1824年、イギリス議会は新設するナショナル・ギャラリーのために、ロンドンの金融家ジョン・ジュリアス・アンガースタインのコレクションから38点の絵を買い上げ、ギャラリーはペル・メル街にあった彼の屋敷で開館した。王室のコレクションはここには加わらなかった。その後、新しいギャラリーは少しずつ作品を集めていった。絵を競売で買い、遺贈で受け取り、購入資金を募金で集め、議会に特別の補助金を願い出て、ときには一点の購入をめぐって何年も議論を続けた。

ここで取り上げる25点を見ると、コレクションがいかにさまざまな道筋で形づくられてきたかがわかる。国による最初の購入もあれば、個人の寄贈、競売、遺贈、一般からの募金、現代の基金によって入ったものもある。最初に紹介するのはギャラリーの目録で1番の番号をもつ祭壇画、最後は2019年に図書館、学校、診療所の待合室、女子刑務所へと運ばれた自画像である。

ギャラリーのはじまり、1824–1856年

ラザロの復活
ラザロの復活セバスティアーノ・デル・ピオンボ, 1517, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

最初の30年間、ギャラリーには館長すらいなかった。コレクションは寄贈や遺贈、そして理事たちが決めた個々の購入によって増えていった。

1. セバスティアーノ・デル・ピオンボ《ラザロの復活》、1517–1519年

のちの教皇クレメンス7世となる枢機卿ジュリオ・デ・メディチは、おそらく1516年の末に、自らの司教区である南フランスのナルボンヌの大聖堂のために、同じ大きさの祭壇画を二点注文した。《キリストの変容》はラファエロに、《ラザロの復活》はミケランジェロの友人でヴェネツィア出身のセバスティアーノ・ルチアーニに任された。ミケランジェロはラファエロとの競争でセバスティアーノを後押しし、ラザロの姿の素描と、おそらくキリストの素描も彼に与えた。セバスティアーノは、ラファエロが自分の絵を仕上げる前にこちらの板絵を目にすることのないよう、わざと完成を引き延ばした。

ラザロは右下で墓の縁に腰かけている。頭はまだ埋葬の布に包まれ、片手で胸から覆いの布を引きはがしていて、画面のいちばん端にいる男が彼の脚から白い包帯をほどいている。ラザロの体は重く筋骨たくましい灰褐色で、ほかの人物とは描き方が違う。キリストは中央より左に立ち、画面を横切って腕を伸ばし、指でラザロを指し示している。キリストの足もとにはラザロの姉妹マリアがひざまずき、その後ろでは赤いマントの女が両の手のひらを突き出してのけぞっている。この女はマルタらしく、ヨハネによる福音書では、遺体はもう臭うと彼女が注意している。暗い筋の走る空はほとんど夜のように見えるが、左手の廃墟やアーチは夕方近くの日差しに照らされている。セバスティアーノが意図したのは深い青だったが、粗く挽いたアズライトが油の中で時とともに暗くなった。

1520年4月、ラファエロの死から一週間あまりのち、二枚の絵はヴァチカンで並べて展示され、セバスティアーノはミケランジェロに「恥ずかしい思いはしなかった」と書き送った。2017年の赤外線撮影によって、構図を組み立てたのはセバスティアーノ自身で、ミケランジェロは後になって加わり、すでに板に描かれていたラザロを素描の上で描き直したことがわかった。《キリストの変容》はローマにとどまり、ナルボンヌへ送られたのは《ラザロ》だけだった。

ラザロの復活
ラザロの復活セバスティアーノ・デル・ピオンボ, 1517, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
キリストの変容
キリストの変容ラファエロ, 1518, バチカン美術館

1722年、フランスの摂政オルレアン公フィリップが大聖堂からこの絵を買い取った。元の額の下部、メディチ家の紋章のついたプレデッラはナルボンヌに残り、2017年にギャラリーはその彫刻の複製を《ラザロ》の新しい額にはめ込んだ。パレ・ロワイヤルで絵は板からカンヴァスに移された。1793年、オルレアン・コレクションのイタリア絵画が売却のためロンドンに運ばれ、1798年にアンガースタインは《ラザロ》に3500ギニーを払った。同じコレクションから売られた多くのティツィアーノやラファエロよりも高い額である。1824年、《ラザロ》はアンガースタインのほかの絵とともに国のものとなり、目録番号1番を与えられた。

2. カラヴァッジョ《エマオの晩餐》、1601年

果物の籠はテーブルのいちばん端に置かれ、いまにも落ちそうに縁からはみ出している。籠には黒ブドウと白ブドウ、割れたザクロ、リンゴ、ナシ、イチジクが盛られ、白いテーブルクロスに鋭い影を落としていて、その影にキリストの象徴である魚の輪郭を見る人もいる。エマオへ向かう途中の二人の弟子は、見知らぬ男を夕食に招き、男がパンを祝福したとき、それが復活したキリストだと気づいた。カラヴァッジョはキリストを髭のない若者として描いた。左の弟子は肘に破れ穴のある緑の上着を着て、椅子の肘掛けをつかんで腰を浮かせかけ、右の弟子は胸に巡礼の帆立貝をつけて両腕を大きく広げている。そばに立つ宿の主人は親指をベルトに引っかけ、落ち着いた顔で見ている。

エマオの晩餐
エマオの晩餐カラヴァッジョ, 1601, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
アルノルフィーニ夫妻の肖像
アルノルフィーニ夫妻の肖像ヤン・ファン・エイク, 1434, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

この絵を注文したのは、当時カラヴァッジョが身を寄せていた屋敷の主、ローマの貴族チリアーコ・マッテイである。1672年、画家たちの伝記を書いたジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリは、この絵が礼節に反していると非難した。宿の主人が帽子をかぶったままキリストに給仕しているうえ、ブドウもイチジクもザクロも復活祭の時期には実らない、というのである。絵は1801年にボルゲーゼ家のコレクションからイングランドへ渡り、1839年にヴァーノン卿がギャラリーに寄贈した。1606年、人を殺してローマから逃れたのち、カラヴァッジョは同じ場面をもう一度描いている。その絵はミラノのブレラ美術館にあり、ロンドンの絵より静かで暗く、キリストは年を重ねて髭をたくわえ、食卓はつつましく整えられている。

3. ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》、1434年

奥の壁の中央に、十個の小さなメダイヨンをはめ込んだ枠の丸い凸面鏡が掛かっている。鏡には部屋全体が反対側から映っていて、夫妻の後ろ姿と、戸口に立つ二人の小さな人影、青い服の人物と赤い服の人物が見える。鏡の上の壁には、「ヤン・ファン・エイクここにありき、1434年」という意味のラテン語が、凝った飾り文字で書かれている。真鍮のシャンデリアには蝋燭が一本だけ灯り、ほかの燭台は空である。二足の履物が部屋の両端に置かれていて、左下には革紐のついた明るい色の木靴、奥の長椅子の下には赤い靴がある。女性は緑の衣装のたくし上げた裾を腹に押し当てていて、昔から身ごもっていると受け取られてきたが、ファン・エイクがドレスデンの三連祭壇画に描いた処女殉教者聖カタリナも、まったく同じ立ち方をしている。

1934年、エルヴィン・パノフスキーはこの夫妻をジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとジョヴァンナ・チェナーミだとし、絵を結婚の証明書と読み解いた。その後ブルゴーニュの文書が見つかり、この二人が結婚したのはファン・エイクの死から六年後の1447年だったことがわかった。いまでは男性はジョヴァンニ・ディ・ニコラオ・アルノルフィーニ、女性はおそらくその二番目の妻と考えられているが、彼女についての文書は残っていない。アルノルフィーニという姓そのものは、1516年の財産目録から割り出された。そこにはこの板絵が「部屋にいるエルヌール・ル・フィンとその妻」と記されている。

63歳の自画像
63歳の自画像レンブラント, 1669, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

板絵はやがてスコットランドの軍人ジェームズ・ヘイの手に渡った。1816年、ヘイは肖像画家トマス・ローレンスを通じてこれを摂政皇太子に持ちかけたが、皇太子は一年半手元に置いたのち返してきた。どうやって手に入れたかについてのヘイの説明には疑わしいところがある。彼は、ワーテルローで負った傷の療養中にブリュッセルで買ったと語っていた。それよりも、1813年のビトリアで奪われたものだと推測されることのほうが多い。ビトリアではイギリス兵が、スペイン王室コレクションの絵を積んだジョゼフ・ボナパルトの輜重隊を略奪したのである。1842年、ギャラリーはヘイからこの絵を600ギニーで買い取り、これがコレクションで最初の初期ネーデルラント絵画となった。

4. レンブラント《63歳の自画像》、1669年

レンブラントがこの自画像を描いたのは生涯最後の年、息子ティトゥスが亡くなって数か月後のことだった。彼は体を斜めに向けて立ち、肩越しにこちらを見ている。暗い赤の上着は影に沈み、光はほとんど顔と帽子の白い帯にだけ当たっている。顔の絵具は厚く、塊になって置かれ、右目の下のたるみは絵具をたっぷり含ませた筆のひと巻きで描かれている。カンヴァスの左端はいつかの時点で切り詰められ、左下の署名はアルファベット一文字しか残っていない。

エックス線調査で二つの変更が見つかった。最初、帽子はもっと大きく真っ白で、画家が仕事のときにかぶる本物の帽子だった。両手は筆を握っていて、肖像は制作中の画家の姿だった。その後レンブラントは帽子を小さくし、筆を塗りつぶし、両手を組ませた。筆が消えたことで、絵の中にレンブラントの職業を直接示すものはなくなり、いまでは注意のほとんどが顔に集まる。100年以上のあいだ、この絵はサリーにあるミドルトン子爵家の屋敷に掛かっていて、1851年、ギャラリーは同家のコレクションの売り立てでこれを買った。

5. ウィリアム・ターナー《戦艦テメレール号》、1839年

1838年8月、海軍本部は古い戦列艦テメレール号(艦名は「勇猛」の意)を競売にかけ、解体業者ジョン・ビートソンに5530ポンドで売り渡した。1805年のトラファルガーの海戦で、テメレール号はネルソンの旗艦ヴィクトリー号の救援に駆けつけ、1820年からはシアネスに係留されて糧食の貯蔵船になっていた。9月、二隻のタグボートがこの船を曳いてテムズ川をさかのぼり、ロザーハイズにあるビートソンの解体場まで運んだ。

ターナーは二隻いたタグボートを一隻にし、その時点ではおそらくもう取り外されていたマストを船に戻して描いた。彼のテメレール号は青白く、ほとんど幽霊のようで、その前を行くタグボートは低く黒く、高い煙突から煙と火の粉を吹き上げている。絵の中でただひとつの旗、小さな白い旗はタグボートに揚がっていて、1839年にロイヤル・アカデミーで展示されたとき、この絵には、もはや船のものではなくなった旗をうたう詩人トマス・キャンベルの詩句が添えられていた。右では太陽が水面に沈みかけ、左上の隅には細い三日月がかかっている。ロザーハイズへ川をさかのぼる船は西へ進んでいたのだから、夕日は船の行く手にあったはずで、しかもタグボートが解体場に着いたのは午後一時ごろだった。

戦艦テメレール号
戦艦テメレール号J・M・W・ターナー, 1839, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

そもそもターナーがそのときイングランドにいたのかどうかさえ、誰にもわかっていない。8月と9月には彼はたいてい大陸を旅していたし、ボートからスケッチをしたという話は後になって現れたものである。ターナーはこの絵を最後まで売らず、1845年ごろには再び貸し出すことを断って、「私の愛しい子」と呼んだ。ターナーは完成した絵を、まとめて展示することを条件に国に遺贈した。1851年に彼が亡くなると親族が遺言に異議を申し立て、1856年になってようやく大法官裁判所が和解を認めた。それによって金は親族に渡り、彼自身の手になる作品すべて、油彩画300点近くと紙に描いた作品およそ3万枚が国のものとなった。

イーストレイクのヨーロッパ買い付け、1857–1861年

ギャラリーの初代館長には画家チャールズ・イーストレイクが就いた。彼は寄贈を待つかわりにイタリアを回って絵を一点また一点と買い、ギャラリーの巡回代理人オットー・ミュンドラーがあらかじめ候補を探しておいた。

6. パオロ・ヴェロネーゼ《アレクサンドロスの前のダレイオスの家族》、1565–1567年

アレクサンドロスの前のダレイオスの家族
アレクサンドロスの前のダレイオスの家族パオロ・ヴェロネーゼ, 1565, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

1857年の夏、エルコー卿は庶民院でこの絵を「二流の画家の二流の見本」と呼んだ。絵がまだロンドンに着いてもいないときのことである。イーストレイクはその春、ヴェネツィアでヴェットーレ・ピザーニ伯爵から約1万2280ポンドでこれを買っていた。エルコーはミュンドラーが値をつり上げていると責め、別の議員はギャラリーが模写をつかまされたと言い張った。批評家ジョン・ラスキンは『タイムズ』紙でこの購入を擁護し、1858年1月にはヴィクトリア女王がわざわざこの絵を見に訪れた。

