アムステルダム国立美術館の作品にはどれも目録番号があり、レンブラントの《夜警》の番号はSK-Cという文字で始まる。Cは、この絵がアムステルダム市の所有で、市から美術館に預けられていることを示している。預けられたのは1885年、建築家ピエール・カイペルスの設計した今の建物が開館したときである。同じ記号の番号がついているのは、市が早くも1808年に美術館に引き渡したレンブラントの《織物商組合の理事たち》と、1854年に亡くなった銀行家アドリアーン・ファン・デル・ホープがアムステルダム市に遺贈した絵である。Aのつく絵は国の所有である。

アムステルダム国立美術館の前身である国立美術ギャラリーは、バタヴィア共和国の時代の1800年にハーグで開かれ、1808年、ナポレオンの弟である国王ルイ・ボナパルトがそのコレクションをアムステルダムへ移した。所蔵品はおよそ100万点で、1200年から2000年までにわたるが、美術館の名声は17世紀のオランダによるものである。

ここで取りあげる25点には、誰が代金を払い、誰が手を加えたり傷つけたりし、誰が所有を求めて争ったのかが、目に見える形で残っている。その担い手は、教会、市民隊、商人、共和国、そして国民である。始まりは、おそらくアルクマールの救貧院の注文で1504年に描かれた多翼祭壇画で、終わりは、2022年に国がロスチャイルド家から1億7500万ユーロで買ったレンブラントである。

共和国以前:教会と宮廷のための絵

1. アルクマールの画家《七つの慈善の業》(1504年)

七つの慈善の業
七つの慈善の業アルクマールの画家, 1504, アムステルダム国立美術館

1582年6月24日、アルクマールの教会委員ヤーコプ・ディルクス・ウェインコーペルは年代記に、何者かが聖ラウレンス教会に押し入り、説教壇の絵と《七つの慈善の業》を黒い絵の具で塗りつぶしたと書きとめた。その十年前に町はスペイン王に背いた反乱側につき、教会はプロテスタントのものになっていた。黒い絵の具はのちに洗い落とされた。それより前、1566年か1572年に(美術館は両方の年を挙げている)、板はすでにナイフで傷つけられて絵の具を削りとられていて、いちばんひどくやられたのは顔だった。

背の高い七枚の板は簡素な暗い色の一つの額に並び、中央の板の上の横木には、1504年に描かれたという意味の古いオランダ語の銘がある。板は左から右へ、飢えた人に食べさせる、渇いた人に飲ませる、裸の人に着せる、死者を葬る、旅人に宿を貸す、病人と囚人を訪ねる、の順に読む。どの場面も1500年ごろのオランダの町のなかで起きていて、玄関に階段のある緑の屋根の煉瓦の家が並んでいる。白い頭巾の女はパンの籠を持って戸口に立ち、毛皮で縁どった赤いマントの男は錫の水差しから物乞いの木の椀に注ぎ、巡礼たちの帽子には貝殻や交差した鍵の巡礼章が縫いつけてある。ほとんどすべての板で、貧しい人々のなかに髪の長いキリストが立っていて、群衆のなかから探しださなければならない。五枚目の板の下の額には、マタイによる福音書の言葉が書かれている。最も小さい者の一人にしたことは、キリスト自身にしたことなのだという言葉である。

中央の板、埋葬の場面は、つくりが違う。上では赤いマントのキリストが虹の上に座り、最後の審判のときのように足を球にのせていて、その両側に聖母マリアと洗礼者ヨハネがいる。下の、囲いのある中庭では、白い十字のついた棺が綱で墓に下ろされている。この下半分にいるほとんどすべての人、棺の担ぎ手、白い短衣の司祭たち、鋤を持った墓掘り、黒い頭巾の会葬者たちの顔は、削られて滑らかな青白いしみになっている。1971〜1975年の修復では、聖像破壊の跡が見えるように、これらの欠損はわざとそのまま残され、ほかの板の傷は埋められた。

七つの慈善の業
七つの慈善の業アルクマールの画家, 1504, アムステルダム国立美術館
アフリカ人男性の肖像(クリストフル・ル・モール?)
アフリカ人男性の肖像(クリストフル・ル・モール?)ヤン・モスタールト, 1520, アムステルダム国立美術館

画家の名は、文書のなかに見つかっていない。1914年、美術史家ヴァレンティナーが、まさにこの作品にちなんで彼をアルクマールの画家と名づけた。その正体としていちばんよく名が挙がるのは、アムステルダムの画家ヤーコプ・コルネリスゾーン・ファン・オーストサーネンの兄弟で、1524年に亡くなるまでアルクマールで仕事をしたコルネリス・バイスである。しかし美術館は、作者を特定しようとするこれまでの試みを、どれも説得力に欠けると見ている。

美術館は、この多翼祭壇画を注文したのはアルクマールの聖霊救貧院の理事たちだと考えている。救貧院は貧しい旅人を三日三晩泊め、病人を看病し、復活祭とクリスマスと万聖節には72人の貧者に食事をふるまっていたので、板に描かれているのは救貧院自身の仕事だった。救貧院は宗教改革の時代に閉じられ、祭壇画は聖ラウレンス教会に移って、大オルガンの下の洗礼盤の後ろに掛けられ、1918年に教会委員たちがアムステルダム国立美術館に売るまでそこにあった。1990年代には、アルクマールのロータリークラブが教会に複製を贈っている。

2. ヤン・モスタールト《アフリカ人男性の肖像(クリストフル・ル・モール?)》(1525〜1530年ごろ)

肖像の男性は、ハプスブルク家の宮廷に仕えた黒人の廷臣、クリストフル・ル・モールかもしれない。ル・モールの名は1503年から宮廷の名簿に見え、はじめは馬丁として記され、1521年までにはカール5世の護衛の射手になっていて、その役目でアーヘンの戴冠式に立ち会った。アムステルダム国立美術館はこの名を慎重に示し、疑問符をつけて題名に入れている。歴史家ケイト・ロウは、服装と物腰から、彼をオーストリアのマルグリットの側近の身分の高い人物と見ている。マルグリットはネーデルラントを治め、メヘレンに宮廷を置いていた。

先の尖った黒っぽい顎ひげの男は、腰から上を斜め四分の三の向きで描かれ、平らな青緑色の背景の前で、見る者の脇を通りすぎて左のほうを見ている。片側に折り返した柔らかな橙赤色の帽子には、ごく小さな浮き彫りの人物がついた丸いメダイヨンが留めてある。幅広い襟の黒いマントの下には、赤い胴着と白いシャツがのぞく。淡い色の革手袋をはめた右手は、黒と金の紐を巻いた柄の剣にのせ、左手は腰の赤い袋に添えている。袋には金の格子模様が刺繍され、銀の鋲と小さな百合の紋が散らしてある。

これは、実在の黒人一人だけを描いた絵画の肖像としては、現存する最も古いものである。アルブレヒト・デューラーはそれより早く、1508年にアフリカ人の肖像を木炭で描いている。モスタールト自身はハールレムで仕事をしていた。ネーデルラントの画家たちの伝記を書いたカレル・ファン・マンデルは、彼が18年間オーストリアのマルグリットに仕えたと記しているが、彼女の会計簿に画家の名は二度しか出てこず、今の歴史家たちはこの奉公を疑っている。

この板絵の来歴がたどれるのは1920年からで、そのときはロンドンの画商のもとにあった。1934年にマンチェスターのコレクター、トマス・バーロウ卿が買い、その相続人たちは1998年から2003年までロンドンのケンウッド・ハウスに貸しだしていた。2005年、アムステルダム国立美術館が60万ユーロでこの肖像を買った。共同で資金を出したのは、オランダの美術館の美術品購入を助ける民間団体レンブラント協会と、国営の宝くじを含むいくつかの財団である。板の裏には、かつての題名を記した古いラベルが残っている。最初は東方三博士の一人を指す「黒い王」、のちには「ムーア人の肖像」だった。

アフリカ人男性の肖像(クリストフル・ル・モール?)
アフリカ人男性の肖像(クリストフル・ル・モール?)ヤン・モスタールト, 1520, アムステルダム国立美術館

町が自らの肖像を注文する

3. フランス・ハルスとピーテル・コッデ《レイニール・レアール隊長率いる第11区の将校と市民隊員たち(「痩せた中隊」)》(1633〜1637年)

レイニール・レール大尉率いる第11区市民隊
レイニール・レール大尉率いる第11区市民隊フランス・ハルス, 1633, アムステルダム国立美術館

アムステルダムの市民隊の隊長レイニール・レアールと副官コルネリス・ブラウは、1636年3月19日、公証人の前で、フランス・ハルスは1633年に中隊の集団肖像画を引き受けたのに今も仕上げていない、と申し立てた。ハルスには14日の猶予が与えられ、そのあいだにアムステルダムへ来なければ中隊は別の画家に描かせ、ハルスは代金を返すことになった。翌日、ハルスは脚を病んで床についたまま、ハールレムから返事をした。ハールレムで描く約束だったこと、隊員を一度に集めるのは無理なこと、アムステルダムで暮らすのは自分には高くつきすぎることを、彼は相手に思いださせた。将校たちは描かれる人物一人につき60ギルダー、アムステルダムで仕上げるならさらに6ギルダーずつ上乗せすると申しでた。7月、ハルスはあらためて、カンヴァスをハールレムの自分のところへ運んでくるよう提案し、六、七人が来なくても、ほとんど仕上がった状態で絵を引き渡すと約束した。

