ナポリを見下ろすカポディモンテの丘の宮殿は、絵のために建てられた。ナポリ王となったブルボン家のカルロはファルネーゼ家のコレクションを相続し、1735年からそれをパルマから南へ運ばせていて、1738年9月10日、建築家ジョヴァンニ・アントーニオ・メドラーノの設計で、丘の上で宮殿の基礎工事が始まった。最初の絵が広間に掛けられたのは1758年ごろで、早くも1759年にカルロはスペイン王となってナポリを去り、コレクションは息子のフェルディナンド4世のもとに残された。
1798年12月、フェルディナンドはフランス軍を逃れてパレルモへ移り、絵の一部は宮廷とともにそこへ運ばれた。1799年には、残った絵の一部をフランス軍が持ち去った。ナポレオンの時代が終わると、コレクションは丘から市中のパラッツォ・デッリ・ストゥーディへ移され、そこに王立ブルボン博物館(いまの考古学博物館)が開かれて、宮殿は王の住まいとなった。サヴォイア家の時代の1862〜1864年におよそ900点の絵が丘の上へ戻され、市中の博物館に残っていたほかの絵は、カポディモンテに国立美術館が開館した1957年に丘へ運ばれた。
この記事は、ティツィアーノが教皇パウルス3世ファルネーゼのために描きながら仕上げなかった一族の肖像から始まり、カラヴァッジョの絵で終わる。美術館はこの絵を1972年から預かっているが、持ち主は別の国の機関である。
ローマ:教皇の一族とその司書(1545〜1600年)

1. ティツィアーノ《教皇パウルス3世とその孫アレッサンドロ、オッターヴィオ・ファルネーゼ》(1545〜1546年)
ティツィアーノがローマで教皇パウルス3世を二人の孫とともに描いたとき、教皇は77歳だった。左で椅子の後ろに立つのは枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼで、祖父が教皇になった1534年に、14歳で枢機卿の帽子を受けている。パウルスのほうへ身をかがめているのは弟のオッターヴィオで、1538年から、皇帝カール5世の庶出の娘であるオーストリアのマルゲリータを妻としていた。1545年8月には、二人の父で教皇の息子のピエル・ルイジが、パルマ・ピアチェンツァ公となった。
ティツィアーノは1545年の秋、枢機卿アレッサンドロに招かれてローマに来た。彼はおそらく1489年ごろにピエーヴェ・ディ・カドーレで生まれ、ヴェネツィアでベッリーニの工房に学んだのちジョルジョーネの画風を取り入れ、1540年代にはヨーロッパでもっとも求められる肖像画家として、カール5世と教皇の両方のために描いていた。ローマに来たのはこれが最初で最後で、町と古代の遺跡はヴァザーリとヴェネツィアの画家セバスティアーノ・デル・ピオンボが案内し、1546年3月19日にはローマ市が彼に市民権を与えた。彼には用向きもあって、息子ポンポーニオのために教会の収入、つまり聖職禄を手に入れたいと考えていた。
パウルスは中央の背の高い椅子に座っている。小柄で背を丸め、長い白ひげをたくわえ、深紅のビロードの小さな帽子カマウロをかぶり、赤い肩掛けモッツェッタをはおっている。頭はオッターヴィオのほうへ向けられ、下から横目で彼を見上げている。アレッサンドロはまっすぐこちらを見て、右手を椅子の背のいちばん上のあたりに上げ、人さし指を上に伸ばしている。オッターヴィオは祖父のほうへ一歩踏み出し、今にもひざまずきそうに脚を曲げている。教皇の顔とひげ、そして肘掛けから垂れた指輪のある左手を、ティツィアーノは細かく丁寧に描きこんだ。赤いテーブルの縁にある教皇の右手は薄い茶色の筆致で示されているだけで、オッターヴィオの脚、教皇の白い衣、テーブルクロスも同じように幅広く手早く塗られている。
肖像がなぜ未完成に終わったのか、歴史家の説明は分かれている。ロベルト・ザッペーリは1990年の著書で、これを一族のなかでだれに権力が受け継がれるかを示す公式の肖像として読み、ティツィアーノが制作しているあいだにファルネーゼ家の政策が皇帝からフランスへと向きを変え、絵が不要になったと考えている。ほかの研究者は、この絵を聖職禄の件と結びつける。1546年3月、ポンポーニオはヴェネツィア近郊の聖職禄を得たが、セッラヴァッレ近くのより豊かな修道院はついに得られなかった。そこで、ティツィアーノは望みを果たしてローマを去ったのだと考える人もいれば、これ以上は得られないと悟って去ったのだと考える人もいる。
未完成の肖像は一族の手もとに残った。17世紀半ばまではローマのファルネーゼ宮にあり、1680年までにパルマのパラッツォ・デル・ジャルディーノへ運ばれ、その後ピロッタ宮の公爵の画廊に移された。1731年、ファルネーゼ家最後のパルマ公アントーニオが子のないまま亡くなり、姪で、スペイン王フェリペ5世の2番目の妃だったエリザベッタ・ファルネーゼが相続人となった。彼女の息子ブルボン家のカルロは同じ年にパルマを得て、1734年にナポリ王となり、1735年からファルネーゼ家の絵を南へ運ばせた。この肖像はのちに、フランス軍を逃れた宮廷とともにパレルモへ渡った。


2. マルチェッロ・ヴェヌスティ《最後の審判》(ミケランジェロの壁画の模写、1549年)
マントヴァの枢機卿エルコレ・ゴンザーガがローマに置いていた代理人ニーノ・セルニーニは、1542年8月5日、マントヴァ出身の若者がシスティーナ礼拝堂でミケランジェロの新作を模写しているところに行き合ったと枢機卿に書き送った。セルニーニによれば、ミケランジェロは、あの年ごろであれほどの若者は知らない、いずれ大物になるだろうと言ったという。セルニーニ自身は、若者がカロンの舟を描いた素描を枢機卿のために手に入れると約束している。このマントヴァの若者がマルチェッロ・ヴェヌスティで、セルニーニの手紙は彼をミケランジェロと結びつける最初の記録である。
ミケランジェロの《最後の審判》はシスティーナ礼拝堂の祭壇壁に描かれ、1541年10月31日に公開された。ヴェヌスティはほどなくミケランジェロの周辺に加わり、1540年代半ばからはその素描をもとに小さな絵を描くようになった。
パウルス3世の在位最後の年にあたる1549年、孫の枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼは、ヴェヌスティから壁全体の模写を受け取った。板に油分の多いテンペラで描いたものである。ヴェヌスティはフレスコ上部の半円形のリュネット二つを省いて画面を長方形にしたので、十字架を抱えた天使たちは左上の隅に、円柱を抱えた天使たちは右上の隅に収まった。その間に彼は、ミケランジェロの壁画にはいない人物を描き加えた。いちばん上では、ひるがえるマントの楕円のなかに父なる神が浮かび、その下の丸い黄色の光のなかに聖霊の鳩、さらにその下にキリストがいて、板の中心軸に沿って三位一体が縦に並んでいる。ミケランジェロの壁画では、キリストはひとりで裁いている。すべての人物の上に広がる空は、むらのない濃い青である。