主題はアレクサンドロス大王の生涯から取られている。イッソスの戦いの後、ペルシア王ダレイオスの母と妻と娘たちが捕虜となり、母親はアレクサンドロスの友ヘファイスティオンを王と取り違えて、その前にひざまずいた。アレクサンドロスは彼女の過ちを許し、ヘファイスティオンもまたアレクサンドロスなのだと言った。一家は中央の左寄りにひざまずいていて、いちばん手前の母親は背中をこちらに向け、幅広いオコジョの毛皮の襟がついた大きな暗い色のマントをまとっている。中央右では、ばら色がかった赤の服の若い男が片手で女たちをなだめ、もう一方の手で後ろの仲間たちを指している。この若者がアレクサンドロス、暗い色の甲冑にオレンジ色のマントの男がヘファイスティオンとされることが多い。王女たちの頭上、左の張り出しには、鎖につながれた猿が座っている。

1786年、ヴェネツィアのピザーニ宮でこの絵を見たゲーテは、一家に伝わる言い伝えを聞かされ、ほほえましいがありそうにない話だと感じた。それによると、ヴェロネーゼはピザーニ家で悪天候をやり過ごしていたあいだにひそかにこの絵を描き、巻いてベッドの下に隠し、もてなしへの礼として置いていったのだという。

アレクサンドロスの前のダレイオスの家族
アレクサンドロスの前のダレイオスの家族パオロ・ヴェロネーゼ, 1565, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

1858年、エルコーとその支持者たちは巡回代理人の職を廃止する決議を庶民院で通し、ミュンドラーは職を失った。

7. パオロ・ウッチェロ《サン・ロマーノの戦い》、1438–1440年頃

1432年にフィレンツェ軍とシエナ軍が戦ったサン・ロマーノの戦いを描いた三枚の大きな板絵は、フィレンツェの人リオナルド・バルトリーニ・サリンベーニの屋敷に掛かっていた。彼の死後、ロレンツォ・デ・メディチがそれを手に入れた。一部は相続人の一人が正式に譲ったが、その兄弟ダミアーノの持ち分は、1484年ごろ持ち主の意に反して屋敷から運び出された。板絵は高い位置に掛けられ、上辺は丸くなっていた。メディチ宮で三枚を一列に並べて掛けるため、上部は切り落とされ、角には板が継ぎ足された。現在三枚はロンドン、ウフィツィ美術館、ルーヴル美術館に分かれている。

サン・ロマーノの戦いでのニッコロ・マウルジ・ダ・トレンティーノ
サン・ロマーノの戦いでのニッコロ・マウルジ・ダ・トレンティーノパオロ・ウッチェロ, 1439, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ヴィーナス、キューピッド、愚行、そして時間
ヴィーナス、キューピッド、愚行、そして時間ブロンズィーノ, 1545, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

ロンドンの板絵の中央では、フィレンツェの傭兵隊長ニッコロ・ダ・トレンティーノが後脚で立ち上がった白馬にまたがり、指揮杖を掲げて突撃を率いている。兜はかぶらず、金の模様の入った大きな赤い帽子をかぶっている。蹄の下のばら色の地面には、折れた槍が奥へ向かって整然とした格子状に並び、左下の隅でうつ伏せに倒れた騎士だけが、逆の向きに短縮して描かれている。ウッチェロの色は大きく変わった。鮮やかな朱色だった馬具は青みがかった灰色に暗くなり、甲冑を覆っていた本物の銀は褐色がかった灰色になり、バラの咲く緑の生け垣はほとんど黒くなっている。上の両隅の暗い葉むらは、まさにその継ぎ足された部分に描かれている。

イーストレイクがロンドンの板絵をフィレンツェの画商から買ったのは1857年である。1598年にはフィレンツェでこの戦いは忘れられていて、財産目録は三枚の板絵を「古い馬上槍試合を描いた三枚の大きな絵」と呼んでいる。

8. ブロンズィーノ《愛の寓意》、1545年頃

ヴィーナスは画面の中央で見る者のほうを向いてひざまずき、肩越しにキューピッドに口づけしている。ブロンズィーノの描くキューピッドはもう十代の少年で、こちらに背を向けてばら色のクッションに膝をつき、片手で彼女の乳房を包み、もう一方の手を彼女の冠へ伸ばしている。

キリストの洗礼
キリストの洗礼ピエロ・デラ・フランチェスカ, 1448, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

1860年にイーストレイクがパリでこの絵を買うと、二つの細部がほとんどすぐに塗りつぶされた。修復家ラッファエーレ・ピンティが、おそらくイーストレイクの指示で、唇のあいだからのぞくヴィーナスの舌と、キューピッドの指にはさまれた乳首を塗り隠したのである。絵はその姿のまま100年近くギャラリーに掛かっていて、上塗りが取り除かれたのは1958年の洗浄のときだった。

そのあいだにもヴィーナスはキューピッドの矢筒から矢を抜き取っていて、もう一方の手には金のリンゴを持っている。右では笑う男の子がひとつかみのバラを投げつけようと振りかぶり、その後ろで緑の服の少女が蜂の巣を差し出している。少女の服の下からは、鱗に覆われた胴、ライオンの脚、蛇の尾がのぞいている。禿げ頭で髭をたくわえた老人の姿の「時」は背中に砂時計を負い、画面の上辺いっぱいに腕を広げている。左の暗がりでは、灰緑色の人物が頭を抱えて叫んでいる。この人物は長いあいだ「嫉妬」と呼ばれてきたが、1986年、そこに梅毒の症状を見てとる説が出された。

ヴァザーリによれば、ブロンズィーノは裸のヴィーナスとそれに口づけするキューピッドを描き、その絵はフランス王フランソワ1世への贈り物として送られた。おそらくそれがこの絵で、送り主はフィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチだったのだろう。

9. ピエロ・デラ・フランチェスカ《キリストの洗礼》、1440年代

イーストレイクは1858年、ピエロの故郷サンセポルクロの大聖堂の聖具室でこの板絵を見て、「日差しと湿気でほとんど駄目になっている」と判断し、買わなかった。1859年に聖堂参事会がこの板絵を売り、絵は鉄道事業の金融家マシュー・ウジエリのコレクションに入った。1861年にウジエリが亡くなると、イーストレイクは売り立てで《キリストの洗礼》を自分のために買い、その二、三日後、ギャラリーに譲ることに決めた。

キリストはちょうど真ん中に正面を向いて立ち、目を伏せ、手のひらを合わせている。右では洗礼者ヨハネが横顔を見せて浅い椀を掲げ、細い水の筋がキリストの頭頂に落ちている。椀の真上には白い鳩が翼を平らに広げて浮かび、その形は空に浮かぶ平たい雲に似ている。キリストの左にある木の幹はなめらかで明るく、キリストの体と同じ淡い色をしている。木の後ろには三人の天使が立ち、そのうち二人は手をつないでいる。右では若い男が身をかがめてシャツを頭から脱ごうとしていて、その向こうの静かな水面には、岸にいる男たちの赤や青や黄土色の衣が逆さまに映っている。川はキリストの足もとまで来て止まり、キリストとヨハネは乾いた茶色の地面の帯の上に立っている。