ハルスは50歳くらいで、すでにハールレムの市民隊の大きな集団肖像画を五点描いていた。アムステルダムの注文は、彼がよその町から引き受けた唯一のものである。隊員たちはハールレムへは行かず、アムステルダムの画家ピーテル・コッデを雇った。コッデは小さな肖像画や陽気な集いの場面を描いていた画家で、等身大の市民隊を描くのはこれが初めてだった。1637年に絵は完成し、1653年の目録には、フランス・ハルスが描きはじめ、コッデが仕上げたと記されている。

16人の男が、横に長い低いカンヴァスに沿って一列に立ったり座ったりしていて、ほとんど全員が黒い服に白い襟、青い飾り帯という姿である。左では、巨大なオレンジと金色の旗の前に、銀灰色のサテンを着た旗手が、腰にオレンジの飾り帯を締め、手を腰に当てて立っている。絵のなかで最も明るい人物である。左側をハルスは、手早く引いた灰色の下描きの上に、速く幅の広い筆づかいで描いた。右の七人はふつうコッデの仕事とされている。コッデは自分の絵では筆の跡をほとんど残さず滑らかに描いたが、ここではハルスの筆づかいをまねている。2017年、この絵は来館者の前で25日間にわたってスキャンされ、研究者たちは、コッデの手が左にも、ハルスの手が右にも見つかったことから、このような分け方は単純すぎると考えた。

レイニール・レール大尉率いる第11区市民隊
レイニール・レール大尉率いる第11区市民隊フランス・ハルス, 1633, アムステルダム国立美術館

1758年までに、この絵は市民隊の館からアムステルダム市庁舎へ移され、1885年、今も所有者である市がアムステルダム国立美術館に引き渡した。あだ名が生まれたのも、その市庁舎である。1758年、目録をつくったヤン・ファン・ダイクは、絵の隊員たちがあまりに干からびて痩せているので、痩せた中隊と呼ぶのがふさわしいと書いた。

4. レンブラント《夜警》(1642年)

夜警
夜警レンブラント, 1642, アムステルダム国立美術館

1715年、《夜警》はダム広場のアムステルダム市庁舎へ運ばれ、扉と扉のあいだの壁に収まるように、四辺すべてを切り詰められた。いちばん多く切られたのは左側で、その帯とともに、二人の隊員と一人の子ども、あわせて三人の人物が失われた。切りとられた部分は、ついに見つかっていない。

レンブラントがこの絵を描いたのは、アムステルダムの火縄銃手組合の新しい館の大広間のためで、そこにはさまざまな画家による市民隊の集団肖像画がずらりと並んでいた。弟子のサミュエル・ファン・ホーホストラーテンは1678年に、この絵の隣では広間のほかの絵がトランプの札のように見えたと書き、それでいて自分としては、レンブラントにもっと光を入れてほしかったとも書いている。《夜警》という題名が初めて現れるのは1797年の文書で、そのころにはワニスがすでに黒ずんでいた。レンブラントが描いたのは昼の情景である。中隊は暗いアーチから出てくるところで、光が前の数人を照らしだし、ほかの者は褐色の影のなかに残っている。

中央では、赤い肩帯を胸に斜めにかけた黒い服の隊長フランス・バニング・コックが、開いた左の手のひらを副官ウィレム・ファン・ライテンブルフのほうへ差しだしていて、その手の影が、副官の淡い金色の革の胴着の、白い飾り帯のすぐ下に落ちている。その左、隊長の後ろには、まわりの誰よりも明るく照らされた少女が立っていて、腰には爪をくっきりと描きこんだ死んだ鳥が下がっている。鳥の爪が火縄銃手組合の紋章だったからである。右下、大太鼓のそばでは、棘のある首輪をつけた灰色がかった白い犬が身をかがめ、鼻づらを上げて吠えている。2025年、学芸員アンネ・レンデルスは、レンブラントがこの犬を写したもとの絵を見つけた。アドリアーン・ファン・デ・ヴェンネが1619年に描いたペン素描である(17番)。古くからの言い伝えでは、旗手の帽子と兜の若者のあいだにのぞく、片目とベレー帽の縁しか見えない顔が、レンブラントの自画像だという。

夜警
夜警レンブラント, 1642, アムステルダム国立美術館

1911年1月13日、失業中の元海軍の料理人がナイフで絵を突いたが、刃は厚いワニスの層にめりこみ、絵の具までは届かなかった。1975年9月14日には、職を得られなかった教師が開館直後に、レストランから持ちだしたぎざぎざの刃のテーブルナイフを手にやって来て、絵に12か所か13か所の切り傷をつけ、隊長の両脚のあいだのカンヴァスを三角形に切りとった。修復には八か月ほどかかった。1990年4月6日には、来館者が、左で銃に弾をこめている赤い服の隊員に硫酸を浴びせた。美術館は当時、傷んだのはワニスだけだと発表したが、2025年、研究者たちは絵の具の層そのものに酸の跡を見つけた。

2019年7月、絵はガラスの部屋に囲われ、来館者の見ている前で調査が始まった。2024年11月12日、八人の修復家が、1975年以降に塗られたワニスを、溶剤を一滴含ませた布で取り除きはじめ、残りは顕微鏡をのぞきながら綿棒で取り去った。

5. ピーテル・サーンレダム《アムステルダムの旧市庁舎》(1657年)

アムステルダムの旧市庁舎
アムステルダムの旧市庁舎ピーテル・ヤンス・サーンレダム, 1657, アムステルダム国立美術館

1657年にサーンレダムがこの絵を描いたとき、ダム広場の旧市庁舎は、すでに五年前からなくなっていた。早くも1639年に市長たちは、建物の傷みがひどく、いつ災難が起きてもおかしくないと訴えていて、1648年に新しい市庁舎の礎石が置かれると、その場所をあけるために古い建物の大部分がとり壊された。残っていた正面の部分は1652年7月7日に火事に遭い、骨組みだけになった。サーンレダムは、1641年7月の六日間に現地で描いた自分のペンと水彩の素描をもとに、この建物を描き起こした。彼の名を知らしめた教会内部の絵でも、やり方は同じだった。まず現地で正確な素描をつくり、それから油彩にするので、ときには何年もあとになった。

1658年7月30日、アムステルダムの会計官たちは、市長たちのためにハールレムの画家ピーテル・サーンレダムの絵を受けとり、翌日400ギルダーを払った。会計官のなかには、レンブラントの絵で解剖学の講義をしている、あのニコラース・テュルプ博士もいた。サーンレダムはこの取引について自分用の覚え書きを残していて、そこにはこの絵のごく小さな色つきの略図が添えられ、今はハールレムのテイラース美術館に保管されている。彼の書いたところでは、すべてはこのうえなく丁重かつ友好的に運び、今後も彼のことを忘れないという約束まであって、絵は市長の間に掛けるよう命じられた。市は今もこの絵を所有していて、1945年からはアムステルダム国立美術館にある。

建物の正面は見る者の真正面、がらんとした広い薔薇色の広場の向こうに並んでいる。中央には、黄みがかったクリーム色の砂岩でできた法廷の建物があり、彫刻がほどこされて崩れかけ、急勾配の緑の屋根はオレンジ色の地衣類の斑点におおわれていて、上の軒蛇腹の割れ目からは草がひとむら生えている。下は開いたアーケードで、ベンチに何人かが座っている。法廷の後ろには、薔薇色の煉瓦の塔が立ち、その文字盤には金色の針が一本しかない。塔の尖塔はそのころにはもう取り外されていて、平らな屋根には、放りだされた石材や角材がころがっている。右には、木の鎧戸のある白い漆喰塗りの家があり、その足もとに低い露店が並んでいる。

アムステルダムの旧市庁舎
アムステルダムの旧市庁舎ピーテル・ヤンス・サーンレダム, 1657, アムステルダム国立美術館

露店の上の板に、サーンレダムは、この建物を1641年にまず現地であらゆる色を添えて素描し、1657年に描いたと書きこんだ。もう一つの銘はアーケードの段の縁に沿って書かれていて、これはアムステルダム市の旧市庁舎で、7月7日に三時間で焼け落ちたと記している。この銘にある火事の年を、美術館は1651年と読んでいるので、画家は一年まちがえたことになる。

1663年、オルフェルト・ダッペルは新しい市庁舎を記述するなかで、この絵の掛かっている場所を書きとめている。絵は市長の間で、議長を務める市長の椅子の向かいに掛けられ、対になるように、新しい建物を詠んだ詩人コンスタンテイン・ホイヘンスの詩が額に入れて掛けられていた。

6. レンブラント《織物商組合の理事たち》(1662年)

織物商組合の理事たち
織物商組合の理事たちレンブラント, 1662, アムステルダム国立美術館

ライデン生まれのレンブラントは、1630年代の初めからアムステルダムの人々の肖像を描いてきたが、1656年に支払い不能を認め、財産を債権者に明け渡した。1662年には、彼はローゼングラハト運河沿いの借家に住んでいて、美術館によれば、アムステルダムの大口の注文主が彼に頼むことは以前より少なくなっていた。《夜警》と隊員たちの不満、そして失われた注文が彼を破滅させたという話を、歴史家たちはとうに退けている。1642年以後も、彼は大きな注文を受けていたからである。そのひとつが織物商組合からの注文で、組合はスタールストラートにある組合の館のために集団肖像画を求めていた。

