ルーヴルが公開の美術館になったのは1793年8月10日、王政が倒れてちょうど一年目の日だった。この日付は意図して選ばれている。フランス国王の宮殿が、国王の打倒を祝うその日に市民へ開かれ、王家のものだったコレクションは国民の財産と宣言されたのである。もっとも、はじめの数年の「公開」はいまとは意味が違った。共和暦の一週間は十日あり、その半分は展示室が画家や模写をする人たちのために使われ、一般の人が入れたのは三日、残る二日は清掃にあてられていた。
現在ルーヴルには約50万点の所蔵品があり、およそ3万点が展示されている。一度の訪問ですべてを見ることはできないので、ここでは25点を選び、時代を追ってたどっていく。始まりは4500年前のエジプトの彫像、終わりは1830年のバリケードである。
01. 19世紀にフランスが掘り出したもの
ルーヴルの話はたいてい《モナ・リザ》から始まるが、宮殿の収蔵品は、この絵が館の目玉になるずっと前から増え続けていた。コレクションのかなりの部分は19世紀の発掘によってもたらされたものだ。エジプトやメソポタミア、オスマン帝国の領内に駐在したフランスの領事や外交官が発掘を組織して費用を出し、地元の作業員を雇い、出土品を自ら選んでパリへ送った。まずはそうして来た五点から始めよう。このリストのほかのどの作品よりも古いものばかりである。
1. 書記座像
この像の目は四種類の素材を組み合わせてできている。白目は白いマグネサイト、虹彩は磨いた水晶で、水晶の奥には瞳の代わりに暗い下地が置かれ、縁にはまぶたの代わりに銅の枠がはめ込まれている。
こうした作りにしたのは、像を間近で見るためである。離れて見ると目はただの石にしか見えないが、近づくと水晶が光をとらえ、像の視線が見る者を追ってくる。そう意図して作られたのは確かだが、像がどこに置かれていたのかはわかっていない。見つかったのはメンフィスに近いサッカラの墓地遺跡で、その発掘の記録は失われ、発見の状況もよくわからないのである。おそらく墓の副葬品の一部で、墓を訪れる人々に向けて置かれていたのだろう。


像そのものは彩色した石灰岩で、高さは54センチ弱。男はあぐらをかいて座り、膝の上にパピルスを広げ、背筋を伸ばして顔を上げている。エジプトの彫刻は体を理想的な姿に整えることができたのに、この像ではなぜかそうしていない。腹は少し出て、顎は重く、顔は若くない男のものだ。右手は筆記用の葦のペンを持つ形に握られているが、その手にペンはない。
この人物が誰なのかはわからない。「書記」というのは便宜上の呼び名で、像のそばからは名前も称号も見つからなかった。エジプトで文字を書けることは高い身分のしるしであり、それが職業だったとは限らない。
像を発見したのは1850年、フランスのエジプト学者オーギュスト・マリエットである。コプト語の写本を求めてエジプトに来た彼は、そのまま残って発掘を指揮した。四年後、ルーヴルがこの像を購入した。そのマリエットが1858年にエジプト考古局の長となり、出土品の国外持ち出しを禁じる措置を実現させている。

2. ハンムラビ法典碑
高さ2.25メートルあまりの黒っぽい石の柱に、上から下まで楔形文字がびっしり刻まれている。あまりに整然と密に並んでいるので、数歩離れると文字は織物の模様のように見える。文字の上には浮彫があり、手を挙げて挨拶する王が、座った太陽神シャマシュの前に立っている。神は王に杖と輪を差し出し、その肩からは炎が立ちのぼる。一方は座り、一方は立っているのに、二人の顔は同じ高さにある。
その下に並ぶのが法の条文で、字の読めるわずかな人々に向けたものだった。借金、傷害、結婚、雇われた牛、崩れた家、船頭への支払いについて、数百の条項がある。上の浮彫は、それ以外のすべての人に向けられていた。当時のバビロニア人にとって、この図に説明はいらなかった。意味するところはひとつしかなかったからである。法を定めたのは、神の手から権力を授かった王だということだ。
メソポタミアではハンムラビ以前にも法典は編まれており、なかには300年も前のものもある。ただしそれらは粘土板に書かれ、宮殿の文書庫に保管されていた。ハンムラビの法は石に刻まれ、誰もが見られる場所に立てられた。
石碑が刻まれてから600年後の紀元前1155年ごろ、エラムの王シュトルク・ナフンテはバビロニア軍を破ってバビロンを奪い、価値ありと見たものをことごとく持ち去った。この石碑もそのひとつである。王は現在のイラン南西部にあった自らの都スサで、浮彫の下の法文を七欄削り取らせ、自分の戦勝を記す碑文のための場所を空けさせた。その碑文は結局刻まれず、正面の下のほうには空白の区画が残って、そのまわりを条文が続いている。
石碑を見つけたのはジャック・ド・モルガン率いるフランスの考古学調査団で、1901年から1902年にかけての冬、スサで三つに割れた状態で出土した。破片はパリに送られて接合され、1904年からルーヴルで展示されている。
3. コルサバードのラマッス

この牡牛には脚が五本あり、五本目は彫り手が意図して加えたものである。
人の頭をもつ有翼の牡牛は、紀元前721年から705年までアッシリアを治めたサルゴン2世のために彫られた。据えられたのは、王が新たに築き、自らの名をとってドゥル・シャルキンと名づけた都の宮殿である。頭は髭をたくわえた人間で、胴は牡牛、翼は脇腹に沿って畳まれ、頭には角のついた冠をかぶっている。
牡牛は門に立ち、二つの位置から見られた。正面からは、揃えて置かれた二本の前脚が見え、獣はその場に立ちはだかって通路をふさいでいる。横に回ると、歩みを進める四本の脚が現れ、牡牛は通路に沿って歩いている。嘆願や交渉や降伏のためにサルゴンの宮殿に入る者は、まず立ちはだかる獣に行く手をふさがれ、門を抜けてからは、その獣が歩いている姿を目にしたわけである。
この像がルーヴルに来たのは、モスル駐在のフランス領事ポール=エミール・ボッタの手によってである。ボッタは1843年にコルサバードで発掘を始め、持ち出すものを自分で選び、1846年に選んだ品々をパリへ送った。