競売と個人コレクション、1874–1890年

イーストレイクの後、ギャラリーはますます競売で、また古いコレクションを売りに出した相続人たちから絵を買うようになった。ときには個人の後援者が国の資金に自分の金を足した。

10. サンドロ・ボッティチェッリ《ヴィーナスとマルス》、1485年頃

ヴィーナスとマルス
ヴィーナスとマルスサンドロ・ボッティチェッリ, 1485, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

マルスは、サテュロスに耳もとで法螺貝を吹かれても目を覚まさないほど、ぐっすり眠っている。彼は腰に白い布を巻いただけの裸で、頭をのけぞらせて横たわり、向かいのヴィーナスは起きていて、金の縁取りのある白い衣をまとい、静かに彼を見つめている。別のサテュロスはマルスの兜に頭をすっぽり突っ込み、三人目は右下の隅で空になった胸甲にもぐり込んで、こちらに歯をむいて笑っている。右上の隅、マルスの頭のそばの木のうろにはスズメバチの巣があり、ハチが彼の顔のまわりを飛び回っている。

武具で遊ぶサテュロスたちを、ボッティチェッリはギリシアの著述家ルキアノスから借りたのかもしれない。ルキアノスは失われた古代の絵について書き残していて、そこでは小さなキューピッドたちがアレクサンドロス大王の槍と胸甲で遊んでいた。このような横長の板絵は寝室の壁の羽目板にはめ込まれるもので、おそらく婚礼に合わせて作られた。歴史家エルンスト・ゴンブリッチは、スズメバチは注文主であるフィレンツェのヴェスプッチ家をほのめかしているのではないかと考えた。イタリア語でスズメバチはヴェスパといい、しかも巣が描かれているのは、婚礼用の板絵ならふつう紋章が置かれる場所だからである。

1874年、ギャラリーはこの絵を、収集家アレグザンダー・バーカーのコレクションが売りに出されたクリスティーズの競売で買った。

11. レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》、1491–1508年頃

ミラノの無原罪の御宿り信心会は1483年、この絵についてレオナルド、そしてアンブロージョとエヴァンジェリスタのデ・プレディス兄弟と契約を結んだ。サン・フランチェスコ・グランデ聖堂にある信心会の礼拝堂には、彫刻を施して金箔を張った祭壇枠がすでに据えられていて、そこに三枚の板絵、中央には聖母、左右には奏楽の天使をはめ込むことになっていた。レオナルドは1480年代半ばまでに最初の聖母を仕上げた。これが現在ルーヴルにある《岩窟の聖母》である。その後画家たちと信心会は金銭をめぐって争い、ナショナル・ギャラリーの見解によれば、1491年ごろ最初の絵は身元のわからない買い手に売られ、礼拝堂のために二作目、つまりロンドンの板絵が描き始められた。1501年から1506年までレオナルドはフィレンツェに住んでいた。1506年、板絵は未完成と認定され、レオナルドは1508年に最後の支払いを受け取った。

ルーヴルの絵では右の天使が幼いヨハネを指さし、見る者のほうを見ているが、ロンドンの絵の天使は目を伏せ、幼子キリストの背を支えているだけである。こちらでは人物の頭上に細い金の光輪が加わり、ヨハネは長い柄のついた細い金の十字架を持っている。2004年の赤外線撮影で、この構図の下に放棄された最初の構想が見つかり、そこでは聖母が礼拝の姿勢でひざまずいていた。2019年には新たな画像がそれをさらに詳しく明らかにした。

岩窟の聖母
岩窟の聖母レオナルド・ダ・ヴィンチ, 1484, ルーヴル美術館
岩窟の聖母
岩窟の聖母レオナルド・ダ・ヴィンチ, 1494, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

信心会は皇帝ヨーゼフ2世のもとで廃止され、18世紀の終わりにスコットランドの画家で画商のギャヴィン・ハミルトンがこの絵を買ってイングランドへ運び、1880年にギャラリーがサフォーク伯から購入した。同じ祭壇の天使の板絵は、ギャラリーが1898年にミラノで別に買っている。レオナルドはこの板絵を仕上げていたころ、聖アンナを描いた大きなカルトンにも取り組んでいて、そのカルトンもいまはナショナル・ギャラリーのものである。

板絵の仕上がりにはむらがある。右上の岩の切れ目にのぞく青空は最後の段階で粗く塗られ、絵具は上辺の弧に沿って途切れているので、どうやら板はそのときすでに額に収まっていたらしい。ヨハネの足もとの聖母の青いマントには茶色い染みが残っている。レオナルドが最後までやり遂げなかった描き直しの跡である。

12. ジョン・コンスタブル《干草車》、1821年

《干草車》という題を考えたのはコンスタブルの友人ジョン・フィッシャーで、彼は1821年の手紙で「干草車」の具合はどうかと尋ねている。ロイヤル・アカデミーではこの絵は《風景、真昼》という題で掛けられ、買い手はつかなかった。1824年、コンスタブルはほかの二点とあわせて250ポンドで画商ジョン・アロースミスにこれを譲り、アロースミスは三点をパリへ運んだ。サロンで《干草車》はシャルル10世から金メダルを授けられた。

干し草の車
干し草の車ジョン・コンスタブル, 1821, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

左には農夫ウィリー・ロットのばら色の瓦屋根の家が建ち、その脇の水辺では小さな女性が水差しを手に身をかがめている。水車用の浅い池の真ん中には、二つの大きな車輪が半ば水に沈んだ空の荷車があり、三頭の黒っぽい馬がそれを引いている。馬の首輪についた赤い房飾りは、この絵のなかでほとんど唯一の赤である。手前の岸では、茶色の斑のある白い犬が荷車を見ている。コンスタブルは木の葉や水面のきらめきに白い点を置き、批評家たちはそれを「コンスタブルの雪」と呼んだ。

フランスではこの絵は14年ほど持ち主を転々とし、その後イングランドに戻って、1866年に帽子製造で財をなした一族の跡継ぎヘンリー・ヴォーンのものとなった。1886年、ヴォーンはこれをギャラリーに寄贈した。