肖像を注文したのは理事たち、つまり聖金曜日から次の聖金曜日までの一年間、見本と照らしあわせて染めた布の品質と色を検査する五人の組合員だった。レンブラントは彼らをテーブルの向こうに、少し下から見上げるように描いたので、テーブルの天板はほとんど見えず、見えるのは垂れさがった敷物の縁だけである。くすんだ赤の地に黄土色がかった金の模様があり、重い房飾りがついている。五人とも黒い高い帽子をかぶり、平らな白い襟をつけている。六人目は召使いで、帽子をかぶらず、長い黒っぽい髪で後ろに立っている。左端の白髪の老人は赤い張り地の椅子に座り、その隣ではいちばん背の高い男が肘掛けに手をついて腰を浮かせ、まんなかの男は開いた本の上で手のひらを上に返し、右端の男は丸めた茶色の手袋を握っている。ほとんど全員がまっすぐこちらを見ていて、美術館は、誰かが扉を開けて会議をさえぎったかのような目つきだと書いている。

X線写真には、左に座るヤーコプ・ファン・ローンの頭と手が三通りの位置で写っていて、椅子から立ちあがろうとしている男は、はじめはもっと左に立っていた。ファン・ローンと立ちあがる理事を描いた二枚の準備素描を、レンブラントは帳簿の紙に描いている。右上の漆喰の壁には、レンブラント作、1661年という意味の署名がはっきり読みとれる。美術館はこの署名を偽物と見なしていて、絵そのものには1662年の年記がある。

《理事たち》は1771年まで組合の館に掛けられていたが、その後市庁舎に移され、1808年に市が美術館に引き渡した。今もアムステルダム市の所有である。のちに、召使いを従えた理事たちの姿は、アメリカの葉巻ダッチ・マスターズの箱に刷られるようになった。

個人の邸宅と市場のために

7. フランス・ハルス《夫婦の肖像(おそらくイサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーン)》(1622年ごろ)

夫婦の肖像(おそらくイサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーン)
夫婦の肖像(おそらくイサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーン)フランス・ハルス, 1622, アムステルダム国立美術館

オランダの夫婦はふつう、夫と妻の肖像を一枚ずつ別に注文したが、ハルスは二人を一枚のカンヴァスに並べて座らせ、くつろいで微笑み、ほとんど寄り添うように描いた。この二人が誰なのかは、決定的には証明されていない。1934年にアムステルダム国立美術館のカタログが初めて名を挙げて以来、二人は1622年4月25日にハールレムで結婚した商人イサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーンとされてきたが、一部の歴史家はこれに同意していない。男がほかの肖像のマッサにあまり似ていないと考えるからである。題名に「おそらく」とあるのは、そのためである。

ハールレムの穀物商イサーク・マッサは若いころモスクワへ送られ、美術館によれば、そこで八年を過ごした。それはボリス・ゴドゥノフの治世の最後の数年、偽ドミトリー、ワシーリー・シュイスキーの時代にあたる。帰国すると、彼は総督、つまり共和国の統治者であるオラニエ公マウリッツに、『モスクワ大公国における現今の戦乱と動乱の発端と起源についての簡潔な報告』を献じたが、これが印刷されたのは19世紀になってからだった。ベアトリクス・ファン・デル・ラーンはハールレムの市長の娘で、美術館はこのカンヴァスを、二人が結婚した年ごろのものとしている。

二人は大きな木の根もとの小高いところに座ってカンヴァスの左三分の二を占め、右には陽の当たる庭園がひらけている。男は幹にもたれ、つばのとても広い黒い帽子をあみだにかぶり、顎ひげは赤みがかっていて、胸のまんなかに置いた右手に白い手袋を握っている。大きな白い襞襟をつけ、薔薇色がかった赤の縁どりのある白い頭巾をかぶった女は、男のほうへ身を傾けて右手を彼の肩にのせ、金の指輪を見せている。二人ともこちらに微笑んでいて、互いの顔は見ていない。美術館は、17世紀の肖像で女性があけっぴろげに笑っているのはごく珍しいと指摘している。

夫婦の肖像(おそらくイサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーン)
夫婦の肖像(おそらくイサーク・マッサとベアトリクス・ファン・デル・ラーン)フランス・ハルス, 1622, アムステルダム国立美術館
ベルケマイヤーを持つ市民兵、通称『陽気な酒飲み』
ベルケマイヤーを持つ市民兵、通称『陽気な酒飲み』フランス・ハルス, 1629, アムステルダム国立美術館

二人のまわりの植物を、歴史家エディ・デ・ヨングとピーテル・フィンケンは1961年に、結婚の象徴として読み解いた。帽子の後ろの幹には葡萄の蔓が這いあがっていて、妻が夫にすがるように木にすがっている。妻の足もとには貞節のしるしの蔦があり、そのそばにはアザミが生え、右には、命のはかなさを思いださせる倒れた陶器の鉢がころがっている。庭の奥では恋人たちが散歩し、噴水が水を噴きあげ、彫像が立ち、明るい色の田舎屋敷の玄関先では孔雀が二羽歩いている。

この絵を持っていたのは、レンブラントの友人で注文主でもあったアムステルダムのヤン・シックスで、1702年の売り立てでは、フランス・ハルスによる等身大の男と女とだけ記されていた。シックスの未亡人がこれを買い戻し、絵は相続によってヘンドリック・シックス・ファン・ヒレゴムに伝わった。この人の結婚によって、このリストのほかの二点の絵もシックス家に入っている(10番と11番)。1851年、彼のコレクションの売り立てで、この肖像はハルス自身とその妻を描いたものとして出品され、600ギルダーでアムステルダム国立美術館のために買われた。ハルスはマッサと親しく、1623年にはマッサがハルスの娘の洗礼に立ち会い、1626年にはハルスがもう一度彼を描いている。トロントにあるその肖像では窓の外にモミの木が見えていて、研究者たちはそれをモスクワの風景だと見ている。

8. フランス・ハルス《陽気な酒飲み》(1628〜1630年ごろ)

亡くなったファン・レイデン男爵夫人のコレクションは、1816年7月31日、彼女の住んでいたワルモント城でそのまま売り立てにかけられ、カタログの13番には、笑い顔でグラスを手にした兵士の絵が載っていた。この絵は325ギルダーで、創設まもない国の美術館のために買われ、オランダの美術館が買ったハルスとしては最も早いものの一つになった。注文の記録も、描かれた人物の名も、研究者たちは見つけていない。美術館はこの絵を《ベルケマイヤーを持つ市民兵、通称「陽気な酒飲み」》と呼んでいる。革の胴着とメダイヨンから、男が町の市民隊の隊員か軍人だとわかるからだが、これが肖像画なのか風俗画なのかは、研究者たちが今も議論している。

巨大な黒い帽子を後頭部にずらしてかぶった男が、こちらへ身を乗りだしている。頬は赤く、唇は少し開き、目は細められている。右手は指を広げて手のひらを見せて上げ、左手では背の高い透明なグラスの脚もとを持っている。グラスにはふくらんだガラスの粒飾りがつき、淡い金色のワインが半分ほど注がれている。腰には紐で楕円形の金のメダイヨンが下がり、その浮き彫りは数筆でほのめかされているだけである。歴史家ホフステーデ・デ・フロートは、そこにオラニエ公マウリッツの肖像を見てとった。念入りに描かれているのは顔だけである。髪は一筋ずつ走り書きのような筆で置かれ、襟は短く交差する筆触で組み立てられ、グラスのハイライトは数本の線で済まされていて、右の肩の高さには、画家の頭文字を組みあわせたモノグラムがある。

ハルスは長いあいだ、絵が仕上がっていないと非難されてきたが、フランスの批評家テオフィル・トレ=ビュルガーが1868年の記事で、ハルスの幅広い筆づかいを長所だと言いきった。1872年にはエドゥアール・マネがこの絵を見ていて、マネが1873年のサロンに出した《ル・ボン・ボック》は、それ以来しばしばこのカンヴァスと結びつけて語られている。

9. ヘンドリック・アーフェルカンプ《スケートをする人々のいる冬景色》(1608年ごろ)

スケートをする人々のいる冬景色
スケートをする人々のいる冬景色ヘンドリック・アーフェルカンプ, 1608, アムステルダム国立美術館

ヘンドリック・アーフェルカンプは1585年にアムステルダムで生まれ、父が薬屋を営んでいたカンペンで育った。耳が聞こえず口もきけなかったので、同時代の人々は彼をカンペンの唖者と呼んだ。1607年、アムステルダムの画家ピーテル・イサークスの工房の売り立てで、買い手のなかにピーテル・イサークスのところの唖者という記録があり、歴史家たちはここから、アーフェルカンプがこの画家の家に住んで学んでいたと推測している。この板絵を彼が描いたのは1608年ごろ、23歳くらいのときで、その後、彼はオランダの画家として初めて、氷の上の人々のいる冬景色ばかりを描くようになった。美術館によれば、冬景色はよく売れたので、彼は夏にもそれを描いたという。1633年の遺言で、母は未婚の長男である彼を、口がきけず哀れな者と呼び、その暮らしが立つよう手配した。彼は1634年にカンペンで亡くなった。

凍った川は手前から淡い地平線へとのびていて、丘の上から眺めるように上から見下ろされている。美術館の数えでは、氷の上の人物はおよそ200人である。クラブで球を打つコルフに興じる者もいれば、腕を組んで二人で滑る者もいて、まんなかでは一人が氷の上にばったりと倒れ、右では馬に引かれた赤い橇が走っている。左には、尖った塔のある教会、柱の上に円錐形の屋根をかけた丸い干し草の山、そして二頭の赤いライオンが支える紋章のついた煉瓦の家がある。絵のなかの冗談は、美術館自身が数えあげている。煉瓦の家の隣には、舟を縦に立てた細い小屋があり、これは便所で、その低い入り口からはむきだしのピンク色の尻が突きでている。干し草の山の屋根の下では二人が身を寄せあい、左下の隅では犬とカラスが死骸をあさっていて、美術館はそれを馬の死骸と見ている。右端の納屋の板壁には、ほかの落書きにまじって、ラテン語風に綴った名と姓の頭の二文字からなる署名が、白でひっかくように書かれている。