1563年12月、トリエント公会議は聖像についての決議を採択し、1564年1月21日、ローマでは礼拝堂の壁のうち卑猥とされた箇所を覆い隠すことが決まった。ミケランジェロはそれから1か月足らずの2月18日に世を去った。1564〜1565年、画家ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラが裸の人物の上に布を描き加えた。聖カタリナと聖ブラシウスについては彼はすべてを作り直し、漆喰を削り落として二人を新たに描き、カタリナには緑の衣を着せ、ブラシウスの頭を上へ、キリストのほうへ向けた。
1540年代のジュリオ・ボナゾーネの版画やほかの初期の模写にも、覆われる前の人物が描かれている。しかし、壁画が描き直される前に注文主のために作られた色彩のある模写としては、ヴェヌスティの板絵がもっともよく知られている。壁画の洗浄を指揮した修復家ジャンルイジ・コラルッチによれば、カタリナとブラシウスの下にあったミケランジェロの漆喰はもう残っておらず、彼が二人をどう描いたかは模写を通してしか知ることができない。ヴェヌスティの板絵では、裸のカタリナが壊れた車輪の内側で前にかがみ、その後ろ、壁画ではブラシウスが立っている場所で、赤い衣の人物が身をかがめて下を見ている。
3. マンノ・ディ・バスティアーノ・スバッリとジョヴァンニ・ベルナルディ《ファルネーゼの小箱》(1540年代〜1561年ごろ)
枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの小箱は、小さな建物の形をしている。曲線を描く脚にのった金めっきの銀の長方形の箱で、蓋の代わりにコーニスと断ち切られたペディメントを備え、金めっきの枠のあいだの側面は青いラピスラズリで埋められている。上の、ペディメントの切れ目には、筋骨たくましいひげのヘラクレスが果実を手に座っている。長い側面には水晶の楕円が二つはめこまれていて、透明な石に彫られた騎兵の戦いや倒れる人体は、くもった灰白色の線描のように見える。楕円の上のカルトゥーシュにはラテン語の銘句が記され、左の楕円の下縁には「…ANNES·DE·BERNARDI」という署名が読める。二つの楕円の間にはヘルメス柱に七宝の紋章が掛かっていて、金地に青いファルネーゼの百合が六つ並ぶ。紋章の上には房のついた赤い枢機卿帽があり、それで枢機卿アレッサンドロ本人の紋章だとわかる。
宝石彫刻家ジョヴァンニ・ベルナルディは1535年より後に枢機卿に仕えるようになり、1543年と1544年の手紙ではすでに水晶の板のことを枢機卿に報告している。フィレンツェの金工マンノ・ディ・バスティアーノ・スバッリによる銀細工が初めて記録に現れるのは1548年で、小箱が仕上がったのは1561年ごろ、ベルナルディが世を去って数年たってからだった。ヴァザーリによれば、水晶の場面はペリーノ・デル・ヴァーガらの素描をもとに彫られたもので、ヴァザーリはまた、これほど完璧に作られた作品はほかにないと断言している。
小箱が何のために作られたのか、歴史家の意見は分かれている。内側にビロードの張り地はなく、宝石を収めていたわけではないらしい。美術館は、細密画家ジュリオ・クローヴィオが枢機卿のために装飾した時祷書がこの箱に収められていたのかもしれないと推測している。美術館の見解では、枢機卿は1565年、甥でのちのパルマ公アレッサンドロの花嫁となるポルトガルのマリアに、結婚祝いとしてこの小箱を贈った。制作が始まってからおよそ20年後のことである。
19世紀の王立ブルボン博物館では、この小箱は金工で彫刻家のベンヴェヌート・チェッリーニの作として展示されていた。スバッリはチェッリーニの弟子とされている。2018年の修復で小箱は初めてすべての部品に分解され、報道によれば、修復家たちは装飾の小さな穴から開ける隠し錠と、底の空洞に押しこまれた1564年の丸めた文書を見つけた。文書は初めは手紙と思われたが、隙間をふさぐためのただの詰め物だった。

4. エル・グレコ《ジュリオ・クローヴィオの肖像》(1571年ごろ)
1570年11月16日、細密画家ジュリオ・クローヴィオは枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼに手紙を書き、ティツィアーノの弟子だというカンディア出身の若者がローマに来たことを知らせた。クローヴィオの考えでは、この若者の絵の腕はまれに見るもので、彼が描いた自画像にはローマの画家たちがみな驚嘆したという。クローヴィオが願い出たのは、しばらくのあいだファルネーゼ宮の一室に若者を住まわせることだけで、生活費までは求めず、執事のルドヴィーコ伯に命じて上の階に部屋を見つけさせてほしいと枢機卿に頼んでいる。カンディア人、つまりクレタ島の出身だったこの若者が、のちにエル・グレコと呼ばれるドメニコス・テオトコプーロスである。
クローヴィオは1498年にクロアチアで生まれ、1540年ごろから枢機卿お抱えの細密画家としてファルネーゼ宮に住んでいた。ヴァザーリは彼を、小さな新しいミケランジェロと呼んでいる。エル・グレコは横長のカンヴァスに、老いた彼を半身像で描いた。クローヴィオの体は右を向き、頭は振り返ってこちらを向いていて、白い髪、灰色のひげ、赤らんだ鼻、重いまぶたをしている。片手の人さし指で小さく分厚い本を指し、もう一方の手でその本をこちらに向けて開いて持っていて、ページには幅の広い金の枠に囲まれた細密画が、すばやい筆致で描かれているのが見える。国の作品目録は、この本をクローヴィオが枢機卿のために装飾して1546年に仕上げた時祷書とみなしているが、その時祷書そのものはニューヨークのモーガン・ライブラリーにある。右上の隅の窓からは、光の帯が走る嵐の空と青い山々、風にたわむ細い木が見える。
これはおそらく、現存するエル・グレコの肖像画のなかでもっとも早いものである。クローヴィオが手紙に書いた自画像は失われているからだ。枢機卿アレッサンドロが注文主だったという記録はどこにもない。肖像の最初の持ち主として知られているのはファルネーゼ宮の司書フルヴィオ・オルシーニで、1600年、オルシーニは自分のコレクションを、この肖像も含めて枢機卿オドアルド・ファルネーゼに遺贈した。
1572年の夏、エル・グレコはファルネーゼ宮を追い出された。7月6日、彼は枢機卿に手紙を書き、執事のルドヴィーコ伯から、本人の言うところでは猊下の命令として、屋敷を出るよう言い渡されたこと、これほどの侮辱を受けるような落ち度は自分には思い当たらず、ぜひそれを知りたいことを訴えている。1620年ごろ、画家たちについての情報を集めていたジュリオ・マンチーニは、エル・グレコがミケランジェロの《最後の審判》を壁から削り落とし、品位あるものに描き直そうと申し出たと書き留めた。この話を追放と結びつける研究者もいるが、マンチーニは日付もファルネーゼ家の名も挙げていない。1572年9月18日、エル・グレコは画家たちの団体であるローマの聖ルカ・アカデミーに、細密画家として登録した。

パルマ:処刑された陰謀者たちの絵(1612年)
5. ピーテル・ブリューゲル(父)《盲人の寓話》(1568年)
