1632年、グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍がミュンヘンを占領し、スウェーデン兵は3点の絵をストックホルムへ持ち去った。いずれも、バイエルン公ヴィルヘルム4世が1528年からミュンヘンの居城のために描かせていた連作の一部である。連作には古代史と聖書の英雄やヒロインが描かれていて、スウェーデンへ渡ったのはルートヴィヒ・レフィンガーの《ホラティウス・コクレス》と《マンリウス・トルクァトゥス》、そしてアブラハム・シェプファーの《ムキウス・スカエウォラ》だった。以来この3点はストックホルム国立美術館にある。連作の残りの板絵はミュンヘンにとどまり、そのなかにアルトドルファーの《アレクサンドロス大王の戦い》もあった。
16世紀からバイエルンの君主たちが集めてきた絵のために、専用の建物を建てたのは国王ルートヴィヒ1世である。設計は建築家レオ・フォン・クレンツェで、1826年4月7日に礎石が置かれ、1836年にピナコテークは開館した。展示室には天井から光が差しこんだ。第二次世界大戦では爆撃で建物の一部が壊れ、1950年代に建築家ハンス・デルガストが建物を再建して、壁に開いた穴をむき出しの煉瓦でふさいだ。
公爵たちが絵を注文する(1528〜1616年)

1. アルブレヒト・アルトドルファー《アレクサンドロス大王のイッソスの戦い》(1529年)
1528年、レーゲンスブルクの市参事会はアルブレヒト・アルトドルファーを市長に選んだが、彼はバイエルン公ヴィルヘルムのために大きな仕事を引き受けていると説明して、その職を断った。アルトドルファーは画家であり建築家であり、内参事会の一員でもあって、市の建築監督としてトルコ軍の侵攻に備える防備を受けもっていた。参事会の記録には絵の名が記されていないが、ふつうは1529年の年記のあるこの板絵のことだと考えられている。
この絵は300年近く、バイエルン公と選帝侯のコレクションにあった。1800年、モロー将軍の率いるフランス軍がミュンヘンを占領し、フランスの委員たちがパリへ送る絵を選んだとき、《アレクサンドロス大王の戦い》もそのなかに入った。1803年には、ドイツの作家フリードリヒ・シュレーゲルがルーヴルの修復工房でこの絵を見ている。その先については、裏づける文書をだれも見つけていない話が伝わっている。ナポレオンがこの絵を自分のものにして、パリ近郊のサン=クルー宮殿の浴室に掛け、1814年に宮殿を占拠したプロイセン兵がそこで見つけたというのである。ナポレオンが失脚したあとの1815年、絵はバイエルン王に返された。
板絵の下半分には、林立する槍と旗の下に、何千もの小さな騎兵と歩兵がぎっしりと詰めこまれている。上半分を占めるのは、途方もない高さから見下ろした空と海と山々で、そこでは地平線が弧を描いている。左上の濃い青の空には細い三日月が浮かび、右では地平線の上に、橙色と金色の渦巻く雲のなかで太陽が燃えている。空の真ん中には、ラテン語の銘を記した板が赤いリボンで吊られ、その下に赤い房と、先に輪のついた長い紐が垂れていて、紐は下にいる二人の主人公を指している。中央より左では、DARIVSと側面に記された金の戦車に乗ったダレイオスが3頭の白馬に引かれて左へ逃げていき、そのすぐ後ろから金の甲冑のアレクサンドロスが馬で追いすがり、長い槍を彼に向けている。アルトドルファーがこの注文を受けたのは、オスマン軍がウィーンを包囲する1年前の1528年だったが、それでも歴史家はふつう、空の三日月と、左下のダレイオス軍に見える白や赤のターバンを根拠に、この絵をトルコ人と結びつけている。銘板には、殺されたペルシア人は歩兵10万、騎兵1万にのぼり、ダレイオスの母と妻と子どもたちは捕らえられ、ダレイオス自身はわずか1000騎足らずを連れて逃げたと記されている。