この絵はよく、小氷期と呼ばれる当時の寒い冬の証拠として引きあいに出される。ローザンヌ大学の研究者アレクシス・メツジェは2020年に、オランダの冬景色の絵49点を気象の記録と比べた。画家たちが選んだのはスケートに向いた晴れて乾いた寒さで、そういう日は冬の日の五分の一にも満たなかった。

スケートをする人々のいる冬景色
スケートをする人々のいる冬景色ヘンドリック・アーフェルカンプ, 1608, アムステルダム国立美術館
牛乳を注ぐ女
牛乳を注ぐ女ヨハネス・フェルメール, 1660, アムステルダム国立美術館

1897年、ハイスベルト・デ・クレルクのコレクションの売り立てで、画商ロースがこの板絵を345ギルダーで買い、数か月後に550ギルダーでアムステルダム国立美術館に売った。代金の一部はレンブラント協会が出している。

10. ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》(1660年ごろ)

1907年、アムステルダムのシックス家の相続人たちは、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》を国に買いとるよう申しでたが、それは一族のコレクションのほかの38点の絵と一緒に、まとめて75万ギルダーで、という条件つきだった。オランダ絵画の目利きフリッツ・ルフトは、その38点のうち重要なものは五点しかないと数えた。ハーグのマウリッツハイス美術館の館長アブラハム・ブレディウスは、《牛乳を注ぐ女》をアメリカの銀行家ジョン・ピアポント・モルガンが買ってしまうことを恐れ、新聞の風刺画家たちは、アンクル・サムにそっぽを向くオランダいちの美しい女中を描いた。議会では、社会主義者のトルールストラが古い巨匠の絵にこれほどの金を使うことに反対し、オランダの文化遺産を守るために長年闘ってきた議員ヴィクトル・デ・ステュルスは、どんな代価を払ってもこの絵を国内にとどめるよう求めて、多数が彼を支持した。国が55万ギルダー、レンブラント協会がさらに20万ギルダーを払い、1908年1月13日、39点の絵すべてがアムステルダム国立美術館で公開された。

フェルメールが《牛乳を注ぐ女》をデルフトで描いたのは1660年ごろで、大きな場面から、左の窓から光の入る静かな部屋の一人の人物へと移っていった時期だった。彼の主な買い手はデルフトの収集家ピーテル・ファン・ライフェンで、フェルメールが広く名声を得たのは19世紀になってからである。それでも早くも1696年、ファン・ライフェンの娘婿ヤーコプ・ディシウスのコレクションがアムステルダムで売られたとき、牛乳を注ぐ並はずれて出来のよい女中の絵は175ギルダーで買われた。この競売のフェルメールのなかで、これより高かったのは《デルフトの眺望》だけである。

女中は左上の隅の窓の下でテーブルのそばに立ち、赤みがかった茶色の土器の水差しから、取っ手が二つある鉢へ牛乳を注いでいて、絵のまんなかで、牛乳が細い白い筋になって流れている。彼女は黄色の胴着に、肘の上までまくりあげた緑の袖カバーをつけ、濃い青のエプロンをしている。エプロンはラピスラズリからつくる高価な絵の具、ウルトラマリンで描かれていて、その下から赤いスカートの裾がのぞく。パンの皮、籠の取っ手、灰青色の水差しの縁は、盛りあがった明るい絵の具の点におおわれている。窓ガラスの一枚には、穴があいたように見えるいびつな白い斑点があり、奥の壁にはほかに何も掛かっておらず、釘が一本と釘の跡があるだけである。

2022年のスキャンで、フェルメールがこの壁に何を描き、のちに消したのかがわかった。女中の頭の後ろには、土器の水差しを吊るした棚が描きかけられていた。右下の隅には、上に洗濯物をかけて乾かすための炭火用の籐の籠があり、フェルメールはのちにそれを足温器とタイルと床で覆った。棚と籠は、画家の死後につくられた彼の家の財産目録に載っている。

牛乳を注ぐ女
牛乳を注ぐ女ヨハネス・フェルメール, 1660, アムステルダム国立美術館
小路
小路ヨハネス・フェルメール, 1658, アムステルダム国立美術館

11. ヨハネス・フェルメール《デルフトの家々の眺め(「小路」)》(1658年ごろ)

階段状の破風をもつ煉瓦の家が絵の右三分の二を占め、破風のいちばん上の段はカンヴァスの縁にかろうじて触れている。左にはそれより低い瓦屋根の家があり、その正面は屋根まで青緑のつる草におおわれている。家と家のあいだには通路が二つある。左の通路の入り口はアーチで、暗い色の木の扉がついている。右の開いた通路の奥には白く塗られた小道が見え、赤い胴着の女中が樽の上にかがみこんでいる。大きな家の開いた戸口には白い頭巾の女が縫い物をしながら座り、家の前のタイルの上では、二人の子どもがこちらに背を向けてひざまずいている。下の階の白い漆喰ははがれかけて染みだらけで、破風の最上段にはひびが走り、戸口のそばには鮮やかな赤い鎧戸が一枚下がっている。左の家の白い壁の窓の下には、フェルメールの署名がある。

2025年、美術館の研究者たちは、上の絵の具の層の下に見つかったものを公表した。はじめは左の通路の入り口に手仕事をする女が座っていたが、フェルメールはその女を塗りつぶし、戸口の女をその鏡像として描いた。大きな家の扉も最初は閉じていて、鎧戸と同じ緑に塗られていたが、のちにフェルメールがそれを「開けた」。

この絵は、《牛乳を注ぐ女》を国に売ったのと同じ一族を経てきた。1800年にピーテル・ファン・ウィンテルが買い、娘のルクレツィアが相続して、1822年にヘンドリック・シックスと結婚した。1921年、美術史家ヤン・シックスが《小路》を競売にかけたが、入札は最低価格に届かず、石油王でロイヤル・ダッチ・シェルの社長だったヘンリ・デターディングが62万5000ギルダーで買いとり、のちにアムステルダム国立美術館に寄贈した。

青い服を着て手紙を読む女
青い服を着て手紙を読む女ヨハネス・フェルメール, 1664, アムステルダム国立美術館

この家がどこに建っていたのかは、一世紀以上にわたって議論されてきた。2015年、美術史家フランス・フレイゼンハウトは、運河の浚渫のための税を集めるのに使われた1667年のデルフトの台帳を見つけた。そこには建物の正面と通路の一つひとつの幅が記されていて、彼はそれをもとに、フラミングストラート40〜42番地の家、同じ幅の二軒の家とそのあいだの二本の細い通路を割りだした。美術館はこの住所を事実として扱っているが、研究者フィリップ・ステッドマンは寸法の食いちがいを挙げて異を唱えている。フレイゼンハウトによれば、この家の持ち主はフェルメールの父の異母姉妹アリアントヘン・クラース・ファン・デル・ミンネで、彼女は五人の子をもつ寡婦で、臓物を売って暮らしを立てていた。右の通路は19世紀まで臓物門と呼ばれていた。

12. ヨハネス・フェルメール《手紙を読む女(「青い服を着て手紙を読む女」)》(1663年ごろ)

1928年にこのカンヴァスの裏打ちをした修復家は、フェルメールが置いた白いハイライトの点を真珠とまちがえ、テーブルの上の首飾りに合わせて黄色で塗った。この黄色の点が取り除かれたのは2010〜2011年の修復のときで、一緒に、厚く黄ばんでむらのあるワニスも除かれた。このワニスのせいで、絵の青は緑がかって見えていた。修復家イーヘ・フェルスレイペは、いちばんの驚きは銅のような緑の層で、フェルメールはその上に上着のウルトラマリンを塗っていたと語った。

若い女は横顔を見せて左を向き、見えない窓のほうに立って、胸のすぐ下で両手で手紙を持ち、二枚目の紙が手から垂れている。彼女は濃い青のリボンのついた淡い青のキルティングの上着を着ていて、縁と袖の折り返しには黄土色がかった黄色の裏地がのぞく。テーブルには、開いた小箱、真珠の首飾り、くしゃくしゃの青いリボン、書類がのっている。後ろの壁のほとんどを、ホラントと西フリースラントの茶色い地図が占め、地図は先に青い玉のついた暗い色の軸から下がっている。白く塗られた壁に落ちる椅子の背の影は、淡い青で描かれている。この女はよく妊娠していると見られるが、衣装史の研究者たちは、その体の線を1660年代の流行で説明している。

1839年、アムステルダムの銀行家アドリアーン・ファン・デル・ホープは、ロンドンの画商ジョン・スミスからこの絵を買った。1847年、彼は自分のコレクションを市に遺贈すると定め、条件として、コレクションを散逸させずにアムステルダムで彼の名を冠して公開し、入場料の収益を貧しい人々に与えることを求めた。1854年に彼が亡くなると、遺産には税がかかるので、市は長いあいだ受けとるかどうか決めかね、新聞の報道によれば、その税の大部分は民間の寄付で集められた。コレクションは、1885年に市がアムステルダム国立美術館に引き渡すまで、アウデマンハウスポールトの建物でファン・デル・ホープ美術館として公開されていた。

修復のあと、この絵はまず日本へ運ばれ、京都、仙台、東京で展示されてから、上海、サンパウロ、ロサンゼルスへ行った。2025年、市は、こうした旅がコレクションをアムステルダムにとどめるという条件に反しないかをアムステルダムの裁判所に問い、裁判所は1月9日、一時的な展覧会は遺言に反しないと判断した。