次の積荷はそれほど運に恵まれなかった。1855年5月、アッシリアの彫刻を載せた筏がティグリス川を下っていたところ、クルナの近くで地元の部族に襲われた。積荷の大半は沈み、いまも川底にある。何がどれだけ沈んだのか、正確なところはわかっていない。
4. サモトラケのニケ
この彫刻には風が見える。右脚は前に踏み出して力がこもり、濡れた布が腿に張りついてその形をなぞる。反対側では同じ布が体から引きはがされ、翼のあいだを長い裾となって後ろへなびいている。胴は翼とは逆向きにひねられ、胸は前へ突き出されている。女神は空から舞い降りて、いま船首に足を下ろそうとしているところだ。
像が彫られたのは紀元前190年ごろ、素材はパロス島産の大理石で、サモトラケ島の大いなる神々の聖域に奉納された。頭と両腕は失われているが、いつ失われたのかはわからない。頭はついに見つからなかった。一方、右手の先は1950年にサモトラケで見つかり、像のそばに展示されている。それでも動きの感覚はほとんど損なわれていない。その感覚を生んでいるのは、ポーズと布の表現だからである。
聖域では像は高く掲げられ、この地の秘儀に入信するために訪れた人々の頭上にあった。その秘儀について伝わっていることはわずかしかない。人々は像を下から、遠くから、空を背にして見上げていた。
パリに着いたとき、像は破片の山だった。発掘に熱中していたアドリアノープル駐在のフランス副領事シャルル・シャンポワゾーが、1863年にサモトラケでこの像を掘り出し、ルーヴルへ送ったのである。像が立っていた船首の灰色の大理石ブロックは、建材の瓦礫だと思って島に置いてきてしまい、取りに戻ったのは1879年になってからだった。すべてが組み上げられたのは1880年代で、像は大階段の上の踊り場に据えられた。そのためいまも、聖域にいたときと同じように、下から、距離をおいて見上げることになる。
左の翼は古代から残ったもので、右の翼は美術館に来てから、左の翼を左右反転させた形に石膏で鋳造して補ったものである。
5. ミロのヴィーナス
1820年、ミロス島の農民が土の中から大理石の女性像を掘り出した。その話を聞きつけたのはフランスの海軍士官で、リヴィエール侯爵が像を買い取ってルイ18世に献上し、王は1821年にそれをルーヴルに与えた。時機がよかった。その五年前、ナポレオン時代に集められた美術品が解体されてヨーロッパ各地へ返されたとき、かつてフィレンツェから運び出されていたメディチのヴィーナスもパリからトスカーナへ戻っていた。当時、大陸でもっとも名高い古代のヴィーナスとされていた像である。ルーヴルは古代の美を代表する像を失っており、新しい像がその座に迎えられた。

それから像は売り込まれていった。版画に刷られて広まり、専門の出版物で詳しく論じられ、名だたる考古学者や批評家が次々に、古代彫刻の最高峰のひとつだと宣言した。美術館に入って一年ほどで、この像はもうルーヴルのある展示室の天井画に描かれていた。
背丈は2メートルを少し超える。女性は腰のところで体をひねり、布は腰から滑り落ちかけて、落ちる寸前で止まっている。腕は失われ、その手に何を持っていたのかはわからない。そもそもヴィーナスなのかどうか、ミロス島のどこに立ち、何のための像だったのかも不明である。さまざまな復元案が、その手にリンゴ、鏡、盾、槍、あるいは自分の衣の端を持たせてきたが、そのたびに別の像ができあがった。
その一方で、どう作られたかはわかっている。こうした像に使う大理石が、必要な大きさの一塊で手に入ることはまれだった。そのためこの像はいくつかのブロックを組み合わせて作られ、継ぎ目は腿のあたりを通り、衣の襞の下に隠されている。
02. 最初の絵画と、ドゥノンという男

6. チマブーエ《マエスタ》
聖母は幼子を膝にのせて玉座に座り、その玉座を六人の天使が宙に支えている。天使は左右に三人ずつ、上下に段をなして並ぶ。背景は一面の金地で、顔は細長く、衣の襞は絵具の上に金の線で引かれている。板の高さは4メートルを超え、1280年ごろ、ピサのサン・フランチェスコ聖堂のために描かれた。
チマブーエは、イタリアで数世紀にわたって受け継がれてきたビザンティン様式で描いた。空間の代わりに金地を置き、ポーズは厳格で、奥行きはない。とはいえ彼の天使たちは一人また一人と段をなして重なり、玉座は奥へと退いていく。一世代のちには、弟子のジョットが違う描き方を始める。ジョットの人物は重さと量感を得て、空間の中に場所を占め、人間らしくふるまうようになる。それでも金地がなくなったわけではなく、ルーヴルにあるジョットの《聖痕を受ける聖フランチェスコ》も金地の上に描かれている。
《マエスタ》がパリに来たのは1812年である。ナポレオン軍がイタリアを占領すると、軍の後から委員たちがやって来て、ルーヴルに生まれつつあった美術館のために作品を選び出した。その仕事を指揮したのが、美術館の館長であり版画家で外交官でもあった、絵画に明るいドミニク・ヴィヴァン・ドゥノンである。ドゥノンは名高いヴェネツィアやローマの画家の作品だけでなく、イタリアのプリミティヴと呼ばれる13、14世紀の画家たちの作品も運び出した。当時のヨーロッパでは、彼らは本物の芸術の前に現れた未熟な先駆者とみなされ、収集する人はほとんどいなかった。
ワーテルローの後、連合国はフランスに、持ち去った品の大半を返させた。《マエスタ》は返されなかった。ピサは引き取りに来ず、フランス側もそれを促さなかったからである。ドゥノンは全体として、求められたよりも目に見えて少ない数しか返しておらず、どうやってそうしたのかはこの先で見ることになる。