ジョヴァンニ・バッティスタ・マージは1612年5月19日、パルマで処刑された。彼はパルマ公ラヌッチョ1世ファルネーゼの暗殺を企てた貴族たちの一人で、1611年11月10日に逮捕され、1612年1月3日、拷問を恐れて自白した。公爵は処刑された者たちの領地や金とともにその絵も没収し、マージの財産のなかには、ピーテル・ブリューゲル(父)が1568年に描いた2点のカンヴァス、《盲人の寓話》と《人間嫌い》があった。
これらの絵を集めたのは父のコジモ・マージである。フィレンツェ出身の彼は、枢機卿の甥で、のちにパルマ公となるアレッサンドロ・ファルネーゼに仕えていた。コジモはその筆頭秘書で、1571年にはレパントの海戦で彼に随行し、1577年からはスペイン領ネーデルラントで多くの用務を取り仕切り、1591年にはパルマ領内で伯爵の称号を得た。アレッサンドロの死後、コジモは1594年9月までブリュッセルに引き留められ、1590年代半ばにネーデルラントの絵を携えてパルマに戻った。息子はそれらの絵とともに、父の借金も受け継いだ。
6人の盲人が、左上から右下へ斜めに一列になって進み、それぞれ前を行く者の肩か、みなでつかまる杖を握っている。左端の頭巾をかぶった男は、目を閉じたまま、まだ落ち着いて歩いている。つばの広い帽子の老人は頭をのけぞらせ、白く濁った目を空に向けている。5人目はもう前へ倒れかかり、口を開け、うつろな眼窩の顔をこちらに向けていて、先頭の案内役は右下の隅の溝にあおむけに倒れている。4人目の杖と倒れかかる5人目のあいだには、高く細い尖塔をもつ村の教会が見える。
ブリューゲルがこの寓話を描いたのは死の前年で、亜麻布に膠のテンペラで描いている。こうしたカンヴァスは手早く安く作られ、その大半は失われていて、ブリューゲルのカンヴァス画で残っているのはわずか数点である。ここでは絵具が薄くのっていて、4人目の盲人の明るい色のマントには、その下から布の織り目が透けて見える。左下の隅には小さく「BRVEGEL M.D.LXVIII」と書かれている。1943年の秋、ドイツ兵がスポレート近郊でナポリの絵の木箱を開けたとき(これについてはティツィアーノの《ダナエ》の項で述べる)、《盲人の寓話》は1番の箱に入っていた。

6. アンドレア・デル・サルト《教皇レオ10世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチ、ルイジ・デ・ロッシの肖像》(ラファエロの模写、1525年ごろ)
この話を伝えたのはヴァザーリで、ほかに証人はいない。ヴァザーリは少年時代、フィレンツェでオッタヴィアーノ・デ・メディチの庇護を受けて育ち、本人の言うところでは、アンドレア・デル・サルトが模写に取り組むところを自分の目で見たという。1520年代半ば、マントヴァの君主フェデリーコ2世・ゴンザーガは、教皇クレメンス7世のもとへ向かう途中でフィレンツェを通り、メディチ家の屋敷の扉の上にラファエロが描いたレオ10世の肖像を見て、教皇にそれを所望し、クレメンスは承知した。フィレンツェで一族の用務を取り仕切っていたオッタヴィアーノ・デ・メディチは、この肖像を手放したくなかった。彼は額縁が粗末なので金めっきの新しい額をあつらえると言い、そのあいだにフィレンツェの画家アンドレアが、オッタヴィアーノの屋敷でひそかに模写を描いて、汚れのしみに至るまですべてを写し取った。オッタヴィアーノ自身にも、模写と原画の見分けがつかなかった。模写は同じような額に入れられてマントヴァへ送られ、ラファエロの弟子で自分も原画の制作に加わったジュリオ・ロマーノは、これをほめた。

何年もたってから、ヴァザーリはジュリオに真相を明かした。ジュリオは信じず、自分で塗った筆跡がわからないはずがあるかと問い返した。そこでヴァザーリは絵を裏返させ、フィレンツェで付けられた印を裏面に示した。ヴァザーリによれば、ジュリオは、これをラファエロの手になるものと同じくらい、いやそれ以上に高く評価する、すぐれた画家が他人の手法をこれほど見事にまねるのは自然に反することだから、と答えたという。
レオ10世は赤いビロードの帽子をかぶり、白い毛皮で縁取られたケープを白いダマスク織の衣の上にはおって座っている。片手は細密画の入った開いた写本の上に置かれ、もう一方の手には金の枠の拡大鏡を持ち、本の前には赤い絹の房のついた金めっきの銀の鈴が置かれている。左に立つのは枢機卿ジュリオ・デ・メディチ、のちの教皇クレメンス7世で、ゴンザーガに肖像を譲ったその人であり、椅子の後ろ右には枢機卿ルイジ・デ・ロッシがいる。椅子の背の先には金めっきの球がついていて、その球に窓が映っている。
模写がマントヴァからコロルノのバルバラ・サンセヴェリーノのコレクションにどう渡ったのか、歴史家たちはまだ突き止めていない。サンセヴェリーノはラヌッチョ1世に対する同じ陰謀の件で1612年2月12日に逮捕され、5月19日、マージと同じ日に、有罪とされた者のなかで最初に処刑された。彼女のコレクションは、模写とともに公爵のものとなった。板の裏には筆で「p. leon. X / ma[no] di rafaelo d'urbino」、つまり「教皇レオ10世、ウルビーノのラファエロの手」と書かれている。1841年、ニッコリーニは王立ブルボン博物館の解説のなかで、ナポリの絵こそラファエロの原画だと主張し、フィレンツェの絵をデル・サルトの模写とみなした。
ナポリ:南への移送、国王、革命(1734〜1803年)
7. ロレンツォ・ロット《司教ベルナルド・デ・ロッシの肖像》(1505年)
ヴェネツィアの若い画家ロレンツォ・ロットは、1505年にトレヴィーゾの司教ベルナルド・デ・ロッシを描き、寓意を描いた別の板を、肖像の蓋として作った。蓋の中央には木が立ち、そこに司教の紋章が掛かっている。その片側ではプットが書物や道具をいじっていて、険しい岩の小道が頂上へ続いている。もう片側では酔ったサテュロスが酒の器のあいだに寝そべり、遠くでは海が荒れて船が沈みかけている。この蓋が額の溝から引き出す仕組みだったのか、蝶番で肖像に取り付けられていたのかについて、研究者の意見は分かれている。

蓋の下には半身の肖像があった。司教は左を向いているが、明るい灰青色の目でまっすぐこちらを見ている。顔は血色がよくふっくらとしていて、あごは重く、暗い色の帽子の下から耳のあたりに赤みがかった巻き毛がのぞいている。小さな丸いボタンの並ぶサーモンレッドのケープを着て、右手で小さく巻いた紙を胸に押し当て、その指には彫りのある重い金の指輪がはまっている。背景は一面、暗い緑のカーテンである。
ロッシは1468年に生まれ、1499年にトレヴィーゾの司教となったが、1509年にヴェネツィアへ遠ざけられ、1511年からはローマの教皇庁に仕えた。1527年のローマ劫掠ののちパルマへ移り、同じ年の6月24日にそこで亡くなった。肖像がどのようにしてファルネーゼ家のものになったのかを示す文書は、見つかっていない。