2. ピーテル・パウル・ルーベンス《カバとワニの狩り》(1616年ごろ)
ルーベンスと同時代の人々は、カバをほとんど知らなかった。1601年、ナルニ出身の外科医フェデリコ・ゼレンギがローマとナポリで2頭のカバを見せてまわった。本人の話では、エジプトで自ら仕留め、皮はヴェネツィアで剥製にしたという。美術館は、ルーベンスがこの絵のカバをそうした剥製をもとに描いたとみている。ルーベンスは1600年から1608年までイタリアのマントヴァとローマで暮らしていたので、剥製を自分の目で見た可能性もある。1610年代半ばには、彼はアントウェルペンに大きな工房を構え、外国の君主たちのために巨大なカンヴァスを制作していたが、狩りの絵は新しいジャンルとして売り出しはじめたばかりだった。1616年10月の時点でも、《狼と狐の狩り》にはまだ買い手がついていなかった。
この狩りの絵とほかの3点の狩りの絵は、バイエルン公マクシミリアン1世がミュンヘン近郊のシュライスハイムにある古い城のために注文したものである。マクシミリアンが選帝侯、つまり皇帝を選ぶ諸侯の一人になったのは、1623年になってからだった。ルーベンスの全作品目録で狩猟画の巻を書いた研究者アルノウト・バリスは、シュライスハイムのための4点では、師の指導のもとで助手たちが多くの部分を描いたと考えている。

中央には黒ずんだ灰褐色のカバが立ち、黄色く反った牙ののぞく桃色の口を大きく開けて、左から飛びかかってくる白い犬に向かっている。赤いターバンに黄金色のマントの騎手が長い槍をその口に突き刺し、右では白いターバンの白髭の騎手が、打ちかかろうと腕を振り上げながら、眉をひそめてまっすぐこちらを見ている。カバは前足でワニを踏みつけていて、ワニはカンヴァスの下部を横切るように横たわり、鱗に覆われた青白い腹を見せて身をよじっている。ワニは後ろ足で、下端にうつぶせに倒れた死者の白い腰布をつかみ、そのそばの布には赤い血の染みが見える。科学史家ダニエル・マルゴーチは、剥製のせいで獣の形がゆがんでいたので、ルーベンスは胴体のほとんどを人や馬や犬の陰に隠し、口を前面に押し出したのではないかと推測している。
1800年8月30日、フランスの委員ヌヴーは4点の狩りの絵をすべてパリへ運び去った。そのうち3点はフランスの地方の美術館に送られ、返還も求められず、ミュンヘンに戻ったのはカバ狩りだけだった。《イノシシ狩り》はいまマルセイユに、《虎、ライオン、豹の狩り》はレンヌにあり、《ライオン狩り》はボルドーに送られて、1870年12月7日に焼失した。
マクシミリアン1世、ニュルンベルクからデューラーを取り上げる(1613〜1627年)
3. アルブレヒト・デューラー《パウムガルトナー祭壇画》(1500〜1503年ごろ)
1988年4月21日、それまでにも何度か絵を傷つけたことがあり、その日は精神科病院から出ることを許されていたハンス=ヨアヒム・ボールマンが、アルテ・ピナコテークでデューラーの絵3点に硫酸を浴びせた。硫酸は、リキュールの小瓶2本に入れて持ちこんでいた。居合わせた生徒たちが彼を突き飛ばし、そのあと警備員が取り押さえた。ボールマンは、900マルクの年金から以前の損害賠償請求のために毎月158マルク60ペニヒが差し引かれていることに抗議したのだと語った。裁判所は彼に、治療を伴う2年の拘禁を言い渡した。
硫酸は祭壇画のほか、《キリストの哀悼》と《悲しみの聖母》にもかかった。バイエルン州立絵画コレクションの修復研究所であるデルナー研究所の修復家たちは、まずイオン交換体で酸を中和する新しい方法を開発し、修復そのものには2万3000時間の作業を費やした。襲撃から10年後の1998年、祭壇画はふたたび公開されたが、《悲しみの聖母》の修復が終わったのは2005年になってからだった。