7. ヤン・ファン・エイク《ロランの聖母》
画面の左半分には、錦の衣をまとった年配の男がひざまずき、その前には本が開かれている。右半分には幼子を抱いた聖母が座り、天使がその頭上に冠を差しかけている。二人はちょうど板の半分ずつを占め、同じ大きさで描かれ、向かい合い、同じ床の上、同じ開廊の中にいる。
男の名はニコラ・ロラン。ブルゴーニュの宰相、つまりフィリップ善良公のもとで第一の地位にあった人物で、当時もっとも裕福な人々のひとりだった。注文主が絵に描かれること自体は以前からあったが、彼らは画面の隅に置かれ、聖人よりはっきり小さく描かれて、身分の違いがひと目でわかるようにされていた。ロランは自分を聖母と対等に描かせ、望みどおりの絵を手に入れた。彼がこの絵を注文したのは1435年ごろ、故郷の町オータンの教会のためで、絵は革命までそこにあり、1800年にルーヴルへ移された。
ファン・エイクは油絵具を薄く透明な層に重ねて描き、驚くほど精密な描写を実現した。66×62センチしかない板に、毛皮の縁取りの一本一本の毛、本の文字、タイル張りの床の模様、冠の宝石までが描き込まれている。
開廊の柱の向こうには町が広がる。中州のある川、人々が渡っていく橋、屋根、塔、畑、そして地平線の山並み。この町はさまざまな場所を寄せ集めたもので、地図の上には存在しないが、個々の建物には見覚えのあるものもある。橋の上の人影は米粒ほどの大きさなのに、誰がどちらへ向かっているのかまで見分けられる。
8. ジョルジョーネまたはティツィアーノ《田園の奏楽》
二人の若い男が草の上に座り、ひとりはリュートを抱えて、互いに話し込んでいる。そばには裸の女が二人いて、ひとりはガラスの水差しから井戸へ水を注ぎ、もうひとりはこちらに背を向けて座り、笛を手にしている。男たちは女たちを見ておらず、どうやら彼女たちの姿が見えていないらしい。
女たちはおそらくミューズか、音楽そのものの擬人像で、見る者にだけ見えている存在なのだろう。この絵も、こうした謎を好み、解くすべを心得ていたヴェネツィアの目利きたちの狭いサークルのために描かれたと考えられる。決定的な解釈はいまも出ていない。
作者をめぐる論争は200年以上続いている。長いあいだこの絵はジョルジョーネの作とされてきた。1510年にペストのため33歳前後で亡くなったヴェネツィアの画家で、残した作品は十点に満たず、そのどれにも署名していない。その後、筆致を丹念に分析した結果、多くの研究者がこの絵を若きティツィアーノに帰すようになった。ティツィアーノはジョルジョーネの弟子であり仲間でもあって、師の死後、その未完の絵を仕上げた人物である。現在ルーヴルはティツィアーノの作としているが、意見は一致しておらず、ジョルジョーネ説を守る専門家や、二人の共作とみる専門家もいる。
この絵がフランス王室のコレクションに入ったのは1671年、ルイ14世が、資金繰りに窮していたケルンの銀行家エバーハルト・ヤーバッハのコレクションを買い取ったときである。この名前にはもう一度出会うことになる。
03. 何も手放さなかったレオナルド

9. レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》
1483年、ミラノの無原罪の御宿り信心会は、サン・フランチェスコ・グランデ聖堂にある自分たちの礼拝堂のために、大きな祭壇画をレオナルドとデ・プレディス兄弟に注文した。契約書には納期と報酬、さらに額縁の金箔張りまで細かく定められていた。そこから始まった金銭をめぐる争いは20年以上も続き、裁判沙汰になり、フランス王への請願にまで及んだ。
これだけの騒ぎのもとになった絵は、こんな姿をしている。薄暗い洞窟で聖母がひざまずき、片手で幼い洗礼者ヨハネを抱き寄せ、もう一方の手を幼子キリストの頭上にかざしている。キリストは地面に座り、手を挙げてヨハネを祝福している。その横で天使がキリストの背を支え、指でヨハネを指し示す。人物たちの背後には水に削られた岩が連なり、その切れ目から水面と霞んだ光がのぞく。
レオナルドの描いた洞窟は、長年の観察に裏づけられている。彼は何年にもわたって地質や水の動き、岩の浸食について書き留めており、この絵の岩は、本物の岩が積み重なるとおりに積み重なっている。
争いの原因が正確に何だったのかはわかっていない。説はいくつかある。画家が約束以上の額を求めたと信心会が考えたとも、納品が遅れたとも、絵が注文どおりでなかったともいわれる。人物には光輪がなく、どれがどの聖人かは身振りでしか見分けられないのである。

結局、礼拝堂に掛けられたのは同じ構図の第二の版で、こちらには光輪があり、ヨハネは十字架を手にしている。この版は現在ロンドンにある。最初の版がどうなったのかは、文書からはわからない。訴訟が終わるより前にミラノを離れ、17世紀にはすでにフォンテーヌブローのフランス王室コレクションに記録されている。どういう経路でそこに入ったのかは不明である。
10. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》
レオナルドは《モナ・リザ》も同じように扱い、注文主の手に渡さなかった。
肖像の女性はほぼ間違いなく、フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニで、レオナルドはおそらく1503年ごろ、夫の注文でこの絵を描き始めた。仕上がった絵をレオナルドは手元に置き、移り住むたびに持ち歩き、その後も長年手を入れ続けた。彼がこうしたのは一度ではなく、注文主たちはそのたびに途方に暮れた。1516年、レオナルドはフランソワ1世の招きでフランスへ移り、肖像も一緒に運ばれた。王がこれを手に入れたのは、おそらく1518年である。以後この絵は王室の、のちには国家のコレクションに収まって、ほかの絵に混じって掛けられ、目利きや画家、収集家には知られていたが、400年近くのあいだ人だかりとは無縁だった。
あの微笑みについては、ヨーロッパ絵画のほかのどんな題材よりも多くのたわごとが書かれてきた。だから、この絵を別の角度から見てみたい。レオナルドは半透明の絵具を何十層も重ね、一層ごとに前より薄くし、境目をぼかして筆の跡がまったく見えないようにした。そのため唇や目の輪郭はにじんで溶けていく。背景の風景にも同じことがいえる。彼女の背後の岩や水、霞む遠景は地図上のどこにも存在せず、欄干から奥へ続く道もなく、頭の左側の地平線は右側よりはっきり低い。レオナルドは何年もかけて層を重ねながらこの絵を描いており、風景をひとつの土地としてまとめる必要はなかったのである。