1734〜1739年にファルネーゼ家の絵がパルマからナポリへ運ばれたとき、肖像は運ばれたが、蓋はパルマに残された。1791年までに蓋はパルマのアントーニオ・ベルティオーリの個人コレクションに入っていて、1803年にもそこに記録されているが、いつ肖像から切り離されたのかを記した目録はない。1880年ごろには蓋はベルガモにあり、1935年にニューヨークのクレス財団が買い取って、1939年にワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートに収められた。
ナポリでこの肖像は作者の名を失い、美術史家カヴァルカゼッレはジョヴァンニ・ベッリーニの作と考えていた。1886年にこの肖像を素描したジョゼフ・リンドン・スミスは、自分の素描に、ナポリの美術館にあるハンス・ホルバインの作と書き入れた。この素描はハーヴァード美術館に収められている。
8. ジョヴァンニ・パオロ・パンニーニ《サン・ピエトロ大聖堂を訪れるブルボンのカルロ》(1745年)
1744年8月11日、ナポリ王ブルボン家のカルロの軍は、ローマの南、教皇領のヴェッレトリでオーストリア軍を退け、この勝利によってカルロはナポリの王位を守った。同じ年の11月3日、ファルネーゼ家の遺産を南へ運び、丘の上に宮殿を建て始めたあのカルロがローマを訪れ、サン・ピエトロ大聖堂前の広場に乗り入れて、教皇ベネディクトゥス14世を訪問した。1745年、彼はローマの画家ジョヴァンニ・パオロ・パンニーニに、この日を描いた2点の絵を注文した。
パンニーニはカルロを大聖堂前の広場に描いた。左では、カンヴァスの端で切れた大聖堂のファサードが急角度でそびえ、そのフリーズには「PAVLVS V BVRGHESIVS」という銘の一部が読みとれ、バルコニーや窓は小さな見物人で埋まっている。中央では列柱のまっすぐな翼の上に、時計の小塔をもつ煉瓦造りの使徒宮殿がそびえ、右にはオベリスクと噴水の水しぶきが見える。広場を右から左へ、赤い軍服に三角帽の騎兵たちが進み、中央からやや左では赤い服の騎手が淡い灰色の馬にまたがり、青い服の男が帽子を取ってその馬のほうへ手を伸ばしている。手前の群衆は影のなかに置かれ、広場と騎兵たちとファサードには日が当たっている。
パンニーニはこの絵に1745年と記していて、目録ではしばしば《サン・ピエトロのカルロ3世》と呼ばれている。しかし彼がカルロ3世となったのは、スペインの王位を継いだ1759年のことである。1943年、この絵はスポレートで、ティツィアーノの《ダナエ》とともに3番の箱から取り出された。この絵に教皇の姿はなく、クイリナーレ宮殿の庭園のコーヒー・パヴィリオンでのベネディクトゥス14世との会見は、パンニーニが1746年の年記のある対の絵に描いている。
9. アンニーバレ・カラッチ《ヘラクレスの選択》(1596年)
1662年、ファルネーゼ家がローマの絵をパルマへ移したとき、アンニーバレ・カラッチのカンヴァスはファルネーゼ宮の小さな書斎の天井から外され、代わりに模写が掛けられた。アンニーバレがこれを描いたのは1596年で、枢機卿オドアルド・ファルネーゼのために、穹窿の中央にはめこむものだった。周りの壁と穹窿はヘラクレス、オデュッセウス、ペルセウスを描いたフレスコで飾られた。美術館によれば、主題を提案したのはフルヴィオ・オルシーニ、オドアルドにクローヴィオの肖像を遺贈したあの司書である。1595年にローマへ移ってこの宮殿に住んだボローニャ出身のアンニーバレにとって、これはファルネーゼ宮のギャラリーの装飾に先立つ、ローマでの最初の注文だった。
主題は、古代ギリシアの哲学者プロディコスの話をクセノフォンが伝えたもので、若いヘラクレスが美徳と快楽のどちらかを選ぶ。若く裸のヘラクレスはヤシの木の下の岩に座り、棍棒を持って、二人の女を素通りしてまっすぐこちらを見ている。左には淡い青の衣に赤橙色のマントの美徳が短い剣を持って立ち、上げた手で上を、小道の通るむき出しの斜面を指していて、その頂には白い馬が立っている。右の快楽は透ける白とピンクの布をまとい、背をこちらに向けて肩越しにヘラクレスを振り返っている。右下の隅のテーブルにはにやりと笑う仮面と開いた本が置かれ、その下にはタンバリン、ヴァイオリン、トランプが散らばり、左下の隅では月桂冠をかぶりペンを手にした男が、顔を上げて主人公たちを見ている。
このカンヴァスはファルネーゼ家の遺産とともにパルマからナポリへ来た。1799年にはフランス軍に持ち去られ、美術館によれば、ドメニコ・ヴェヌーティがローマでこれを探し出して、1801年までに絵はナポリに戻った。1801〜1802年ごろ、ナポリの王立磁器工房では、ピエトロ・アクイラの1674年の版画を手本に、大きな卓上飾りの盆、プラトーに《ヘラクレスの選択》の構図全体が描かれた。2021年、カポディモンテ友の会が寄付を募ってこのプラトーを買い取り、美術館に寄贈した。
ファルネーゼの遺産のほかに作品が加わる(1808〜1827年)
10. コラントーニオ《書斎の聖ヒエロニムス》(1444〜1446年ごろ)
コラントーニオの板絵は1808年、フランスがナポリを治め、王国の修道会が廃止されたときに、フランシスコ会のサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂の聖具室からパラッツォ・デッリ・ストゥーディの博物館へ移された。聖具室に入ったのは1639年ごろで、この板絵を下段とする大きな祭壇画が解体されたときだった。その上には、聖フランチェスコが自分の修道会に会則を授ける場面の板絵があり、両脇にはフランシスコ会の福者を描いた小さな板絵が10枚並んでいた。
コラントーニオについて知られていることのほとんどは、ピエトロ・スンモンテが1524年にヴェネツィアのマルカントニオ・ミキエルに宛てた手紙による。スンモンテによれば、コラントーニオはフランドルへ修業に行きたいと望んでいたが、当時ナポリにいて自らも絵を描いたルネ・ダンジューが彼を引き留め、フランドルの描き方を教えた。スンモンテはまた、彼をアントネロ・ダ・メッシーナの師と呼んでいる。美術館によれば、祭壇画を注文したのはおそらくアラゴン王アルフォンソである。アルフォンソはヤン・ファン・エイクの三連祭壇画を持っていた。いまは失われたこの作品について、宮廷の人文主義者バルトロメオ・ファーツィオは1456年、図書室のヒエロニムスがまるで生きているようだと書いていて、多くの研究者は、コラントーニオがこのヒエロニムスを手本にしたと推測している。19世紀半ばのナポリの博物館では、この《聖ヒエロニムス》自体がファン・エイクかその周辺の作とされていた。
祭壇画の上段の板絵が同じ博物館に移されたのは、ようやく1922年のことである(これについてはシモーネ・マルティーニの項で述べる)。1943年、《聖ヒエロニムス》はスポレートで、ラファエロの《神の愛の聖母》とともに10番の箱に入っていて、1957年に祭壇画の上下二枚はそろってカポディモンテへ運ばれた。福者を描いた10枚の小さな板絵のうち、研究者たちはイタリアとアメリカの個人コレクションで8枚を見つけ出し、2024年12月、国はそのうち福者モリーコと福者レオーネを描いた2枚をカポディモンテのために買い取った。