祭壇画を注文したのは、ニュルンベルクの都市貴族シュテファンとルーカスのパウムガルトナー兄弟で、ニュルンベルクのドミニコ会女子修道院の聖カタリナ教会のためだった。1498年、デューラーは版画の連作《黙示録》で名を上げ、同じころこの祭壇画に取り組んでいた。17世紀の年代記によると、両翼の騎士聖人は兄弟をモデルにしたもので、左の聖ゲオルギウスがシュテファン、右の聖エウスタキウスがルーカスだとされている。ゲオルギウスは、足もとにうずくまって嘴を開いた小さな茶色の竜の首をつかみ、エウスタキウスの旗には、角のあいだに磔刑像をいただく鹿の頭が描かれている。中央にデューラーは、大きな建物の廃墟のなかの降誕を置き、ふつうは夜の場面として描かれるこの主題を、左上の白い太陽で昼のように照らした。ADのモノグラムは、ヨセフのランタンの右にある木の柱に、小さく淡く記されている。
1613年、ニュルンベルクはマクシミリアン1世の好意を得るために祭壇画を公に譲り、自分たちのためには画家ヨープスト・ハリヒに模写を注文した。ミュンヘンでマクシミリアンは、祭壇画を自分の好みに合わせて描き直させた。中央パネルの注文主一家は塗りつぶされ、両翼には細長い板が継ぎ足され、騎士たちには兜と馬と風景が描き加えられた。のちにこれらの加筆は取り除かれ、騎士たちはふたたび黒い背景の前に立ち、降誕の場面の下の両隅には、人形ほどの大きさの注文主たちがそれぞれの紋章とともにまた姿を見せている。左にひざまずいているのは、1478年に亡くなった父マルティン・パウムガルトナーと息子たち、そして美術館の見方では母の再婚相手ハンス・シェーンバッハで、右には母バルバラと娘たちがいる。
4. アルブレヒト・デューラー《四人の使徒》(1526年)
1526年の秋、デューラーはニュルンベルク市参事会に、注文も受けずに描いた縦長の板絵2枚を差し出した。手紙のなかで彼は、ほかの絵よりもこの2枚に多くの労力を注いだと述べ、自分の記念として市に置いてほしいと頼んだ。10月6日、参事会はこれを受け入れ、画家に100グルデン、その妻に12グルデン、召使いに2グルデンを支払った。その前年、ニュルンベルクは正式に宗教改革を受け入れていた。デューラーはこのあと大きな絵を描くことはなく、1528年4月に亡くなった。
左の板の手前には、緑の衣の上に大きな赤いマントをはおった若い髭のないヨハネが立って、開いた本を読み、その肩越しに、大きな金の鍵を持った頭の禿げかかった老ペテロが同じ本をのぞきこんでいる。右の板の手前には、禿げた髭のパウロが横向きに立ち、重い白灰色のマントに身を包んで、閉じた本を胸に抱え、長い剣を持ち、横目でこちらをうかがっている。その後ろのマルコは黒い縮れた髭を生やし、白目が見えるほど大きく目を見開いて、口を半ば開け、歯をのぞかせている。マルコは福音書記者で、使徒には数えられないので、この題はのちにつけられたものである。早くも1547年には、この板絵の文字を書いたニュルンベルクの習字教師ヨハン・ノイデルファーが、4人の姿に四つの気質を見て、ヨハネを多血質、ペテロを粘液質、マルコを胆汁質、パウロを憂鬱質とした。
人物の下、それぞれの板の下端には明るい帯があり、ノイデルファーが手書きしたドイツ語の文章が並んでいる。ルターが1522年に訳した新約聖書からの引用で、冒頭では、世俗の支配者すべてに偽預言者に気をつけるよう呼びかけている。デューラーがだれを念頭に置いていたのかについて、歴史家の議論は続いている。かつてはカトリック教会のことだと考えられていたが、20世紀半ばからは、その前年にニュルンベルクで裁かれた急進的な宗教改革者たち、デューラー自身の周辺にいた画家たちも含む人々を指すとみる研究者のほうが多い。