そして1911年8月21日の月曜日、ヴィンチェンツォ・ペルージャがこの板絵を館外へ持ち出した。彼はルーヴルの請負仕事で絵に保護ガラスを取りつけていたイタリア人のペンキ職人で、以前にもこの絵を手にしたことがあった。美術館は月曜が休館日だった。ペルージャはサロン・カレの壁から板を外し、職員用の階段で額から抜き取って服の下に隠し、そのまま出ていった。絵は写真撮影のために運び出されたのではない、と館の者が気づくまでに、丸一日以上かかった。
展示室が再開されると、人々は絵が掛かっていた場所を見に押し寄せた。壁は空っぽで、四本の鉄の鉤が突き出ていた。1911年の秋、訪れた人の中にはフランツ・カフカとマックス・ブロートもいた。二人はわざわざこの空白を見に来て、のちにそのことを書いている。空っぽの壁を見に来た人は、前年に絵そのものを見に来た人より多かったとよく言われる。誰かが数えたかのような口ぶりだが、数えた者はいない。記録に残る部分だけで十分だろう。世界でいちばん有名な絵の歴史のなかで、もっとも有名な時期は、絵がそこになかった二年間だった。
絵が見つかったのは1913年のフィレンツェで、ペルージャが古美術商に売ろうとしたときだった。裁判で彼は、イタリアの絵を祖国に返したかったのだと説明した。これは彼自身が自分の動機について語ったことで、以来さまざまに語り直されてきた。確かに言えることがひとつある。《モナ・リザ》はナポレオンの戦利品ではなかった。フランス王室のコレクションに入ったのは、ナポレオンが生まれる二世紀半も前のことである。
11. パオロ・ヴェロネーゼ《カナの婚礼》
《モナ・リザ》のすぐ後にこの絵を挙げるのには、単純な理由がある。毎日何千もの人が、この絵に背を向けて立っているのだ。幅十メートル近い画布は同じ展示室の反対側の壁に掛かっていて、ほとんど誰にも見られていない。
1563年から、この画布はヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂の奥の壁を覆っていた。ベネディクト会の会則に従い、修道士たちが黙って食事をするあいだ、ひとりが声に出して朗読していた。
絵の中の宴は騒がしい。楽師たちが広間の真ん中で演奏し、給仕たちは皿を手に欄干から身を乗り出し、食卓には犬が乗り、誰かがグラスを光にかざし、上のテラスでは獣がさばかれていて、客たちはみな一斉にしゃべっている。キリストは食卓の中央に座り、こちらを向いている。壺の水は彼の言葉によってたったいま葡萄酒に変わったところだが、宴に集う者のほとんどはそれに気づいていない。
手前の楽師たちのあいだには砂時計が置かれている。この細部は、毎日この絵の下で食事をした修道士たちに向けられていた。葡萄酒は皆に行きわたり、客たちは楽しそうで、砂は落ち続けている。修道士たちは食事のたびに、人生がいかに短いかを説く言葉を聞かされていたのである。
1797年、イタリア方面軍に随行したフランスの委員たちが、この画布を壁から外した。そのままでは運び出せなかったので、いくつかに切り分けて巻き、パリまで運んで、そこで縫い合わせた。ルーヴルはこれを隠していない。館自身の登録記録には、入手の経緯が「軍事的征服」と記されている。
ワーテルローの後、この絵は返還されるはずだった。連合国は略奪品をヨーロッパ各地へ送り返しており、ヴェネツィアも自分たちのものを求めた。そこでドゥノンは、この画布はすでに一度切断されているので、もう一度アルプスを越えれば持ちこたえられないと説明し、代わりにル・ブランの大作を差し出した。ヴェネツィアはル・ブランを受け取った。
ドゥノン自身がこの言い分を信じていたかどうかは、どこにも記されていない。
04. ローマの注文主
12. ミケランジェロ《瀕死の奴隷》と《抵抗する奴隷》
1505年、教皇ユリウス2世はミケランジェロをローマに呼び寄せ、自分の墓廟を注文した。サン・ピエトロ大聖堂の中央に独立して立つ三層の建造物で、40体あまりの彫像を備えるはずだった。ミケランジェロはカッラーラの石切場で八か月かけて大理石を選んだが、やがて教皇はこの計画への熱を失い、大聖堂そのものの建て直しに関心を移した。
そこから話は40年にわたって長引いた。ユリウス2世は1513年に亡くなり、遺族は契約どおりの仕事を求め、契約は六度書き直されて、そのたびに構想は小さくなった。ミケランジェロはこの一件全体を「墓廟の悲劇」と呼んでいる。1513年、遺族は規模を縮めた記念碑について彼と新たな契約を結び、この構想に合わせて彼は二体の奴隷像を彫り出した。その後も契約は何度も改められ、墓廟はさらに縮められて、1542年の最後の契約ではもはや二体の居場所はなくなっていた。最後はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の控えめな壁墓に落ち着き、当初の計画から残ったのは《モーセ》だけだった。
《瀕死の奴隷》は頭をのけぞらせ、寝起きに伸びをするような仕草で腕を頭の後ろへ回している。《抵抗する奴隷》は両腕を背中で縛られ、胴をねじって抗っている。その体の表面はところどころ仕上げられておらず、鑿の跡が残っている。
二体が何を表しているのかはわかっていない。ユリウス2世が征服した諸地方、教皇の死によって庇護者を失った自由学芸、肉体につながれた魂などの説が出されてきた。
1546年、ミケランジェロは二体を、ローマに亡命していたフィレンツェ人ロベルト・ストロッツィに贈った。ミケランジェロは彼の屋敷で二度病に伏したことがあった。ストロッツィは像をフランソワ1世に送り、王から大元帥アンヌ・ド・モンモランシーの手に渡った。1632年にその孫が反乱の罪で処刑されると、王家は領地を没収し、彫像をリシュリュー枢機卿に与えた。像はその子孫のもとで革命まで置かれていたが、当主が国外へ亡命すると亡命者の財産として没収され、1794年に二体の奴隷像はルーヴルに入った。