大使たち
大使たち小ハンス・ホルバイン, 1533, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

13. 小ハンス・ホルバイン《大使たち》、1533年

1890年にこの板絵を買ったとき、ギャラリーはホルバインが誰を描いたのかを知らなかった。二人の男はイングランドの廷臣とも、さらには二人のプファルツ伯とも考えられていたが、1895年、研究者メアリー・ハーヴィーが二人の名を記した17世紀の文書を見つけた。左に立つのはロンドン駐在のフランス大使ジャン・ド・ダントヴィル、右は1533年の春に彼を訪ねてきたラヴォールの司教ジョルジュ・ド・セルヴである。

この年はヘンリー8世がローマと決別し、アン・ブーリンが戴冠した年だった。二人の大使のあいだの下の棚には、弦の切れたリュートと、ルターの賛美歌二曲のページを開いたドイツ語の賛美歌集が置かれていて、キリスト教世界の不和をほのめかすものと読まれている。上の棚には天球儀や日時計など、天体を観測し時刻を知るための器具が並んでいるが、その多くは正しい時刻を示せない向きに置かれている。

下のほうには、床を横切って細長い灰白色の染みが伸びている。正面から見ると引き伸ばされた骨のようだが、右の斜め横から画面すれすれに見ると、頭蓋骨に変わる。現在の額は1996年に作られたもので、横に立ちやすいよう、わざと奥行きの浅い形にしてある。左上の隅には、緑のカーテンの襞にほとんど隠れるようにして、小さな銀の十字架像が掛かっている。

ラドナー伯はこの板絵をほかの二点の絵とともに5万5000ポンドで売った。その半分近くを政府が出し、残りを三人の個人寄付者が負担した。

大使たち
大使たち小ハンス・ホルバイン, 1533, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

通常の予算では足りないとき、1906–1929年

20世紀の初めには古典絵画の値段が上がり、ギャラリーはきわめて裕福なアメリカの収集家たちと競り合うことがますます多くなった。大きな購入には、一般からの募金か、大蔵省の特別補助金か、民間の基金が必要になった。

14. ディエゴ・ベラスケス《鏡のヴィーナス》、1647–1651年頃

1914年3月10日、女性参政権運動家メアリー・リチャードソンがこの絵の前のガラスを割り、上着の下に隠していた小さな手斧で画布に何度も切りつけた。その前日、女性参政権運動の指導者エメリン・パンクハーストがグラスゴーで逮捕されていて、リチャードソンは、パンクハースト夫人を滅ぼそうとする政府への抗議として「神話の歴史でもっとも美しい女性」の像を滅ぼそうとしたのだと述べた。『タイムズ』紙は六つか七つの切り傷を数え、いちばんひどいものは首と肩にあった。

鏡のヴィーナス
鏡のヴィーナスディエゴ・ベラスケス, 1647, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
デンマークのクリスティーナ、ミラノ公爵夫人
デンマークのクリスティーナ、ミラノ公爵夫人小ハンス・ホルバイン, 1538, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

ヴィーナスはこちらに背を向け、暗い灰青色のサテンの上に横たわっている。頭は右、足は左端にあり、肩からかかとまで体全体が一本の途切れない線を描いている。キューピッドはひざまずいて黒い枠の鏡を彼女の前に掲げていて、枠からはばら色のリボンが垂れている。鏡の中の顔はぼやけていて見る者のほうを向いているが、この姿勢なら鏡に映るのはまったく別のものになるはずである。現存するベラスケスの絵のなかで、女性の裸体を描いたものはこれだけである。

絵はスペインのいくつかのコレクションを経て1813年にイングランドへ渡り、ヨークシャーのロークビー・パークという屋敷に掛けられた。英語で「ロークビーのヴィーナス」と呼ばれるのはそのためである。1905年、相続人が相続税を払うためにこれを画商アグニューに売った。アグニューはボンド・ストリートで絵を公開し、新聞は「われらが国のヴィーナス」を守るキャンペーンを始め、その二年前に設立されていた国民美術収集基金が募金を行って4万5000ポンドを集め、1906年にこの絵をギャラリーに寄贈した。

2023年11月、気候変動対策を訴える団体「ジャスト・ストップ・オイル」の活動家二人がガラスをハンマーでたたき、1914年の行為を繰り返したのだと説明した。割れたガラスの破片で絵具の層がわずかに傷つき、数週間後、絵は再び壁に掛けられた。

15. 小ハンス・ホルバイン《デンマークのクリスティーナ、ミラノ公爵夫人》、1538年

1538年3月12日、ブリュッセルでホルバインのために三時間ポーズをとったとき、デンマークのクリスティーナは16歳だった。退位させられたデンマーク王の娘で皇帝カール5世の姪にあたる彼女は、13歳でミラノ公に先立たれ、まだ喪に服していた。少し前に妃ジェーン・シーモアを亡くしたヘンリー8世は四人目の妃を探していて、花嫁候補の一人を描かせるために宮廷画家を送り出したのである。持ち帰られた習作は「王をことのほか喜ばせた」。

クリスティーナは全身像で、等身大に描かれている。ホルバインが描いた女性の肖像で、この大きさのものが残っているのはこれだけである。背後は何もない青緑色の壁で、人物の影がその左側に落ちている。彼女は大きな袖のついた黒いサテンのガウンを着ていて、ガウンの裏には茶色の毛皮が張られ、頭には髪を覆うぴったりした黒い頭巾をかぶっている。板絵全体のなかで明るいのは顔と手だけである。両手は腰の前で組まれて革の手袋を持ち、左手の薬指には赤い石の指輪がはまり、唇にはかすかな笑みが浮かんでいる。

結婚は実現しなかったが、ヘンリーは肖像を手元に残した。その後肖像はノーフォーク公爵家に渡り、1909年に第15代公爵がこれを画商コルナギに売った。コルナギはこの絵をアメリカの収集家ヘンリー・クレイ・フリックに売り込む一方、ギャラリーには6月1日まで同じ値段で買い取る権利を残した。大蔵省は補助金を約束し、国民美術収集基金は募金を始め、ジョン・シンガー・サージェント、バーナード・ショー、国王エドワード7世も金を出したが、それでも5月の末になって金額はまだ足りなかった。最後の最後に、名前を伏せることを求めた一人の女性が不足分を出した。彼女はドイツの保養地から手紙を書き、金は期限の最終日である6月1日に届いた。ギャラリーの館長チャールズ・ホルロイドは、伝えられるところでは、両手で顔を覆って泣き出したという。募金の行方を見守っていたヘンリー・ジェイムズは、のちにこの出来事を戯曲の筋にし、さらに小説にした。

16. エドゥアール・マネ《皇帝マクシミリアンの処刑》、1867–1868年頃

皇帝マクシミリアンの処刑
皇帝マクシミリアンの処刑エドゥアール・マネ, 1867, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