伝説によれば、ヒエロニムスはライオンの足からとげを抜いてやった。ここでは茶色の修道服を着た白髪の聖人が、頭をかしげて椅子に座っている。彼とほとんど変わらない背丈のライオンが彼の膝に前足をのせ、ヒエロニムスは左手でその足を肉球を上にして支え、右手で細くとがった道具を近づけている。枢機卿の帽子は櫃の蓋の上に置かれていて、板の上で鮮やかな赤はそこだけである。周りの棚には、平らに寝かせた本、傾いた本、革紐で縛った本が並び、砂時計やガラス瓶、はさみもあって、戸棚の側面には紙片が赤い封蠟の四つの点で貼りつけてある。右下の隅、椅子の脚のそばの暗いアーチのなかには、小さな灰色のネズミがパンの皮をくわえて座っている。

11. アンドレア・マンテーニャ《聖エウフェミア》(1454年)
画面の左下では、ライオンが殉教者エウフェミアの右腕の、金の腕輪のすぐ上に噛みついていて、赤く縁取られたその目が見える。エウフェミア自身は石の壁龕のなかに全身で立ち、落ち着いてこちらを見ている。上げた左手には白い百合、下ろした右手にはシュロの枝を持ち、胸の高さで脇腹に短い剣が刺さっている。頭上のアーチには淡い文字で彼女の名が記され、アーチからはザクロ、リンゴ、ブドウ、洋ナシの花綱が垂れ、足もとの段には「OPVS ANDREAE MANTEGNAE」という札が白く浮かび、MCCCCLIIII、つまり1454年の年記がある。
マンテーニャは23歳ほどだった。彼はパドヴァでフランチェスコ・スクァルチョーネに学んでその養子となったが、1448年ごろ報酬をめぐる訴訟の末に彼と縁を切り、この時期にはパドヴァのエレミターニ聖堂のオヴェターリ礼拝堂に壁画を描いていた。果物の花綱は、マンテーニャがスクァルチョーネの工房で身につけたものである。絵はひどく暗くなり、衣の模様はほとんど消えて、絵具を透かしていたるところに細かいカンヴァスの織り目が見えている。
この絵についての最初の確かな記録は、ヴェッレトリに一族の博物館を構えていた枢機卿ステファノ・ボルジアのコレクションにさかのぼる。1814年、ナポレオンが立てたナポリ王ジョアシャン・ミュラがこのコレクションの購入を決め、ミュラの失脚後、王位に戻ったフェルディナンドがその購入を承認して、1817年、枢機卿の相続人たちは王立ブルボン博物館のためにコレクションのほぼすべてを彼に売った。ボルジアの古代遺物はいまナポリの考古学博物館にあり、絵画はカポディモンテにある。
この絵がどのようにして枢機卿の手に渡ったのかは文書に記されていないが、1980年代には、その前史となりうる話が見つかった。ヴァティカンの文書館で、助祭長パスクアーレ・ヴェッローネが1592年に聖エウフェミアについて書いたラテン語の詩が見つかったのである。そこには、1454年、モンテペローゾ、いまのバジリカータ州イルシーナ出身の高位聖職者ロベルト・デ・マビリアが、故郷の大聖堂のためにヴェネツィアから海路で絵を運び、そのなかにマンテーニャの作品が2点あったと書かれている。何人かの研究者はナポリの《エウフェミア》をそのうちの1点とみなしているが、それを裏づける目録はない。イルシーナの大聖堂には、絵とポーズの近い等身大の彩色石像の聖エウフェミアがあり、1996年、クララ・ジェラオはこれをマンテーニャ自身の彫刻として発表した。ほかの研究者は、ピエトロ・ロンバルドが絵をもとに作ったものと考えている。
12. アルテミジア・ジェンティレスキ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》(1612〜1613年ごろ)
この絵は1827年、ナポリのサヴェリア・デ・シモーネのコレクションからブルボン家の王室コレクションのために買われ、購入のときにはカラヴァッジョの作とされていた。その名のもとで王立ブルボン博物館に掛けられていたが、1916年、美術史家ロベルト・ロンギがこれをアルテミジア・ジェンティレスキの作に戻した。ただしロンギは、これをフィレンツェの《ユディト》の繰り返しと考えた。フィレンツェの絵はより大きく署名もあり、アルテミジアが1620年ごろに大公コジモ2世・デ・メディチのために描いたものである。のちにメアリー・ギャラードはX線写真をもとに、ナポリの絵にはユディトの腕の位置や衣のひだに多くの描き直しがあり、フィレンツェの絵にはそれがないことを示して、ナポリの絵のほうが先に描かれたとみなした。
3人の人物が暗い背景のうえで画面いっぱいを占めている。若く丸顔の侍女は暗赤色の衣を着て、上からのしかかってホロフェルネスを寝台に押さえつけ、彼は侍女のあごの下に拳を突き上げて抗っている。金の縁飾りのついた濃紺の衣のユディトは腕をむき出しにし、片手で彼の髪をつかんで頭を敷布団に押しつけ、画面を横切って伸ばしたもう一方の手で剣の柄を垂直に握っていて、刃は彼の首に食いこんでいる。3人の腕は画面の中央で交わる。ユディトの顔は落ち着いて集中していて、血は白いシーツを長い筋になって流れ落ちている。
アルテミジアは1593年にローマで生まれ、カラヴァッジョに倣った父オラツィオ・ジェンティレスキのもとで学んだ。美術館の年代づけに従えば、彼女がこの絵を描いたのは20歳ごろということになる。1630年ごろ彼女はナポリに移り住み、生涯の終わりまでそこで制作を続けた。
新しい国家が寄贈品、部屋、教会の板絵を集める(1862〜1921年)
13. ベルナールト・ファン・オルレーまたはその工房(下絵)、ウィレムとヤン・デルモイエン(製織)《パヴィアの戦い》連作タペストリー(1528〜1531年ごろ)
1525年2月24日、パヴィアでカール5世の皇帝軍がフランス軍を破り、国王フランソワ1世を捕虜にした。1531年3月、ネーデルラントの全国議会は、ブリュッセルのクーデンベルク宮殿でカールに、この戦いを描いた7枚のタペストリーを贈った。ベルナールト・ファン・オルレーの下絵にもとづいて、あるいは彼の指導のもとで、ブリュッセルのウィレムとヤン・デルモイエンの工房で織られたものである。
カールはタペストリーをスペインへ持っていかず、それはネーデルラント総督だった妹のハンガリーのマリアのもとに残った。1549年、バンシュにある彼女の宮殿で、訪れた王子フェリペ、のちのフェリペ2世のために、タペストリーがその居室と控えの間に掛けられた。7枚は一部屋には収まりきらなかったからである。1556年2月、クーデンベルクでフランスとの休戦が結ばれたときには大広間に掛けられ、フランスの使節コリニー提督は、自分の王の父が捕らえられた場面を見せられていると不満を漏らした。同じ年、マリアはタペストリーをスペインへ運び、彼女の遺言によって、それはフェリペ2世の息子ドン・カルロスのものとなった。