13. ラファエロ《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》
カスティリオーネは宮廷でのふるまい方について本を書いた。その根本の教えは、何事も苦労の跡を見せず、軽々とやってのけているように見せよ、というものだった。カスティリオーネはこの心得を、努力を隠したさりげなさを意味する独自の言葉で呼んでいる。『宮廷人』は1528年に刊行されてヨーロッパ中に広まり、ロンドンからクラクフまでの貴族がこの本で、話し方、冗談の言い方、装い方、そして負け方を学んだ。
肖像は1515年ごろ、ローマで描かれた。カスティリオーネはウルビーノ公の大使として教皇庁に仕えており、ラファエロとは友人だった。彼は体を斜めに向けて座り、黒い上着に灰色のビロードと毛皮をまとい、両手を下のほうで組み、まっすぐこちらを見ている。色はほぼ灰色と黒と白に絞られ、画面でただひとつ鮮やかなのは彼の目である。
本に書かれたあのさりげなさが、ここでは絵になっている。無造作に見えることに生涯を費やした男が、その無造作な自然さを描き出せる画家に肖像を注文したのだ。

その後、絵はアムステルダムに渡った。1639年にこの地で競売にかけられたとき、会場にはレンブラントがいた。彼はペンで手早くこの絵を写し、同じ紙に落札価格を書き留めた。その素描は残っており、手の組み方とまっすぐこちらを見る視線は、その後数年のうちに描かれた彼自身の自画像に受け継がれた。
このとき肖像を買ったのはスペインの商人アルフォンソ・ロペスで、絵はのちにマザラン枢機卿の手に渡り、枢機卿が亡くなった1661年にルイ14世のものとなった。
14. カラヴァッジョ《聖母の死》
この絵が描かれた聖堂の修道士たちは受け取りを拒んだ。何がそれほど彼らを遠ざけたのかは、いまもはっきりしない。
カラヴァッジョがこの絵を描いたのは1601年から1606年のあいだで、ローマのトラステヴェレ地区にあるサンタ・マリア・デッラ・スカラ聖堂のため、教皇庁の法律家ラエルツィオ・ケルビーニの注文によるものだった。聖母は台の上に横たわり、裸足で、赤い衣をまとい、体はむくみ、頭はのけぞっている。腹はふくらみ、片腕が垂れ下がる。まわりには使徒たちが立っている。重い顔つきの老人ばかりで、手で目を覆う者もいれば、ただ見つめている者もいる。手前右には若い女が座り、泣きながら体を二つに折っている。そのすべての上に巨大な赤い幕が垂れ、画面の上部三分の一を占めている。
聖堂に仕えていたカルメル会の修道士たちは、この絵を受け入れなかった。同時代の人々はさまざまな理由を挙げている。聖母の脚が不作法にあらわになっていること、むくんだ体、昇天をほのめかすものが何もないこと。聖母は娼婦をモデルにして描かれたという噂も流れた。この噂を書き留めたのは画家と同時代の人物だが、テヴェレ川で溺れた女の話が現れたのはもっと後のことで、どちらも確かめるすべはない。
受け取りを拒まれるとすぐ、画家仲間がこの絵の擁護に回った。当時マントヴァ公のためにローマで働いていたルーベンスが、雇い主にこの絵を買うよう勧め、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガはそれを買った。マントヴァへ送られる前に、ローマの画家たちはこの絵を一週間公開してほしいと願い出て、その展示には町じゅうの人が詰めかけた。
マントヴァからはイングランドのチャールズ1世のもとへ渡った。王が処刑されると、そのコレクションは売りに出され、この絵を買ったのがエバーハルト・ヤーバッハだった。1671年に《田園の奏楽》とともにそのコレクションをルイ14世が買い取った、あの銀行家である。
05. 自分の過去を注文する
15. ルーベンス《マリー・ド・メディシスの生涯》連作
1619年2月21日から22日にかけての夜、アンリ4世の未亡人で在位中のフランス国王の母であるマリー・ド・メディシスは、ブロワ城で監視下に置かれていた。彼女をそこへ送ったのは、ほかならぬ息子の政府である。その夜、彼女は窓から抜け出し、伝えられるところでは、縄梯子を伝って、馬を用意して待つ者たちのもとへ降りていった。
彼女は40歳を少し過ぎたばかりで、それまでこのようなことをしたことは一度もなかった。脱出は成功した。彼女はルイ13世に対して軍を起こして敗れ、交渉に入り、宮廷には戻れるが権力には戻れないという条件で息子と和解した。その三年後、彼女はヨーロッパでもっとも報酬の高い画家を雇った。
1622年から1625年にかけて、ピーテル・パウル・ルーベンスは彼女の新しいリュクサンブール宮殿のギャラリーのために、巨大なカンヴァス24点を描いた。そのうち21点は彼女自身の生涯を物語り、残る三点は彼女自身と両親の肖像である。大使、廷臣、親族、そして敵対者たちが、ギャラリーの端から端まで順に歩き、彼女の人生がどのようなものだったかを知ることになっていた。
その中に、ブロワ脱出の夜を描いた場面もある。黒い衣に白いヴェールの王妃が板張りの足場を降りてきて、金の兜をかぶったミネルヴァがその肩を支え、上では夜の女神が暗いマントを場面の上に広げている。左下では半甲冑をつけたエペルノン公が帽子を取り、王妃に手を差し出す。カンヴァスの中で実際にこの出来事に関わった人物は彼ひとりである。脱出を仕組んだのは公爵だったが、その夜の彼自身はロシュの近くで王妃を待っていた。絵の中には縄梯子も描かれていて、右上の隅でそれを伝って塔から降りているのは侍女である。