オートミール色をした大きなむき出しのカンヴァスに、油彩で描かれた四つの断片が貼りつけられていて、表面のおよそ三分の一は何も描かれていない布のままである。中央には黒い軍服に白いベルト、白いゲートルをつけた銃殺隊の兵士たちが後ろ姿で立ち、銃を肩に構えて左を狙っている。左上には別の断片があってミラモン将軍の頭部が描かれ、その下の細長い一片には硝煙に包まれた白いシャツと、握り合った二つの手が見える。そのうち一方はミラモンの手を握るマクシミリアンの左手らしく、皇帝その人の姿でカンヴァスに残っているのはこの手だけである。右には赤いケピ帽の軍曹が一人離れて立ち、うつむいて、とどめの一発のために落ち着いて撃鉄を起こしている。三人目の受刑者メヒア将軍が立っていたところは、むき出しの布になっている。

オーストリア大公マクシミリアンはナポレオン3世によってメキシコの帝位に就けられ、1867年、二人の将軍とともにケレタロで銃殺された。処刑に憤ったマネはこの場面を四つの版で描き、ロンドンのカンヴァスはその二作目にあたるが、1868年ごろ彼はこれを描きかけのまま放り出した。マネの死後、その未亡人の息子レオン・レーンホフがカンヴァスを切り分け、ばらばらに売った。確かめようのない話だが、画商アンブロワーズ・ヴォラールによれば、レーンホフはマクシミリアンの頭部を焚きつけにしてしまったという。

ひまわり
ひまわりフィンセント・ファン・ゴッホ, 1888, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

エドガー・ドガは断片を買い集め、元の絵と同じ大きさの一枚のカンヴァスに貼り、失われた部分の場所は空けたままにした。ドガは1917年に亡くなり、1918年3月、その収集品がパリで売りに出された。そのころパリはドイツの長距離砲の砲撃を受けていた。大蔵省に勤めていた経済学者ジョン・メイナード・ケインズがこの競売のためにギャラリーへ特別補助金を出すことを提案し、館長チャールズ・ホームズは砲撃下のパリへ絵を買いに出かけた。

ギャラリーでは当初、断片はドガのカンヴァスからはがされ、別々の絵として掛けられた。ドガが並べたとおりの順序で再びひとつにまとめられたのは、20世紀の終わりになってからである。

17. フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》、1888年

1888年8月、アルルから弟テオに宛てた手紙で、ファン・ゴッホは四枚目のひまわりの絵を「黄色い背景に14本の花を挿した花束」と説明している。カンヴァスの花は15本ある。左下で長く曲がった茎の先からテーブルに届きそうなほど垂れ下がっている小さなしおれた花は、どうやら後から描き足したものらしい。

黄色い陶器の花瓶が、黄色い壁の前の黄色いテーブルの真ん中に置かれている。この黄色の連なりを破っているのは、緑の茎、オレンジがかった赤の花芯、そして青い線だけで、青い線はテーブルの縁に一本、花瓶に二本引かれている。花瓶の上半分には青い字で「フィンセント」と書かれている。まだ花びらを突き出している花もあれば、花びらが散って、厚い筆づかいで盛り上げた丸い花托だけが残った花もあり、こちらに背を向けたりうなだれたりしている花もある。背景は、編み目のような短い交差する筆致で描かれている。

ファン・ゴッホはポール・ゴーギャンを迎えるためにアトリエを整え、この絵をゴーギャンの寝室に掛けた。1889年1月、二人の諍いとフィンセントの入院を経て、ゴーギャンはこの絵を譲ってほしいと言ってきた。フィンセントはテオに「このひまわりは断じて手放さない。彼はもう二枚持っているのだから、それで十分だろう」と書いた。そのかわりに彼は同じ絵をもう一枚描き、それは現在アムステルダムにある。

30年以上にわたって、この絵はテオの未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの家に掛かっていた。1924年、実業家サミュエル・コートールドが外国の近代絵画を購入するために設けた基金の理事たちが、ロンドンの画商を通じてこの絵を買った。

18. ジョルジュ・スーラ《アニエールの水浴》、1884年

アニエールの水浴
アニエールの水浴ジョルジュ・スーラ, 1884, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

1884年の春、サロンの審査員は24歳のジョルジュ・スーラの初めての大作を落選させた。スーラは《アニエールの水浴》を、ほぼ等身大の人物を配したアカデミックな大画面として構想し、セーヌ河畔で描いた習作をもとにアトリエで仕上げていた。落選の後、彼はこの絵を審査なしで開かれた独立芸術家グループの第一回展に出品し、そこでポール・シニャックと知り合った。

中央では、赤みがかったばら色の水泳パンツをはいた若者が岸辺に腰かけ、足を水に浸し、うなだれている。その後ろの草の上には彼の服、白いシャツと麦わら帽子、そして立てて置かれた茶色のブーツがある。左下の隅では、山高帽の男がこちらに背を向けて横向きに寝そべり、そばに赤茶色の犬がいる。画面の七人の男はみな横顔か後ろ姿で描かれ、対岸にはクリシーの工場が並び、煙突の一本から黒い煙がたなびいている。

1887年ごろ、スーラはこの絵に再び手を入れ、主に水浴する人々とそのまわりに細かな色の点を加えた。右の水の中の少年は口に手を当てて川の向こうへ叫んでいて、その少年のオレンジ色の帽子の影を、スーラは青と黄色の点で描いた。亜鉛黄で描かれた点の一部は緑がかった褐色に変色していて、シニャックは早くも1887年にそれに気づいていた。

アニエールの水浴
アニエールの水浴ジョルジュ・スーラ, 1884, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

スーラの死後、絵は家族のもとに残り、1900年ごろ、最初からスーラを擁護してきた批評家フェリックス・フェネオンが買い取った。1924年には、《ひまわり》を買ったのと同じコートールド基金の理事たちが、ロンドンの画商からこれを購入した。

19. 作者不詳(イングランドまたはフランス)《ウィルトンの二連祭壇画》、1395–1399年頃

国王リチャード2世が、小さな白い鹿を織り込んだ赤と金の衣をまとってひざまずき、何かを受け取ろうとするかのように手のひらを開いている。背後には三人の聖人が立つ。矢を持つ聖エドマンド、指輪を持つ証聖者エドワード、腕に子羊を抱いた洗礼者ヨハネで、ヨハネは王の肩に手を置いている。王が見つめる右翼には濃い青の衣の聖母が立ち、幼子キリストがリチャードのほうへ手を伸ばしている。聖母のまわりには同じ青をまとった11人の天使がひしめき、バラの冠をかぶり、胸には小さな白い鹿をつけていて、掲げた翼が頭上で重なり合って羽根の垣根のようになっている。金地には細かな繰り返し模様が打ち出されていて、とくに右翼ではそれがはっきり見える。