1568年の春、父によってすでに幽閉されていたドン・カルロスは、7枚のタペストリーをフランチェスコ・フェルディナンド・ダヴァロス侯に譲り、引き換えにカメオをはめた金のボタン66個、オクタウィアヌスとリウィアの頭部をあしらった七宝の金の指輪、金のメダルを受け取った。ダヴァロス家は、パヴィアで皇帝軍を指揮したペスカーラ侯の相続人だった。1701年ごろ、チェーザレ・ミケーレ・アンジェロ・ダヴァロスは陰謀に失敗してナポリから逃れ、ヴェネツィアでタペストリーを質に入れた。スペイン王フェリペ5世、のちのエリザベッタ・ファルネーゼの夫はこれを買い戻そうとしたが、大使は、祖先の屈辱を目にするのは王にとって不快だろうと案じ、購入は実現しなかった。のちにタペストリーはダヴァロス家に戻り、1862年、一族の最後のひとりアルフォンソ・ダヴァロスが全コレクションとともにナポリの国立博物館に遺贈して、1957年にはカポディモンテへ移された。
国王の捕縛を描いた1枚では、中央のやや左で、金の百合を散らした濃紺の馬衣の馬が地面に倒れていて、そのそばで甲冑の男たちが、羽根飾りのついた兜の騎手を支えている。指揮官たちの名は、馬具や鞘に金糸で織りこまれている。1549年にバンシュでタペストリーを見たビセンテ・アルバレスは、スペイン人を除くすべての隊長に名が記されている、スペイン人たちはきっとその日眠っていたのだろうと書き留めた。

14. ジョヴァンニ・バッティスタ・ナターリとジュゼッペ・グリッチ《マリア・アマーリア王妃の磁器の間》(1757〜1759年)
ブルボン家のカルロの妃、ザクセンのマリア・アマーリアは、ザクセン選帝侯アウグスト強王の孫娘だった。アウグストのマイセンの工房は、ヨーロッパで初めて硬質磁器を作った。1743年、カルロとマリア・アマーリアはカポディモンテの丘の宮殿の庭園に自分たちの磁器工房を開き、そこでは独自の配合で軟質磁器が作られた。1757〜1759年、この工房の職人たちは、ヴェスヴィオ山のふもとのポルティチの離宮に、王妃のための部屋をまるごと一つ、およそ3000個の磁器の部品で組み上げた。図案を描いたのは画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ナターリ、浮き彫りを造形したのは工房の主任原型師ジュゼッペ・グリッチである。
磁器の間が完成したのは1759年、カルロがスペインの王位を継いで妃とともにマドリードへ発つ数か月前だった。カルロとともに、グリッチを含む工房の職人52人が、型や機械や材料を携えてスペインへ移り、マドリードの工房はブエン・レティーロの名で操業を再開した。そこでグリッチは、アランフエスの宮殿のために2番目の磁器の間を作った。
磁器の間の壁は白い釉をかけた磁器ですっかり覆われ、その上を金めっきの細い桟とピンクがかった藤色のロカイユの枠が細い格子となって走り、さらにその上に花や果物、葉、リボンが浮き彫りにされて彩色されている。リボンからは楽器の束が下がっている。枠のなかには黄色や青の長い衣を着た中国人たちがいて、白い扇を持つ女性が、ヤシの木の下で暗い色のつば広帽をかぶった男性と並んでいる。格子には小さな黒っぽい猿たちがとまっていて、この中国はすべてヨーロッパで考え出されたものである。磁器の枠に花綱をあしらった鏡は曇り、しみが浮いている。天井からは、白い磁器の幹の先に鮮やかな緑のヤシの葉を広げたシャンデリアが下がっている。1943年、爆弾の爆発でこのシャンデリアは砕け、破片は二つの箱に集められて、修復家たちが2年かけて組み立て直した。

1866年、すでにサヴォイア家の時代となっていたナポリで王室の財産を管理していたアンニーバレ・サッコは、ブルボン家の離宮の宝物をカポディモンテに集めることにした。磁器の間はポルティチで一片ずつ解体され、100年あまり前にその磁器が作られた丘の上で組み立て直された。マッティア・ガスパリーニによる漆喰の天井は、磁器に見えるよう彩色と金めっきが施されていたが、このときは取り外せずに1957年までポルティチに残り、その年に18の部分に切り分けられてカポディモンテへ運ばれ、壁とつなぎ合わされた。
15. マザッチョ《磔刑》(1426年)
1901年、ナポリの国立博物館は長い交渉の末、金地に磔刑を描いた小さな板絵を、15世紀の無名のフィレンツェ画家の作として800リラで買い取った。のちにこれはマザッチョの作と認められ、1906年、美術史家ヴィルヘルム・スイダは、マザッチョが1426年にピサのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のために描いた祭壇画の最上部であることを突き止めた。
この祭壇画については支払いの記録が残っているため、マザッチョのほかのどの作品よりも多くのことがわかっている。注文したのはピサの公証人ジュリアーノ・ディ・コリーノ・デッリ・スカルシで、自分の礼拝堂のためだった。契約は1426年2月19日に結ばれ、祭壇画全体の代金は80フィオリーノと定められて、金と群青の費用もそこから払うことになっていた。最後の支払いは同じ年の12月26日に行われている。マザッチョは当時24歳で、ローマで26歳ほどで亡くなった。ヴァザーリは祭壇画を完全な姿で見て1568年に記述しているが、その後まもなく、おそらく聖堂が改築された1574年より前に、祭壇画は解体された。中央の《聖母子》はいまロンドンのナショナル・ギャラリーにあり、聖パウロと聖アンデレはピサとロサンゼルスに、プレデッラはベルリンにある。X線写真では、ナポリの板の木目がロンドンの板の木目へとつながっている。
この板は高さ5メートルほどの祭壇画のいちばん上に置かれていて、マザッチョはキリストを下から見上げたときの姿で描いた。頭は持ち上がった両肩のあいだに沈み、首はほとんど見えず、膝が前に突き出て、脚は短く見える。十字架の足もとには、燃えるような橙色のマントのマグダラのマリアがこちらに背を向けてひざまずき、両腕を大きく広げていて、長い金髪が背中に垂れている。彼女の光輪は細くなめらかで、キリスト、聖母、ヨハネの光輪にある打ち出しの文様がない。ロベルト・ロンギは、金地の文様は描き始める前に打ち出されたものなので、マグダラのマリアは少しあとから描き加えられたと考えていた。
マザッチョの描いた十字架の上には小さな丸い木が生えていて、生命の木と解釈されている。17世紀にはこれがINRIと書かれたありふれた札で覆われ、札が外されたのは、カポディモンテの美術館開館に向けて修復家レオネット・ティントーリが板を整えた1956〜1957年のことである。


16. シモーネ・マルティーニ《アンジューのロベールに戴冠するトゥールーズの聖ルイ》(1317年ごろ)
ナポリ王シャルル2世・ダンジューの次男ルイは王位継承権を放棄し、1296年12月にひそかにフランシスコ会の誓願を立て、その6日後にトゥールーズの司教に任じられ、1297年8月に23歳で亡くなった。1317年4月7日、教皇ヨハネス22世は彼を聖人に列した。それを働きかけたのは、1309年からナポリ王だった弟のロベールで、ロベールはシエナの画家シモーネ・マルティーニに、新しい聖人が自分に王冠を手渡す絵を注文した。
ロベールの王位には異論があった。長子相続の原則に従えば、王冠は兄シャルル・マルテルの息子でハンガリー王のカーロイ・ローベルトのものになるはずで、1309年、ロベールは急いでアヴィニョンへ赴き、教皇クレメンス5世から戴冠を受けた。美術史家ジュリアン・ガードナーは、板絵ではこの経緯が大きく縮められていて、聖人となった兄みずからがロベールの頭上に王冠を差し出していると書いている。