実際には夜中に壁をつたって降りた女性が、ここでは平らな板の上を落ち着いて降りてきて、女神に肩を支えられ、公爵に手を差し伸べられている。連作全体が同じ仕組みでできている。出来事はそのまま残し、危険と屈辱を神々の庇護に置き換えるのである。
ギャラリーは1625年に完成した。五年後、マリーはリシュリュー枢機卿との最後の争いに敗れ、1631年にフランスを去って二度と戻らず、1642年にケルンで亡くなった。ヨーロッパ中の債権者に借金を残したままだった。24点のカンヴァスはパリに残った。2026年5月からメディシスのギャラリーは一般公開を休止しており、連作全体が展示室の中でそのまま修復されている。作業にはおよそ四年かかる見込みである。
16. ジャック=ルイ・ダヴィッド《ホラティウス兄弟の誓い》
ローマの鎧をまとった三人の兄弟が、三本の剣を握る父に向かって腕を伸ばしている。脚を踏ん張り、背中に力をこめ、腕の線が画面を横切っている。右側には、彼らから離れて女たちが座っている。姉妹と母で、身をかがめ、力が抜けている。題材はティトゥス・リウィウスから取られた。ホラティウス家の三兄弟が、ローマのために隣の町の三兄弟と戦うと名乗り出たのだが、姉妹のひとりはその敵方のひとりと婚約していたのである。
ダヴィッドは1780年代の初めに王室の美術行政から注文を受け、1784年にこの絵を描くためにローマへ赴いた。そこで彼は取り決められた大きさを勝手に超えてカンヴァスを大きくし、納期を遅らせ、作品をパリに送る前にローマのアトリエで公開して、大勢の人を集めた。伝えられるところでは、1785年のサロンでこの絵ははじめ隅に掛けられ、その後観衆の求めで目立つ場所に掛け替えられたという。
すべてがこれ以上ないほど簡潔に描かれている。三つのアーチ、石の床、余計な細部はひとつもなく、光は鋭く、色は赤と茶と鋼の色に絞られている。それまでの数十年の華やかな絵画のあとでは、これは平手打ちのように見え、同時代の人々もまさにそう受けとめた。
四年後に革命が始まると、《ホラティウス兄弟の誓い》はその予兆として読まれるようになった。誓い、国家への義務、死をいとわぬ覚悟。この絵を注文し代金を払ったのは国王で、その国王は九年後に処刑され、ダヴィッドは国民公会の議員として処刑に賛成票を投じることになる。
17. ジャック=ルイ・ダヴィッド《ナポレオンの戴冠式》
同じ画家が、今度は別の権力のために描いた。1804年9月、ナポレオンはダヴィッドに、同じ年の12月2日にノートルダム大聖堂で行われた自らの戴冠式の絵を注文した。ダヴィッドは助手とともに1805年から1807年にかけてこの絵を描き、カンヴァスは高さ6.21メートル、幅9.79メートルに達して、150を超える人物が描き込まれ、その多くは誰なのか見分けがつく。
儀式はナポレオン自身が定めた順序で進んだ。彼は祭壇から冠を取り上げて自らの頭に載せ、その直後にジョゼフィーヌに冠を授けた。ダヴィッドが描いたのは、この二つ目の場面である。画面の中央では、白い衣のジョゼフィーヌが両手を合わせてひざまずき、長い裳裾が背後に広がり、赤い衣に白貂をまとったナポレオンが彼女の頭上に冠を掲げている。この絵の皇帝は、権力を授ける側に立っている。
その右には白い衣の教皇ピウス7世が座り、右手を挙げて祝福している。最初の構図では、教皇の両手は膝の上に置かれていた。同時代の人々の伝えるところでは、ナポレオンが「わざわざローマから連れてきたのだから、せめて何かさせろ」と言い、ダヴィッドは教皇の手を描き直したという。
その上方、左側の群衆の上には桟敷席が設けられ、その中央に明るい色の衣の女性が、落ち着いた様子で供の者を従えて座っている。皇帝の母、レティツィア・ボナパルトである。彼女はパリに来なかった。息子が兄弟たちに示した扱いをめぐって仲違いし、ローマにとどまっていたのである。絵の中の彼女は、自分が来ることのなかった大聖堂の上段の桟敷の中央に、ちょうど一家の長が成り行きを見守る高さで座っている。

大聖堂にいなかった人物をダヴィッドが描き込めたのなら、ほかの人物の配置も記録として読むことはできない。誰がどこに立つかを決めたのは、事件から三年後、アトリエでナポレオンのために仕事をしていた画家だった。
同じ桟敷の少し先には、画帳を手にした見物人の一団がいて、ダヴィッドはその中に自分の姿を描き込んだ。
ちなみに、この絵は二点ある。実物大の第二作をダヴィッドは1822年に完成させ、そちらはヴェルサイユに掛かっている。
06. ただひとりの観者のための絵
18. ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《ダイヤのエースを持ついかさま師》
右側には、カードと金貨の小山を前にした、身なりのよい若者が座っている。左側では、こちらに背を向けた男が、腰のあたり、若者からは見えない位置で、ベルトの後ろからカードを抜き出している。それはダイヤのエースだ。二人のあいだでは、頭飾りをつけた女が葡萄酒を注ぐ女中に横目を送り、女中も横目で応えている。
三人はぐるで、四人目は自分の手札を見つめている。そして見る者には、ベルトの後ろのカードと目配せの両方が同時に見えている。
この絵が描かれたのは1635年ごろのロレーヌで、ラ・トゥールはこの地で仕事をし、生前は名の知られた裕福な人物だった。ロレーヌ公やフランス国王から注文を受け、財をなして土地を買った。死後、彼は三世紀にわたって忘れられた。作品はスペインやオランダの画家の名で出回り、名前そのものが文献から消えた。その名を取り戻したのはドイツの美術史家ヘルマン・フォスで、1915年に署名のある数点の作品を照らし合わせ、この画家を再発見した。
ルーヴルが《いかさま師》を購入したのは1972年である。同じ構図の別の版もあり、そちらではいかさま師がクラブのエースを抜き出している。その版はテキサスにあり、二つのうちどちらが先に描かれたのかをめぐる議論はいまも続いている。