ウィルトンの二連祭壇画
ウィルトンの二連祭壇画作者不詳, 1397, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

二枚の翼は蝶番でつながれて閉じられるようになっていて、その一方の外側には、リチャードの紋章である白い鹿が、首に金の冠と鎖をつけて伏せている。作者の名は伝わっておらず、制作年についても、また1395年から1399年のあいだに30歳前後だったリチャードがなぜ若者の姿で描かれているのかについても、研究者の議論が続いている。この二連祭壇画が最初に記録に現れるのはチャールズ1世のコレクションの目録で、その後200年以上ペンブルック伯爵家のウィルトン・ハウスに置かれていた。名前はそこから来ている。1929年、ギャラリーはこれを9万ポンドで買った。半分を政府が出し、残りは何人かの大口寄付者とひとつの基金が集めた。

1991年から1992年にかけての洗浄の際、一人の天使が持つ旗の竿の先端に、爪より小さな球が見つかった。そこには木々と白い城のある島、舟、海が描かれていて、聖母に捧げられたイングランドを表すと解釈されている。

「今月の一枚」から宝くじの資金まで、1942–1997年

ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)
ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)ティツィアーノ, 1514, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

戦時中、コレクションはロンドンから疎開させられ、戦後の大きな購入は、政府の補助金、民間の基金、そして世紀の終わりには宝くじの資金を組み合わせて行われることが多くなった。

20. ティツィアーノ《ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)》、1514年頃

戦争中、ナショナル・ギャラリーの絵は北ウェールズの粘板岩の採石場に保管され、からっぽになった建物ではコンサートが開かれていた。1942年、ロンドンの人々がせめて一枚でも絵を戻してほしいと求め、館長ケネス・クラークは市民に何を見たいかを尋ねた。いちばん多く挙がったのがこのティツィアーノで、1942年3月、《ノリ・メ・タンゲレ》は最初の「今月の一枚」になった。

ティツィアーノは二人の人物を画面の下半分、早朝の丘の斜面に置いた。キリストはほとんど裸で、透けるような白い腰布をつけ、肩に屍衣をかけている。彼は右手で屍衣をマグダラのマリアから引き離し、腰を彼女から引いているが、頭と肩は彼女の上にかがみ込んでいる。左手に鍬を持っているのは、マリアが最初彼を園丁だと思ったからである。マリアは暗い深紅の衣でひざまずいてキリストに手を伸ばし、もう一方の手で香油の壺を押さえている。エックス線写真を見ると、キリストははじめ園丁の帽子をかぶり、マリアから顔をそむけていたことがわかる。

ウェリントン公爵の肖像
ウェリントン公爵の肖像フランシスコ・ゴヤ, 1813, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

この絵がギャラリーに入ったのは1856年、詩人で銀行家のサミュエル・ロジャーズの遺贈によってである。ロジャーズはこの絵を自分のコレクションの宝石と呼んでいた。

21. フランシスコ・ゴヤ《ウェリントン公爵の肖像》、1812–1814年

ゴヤがウェリントンを描いたのは1812年8月、ウェリントンがサラマンカで勝利を収めてマドリードに入って間もないころだった。肖像の顔は疲れていて、頬は赤く、目は大きく見開かれて少しうつろである。胸には勲章がぎっしり並び、顔よりも厚く雑然と描かれている。ウェリントンが勲章を受けるたびに、ゴヤが二年近くにわたってそれを描き足していったからである。留め金つきの陸軍金十字章が制定されたのは1813年10月になってからだが、肖像にはそれが描かれている。

1961年、この肖像はサザビーズの競売にかけられ、アメリカに渡るおそれがあったため、ギャラリーはウルフソン財団と大蔵省の特別補助金の助けを借りて買い取った。年金生活者ケンプトン・バントンは、政府が公金を足したことに憤慨していた。同じ年の8月、肖像が公開されて間もなく、絵はギャラリーから盗まれた。犯人は匿名の手紙で、絵に支払われた金額を貧しい年金生活者のテレビ受信料にあて、自分を赦免するなら絵を返すと約束した。ギャラリーはこれに応じず、肖像は四年間、バントンの衣装だんすの奥にしまわれていた。

バーリントン・ハウス・カルトン
バーリントン・ハウス・カルトンレオナルド・ダ・ヴィンチ, 1507, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

1965年、バーミンガムの駅の手荷物預かり所に包みが預けられ、その預かり証が新聞社に送られてきて、警察は肖像を無傷で回収したが、額はなかった。バントンは自ら警察に出頭した。裁判所は、絵を自分のものにするつもりはなかったとして絵の窃盗については無罪とし、ついに戻らなかった額の窃盗で有罪とした。彼は三か月の禁錮刑を受けた。1969年、別の件で逮捕された息子のジョンが、ギャラリーから肖像を運び出したのは自分だと自白した。

22. レオナルド・ダ・ヴィンチ《バーリントン・ハウス・カルトン》、1506–1508年頃

展覧会と付属の美術学校を運営する資金に困っていたロイヤル・アカデミーは、1962年、レオナルドのカルトンを競売にかけると発表した。このカルトンは18世紀の終わりからアカデミーの所有で、アカデミーの建物であるバーリントン・ハウスに掛けられていて、名前もそこから来ている。首相は、一般からの募金が行われているあいだ売却を待つようアカデミーに求めた。80万ポンドのうち半分以上が募金で集まり、残りを大蔵省が出した。

これは色のついた紙に木炭と白いチョークで描かれた素描で、紙は八枚を貼り合わせたものである。聖母マリアは聖アンナの膝の上に横向きに座っていて、どこまでが一方の膝で、どこからがもう一方の膝なのか、すぐには見分けがつかない。幼子キリストは母の腕から身をよじって幼いヨハネのほうへ乗り出し、二本の指でその顎に触れている。顔と幼子の体は柔らかな明暗で描き込まれているが、人差し指を上に向けて挙げたアンナの手と、下のほうの素足は輪郭だけで示されている。レオナルドはこのカルトンを、フィレンツェの政府に祭壇画を提案するための独立した素描として作ったのかもしれず、結局その注文は彼のものにはならなかった。

1987年7月、閉館間際のギャラリーで、一人の来館者が数歩離れたところから銃身を切り詰めた散弾銃でカルトンを撃った。ガラスが散弾を止めたものの粉々に割れ、その破片が聖母の胸のあたりで素描にめり込んだ。ギャラリーの修復家たちは紙を平らに伸ばし、傷ついた部分から紙の小片を拾い上げて、元の場所に戻した。