青い服を着て手紙を読む女
青い服を着て手紙を読む女ヨハネス・フェルメール, 1664, アムステルダム国立美術館
恋文
恋文ヨハネス・フェルメール, 1668, アムステルダム国立美術館

13. ヨハネス・フェルメール《恋文》(1669〜1670年ごろ)

1971年9月23日の夕方、ベルギーのリンブルフ州出身でウェイター見習いの21歳のマリオ・ロイマンスは、閉館前にブリュッセルのパレ・デ・ボザールの配電室に隠れた。そこでは「レンブラントとその時代」展が開かれていて、アムステルダム国立美術館から送られた《恋文》が掛かっていた。彼は絵を壁から外したが、額に入ったままでは、逃げ道にするつもりだった窓を通らなかったので、小さな台所用ナイフでカンヴァスを額から切りとり、折りたたんでズボンのベルトの内側に押しこんだ。はじめは家に隠し、それから森に埋めたが、雨のために掘りだし、働いていたホテルのマットレスの下に、枕カバーに入れてしまっておいた。彼は記者たちを通じて、当時バングラデシュ独立戦争のさなかにあった東パキスタンの難民のために2億ベルギー・フランを出すなら絵を返すと伝えた。彼はフランドルの民衆の英雄ティル・オイレンシュピーゲルの名で署名していて、多くのベルギー人が彼の味方についた。10月6日、ガソリンスタンドからラジオ局に電話をかけたところで正体を見破られ、追跡の末、一時間後に逮捕された。

絵は盗まれてから二週間後、マットレスの下で見つかった。切り口に沿って絵の具が剥がれ落ちていて、いちばんひどいのは右上の隅だった。アムステルダム国立美術館の主任修復家ルイツェン・カイペルがほぼ一年かけてカンヴァスを修復し、館長が招集した国際委員会は、欠損を目に見えないように埋めると決めた。ロイマンスは懲役二年の判決を受け、実際に服役したのは半年ほどだった。

フェルメールが《恋文》を描いたのは1672年の少し前で、その年、フランスの侵攻でオランダの絵画市場は崩れ、1675年に彼は借金を抱えて亡くなった。見る者は暗い控えの間から、戸口越しに明るい部屋をのぞきこむ。戸口の上には、黄土色がかった金の大きな模様のある暗い色のカーテンが引き寄せてある。敷居には暗い色の室内履きが置かれ、箒が立てかけてあり、左には洗濯物の籠があって、その上の壁にフェルメールの署名があり、右の暗赤色の座面の椅子には楽譜がのっている。部屋のなかでは、黄色いサテンの服に白テンの毛皮で縁どった黄色い上着を重ねた女主人が、膝にシターンを抱え、右手に折りたたんだ手紙を持って、口を少し開け、青いエプロンの女中を見上げていて、女中は上から彼女に微笑みかけている。二人の後ろの壁には絵が二枚、旅人のいる風景画と帆船の浮かぶ海の絵が掛かっていて、美術館の説明では、海の絵は手紙の中身をほのめかしているのかもしれない。

1892年、レンブラント協会がこの絵を競売で4万1000ギルダー、当時としては巨額で買い、翌年アムステルダム国立美術館に引き渡した。ブリュッセルの盗難から四年後、ルイツェン・カイペルは、1975年にナイフで切りつけられた《夜警》を修復した。

恋文
恋文ヨハネス・フェルメール, 1668, アムステルダム国立美術館

14. ヤン・ステーン《陽気な家族》(1668年)

陽気な家族
陽気な家族ヤン・ステーン, 1668, アムステルダム国立美術館

右上の隅、暖炉の上の壁にピンで留めた紙には、オランダのことわざが書かれている。年寄りが歌えば若い者は笛を吹く、という意味である。このことわざで笛を吹くにあたるオランダ語は、笛を吹くこととパイプをふかすことの両方を意味し、絵の子どもたちはその両方をしている。右の男の子と女の子は長い陶製のパイプをふかし、窓辺の巻き毛の男の子は笛を吹き、手前では黄色いスカートの女の子が、毛皮の帽子をかぶった幼児の口に、錫の水差しからじかにワインを注いでいる。

テーブルでは、黒い小さな帽子をかぶった白ひげの老人が肘掛け椅子に座り、頭をそらして口を大きく開けて歌いながら、白ワインの入った背の高いグラスを掲げている。灰緑色の頭巾の老婆は目を閉じて紙を手に歌い、白いスカーフの若い女はスプーンを持ってけらけら笑う赤ん坊に微笑みかけ、赤い帽子の若者はベンチに脚を投げだしてフルートを吹いている。老人の後ろでは、茶色の帽子の若い男がバグパイプを吹いている。美術館はバグパイプを愚か者の楽器と呼び、この男に画家ヤン・ステーン自身の姿を見ている。床にはフライパン、横倒しの瓶、卵の殻が散らばり、テーブルのそばにはぶちのスパニエルが立ち、右のベンチの前板には、ヤン・ステーンの署名と1668年の年記がある。

ステーンがこの絵を描いたのは、1661年から住んでいたハールレムで、大勢の人がひしめく大きな家族の場面を描いていた時期だった。オランダでは今も、てんやわんやの家をヤン・ステーンの所帯と言い、美術館はこの言いまわしを《陽気な家族》と結びつけている。ステーンが大酒飲みだったという評判も、一部はこうした絵から生まれたが、美術史家たちはバグパイプ吹きの姿に、画家が笑いをとるために演じた役を見ている。ファン・デル・ホープがこの絵をアムステルダム市に遺贈し、1885年からはアムステルダム国立美術館にある。ステーンがライデンで居酒屋を営む許可を得たのは、《陽気な家族》の四年後、1672年になってからだった。

陽気な家族
陽気な家族ヤン・ステーン, 1668, アムステルダム国立美術館

15. レンブラント《イサクとリベカ(「ユダヤの花嫁」)》(1665〜1669年ごろ)

1828年、ロンドンの画商ジョン・スミスはこの絵を《エフタとその娘》として競売にかけたが、買い手はつかなかった。1833年、アムステルダムの銀行家アドリアーン・ファン・デル・ホープが6825ギルダーで手に入れ、彼の目録には、父親が首飾りで飾ってやっているユダヤの花嫁の絵として記されている。これがこの名の知られているかぎり最初の登場で、1855年のファン・デル・ホープ美術館のカタログでは、絵はすでにユダヤの花嫁の名で知られるものとされている。美術館はこの絵を《イサクとリベカ》と呼び、以前の名はかぎ括弧に入れて添えている。

ユダヤの花嫁
ユダヤの花嫁レンブラント, 1667, アムステルダム国立美術館

この主題を研究者たちが割りだしたもとは、1662年ごろに描かれ、アメリカの個人コレクションにあるレンブラントの準備素描だった。素描では二人が抱きあい、女は男の膝に座っていて、右上の隅には窓辺の人物がかすかに描かれている。これは創世記に出てくる王アビメレクで、イサクがリベカを愛撫するのを見て、イサクが妹だと言っていた女が実はその妻だと悟った人物である。X線調査によれば、レンブラントはカンヴァスでも最初は女を男の膝に座らせていたが、のちに二人とも立った姿に描きなおし、アビメレクは絵に入れなかった。アムステルダム国立美術館の学芸員ヨナタン・ビッカーは、当時よくあったように、実在の夫婦がイサクとリベカに扮した注文肖像画である可能性もあると見ている。

男の右手は女の胸にぺたりと置かれ、彼女の左手がその手に軽く触れていて、彼女の両手には指輪がある。二人とも目を伏せ、互いを見てはいない。男の大きな金色がかった黄色の袖を、レンブラントは絵の具の厚い畝や塊で築き、一部はパレットナイフで置き、筆の柄でひっかいたので、袖は金属のように光る。絵全体は茶色がかった黒の上に赤と金で描かれ、光っているのは袖と手と顔、そして赤いスカートだけである。

1885年10月、市がこの絵を新しいアムステルダム国立美術館に引き渡してから数か月後に、その前に座ったのがフィンセント・ファン・ゴッホだった(24番)。彼は弟への手紙に、これは心のこもった、限りなく思いやりのある絵で、炎の手で描かれていて、こんなふうに描くには何度も死ななければならなかっただろうと書いた。教え子のアントン・ケルセマーケルスは1912年に、ファン・ゴッホが、乾いたパンの皮一切れだけでこの絵の前に二週間座っていられるなら人生の十年をやってもいいと言ったことを回想している。ケルセマーケルスは、フィンセントは自分を甘やかさないように、パンはいつも何もつけずに食べていたと書き添えている。

ユダヤの花嫁
ユダヤの花嫁レンブラント, 1667, アムステルダム国立美術館
ペトロネラ・オールトマンの人形の家
ペトロネラ・オールトマンの人形の家作者不詳, 1698, アムステルダム国立美術館

16. ペトロネラ・オールトマンの人形の家(アムステルダムの無名の職人たち、1686〜1710年ごろ)

アムステルダムの銃器職人の娘ペトロネラ・オールトマンは、最初の結婚でハンブルクの絹商人カレル・ウィッテの妻になった。二人の一人娘は1684年に一歳にならずに亡くなり、翌年ウィッテも亡くなって、1686年、ペトロネラは絹商人ヨハネス・ブラントと結婚した。ほぼ同じころ、彼女はこの飾り棚を注文しはじめ、およそ25年かけて調度をそろえていった。美術館によれば、こうした棚の中の家は、大人の女性が人に見せるためにつくらせたもので、理想の家政の姿を表していた。