19. レンブラント《水浴するバテシバ》
1654年、アムステルダムの教会会議は、レンブラントの女中で伴侶でもあったヘンドリッキエ・ストッフェルスを三度呼び出し、画家との同棲について説明を求めた。三度目に彼女は出頭し、淫行の罪に問われて聖餐から締め出された。数か月後、彼女は娘を産んだ。同じ年、レンブラントはバテシバを描いており、そのモデルは彼女だったというのが大方の見方である。
バテシバは座り、ダビデ王からの手紙を手にしている。聖書の物語では、ダビデは屋上から水浴する彼女を見て使いを送り、彼女はやって来て身ごもった。王は彼女の夫ウリヤを、確実に命を落とす戦場へ送り出した。レンブラント以前の画家たちがふつう描いたのは、覗き見の瞬間だった。水の中の女と、高みから見下ろす王である。レンブラントが選んだのは、手紙を読み終えたあとのひとときだった。
彼女は視線を落とし、何にも目を向けていない。体は重たげで若くはなく、乳房の下にはしわが寄り、腹はたっぷりとしている。足もとには老女が座って彼女の足を拭いており、その仕事だけに気を取られている。
この絵は個人のコレクションを転々とし、1869年にルイ・ラ・カーズがルーヴルに遺贈した。パリの医師で、40年かけて600点近い絵を集め、それをまとめて美術館に贈った人物である。
ヘンドリッキエは1663年に、おそらくペストで亡くなり、レンブラントは彼女より六年長く生きた。

20. フェルメール《レースを編む女》
絵の高さは24センチ。娘は小さな台にかがみ込み、指にボビンをはさみ、手から数センチ先の手仕事に目を凝らしている。
この狭い範囲に入るものは、糸、ピン、糸の張り具合まで、きわめて正確に描かれている。ところが手前、娘自身よりも見る者に近いところでは、裁縫用のクッションから赤と白の糸がこぼれ出しており、それは輪郭のないぼやけた光の斑点として描かれている。目が別の面に焦点を合わせているとき、物はまさにそう見える。
光はここでは右から差している。フェルメールのほかの絵では、ほとんどすべて窓が左にある。

フェルメールは仕事が遅く、残した絵は35点ほどで、1675年に亡くなると、その名は200年のあいだ忘れられた。ルーヴルが《レースを編む女》を7270フランで購入したのは1870年、フランスの批評家テオフィル・トレが、散らばっていたフェルメールの作品を論文の中でひとつの名のもとにまとめ、絵画史に改めて迎え入れた直後のことである。
21. アントワーヌ・ヴァトー《ピエロ》
ヴァトーは36年の生涯を送り、1721年に結核で亡くなった。その生涯のほとんどを通じて、彼は同じようなものばかり描いた。公園に集う着飾った人々、音楽、恋の駆け引き、どこか物憂げで筋書きのない場面である。アカデミーは彼のために別の部門を設けなければならなかった。この種の絵は既存のどの部門にも収まらなかったからで、そこで「雅宴画」という名が考え出された。
《ピエロ》はほかの作品とはあまり似ていない。白いサテンの衣装をつけた役者が、見る者の真正面に全身で立っている。両腕を下ろし、足をそろえ、帽子を後頭部にずらし、表情は動かない。彼は画面のほぼ全体を占め、下から見上げるように描かれているので、実際より大きく感じられる。下のほう、彼の脚の後ろでは、イタリア喜劇のほかの四人の登場人物がそれぞれ自分のことにかまけている。
この絵が何のために描かれたのかについて、研究者はいまも議論している。もっともよく挙げられるのは、旅芝居の一座の看板だったという説と、ピエロを演じた特定の役者の肖像だという説だが、どちらも推測の域を出ない。
19世紀、この画布はドミニク・ヴィヴァン・ドゥノンのものだった。イタリアのコレクションを運び出し、《カナの婚礼》を連合国から守り抜いた、あのルーヴル館長である。彼の死後、絵は転売を重ね、1869年にルイ・ラ・カーズの遺贈の一部として、《バテシバ》と一緒にルーヴルに入った。
22. ジャン=バティスト・シャルダン《エイ》
1728年、28歳のシャルダンは二枚の絵を小脇に抱えて王立絵画彫刻アカデミーの会合に現れた。事前の紹介もなく、後ろ盾もなく、アカデミーでの教育も受けていなかった。彼はその日のうちに入会を認められた。部門は動物と果物の画家で、これは位階の最下位、歴史画や肖像画より下だった。二枚のうちの一枚が《エイ》である。
石のテーブルの上に、はらわたを抜かれたエイが鉤に掛けられて吊り下がり、体を大きく広げている。切り口は上から下へ走って内臓と血がのぞき、二つの穴と口の裂け目をもつエイの顔は、人の顔のような形になっている。左では牡蠣に忍び寄った猫が背を丸め、右にはナイフ、水差し、銅の鍋が置かれている。
その後シャルダンは生涯にわたって、台所の器、仕留めた鳥獣、パン、水の入ったグラス、家で何かに打ち込む子どもたちを描き続けた。彼を称賛したのは、そうした主題を低いジャンルとみなしていた当の人々だった。ディドロは熱をこめて彼について書き、どうやって描いているのかわからないと打ち明けている。シャルダンはひどく遅筆で、細かく密なタッチで絵具を置いていき、一年に仕上げる絵は数点だった。
《エイ》がルーヴルに入ったのは、革命によってアカデミーのコレクションが国家に移されたとき、ほかの所蔵品とともにであった。
07. 決めるのは観衆
23. アングル《グランド・オダリスク》
この絵を1814年に注文したのは、ナポレオンの妹でナポリ王妃のカロリーヌ・ミュラである。支払いは間に合わなかった。1815年にミュラ夫妻は王位を失い、夫のジョアシャンはカラブリアで銃殺され、画布は画家の手元に残った。
裸の女性がこちらに背を向けて横たわり、肩越しに顔を振り向けている。まわりには孔雀の羽、ターバン、重たげなカーテン、水煙管。この室内はヨーロッパ人が思い描いたオスマン風の室内で、版画や旅行者の話をもとに組み立てられている。アングルはトルコへ行ったことが一度もなかった。
1819年のサロンでこの絵が公開されると、話題になったのはその解剖学だった。肩から腰までの背中の線が、人間にはありえないほど長いのである。批評家のケラトリは、彼女の椎骨は規定より三つ多いと書き、2004年には医師たちが余分な椎骨を五つも数えた。アングルはそんなことに頓着しなかった。彼にとっては骨格よりも線のほうが大事だったからである。
東方の主題を、アングルはその後も最晩年まで描き続けた。何十人もの裸婦を描いた円形の画布《トルコ風呂》を完成させたのは1862年、82歳のときである。
24. テオドール・ジェリコー《メデューズ号の筏》
ジェリコーがこの絵に取りかかったのは27歳のときで、そこから彼は、サロン向けの大作の画家には誰も期待しないようなことを始めた。生存者のうち二人を探し出して話を聞き、生き残った船大工に筏の模型を作らせ、何か月も病院や死体安置所に通って病人や死にゆく人、死者を観察し、アトリエには解剖教室から持ち込んだ人体の部分を置いていた。
発端はフランス中が話題にした海難事故だった。1816年7月2日、フリゲート艦メデューズ号が現在のモーリタニア沖で座礁した。艦長のユーグ・デュロワ・ド・ショマレーは20年のあいだほとんど海に出ておらず、宮廷とのつながりで指揮権を得ていた。ボートは全員が乗るには足りず、150人ほどが船の角材で組んだ筏に乗せられ、筏はボートに曳かれていくことになっていた。ところが曳き綱は解かれ、筏は見捨てられた。12日後、筏の上で生きていたのは15人で、そのうち数人は救出後まもなく死んだ。その12日間に筏の上で起きたのは、渇きと灼熱、殴り合い、海に落ちていく人々、そして最後には人肉食だった。
助かった人のうち、技師のアレクサンドル・コレアールと外科医のアンリ・サヴィニーの二人が、この一部始終を本に書き、1817年に出版した。二人は艦長の無能も、筏が見捨てられた経緯も明らかにした。本は大いに売れ、政府はもはや事件をもみ消せなくなった。ショマレーをフリゲート艦の指揮官に任命したのは、ほかならぬその政府である。ジェリコーが訪ねた二人の生存者とは、このコレアールとサヴィニーだった。
画布は4.91×7.16メートルになった。左下の隅には、死んだ若者を膝にのせた老人が座り、手をこめかみに当て、虚空を見つめている。そこから構図は右上がりの対角線をたどる。濡れた板の上の体、肘をついて身を起こす人々、膝立ちの人々、そして立ち上がって支え合う人々。頂点では、黒人の男が樽に足を踏ん張り、両手で布切れを地平線のほうへ振っている。手前の縁でうつ伏せに倒れている人物は、ジェリコーの若い友人ウジェーヌ・ドラクロワがモデルを務めた。
では、彼らが手を振っている先を探してみてほしい。右手の地平線に、爪より小さな船がいる。ルーヴルにあるどんなものよりも見つけにくい。これがアルギュス号で、最終的に生存者を救い上げた船である。
1819年のサロンに、この絵は《難破の情景》という題で出品されたが、何のことかは誰もがわかっていた。ルイ18世は国王の慣例どおりサロンを見て回り、このカンヴァスの前で足を止めた。王がジェリコーに何と言ったかは複数の版で伝わっているが、当時の文書にはどれも残っておらず、言い伝えにすぎない。もっとも広く知られた版によれば、王は「これは画家を沈めることのない難破だ」と言ったという。