1627年、三十年戦争のさなかに、いまや選帝侯となっていたカトリックの熱心なデューラー収集家、マクシミリアン1世がこの板絵を欲しがった。プロテスタントのニュルンベルクには強力なカトリックの隣人の好意が必要で、およそ3か月の交渉のあと、市は折れた。参事会は一計を案じて画家フィッシャーに原寸大の模写を描かせ、選帝侯が模写のほうを手もとに残すことを期待して、原画とともにミュンヘンへ送った。しかし選帝侯が残したのは原画だった。ルターの文章が書かれた帯はミュンヘンで切り落とされた。理由の一つは文章そのものにあり、もう一つは、マクシミリアンが絵から以前の置き場所や用途を思わせるものをことごとく取り除いていたことにあった。帯がふたたび板絵とつなぎあわされたのは、1922年になってからである。
ヨープスト・ハリヒが1613年に描いたパウムガルトナー祭壇画の中央パネルの模写はニュルンベルクの聖ローレンツ教会にあり、両翼の模写はニュルンベルクのゲルマン国立博物館に収められている。1627年に描かれた《四人の使徒》の模写はニュルンベルク市の美術館が所蔵し、同じくニュルンベルクには、キュフナーの作とされる18世紀の《毛皮の上着を着た自画像》の模写も残っている。

選帝侯、アントウェルペンで買う(1698年)

5. バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《ブドウとメロンを食べる少年たち》(1645年)
右の少年が膝にのせ、刃の黒ずんだナイフで切っている半分のメロンの白い果肉に、2匹の蠅がとまっている。1匹は刃の少し上に、もう1匹は刃先のすぐそばにいる。少年は、はだけたシャツの上にオリーブ色の上着を着て低い木の切り株に座り、メロンで頬をふくらませたまま、隣の少年を横目で見ている。隣の少年は地面に座って頭をのけぞらせ、黒いブドウの房を口に下ろしながら、もう一方の手には食べかけのメロンの一切れを持っている。左下には、葉のついた緑と黒のブドウでいっぱいの編み籠がある。二人ともシャツは破れ、ズボンは膝のところが裂け、裸足の足は汚れていて、地面には種や皮が散らばっている。光は左上から顔やシャツや足や果物に落ち、背景はほとんど黒い。
ムリーリョは生涯をセビーリャで過ごした。美術館はこの絵を、画家がフランシスコ会修道院の小回廊のための連作という最初の大きな注文を受けた1645年の作としている。美術館によれば、子どもを描いた彼の世俗画のなかでもっとも早い時期の1点だという。
この絵はおそらく1698年ごろ、当時スペイン領ネーデルラント総督だったバイエルン選帝侯マックス・エマヌエルのために、アントウェルペンで買われた。美術館の記録には売り手の名が出てこない。別の1点《サイコロ遊びをする少年たち》は、同じ1698年にアントウェルペンの商人ヒスベルト・ファン・コーレンがマックス・エマヌエルに売ったもので、子どもを描いたムリーリョの絵はさらに2点が1768年に宮廷顧問官フランツ・ヨーゼフ・フォン・デュフレーヌの遺贈で、1点が1799年にマンハイムから加わった。こうして、路上の子どもたちを描いたムリーリョの絵として知られるおよそ20点のうち5点がミュンヘンに集まった。これはほかのどのコレクションよりも多い。
プファルツの画廊、ミュンヘンへ移る(1806年まで)

6. ピーテル・パウル・ルーベンス《大最後の審判》(1617年ごろ)
プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムは、1613年にカトリックに改宗した。美術館によれば、はじめは秘密裏に、政治的な計算からだったという。同じ年に彼は、首都であるドナウ河畔のノイブルクの宮廷教会をカトリックに明け渡し、1618年にはそれをイエズス会に引き渡して、主祭壇のためにルーベンスに最後の審判を注文した。