脚のついた背の高い飾り棚は鼈甲で仕上げられ、表面いっぱいに錫の細い蔓草模様が這っている。ガラスのはまった二枚の扉の奥には、三つの階にそれぞれ三部屋ずつ、九つの部屋がある。本体をつくったのはアムステルダムで働いていた名の知れないフランス人の家具職人で、ほかの部分には、彫刻師や籠職人から銀細工師やガラス吹き職人まで、何十人もの職人がたずさわった。中の階の客間の壁には、画家ニコラース・ピーモントが、木々と遠くの塔のある一続きの風景を描いた。下の階の飾りの台所では、金めっきの食器棚に青と白の磁器がぎっしり並び、窓辺には鳥籠が下がっている。産婦の部屋には赤い天蓋のついた寝台があり、上の階のリネン室では天井の桟に洗濯物が干され、小卓にはアイロンが置かれている。

ペトロネラ・オールトマンのドールハウス
ペトロネラ・オールトマンのドールハウスヤーコプ・アッペル, 1710, アムステルダム国立美術館

ドイツの旅行家ツァハリアス・コンラート・フォン・ウッフェンバッハがブラント家にこの飾り棚を見に来たとき、一家は、これには3万ギルダーかかったと語った。アムステルダム国立美術館はこの額を、貴族の住むヘーレングラハト運河沿いの家の値段と比べている。これは一家の言い分で、息子の1743年の財産目録では、飾り棚は700ギルダーと評価されている。ピョートル大帝がこの棚を買いたがったが、値段が高すぎて手が出なかったという言い伝えもある。1821年、国がこの飾り棚を買った。

1710年、画家ヤーコプ・アッペルがこの飾り棚を油彩で描いていて、その絵には、人形たち、棚を覆っていた黄色いカーテン、そして庭が見える。人形のうち残っているのは蝋の顔をした赤ん坊だけで、リボンとレースのついたピンクと水色の絹の洗礼着を着ている。

共和国の内輪の争い

17. アドリアーン・ファン・デ・ヴェンネ《魂の漁》(1614年)

1609年、ネーデルラント連邦共和国は、スペイン、そしてスペイン領ネーデルラントを治めていたアルブレヒト大公とイサベル大公妃と、十二年の休戦を結んだ。戦いはやんだが、新しい境界の両側で、北と南は信者の魂をめぐって争いつづけた。アドリアーン・ファン・デ・ヴェンネは南から移ってきた一家の出で、のちにレンブラントが《夜警》の犬を写した素描を描いたのがこの画家である。1614年、彼は厳格なカルヴァン派のゼーラント州のミデルブルフに住んでいて、この争いを横長の板絵に描いた。

魂の漁
魂の漁アドリアーン・ファン・デ・ヴェンネ, 1614, アムステルダム国立美術館

広い川が手前から霧のかかった地平線へとのび、絵を二つに分けている。左の岸には、白い襞襟をつけた黒い服のプロテスタントがぎっしりと群がり、前列の人々の顔はみな肖像として描かれていて、そのなかに総督オラニエ公マウリッツの顔が見分けられる。右の岸には赤い服の枢機卿たちの行列が進み、金色の天蓋の下を教皇が担がれていき、そばには大公夫妻が立っている。左の岸の上の空は明るみ、右の岸の上には雷雲が垂れこめ、空いっぱいに二重の虹がかかっている。川では魂の漁が行われている。プロテスタントの舟では、ミデルブルフの牧師ウィレム・テーリンクを含む黒い服の説教師たちが、ラテン語で信仰、希望、愛と記した札のついた網を引いていて、艫には、福音の漁師という言葉と1614年の年を記した本が置かれている。カトリックの舟には赤い上祭服に司教冠の司教が乗り、舳先には金の聖体顕示台があり、少年聖歌隊が歌っていて、舳先からは赤ん坊の人形を入れた囮の籠が下がっている。美術館によれば、プロテスタントの漁師たちは肖像として、カトリックの漁師たちは戯画として描かれている。

カトリックの網のなかでも人がもがいているが、これはあとから、1640〜1650年代に描き加えられたもので、筆は速く、塗りは薄く、人の姿を透かして水が見える。最初、網は空だった。美術館は、時代が変わったか持ち主が替わったかして、カトリックへの敵意をやわらげるためにこうしたのかもしれず、描き加えたのはファン・デ・ヴェンネ自身だったかもしれないと見ている。1735年、この絵はハーグでヤン・ブリューゲル(父)の作品として売られ、おそらく総督ウィレム4世が買った。1795年、総督家のコレクションはバタヴィア共和国の国有財産とされ、1798年、《魂の漁》は国立美術ギャラリーに引き渡された。作者がファン・デ・ヴェンネに戻されたのはようやく1878年のことで、それまで人物と風景は別々の画家の手になるとされていた。プロテスタントの舟の舳先の少し左の水面には描かれた蠅がとまっていて、ヤン・ブリューゲル風の冗談だが、本物とまちがえやすい。

魂の漁
魂の漁アドリアーン・ファン・デ・ヴェンネ, 1614, アムステルダム国立美術館
ハーグ、フェイフェルベルフのフルーネ・ゾーチェに吊るされたデ・ウィット兄弟ヤンとコルネリスの遺体、1672年
ハーグ、フェイフェルベルフのフルーネ・ゾーチェに吊るされたデ・ウィット兄弟ヤンとコルネリスの遺体、1672年ヤン・デ・バーンに帰属, 1673, アムステルダム国立美術館

18. 伝ヤン・デ・バーン《デ・ウィット兄弟の遺体》(1672〜1675年ごろ)

1801年、国立美術ギャラリーの管理人コルネリス・セビレ・ロース(20番)は、バタヴィア共和国の財政を預かるアレクサンデル・ホーヘルに宛てて、この絵は美術館に置くにはむごたらしすぎ、新しい額をあつらえる値打ちさえないと書いた。それでも閣下がお望みなら、額を直して、絵の前に小さなカーテンを掛けさせればよい、とロースは続けている。ホーヘルは描かれている出来事のためにこの絵をほしがり、1802年、ギャラリーは交換によってこれを手に入れた。

1672年8月20日、フランスが共和国に攻めこんだその年に、ハーグの監獄門ゲヴァンゲンポールトのそばで、町の市民隊員もまじった群衆がデ・ウィット兄弟を殺した。ヤン・デ・ウィットは20年近くホラント州法律顧問、つまり共和国の筆頭の政治家を務めていて、ドルドレヒトの市長だったコルネリスは、オラニエ公ウィレム3世に対する陰謀のかどで有罪とされていた。兄弟の遺体は裸にされて切り刻まれ、フェイフェルベルフ広場の処刑台に吊るされた。

絵のなかは夜で、画面のほとんどを暗い木々が占め、上のほうにだけ青い空が細くのぞいている。中央には梯子のような横木のついた高い柱が立ち、そこに裸の遺体が二つ、足を縛られて逆さに吊るされている。左の遺体は光に照らされていて、腹が切り裂かれ、脚と胴には長い赤い傷が走り、頭は地面すれすれのところで赤い血だまりの上に垂れている。右の遺体は半分柱の陰に隠れている。右下の隅には赤い上着の男がこちらに背を向けて立ち、伸ばした手に松明を掲げ、もう一方の手を頭にやって顔をそむけている。遺体の下の地面には、猫のように見える死んだ動物が横たわっている。

この絵は、兄弟の生前に二人の肖像を描いたハーグの肖像画家ヤン・デ・バーンの作とされているが、美術史家フランス・フレイゼンハウトはそれを疑わしいと見ている。デ・バーンはドルドレヒトの市庁舎のためにコルネリスをたたえる寓意画を描いていて、1672年、群衆はそれを壁から引きはがして切り裂き、コルネリスの頭をカンヴァスから切りとってメルウェデ川の向こうへ運び、絞首台に釘で打ちつけた。

ロースはこの絵を版画の写しだと考え、歴史家ファン・ルッテルフェルトも、これは1672年の版画を繰り返したものだと考えていた。その版画では松明を持っているのは二人で、絵の下には兄弟に敵意をもつ詩が刷られている。カンヴァスの裏の銘は、違うことを主張している。それによれば、これはヤンとコルネリス・デ・ウィットの遺体で、夜の十一時、二人がまだ柱に吊るされていたときに名高い画家が実物を見て描いたものであり、1672年8月20日に実物から描かれた唯一の原画であって、それゆえ大金に値するという。

ハーグ、フェイフェルベルフのフルーネ・ゾーチェに吊るされたデ・ウィット兄弟ヤンとコルネリスの遺体、1672年
ハーグ、フェイフェルベルフのフルーネ・ゾーチェに吊るされたデ・ウィット兄弟ヤンとコルネリスの遺体、1672年ヤン・デ・バーンに帰属, 1673, アムステルダム国立美術館
大砲の一撃
大砲の一撃ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子), 1680, アムステルダム国立美術館

19. ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)《大砲の一撃》(1680年ごろ)

1672年から1673年にかけての冬、フランスが陸から共和国に攻めこみ、海ではまたイギリスとの戦争が始まっていたころ、海戦の素描家だった画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ(父)は、息子のウィレムとともにオランダを離れてイギリスへ渡った。1674年、イギリス国王チャールズ2世は二人にそれぞれ年100ポンドを与えることにした。息子への手当は、父の素描を王の私的な用のために油彩に描き起こす仕事に対するもので、絵は一点ごとに別に代金が支払われた。二人にはグリニッジのクイーンズ・ハウスにアトリエが与えられた。英蘭戦争が終わったのはようやく1674年のことで、それまで父子は敵国の海軍のために働いていたことになる。

この絵は銀行家アドリアーン・ファン・デル・ホープが買い、ほかのコレクションとともにアムステルダム市に遺贈して、1885年からはアムステルダム国立美術館にある。対になる絵《突風》は、マストの折れたイギリスの軍艦が嵐と闘う場面で、美術館が20世紀の初めに別に買った。