ジェリコーは1824年、落馬がもとで32歳で亡くなり、同じ年、アトリエの売り立てでこの絵はルーヴルのために買い取られた。
25. ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》
女性が、敷石と死体でできたバリケードの上を前へ踏み出していく。左手には銃剣をつけた銃を持ち、高く掲げた右手には三色旗。胸をはだけ、裸足なのは、彼女が寓意像であり、寓意ではない人々のあいだを進んでいるからである。そのまわりにドラクロワはさまざまな身分の人々を配した。白いシャツに職人のベルトを締め、サーベルを手にした労働者。シルクハットに仕立てのよいフロックコートを着て猟銃を持つ裕福な紳士。そして、両手に一丁ずつピストルを持ち、弾薬袋を下げた、まだほんの小さな少年。三つの階級を一つのバリケードの上に肩を並べて立たせたことが、この絵の政治的な主張だった。その右手の煙の中にはノートルダムの塔が見え、その一つに小さな三色旗が翻っている。
ルーヴルでこの絵が登録されている題には、1830年7月28日という日付が入っている。その年の7月末、パリは検閲と選挙権の縮小に反発してシャルル10世に対して蜂起し、三日間の市街戦ののち国王は王位を失った。ドラクロワはバリケードにはおらず、この絵を同じ年の秋に描いた。画面の人々はその時代の流行の服を着ており、この出来事は1789年の革命から40年を隔てている。
1831年8月、フランス国家はこの絵を3000フランで買い上げた。ルイ=フィリップの政府はあの7月の日々のおかげで成り立っており、この絵を展示する理由は十分にあった。
しかし、その後40年あまり、この絵が展示されたのはとびとびだった。1832年と1833年にはリュクサンブール美術館にあったが、1834年ごろに倉庫へしまわれた。観衆が再びこの絵を目にしたのは1855年の万国博覧会で、ナポレオン3世の体制が自信のほどを示そうとしたときのことである。その後画布は再びしまわれ、1863年にリュクサンブール美術館に戻されて11年間掛けられ、1874年11月にルーヴルへ移された。
この絵は国の予算で買われ、掛けられ、外され、倉庫にしまわれ、万国博覧会のために取り出され、またしまわれ、そして最後に展示された。
ほかに見るなら
ここで紹介した25点は、ありうる選び方のひとつにすぎない。ルーヴルには約50万点の所蔵品があり、およそ3万点が展示されているので、見どころはほかにもはるかに多い。どれだけ見られるかは、時間と好み次第である。
時間が残ったら、同じドラクロワの《サルダナパールの死》を見てほしい。1827年の巨大な画布で、当時は観衆にも役人にも拒まれ、画家はその後18年間手元に置き、ルーヴルが買い取ったのはようやく1921年のことだった。エジプト部門にはタニスの大スフィンクスがあり、何人ものファラオが次々に、前の王の名の上に自分の名を刻ませている。アポロンのギャラリーには、フランス王冠の宝石の残りが収められており、ダイヤモンド「リージェント」もそのひとつである。ナポレオン3世の居室は、家具やシャンデリアとともにそっくり残っている。地下では、ルーヴルの始まりとなった中世の城塞の基礎と堀を見ることができる。12世紀、イングランド勢に備える砦として築かれたものである。ほかにも、フェルメールのもう一点《天文学者》、ボスの《愚者の船》、そしてヴィスコンティの中庭のガラス屋根の下に広がる大きなイスラム美術部門がある。































