ルイは正面を向いて背筋を伸ばして座り、二人の小さな天使が彼の司教冠の上に冠を掲げている。ルイ自身は左手で小さな金の王冠を、ひざまずくロベールの上に差し出している。ロベールは横顔を見せて手を合わせていて、兄の隣でひどく小さく見える。幅広い金の縁取りのある司教の祭服の下には茶色のフランシスコ会の修道服がのぞき、その中央に結び目のある白い縄の帯が垂れている。額縁には青緑の地に金の百合が散らされ、下には聖人の生涯の五つの場面があり、その上に画家の名が記されている。ガードナーはまた、祭服はかつてガラスの石ときらめく銀箔で覆われていたが、石はほとんど落ち、箔は酸化して赤茶色になったとも書いている。
この絵が最初にどこに置かれていたかについては議論がある。ガードナーはサンタ・キアーラ聖堂の聖ルイ礼拝堂だったと考えていて、大聖堂付属の礼拝堂だったという説もある。16世紀末にはこの板絵はフランシスコ会のサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂にあったことが記録されていて、1921年にそこから国立博物館に移り、1957年にカポディモンテへ移った。この板絵が博物館に入った翌年には、同じ聖堂から、聖フランチェスコを描いたコラントーニオの板絵が博物館に移された。祭壇画の上半分にあたるもので、下半分の《聖ヒエロニムス》は1808年に博物館に入っていた。
モンテカッシーノからオーストリアの岩塩坑へ(1943〜1947年)
17. ティツィアーノ《ダナエ》(1544〜1546年)
1943年の秋、スポレート近郊でドイツの「ヘルマン・ゲーリング」師団の兵士たちが開けた3番の箱には、ナポリの絵が3点入っていた。バッティステッロ・カラッチョロの《エジプトへの逃避》、パンニーニの《サン・ピエトロ大聖堂を訪れるブルボンのカルロ》、そしてティツィアーノの《ダナエ》である。1940年からナポリの絵はカーヴァ・デ・ティッレーニとメルコリアーノに保管されていて、1943年9月6〜7日に箱はモンテカッシーノ修道院へ移され、10月、師団はそれをトラックで北へ、スポレート近郊のヴィラ・マリニョーリへ運んだ。師団はのちに箱の大半をローマでイタリア当局に引き渡し、1944年1月4日にはヴェネツィア広場で引き渡しの式典が催されたが、それに先立って最良の絵は抜き出され、ドイツへ送られていた。
ティツィアーノは《ダナエ》を枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼのために描いた。1544年9月20日、ヴェネツィア駐在の教皇大使ジョヴァンニ・デッラ・カーザは枢機卿に、ティツィアーノが彼のための裸婦をほとんど描き上げたと知らせ、枢機卿がペーザロのウルビーノ公の居室で見た裸婦も、これと並べれば厳格なテアティノ会の修道女に見えるだろうと書いた。ペーザロのその裸婦は、いまは《ウルビーノのヴィーナス》として知られている。デッラ・カーザは冗談めかして、ティツィアーノが新しい絵に枢機卿の恋人だった高級娼婦アンジェラの顔を与えてはどうかとも持ちかけている。X線写真では、《ダナエ》の下に《ウルビーノのヴィーナス》に似た最初の構図、つまり侍女たちと小犬のいる室内が見えていて、ティツィアーノはのちにこれを神話の場面に描き改めた。彼がこの絵を仕上げたのは1545〜1546年、ローマのベルヴェデーレでのことで、教皇と孫たちの肖像を描いていたのと同じ時期だった。ヴァザーリは、自分がミケランジェロと連れ立って《ダナエ》を見に行ったときのことを書いている。ミケランジェロは色彩をほめたが、外に出てから、ヴェネツィアでは初めからしっかりした素描を教えないのは残念なことだと言ったという。
ダナエは白いシーツの上に斜めに横たわり、右肘をついて、かすかに笑みを浮かべながら暗い雲を見上げている。雲からは小さな金貨がこぼれ落ちているが、離れると金貨はほとんど見えない。手首には暗赤色の石をはめた金の腕輪、耳には真珠の耳飾りがある。右には暗い色の翼をもつ裸のアモルが立ち、彼女から顔をそむけて雲を見上げ、弓を下ろして持っている。フェリペ2世やほかの注文主のために描かれたティツィアーノの後年の《ダナエ》では、アモルの代わりに年老いた侍女が描かれ、前掛けで金貨を受け止めている。
《ダナエ》はファルネーゼ家の遺産とともにパルマからナポリへ来て、フランス軍を逃れた宮廷によってパレルモへ運ばれ、ナポリに戻ってからは、卑猥な絵として王立ブルボン博物館の鍵のかかった部屋に閉じこめられた。
歴史家エレーナ・ピラッツォーリによれば、《ダナエ》は1944年1月12日のゲーリングの51歳の誕生日を祝う師団の将校たちからの贈り物として、1943年12月、ベルリン郊外にある彼の別荘カリンハルへ運ばれた。ゲーリングがこれを寝室の天井に据えたというロドルフォ・シヴィエロの話はよく繰り返されるが、寝室の写真を見ると、ベッドの上に掛かっていたのはドイツの画家ヴェルナー・パイナーの《エウロペと雄牛》で、この話は成り立たない。1945年、赤軍が迫ると、ゲーリングの絵はオーストリアのアルトアウスゼーの岩塩坑へ送られ、そこで連合軍に発見されて、1947年8月7日、ミュンヘンでナポリの絵がイタリア側に引き渡された。イタリアの美術品返還の任にあたったシヴィエロは、《ダナエ》がかびに覆われていたと回想している。1947年11月、この絵はローマのヴィラ・ファルネジーナで、返還されたほかの絵とともに公開された。ピラッツォーリは、この別荘を1579年に買い取ったのが、《ダナエ》を描かせたあの枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼだったことを書き添えている。


18. パルミジャニーノ《若い女性の肖像》(《アンテア》、1535年ごろ)
「アンテア」という名を初めて書き記したのは、1671年に絵画愛好家のための案内書を著したジャコモ・バッリで、彼はパルマのパラッツォ・デル・ジャルディーノにある、アンテアという名の恋人を描いたパルミジャニーノの肖像について記している。1680年のファルネーゼ家の目録では、アンテアと呼ばれる女性とされ、1784年には画家の伝記作者イレネオ・アッフォが、これをローマの名高い高級娼婦アンテアだと考えた。研究者たちは高級娼婦説を退けたが、名前はそのまま絵に残った。
若い女性はまっすぐ立ってこちらを向き、人物は膝の下で切れていて、背景はむらのないオリーヴグリーンである。顔は小さく青白く、黒い目はまっすぐ前を見ていて、髪は三つ編みにして頭に巻きつけられ、額の上の分け目には、赤い石をはめた金のブローチから真珠が下がっている。衣は金色がかった黄色のサテンで、袖は巨大にふくらみ、首から腰まで長い金の鎖が下がっていて、むき出しの左手がその上に平らに置かれている。右肩にはテンの毛皮が掛けられ、その下の肩と腕は不釣り合いなほど大きく見える。下のほうではテンの頭が、丸い耳と光る黒い目、小さな白い歯を見せて、茶色の手袋をはめた彼女の手をくわえていて、その鼻先から手袋の上に細い金の鎖が垂れている。同じ手に、彼女はもう片方の、空の手袋を持っている。