美術館は《大砲の一撃》を、画家のイギリス時代にあたる1680年ごろの作としていて、絵では、オランダの軍艦が凪のなかにとまっている。カンヴァスは縦長で、その三分の二を空が占め、淡い青に灰色の雲が浮かぶ。軍艦は船首をこちらに向けて少し斜めになっていて、船首には赤い彫刻のライオンがあり、帆は広げられて帆桁から重いクリーム色の襞になって垂れ、マストからは赤白青の長い吹き流しが下がっている。船首の左から白い硝煙が濃い塊となって噴きだし、水面を這うように広がって、上では灰色の塊にほどけ、雲にまぎれていく。砲門が列をなす暗い船体は、鏡のように滑らかな水面に映っている。左では二隻目の船が錨を下ろしていて、ボートの上では一人が立ちあがって手を振り、手前の水面にはカモメが三羽浮かび、右下の隅には、若いほうのファン・デ・フェルデのものであることを示す署名がある。

国民が絵に意味を与える

20. ヤン・アッセレイン《脅かされた白鳥》(1650年ごろ)

脅かされた白鳥
脅かされた白鳥ヤン・アッセレイン, 1650, アムステルダム国立美術館

白い白鳥が水辺の低い岸で伸びあがり、翼をほぼカンヴァスいっぱいに広げていて、右の翼の先は画面の端で切れている。首は曲がり、頭は左を向き、オレンジ色の嘴は舌が見えるほど大きく開かれ、水かきのある黒い足は大きく踏んばっている。左下の隅、見落としやすいところでは、黒っぽい巻き毛の犬の頭が水から現れ、歯をむいて赤い舌を見せていて、そばには抜けた羽根が浮かんでいる。右の枯れた葦の巣には、青白い卵が一つある。

絵には暗い色の大文字で三つの銘がある。犬の頭の上にはオランダ語で国家の敵、白鳥の両足のあいだの岸には法律顧問、卵のまわりにはホラントと書かれている。技術調査によれば、これらの銘は画家の死後に加えられた。アッセレインは1652年にアムステルダムで亡くなり、ヤン・デ・ウィットがホラント州法律顧問になったのは1653年である(18番)。銘が書かれたのは、おそらく18世紀だった。銘は犬をただ国家の敵と呼んでいるだけで、一部の歴史家はそこにウィレム3世を見ている。

アッセレインが1630年代の終わりから1640年代の初めにかけて暮らしたローマで、ネーデルラントの画家たちのローマの仲間うちは、彼の左手が不自由だったことから、彼を小蟹と呼んだ。1647年までに彼はアムステルダムに戻り、そのころレンブラントが彼の肖像をエッチングにした。一匹の動物をこれほど大きく描いた絵はアッセレインにはほかになく、彼が描いたのは主にイタリアの風景だった。

脅かされた白鳥
脅かされた白鳥ヤン・アッセレイン, 1650, アムステルダム国立美術館

1800年6月11日、アムステルダムの商人ヤン・ヒルデメースターのコレクションの売り立てで、この競売の仲買人の一人コルネリス・セビレ・ロースが、白鳥を95ギルダー、手数料を含めてちょうど100ギルダーで買った。のちにデ・ウィット兄弟の遺体の絵の前にカーテンを掛けるよう求めた、あのロースである。彼が買ったのは、その11日前にハーグの接収された宮殿ハウス・テン・ボスで開館したばかりの国立美術ギャラリーのためで、白鳥はギャラリーの最初の購入品になった。

21. ヤン・ウィレム・ピーネマン《ワーテルローの戦い》(1824年)

ワーテルローの戦い
ワーテルローの戦いヤン・ウィレム・ピーネマン, 1824, アムステルダム国立美術館

アムステルダムの画家ヤン・ウィレム・ピーネマンは、その三年前にカトル・ブラの戦いで戦うオラニエ公の絵で名を上げていて、1821年2月、ワーテルローを描くためにロンドンへ渡った。ウェリントン公は彼のために30人ほどの将校の名簿をつくり、自邸アプスリー・ハウスに部屋を与え、秘書に命じて将校たちをモデルとして呼び寄せさせ、愛馬コペンハーゲンを田舎から連れてきた。ピーネマンが馬に見つめられて落ち着かないでいると、ウェリントンは、画家に必要なのはまさにその姿なのだからと、自分が馬にまたがろうと申しでた。将校たちは、戦いの日に着ていた軍服を彼に貸した。四か月後、ピーネマンは少なくとも14点の写生による肖像を携えてアムステルダムに戻り、前もって注文しておいたカンヴァスのために、庭に木造のアトリエを建てた。

ピーネマンはこの絵を注文なしに、自分の責任で描いていて、アムステルダム国立美術館の学芸員ミハエル・プッターの見方では、イギリスで展示して売るつもりだった。同時代の人々の証言から判断すると、ウェリントンは絵が自分のものになると思っていた。1824年の春、オラニエ公がアトリエを訪れ、その場で、画家の言い値の何倍にもあたる4万ギルダーを申しでたが、代金を払ったのは父の国王ウィレム1世で、王はこの絵を息子への贈り物にした。これはアムステルダム国立美術館で最も大きな絵で、高さは5メートル半を超え、幅は8メートルを超える。

美術館は、プロイセン軍が救援に向かっているとウェリントンが知る瞬間だと説明している。この戦いに勝ったのは、ウェリントンの連合軍とプロイセン軍だった。中央では、帽子をとったウェリントンが額に白い流星のある栗毛の馬にまたがり、伸ばした手に黒い三角帽を持っている。その後ろには赤い軍服の幕僚たちが並び、左では真鍮の兜の騎兵たちが、金の鷲のついた鹵獲したフランス軍の軍旗二本を頭上に掲げていて、手前の旗にはフランス語で皇帝ナポレオンと読める。左下の隅では、赤いジグザグ模様の灰色の毛布をかけた担架の上で、金の飾り紐のついた軽騎兵の上着を着た青白い負傷したオラニエ公が身を起こし、こちらを見ていて、手前には戦死者が横たわっている。一部の研究者は、ピーネマンが勝利へのオランダの貢献を強く打ちだすために、負傷したオラニエ公をわざと前景に置いたと考えている。一方プッターは、この絵をなによりもイギリスの将校たちの集団肖像画として読み、そのなかで公はほとんど目立たないとしている。1825年にはロンドンの新聞が、オランダの画家が公を前に押しだしたやり方を、愛国的なアナクロニズムと呼んだ。

ワーテルローの戦い
ワーテルローの戦いヤン・ウィレム・ピーネマン, 1824, アムステルダム国立美術館

1824年の夏、ピーネマンは自分のアトリエで入場料をとってこの絵を見せ、新聞は、すでに売れた作品で稼いでいると彼を非難した。1825年には絵をロンドンへ運び、ハイド・パークにこの絵のために建てた展示館で見せ、それからヘントへ運んだ。ピーネマン自身は、これらの展示で6000ギルダー以上を失い、得たのは名声だけだったと語っている。

22. ニコラース・ピーネマン《デ・コック中将によるディポヌゴロの逮捕》(1830〜1835年ごろ)

デ・コック中将によるディポヌゴロの逮捕
デ・コック中将によるディポヌゴロの逮捕ニコラース・ピーネマン, 1830, アムステルダム国立美術館

1830年3月28日、ラマダンの終わりに、ジャワの王子ディポヌゴロは、身の安全を保証するという約束を得て、マゲランにあるオランダの理事官の館へ交渉に出向いた。ディポヌゴロとその支持者たちは五年にわたってオランダの植民地軍と戦っていて、このジャワ戦争では、およそ20万人のジャワ人が命を落とした。その多くは民間人で、飢えで死んだ人も多かった。交渉の席でディポヌゴロは、自分をジャワのイスラムの君主として認めるよう求め、ヘンドリック・デ・コック中将は彼の逮捕を告げた。王子は流刑に処され、1855年にマカッサルで亡くなった。

美術館の記録では、この絵を注文したのはデ・コック自身である。描いたのは、ヤン・ウィレム・ピーネマン(21番)の息子ニコラース・ピーネマンで、20歳を少し過ぎたばかりの、ジャワに一度も行ったことのない画家だった。右には、赤い瓦屋根と白い円柱のベランダのある明るい色の家が立ち、屋根の上には赤白青の旗がひるがえり、戸口の上にはライオンのついた紋章が刻まれている。金の肩章のついた濃紺の軍服のデ・コックは、玄関の階段のいちばん上の段に立ち、左手を腰に当て、右手で左を指している。その先、群衆の向こうでは、屋根つきの馬車が待っている。緑のターバンに長い白い衣のディポヌゴロは階段の下に立ち、顔を上げて眉をひそめていて、その足もとには女たちがひざまずき、彼の前の砂の上には赤い房のついた槍が積まれている。

デ・コックの一族はこの絵を75年ほど手もとに置き、1907年、デ・コック男爵がアムステルダム国立美術館に寄贈した。美術館は長いあいだこの絵を《デ・コック男爵中将へのディポヌゴロの投降》と呼んでいて、額にはさらに古い題名《反乱の首謀者ディポヌゴロのデ・コック中将への投降、ジャワ戦争の終結》が記されている。今の題名は《逮捕》である。

デ・コック中将によるディポヌゴロの逮捕
デ・コック中将によるディポヌゴロの逮捕ニコラース・ピーネマン, 1830, アムステルダム国立美術館
ディポヌゴロ王子の逮捕
ディポヌゴロ王子の逮捕ラデン・サレ, 1857, グドゥン・アグン