23. ジョージ・スタッブス《ホイッスルジャケット》、1762年頃

乗り手も鞍も風景も描かれず、均一な淡い金色の背景の上に、栗毛の牡馬が等身大で描かれている。馬は前脚を折り曲げて後脚で立ち上がり、胴は右向きの横姿だが、頭はこちらへ振り向けられ、黒い目には白目の縁がのぞいている。明るいたてがみとほとんど白い尾が赤銅色の毛並みから浮き上がり、カンヴァスの左上の隅はまるごと空いている。後になって、生きたホイッスルジャケットが完成した肖像を見て、描かれた馬に飛びかかったという話が語られたが、いまではこれは伝説とみなされている。

ホイッスルジャケットの持ち主は、イングランド屈指の富豪であった第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースである。1759年、この牡馬はヨークで2000ギニーを賭けたレースに勝ち、1762年ごろロッキンガムはスタッブスに最初の絵を注文した。それに先立ってスタッブスは一年半のあいだリンカンシャーの納屋で馬を解剖し、一層ずつ写生していた。ロッキンガムは古代彫刻を集めていて、古典建築のフリーズのように背景のない馬の絵を望んだのは、おそらく彼自身だったのだろう。

ホイッスルジャケット
ホイッスルジャケットジョージ・スタッブス, 1762, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

ロッキンガムの死後、この絵は彼の屋敷の特別な一室で、白い漆喰装飾の壁にはめ込まれ、相続人であるフィッツウィリアム伯爵家のもとにとどまった。1997年、ギャラリーは同家からこれを約1100万ポンドで購入した。文化遺産宝くじ基金の資金が加わった最初期の大型購入のひとつである。

新しい収蔵品、2014–2018年

最後の二点の購入は、もう21世紀のことである。2014年、ギャラリーはジョージ・ベローズの作品を手に入れ、これがコレクションで初めての本格的なアメリカ絵画となった。その四年後には、それまで研究者に知られていなかったアルテミジア・ジェンティレスキの自画像を加えた。

24. ジョージ・ベローズ《波止場の男たち》、1912年

波止場の男たち
波止場の男たちジョージ・ベローズ, 1912, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
アレクサンドリアの聖カタリナに扮した自画像
アレクサンドリアの聖カタリナに扮した自画像アルテミジア・ジェンティレスキ, 1616, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

ベローズが描いたのは冬のブルックリンの波止場である。流氷で埋まったイースト川の向こうに、ロウアー・マンハッタンの高層ビルが霞んで立ち、カンヴァスの右半分は、喫水線に赤茶色の帯が入った巨大な定期船の暗い船体で占められている。泥と混ざった雪の上には、暗い色のコートとハンチング帽の港湾労働者たちが立ち、その日の荷積みに誰が雇われるのかを待っていて、ほとんど全員が左へ、画面の外にある何かのほうへ顔を向けている。鮮やかな青のセーターを着た一人はこちらに背を向けて立ち、男たちのそばには荷馬車を引く白い馬が二頭いる。左の倉庫の壁際の日陰では、一人の男がうつむいて立ち去っていく。どうやらその日選ばれなかった男らしい。

この絵は1920年、ヴァージニア州のランドルフ・メイコン女子大学がベローズ本人から買った。2007年、資金に困った大学は四点の絵を売却すると発表した。卒業生たちは裁判所の差し止め命令を勝ち取ったが、2014年、《波止場の男たち》は結局、ギャラリーを支援するアメリカの友の会とゲティ家の資金によってナショナル・ギャラリーに売却された。売却の後、アメリカ美術館長協会は加盟館に対し、この大学の美術館との協力と展覧会の交換をやめるよう呼びかけた。

25. アルテミジア・ジェンティレスキ《アレクサンドリアの聖カタリナに扮した自画像》、1615–1617年頃

2017年12月、パリの競売場オテル・ドルオーで、それまで歴史家に知られていなかった一枚の絵が売りに出された。予想落札価格は30万から40万ユーロだったが、落札額は190万ユーロに達し、アルテミジアの作品の最高記録となった。買ったのは画商たちで、2018年、ナショナル・ギャラリーが彼らからこの絵を取得した。

アルテミジアは自分を斜めの向きに描いた。肩越しにこちらを見る視線はまっすぐで、少し警戒しているようでもある。頭はターバンのように明るい色の布で包まれ、真珠のついた小さな金の冠がその上に少し傾いて載っている。片手は、聖カタリナの処刑に使われるはずだった、鉄の棘のついた壊れた木の車輪にかけられ、もう一方の手は殉教者のしるしである棕櫚の枝を胸もとに押さえている。描かれた車輪の下からは、最初はおそらく本だったものが見つかった。アルテミジアははじめ自分を巫女シビュラとして描き、車輪と棕櫚と冠を後から加えたのかもしれない。彼女がフィレンツェに移ったのは、自分を強姦したアゴスティーノ・タッシに対する1612年のローマでの裁判の後で、聖カタリナを自分の顔で描いたのも、どうやらフィレンツェでのことらしい。

カンヴァスの上端はいつかの時点で切り詰められ、冠の真珠と棕櫚の枝の先も一緒に失われた。2018年、修復家たちは上辺に新しいカンヴァスの帯を継ぎ足した。その幅は棕櫚と真珠を描き戻せるだけにぴったり合わせてあり、光輪は切れたまま残された。

2019年、アルテミジアの大規模な展覧会を前に、ギャラリーはこの絵を国内各地へ運んだ。絵はグラスゴー女性図書館、ニューカッスルのカトリック系の学校、ヨークシャーの診療所の待合室、サリーの女子刑務所で公開された。

1824年、人々はペル・メル街のアンガースタインの屋敷で最初の38点の絵を見た。その195年後、ギャラリーは最近の購入品のひとつを、図書館、学校、診療所の待合室、刑務所へと国中に送り出した。この二つの出来事のあいだには、200年近くにわたる購入、寄贈、遺贈、一般からの募金、そしてときには特定の絵をめぐるきわめて長い議論がある。

アレクサンドリアの聖カタリナに扮した自画像
アレクサンドリアの聖カタリナに扮した自画像アルテミジア・ジェンティレスキ, 1616, ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

ほかに見るなら

この25点のほかにも、ギャラリーでもっともよく知られた絵のいくつかがある。そのひとつがラファエロの《教皇ユリウス2世の肖像》で、アンガースタインのコレクションから入り、長いあいだ模写と考えられていたが、1970年にボルゲーゼ家のコレクションの目録番号によって本物と確認された。ほかにも、トマス・ゲインズバラの《アンドリューズ夫妻》、ダービーのジョゼフ・ライトの《空気ポンプの実験》、ウィリアム・ホガースの連作《当世風結婚》、そして1928年のテート・ギャラリーの洪水を巻かれた状態で生き延びたポール・ドラローシュの《レディ・ジェーン・グレイの処刑》を探してみてほしい。