ, 1505, パラティーナ美術館

サヴォイア家の宮廷

20. 王の居室の玉座の間

1865年、イタリアの首都がトリノからフィレンツェに移され、ピッティ宮には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が住むことになった。国王自身は別の居室で暮らすことを選び、玉座の間には、メディチ家の時代にはフェルディナンド大公子の謁見の間、ロートリンゲン家の時代には侍従の間だった儀礼用の部屋があてられた。1856年、トスカーナ大公位の継承者だったフェルディナンド4世の婚礼に合わせて、この部屋の壁には淡いピンクの大きな花模様のある深紅の絹が張られ、何段にも蝋燭を立てる巨大な金色のシャンデリアが吊るされた。絹もシャンデリアもロートリンゲン家の時代から残ったものである。

金色の天蓋の下の玉座は、長い壁際にある。天蓋の上には、サヴォイア家の紋章である白い十字の赤い盾と、その上の冠がのっていて、天蓋の下には赤いビロード張りの小さな金色の肘掛け椅子が置かれている。美術館によれば、これはトスカーナ大公たちの椅子で、それにサヴォイア家の紋章が加えられたのだという。玉座と部屋を仕切る金色の手すりは、首都がローマに移った1871年より後に設けられた。この部屋は、王の居室をめぐるガイド付きの見学で見ることができる。

Throne Room, Royal Apartments, Palazzo Pitti
Throne Room, Royal Apartments, Palazzo PittiDimitris Kamaras from Athens, Greece, 2016 (Wikimedia Commons), CC BY 2.0

サヴォイア家の時代にも、宮殿は国有財産のままで、王家に使用が委ねられていた。1919年10月3日の勅令法によって、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はピッティ宮と宮殿前の広場、ボーボリ庭園を国に返還し、美術館ではこれを寄贈と呼んでいる。

玉座の間の深紅の絹と巨大なシャンデリアはロートリンゲン家から、椅子はトスカーナ大公たちから受け継がれたもので、その上にサヴォイア家が自分たちの紋章を掲げた。ナポレオンの浴室は彼の失脚の後になって完成し、パラティーナ美術館の壁を埋め尽くす展示も、その多くはロートリンゲン家が整えたものである。

ほかに見るなら

エゼキエルの幻視
エゼキエルの幻視ラファエロ, 1518, パラティーナ美術館

この20の話の外にも、宮殿には第一級の絵が数多く残っている。ラファエロの《エゼキエルの幻視》とトンマーゾ・インギラーミの肖像、ルーベンスの《四人の哲学者》、ボッティチェッリの女性の肖像、アルテミジア・ジェンティレスキの《マグダラのマリアの回心》、ユストゥス・ススターマンスの宮廷肖像画などである。同じ宮殿のなかには、近代美術館、衣装とモードの博物館、大公の宝物館もある。ピッティ宮そのものにもモードの歴史がある。1952年7月22日から1982年まで、宮殿の「白の間」では、フィレンツェの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジョルジーニが前年に自分の邸宅で始めた、イタリアのデザイナーたちのファッションショーが開かれていた。1962年7月には、若きヴァレンティノが白の間で、彼に成功をもたらしたコレクションを発表した。