1857年、20年以上ヨーロッパで暮らしたジャワの画家ラデン・サレが、自分の《ディポヌゴロ王子の逮捕》を描いた。この絵では王子とデ・コックが同じ高さに立ち、ディポヌゴロは怒りを抑えて将軍をまっすぐ見すえていて、オランダの旗は描かれていない。サレはこの絵を国王ウィレム3世に贈り、絵は1978年にインドネシアに返還された。今はインドネシア大統領宮殿のコレクションに属し、2014年からはジョグジャカルタの宮殿に保管されている。

近代の町と、町が美術館に贈ったもの

白い着物の少女
白い着物の少女ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー, 1894, アムステルダム国立美術館

23. ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー《白い着物の少女》(1894年)

1893年にジョージ・ヘンドリック・ブライトナーのモデルを務めはじめたとき、ヘーシェ・クヴァクは16歳だった。美術館は彼女を女中としているが、ほかの資料では帽子店の売り子とされていて、美術館は彼女の名に「おそらく」という言葉を添えている。ブライトナーは雨のアムステルダムの街路、工事現場、労働者や馬の絵で知られ、速く荒々しく描き、モデルを手持ちのカメラで撮影して、あとで写真をもとに描いた。1892年、ハーグの芸術家協会ハーグセ・クンストクリングで日本の版画の展覧会を見た彼は、着物と屛風を買いこみ、およそ三年のあいだに、赤や白や青の着物を着た娘たちの絵を13点描いた。手紙のなかで、彼はそれらの絵の娘たちを日本娘と呼んでいる。

少女はソファの上に、右上の隅から下の縁の中央へ斜めに横たわっている。右腕を頭の後ろにまわし、左手で頬を支えて、鮮やかな黄色のクッションに重ねたオリーブ色がかった茶色の大きなクッションにもたれ、まっすぐこちらを見ている。着物は銀色がかった白で、幅の広い筆で描かれ、袖には黒い枝に赤い梅の花が散り、長い袂は体の両側に二枚の布のように垂れている。赤が見えるのは、袖口の裏地と襟もとの細い帯だけである。後ろには花と蝶を散らしたほとんど黒い折りたたみの屛風があり、左上の隅には赤い絵の具でブライトナーの署名がある。2016年の調査で、ブライトナーが別の絵の上に描いていたことがわかり、着物の少女の下からは、体つきの違う座った女性、おそらくは裸の女性が現れた。

当時のある批評家は、花柄の衣装をまとって頭をクッションにのせた日本の女たち、いかがわしい様子で恥じらいのない姿勢をとる女たちについて書いている。収集家ジャン・シャルル・ドルッカーと妻マリア・ドルッカー=フライザーは、1919年にほかの70点の絵とともに《白い着物の少女》をアムステルダム国立美術館に託し、1944年に美術館に遺贈した。二人のコレクションのために、早くも1909年に美術館の建物には別棟が増築されていた。

自画像
自画像フィンセント・ファン・ゴッホ, 1887, アムステルダム国立美術館

1895年7月、ヘーシェ・クヴァクは姉妹の一人とともに南アフリカへ渡り、1899年に22歳でその地で亡くなった。おそらく結核だった。

24. フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》(1887年)

アンドリース・ボンゲルは1879年からパリで働き、そこでテオ・ファン・ゴッホと親しくなって、妹のヨハンナを彼に引きあわせ、テオは1889年に彼女と結婚した。フィンセントは彼をアンドレと呼んでいた。1893年までにボンゲルはこの自画像を持っていて、美術館の記録では画家自身が贈ったものとされているが、贈られた時期は研究者にもつきとめられていない。ボンゲルはオディロン・ルドン、エミール・ベルナール、セザンヌ、ファン・ゴッホを集め、1936年1月に亡くなり、同じ年、未亡人のフランソワーズがこの肖像をアムステルダム国立美術館に寄贈した。アムステルダムにあるファン・ゴッホの絵の大部分は彼の家族のコレクションから来たもので、1973年に開館したファン・ゴッホ美術館にあるが、この自画像はアムステルダム国立美術館自身の所蔵品である。

フィンセント・ファン・ゴッホは1886年にアントウェルペンからパリへやって来た。それまで彼は、ブラバントの村ヌエネンで、暗い土色の絵の具を使って描いていた。パリでは画商の弟のところに住み、印象派と新印象派の絵を見て、自分自身をたくさん描いた。自分がいちばん安上がりなモデルだったからである。美術館によれば、テオは彼にフランスの新しい明るい絵画のことを話していて、パリでフィンセントはその手法を自分の自画像で試しはじめた。1888年2月、彼はアルルへ移った。

この肖像は厚紙に描かれている。頭は斜め四分の三ほど左を向き、緑の目がこちらを見ていて、頭にはつばの広い灰色のフェルト帽をかぶっている。赤い顎ひげは細かい縦の筆触で置かれ、顔は短いピンク、オレンジ、緑、クリーム色の線でできていて、その線が目のまわりに扇のように広がり、鼻すじに沿って流れ落ちている。彼は白い立ち襟に鮮やかな青のネクタイを締めていて、美術館は彼を流行の装いのパリの人と呼んでいる。茶色の上着にはツイードのように色とりどりの短い線が散り、青緑の背景は、右上から左下へ向かう短い斜めの筆触で塗られている。

ボンゲルの未亡人は、ファン・ゴッホの自画像と一緒に、エミール・ベルナールの1897年の自画像も美術館に贈った。その絵には、オランダの友人たちへという献辞が書かれている。

自画像
自画像フィンセント・ファン・ゴッホ, 1887, アムステルダム国立美術館

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旗手
旗手レンブラント, 1636, アムステルダム国立美術館

25. レンブラント《旗手》(1636年)

2019年、エリー・ド・ロスチャイルドの相続人たちが《旗手》を売ることに決めると、フランスはこの絵を国宝に指定して30か月のあいだ国外への持ちだしを止めたが、ルーヴル美術館は資金を集められず、購入をあきらめた。2021年12月、オランダ政府は1億7500万ユーロでこの絵を買うと発表した。国が1億5000万、レンブラント協会が1500万、アムステルダム国立美術館の基金が1000万を出した。議会では、なぜ金がクック諸島の信託に流れるのかが問われ、パンデミックで劇場や美術館が損失を出しているときにこれほどの額を使ってよいのかを疑う声も出た。議会はこの絵をすべての州で見せるよう求め、2022年5月から2023年4月まで、絵はレーワルデンからマーストリヒトまで、国内12の美術館に三週間ずつ掛けられた。2023年6月14日、アムステルダム国立美術館では、生徒たちがこの絵を迎えた。

フランスのロスチャイルド家が《旗手》を所有したのは1840年からで、その年、ジェームス・ド・ロスチャイルド男爵がロンドンの競売で840ポンドで買った。それ以前は、イギリス国王ジョージ4世の持ち物だった。2016年には、オランダとフランスがすでにロスチャイルド家から、レンブラントの対になった二枚の肖像、マールテン・ソールマンスとオープイェ・コピットの肖像を共同で買っていて、それ以来、アムステルダム国立美術館とルーヴル美術館がこの二点を共同で所有している。

レンブラントは30歳ほどで、その二年前にサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚していた。絵の男は、研究者たちがレンブラント自身の面影を見ている人物で、腰の少し下まで描かれ、百年前の衣装を着て、まっすぐこちらを見ている。右肘を横に張りだして手のひらを腰に当て、頭には、つばの縁に飾りのあるビロードのベレー帽をかぶり、そこに金色がかった茶色の長いダチョウの羽根が挿してある。首には鋼の喉当てがある。カンヴァスの上端から彼の背後に、淡い灰色の旗が大きな襞をつくって垂れ、肩に掛かっていて、彼は左手で腰のあたりの旗の布をつかんでいる。光は左上から顔と旗とふくらんだ袖に当たり、ほかは茶色とオリーブ色のなかに沈んでいる。

美術館はこの絵を、レンブラントの芸術上の飛躍と呼んでいる。描かれたのは、やはり旗手が登場する《夜警》の六年前である。美術史家エリック・ヤン・スライテルはこの絵に喜劇、つまりうぬぼれた芝居がかった旗持ちの姿を見ていて、織物の専門家たちの話を引き、旗は飾りのついた大きな亜麻のシーツに似ているという。

旗手
旗手レンブラント, 1636, アムステルダム国立美術館

25点のあとに

ここで選んだのは、誰が代金を払い、誰が手を加え、誰が所有を求めて争ったのかが見てとれる作品で、アルクマールの救貧院から、ロスチャイルド家からレンブラントを買った政府にまでおよんでいる。二度目に訪れるなら、ヤーコプ・ファン・ロイスダールの《ワイク・ベイ・ダウルステーデの風車》、ヤン・ステーンの《聖ニコラウスの祝日》、ヘールトヘン・トット・シント・ヤンスの《東方三博士の礼拝》、レンブラントの《使徒パウロに扮した自画像》を探すとよい。絵画以外のものなら、デルフト焼、船の模型、アジア館の寺院の守護神像から見はじめるのがよい。

ワイク・ベイ・ダウルステーデの風車
ワイク・ベイ・ダウルステーデの風車ヤーコプ・ファン・ロイスダール, 1670, アムステルダム国立美術館
聖ニコラウスの祝日
聖ニコラウスの祝日ヤン・ステーン, 1665, アムステルダム国立美術館
東方三博士の礼拝
東方三博士の礼拝ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス, 1480, アムステルダム国立美術館
使徒パウロに扮した自画像
使徒パウロに扮した自画像レンブラント, 1661, アムステルダム国立美術館