戦後のナポリの絵の返還について書いたブリジット・ダプラによれば、1943年、《アンテア》はスポレートで29番の箱から取り出された。この箱にはこの絵だけが入っていた。絵はほかの絵とともに北へ運ばれ、戦後アルトアウスゼーで見つかり、1947年8月7日にミュンヘンでイタリア側に引き渡されて、11月にはローマのヴィラ・ファルネジーナで公開された。
パルミジャニーノのモデルがだれだったのか、研究者たちはいまも議論している。花嫁、侍女、パルマの貴婦人たちだとする説があり、2008年にクリスティーナ・ニールソンは、毛皮、鎖、ブローチ、指輪、耳飾りは恋人たちのあいだでよく交わされた贈り物だったとして、これは理想の美女だと論じた。2023年、メアリー・ヴァッカロは、パルマでアンテアという名で洗礼を受けた女の子たちがいたことに注目し、パルマの洗礼記録のなかに1516年生まれのアンテア・スメラルディを見つけた。

19. セバスティアーノ・デル・ピオンボ《ヴェールの聖母》(1533〜1535年ごろ)
セバスティアーノ・デル・ピオンボは、石の上に油彩で描くようになった。ヴァザーリの説明では、こうした絵は永遠に残るように思われ、火も木食い虫も恐れずにすんだので、注文主たちに喜ばれたという。ヴァザーリはさらに、それらの絵は重すぎてほとんど動かせなかったこと、セバスティアーノ自身はその技法で描くより、それについて論じるほうを好んだことを書き添えている。
ヴェネツィア出身のセバスティアーノ・ルチアーニは、1511年に銀行家アゴスティーノ・キージに招かれてローマへ来て、いまファルネジーナと呼ばれるキージの別荘でリュネットを描いた。ローマでは彼はラファエロに対抗してミケランジェロの側につき、ミケランジェロが素描を与え、彼はそれをもとに描いた。1531年、教皇クレメンス7世は彼に教皇の鉛の印璽を管理する職を与え、「デル・ピオンボ」という通称はそこから来ている。ヴァザーリによれば、収入を得てからの彼は、働くよりも休むことのほうが多かった。
《ヴェールの聖母》を彼は1533〜1535年ごろ、スレートの板に描いた。マリアは目を伏せて眠る幼子の上に身をかがめていて、幼子は裸で画面の下端を横切るように横たわり、組んだ腕に頭をのせて口を少し開けている。マリアは右手を左の端へ伸ばし、透けるヴェールを二本の指でつまんでいて、ヴェールはそこにかろうじて見える淡い三角形となって垂れている。左手では、幼子のほうへ流れ落ちる灰緑色の布をつかんでいる。左上ではマリアの腕の陰から白髪のヨセフがのぞき、右では天使が暗がりにほとんど溶けこんでいて、見えるのは巻き毛の頭と光の当たった手だけである。色は冷たく、ほとんど黒に近い背景の上に灰色、白、灰緑が置かれている。1568年、ヴァザーリは、幼子を布で覆う彼の聖母がファルネーゼ枢機卿の衣装部屋にあると書いていて、この記述はナポリの絵を指すものとされている。
1943年、この絵はスポレートで57番の箱から取り出された。戦後に見つかったとき、ロドルフォ・シヴィエロは、何より手を焼いたのはこのうえなく美しい《ヴェールの聖母》だったこと、聖母の顔は酸化の膜の下に消えていて、その膜は当時は取り除けなかったことを書いている。ブリジット・ダプラによれば、1947年8月、ボルツァーノでフィレンツェから来た二人の修復家、ロ・ヴッロとソコロフが、絵からこの結晶化した膜を取り除くことに成功した。
教会から来た絵(1972年)

20. カラヴァッジョ《キリストの鞭打ち》(1607年)
ナポリで貴族に列せられて間もないジェノヴァ系の一族の出であるトンマーゾ・デ・フランキスは、1607年5月、サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂にある一族の礼拝堂の祭壇画の代金として、カラヴァッジョに11日に100ドゥカート、28日にさらに40ドゥカートほどを払った。カラヴァッジョは殺人のためにローマを逃れたのち、1606年の秋からナポリに住んでいて、1607年の夏にマルタへ渡り、1609年の秋に戻ってきた。そのため、ロベルト・ロンギに続いて、カラヴァッジョは2度目のナポリ滞在中に絵を仕上げたと考える歴史家もいれば、1607年説をとる歴史家もいる。
縦長のカンヴァスはほとんど全体が暗く、中央に灰色の円柱が立ち、そこにキリストが両手を背中に回して縛られている。光は左上から帯になって彼の胸を横切り、頭は左肩へ垂れ、目は閉じられ、頭の後ろには細い金の光輪がかすかに見える。左の刑吏は叫ぶように口を開けて拳でキリストの髪をつかみ、右の頭の薄い刑吏はキリストの腕の下に腕を差し入れ、足でふくらはぎの下を押さえつけていて、3人目は左下でかがみこみ、細枝の束を手にしている。3人とも簡素な仕事着を着ている。
X線写真と1998〜1999年の修復で、右の刑吏の下に、仕上げられた男の頭部が見つかった。のちに塗りつぶされたものである。デ・フランキス本人の肖像とみる解釈がもっとも多く、ドミニコ会の修道士とみる説は少ない。
ブルボン家は1827年、カラヴァッジョの名のもとにアルテミジア・ジェンティレスキの《ユディト》を買ったが、彼自身の本物の絵が丘の上に来たのは1972年になってからだった。それまでこの絵はサン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂のなかで礼拝堂から礼拝堂へと移されていたが、1972年の末、3度目の盗難未遂があったのち、カポディモンテ美術館が保管を引き受けた。所有しているのはイタリア内務省の宗教建造物基金で、修道院の廃止によって国のものとなった教会とその財産を持つ国の機関である。サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂のもとの場所には、アンドレア・ヴァッカロの作とされる模写が残されている。
ほかに見ておきたい作品
ティツィアーノが描いたファルネーゼ家の肖像としては、カポディモンテにはほかに、カマウロをかぶっていない教皇を描いた1543年のパウルス3世の単独の肖像と、枢機卿アレッサンドロの肖像がある。ブリューゲルの《人間嫌い》は、《盲人の寓話》と同じ道をたどってコレクションに入った。1612年の没収では、ファルネーゼ家はコレッジョの《聖カタリナの神秘の結婚》も手に入れている。ジョヴァンニ・ベッリーニの《キリストの変容》は、1641年までにローマのファルネーゼ宮の記録に載っている。ジュゼペ・デ・リベーラ、ルカ・ジョルダーノ、マッティア・プレーティといった17世紀ナポリの絵画は、2度目の訪問に取っておくのがよい。パルミジャニーノの《ガレアッツォ・サンヴィターレの肖像》は、長いあいだクリストファー・コロンブスの肖像だと考えられていた。




















































