ルーベンスは工房とともに、何枚もの細長い布を縫いあわせた高さ6メートルを超えるカンヴァスを描いた。画面の真ん中を上から下へ、淡い青空の切れ目が通っている。その左では天使たちが救われた青白い裸の人々を上へ引き上げ、右では罪に定められた者たちの黒ずんだ筋骨たくましい体が頭から落ちていく。キリストは中央の黒い雲の上に、薔薇色がかった赤いマントをまとって座り、右手で上の父なる神を指し、左手を手のひらを下にして、罪に定められた者たちの側へ差し伸べている。その下では大天使ミカエルが、炎の稲妻を手に頭から飛び下りてくる。左下の隅では白い経帷子の髭の男が墓から起き上がり、そばには骸骨があって、二人の男が重い灰色の墓石を押しのけている。右下の隅では、怪物の青灰色の巨大な頭が、叫ぶ男に顎を食いこませている。
この絵がなぜノイブルクを離れたのかは、後世の伝聞でしか知られていない。その一つによると、まもなく裸体がみだらだという理由で一部が覆われ、1653年には完全に取り外された。ヴォルフガング・ヴィルヘルムの孫にあたるプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムがこの絵をデュッセルドルフの自分の画廊へ運び、1806年、絵はデュッセルドルフの画廊全体とともにミュンヘンに入った。

美術館は、クレンツェがピナコテークを設計するとき、ルーベンスの大展示室の寸法をこのカンヴァスに合わせて決めたという言い伝えを紹介している。いずれにせよ、すべての絵のなかで、1836年の開館時と同じ場所にいまも掛かっているのはこの絵だけである。
7. ピーテル・パウル・ルーベンスとヤン・ウィルデンス《ロイキッポスの娘たちの略奪》(1618年ごろ)
カストルとポルックスの兄弟は、ロイキッポスの娘ポイベとヒラエイラをさらった。姉妹は、兄弟のいとこにあたるイダスとリュンケウスと婚約していた。婚約者たちとの戦いで、兄弟のうち死すべき身のカストルが命を落とすと、ユピテルの子であるために不死だったポルックスは兄弟と引き離さないでほしいと願い、二人はともに星になった。
ルーベンスはこの略奪を下から見上げるように描いたので、丘と木々の並ぶ地平線は人物の膝の高さを通り、馬は見る者の頭上にそびえている。左には、額から鼻にかけて白い筋があり、背に豹の毛皮をかけた鹿毛の馬が立ち、画面のすぐ端で、濃い灰色の翼をもつプットーがその手綱を押さえている。右では、乗り手のいない連銭葦毛の馬が、すべての人物の上に後ろ脚で立ち上がっている。黒っぽい甲冑を着て、背中に赤いマントをひるがえした兄弟の一人が、姉妹の一人を太腿と背の下に手を回して持ち上げていて、彼女は画面を横切るように身を投げ出し、赤みがかった金髪に真珠をつけた頭をのけぞらせている。日焼けした髭の、上半身裸のもう一人の兄弟は、もう一人の姉妹の腰を後ろから抱えている。彼女は金色がかった橙色の布の上に片膝をついていて、画面下の中央では、足裏をこちらに向けた彼女の裸足が、赤いリボンで結んだ彼のサンダルの横で、爪先を地面についている。美術館の記録では、風景を描いたのはヤン・ウィルデンスである。美術館はこの絵に、絵画と彫刻のどちらが優れているかという古い論争への一つの論拠を見ている。人物がこれほど絡みあっているので、見る者は群像を一度にいくつもの方向から見ているように感じるというのである。

この絵は、ルーベンスの絵が46点あったプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムのデュッセルドルフの画廊に掛かっていた。画廊はヴィッテルスバッハ家プファルツ系の後継者たちに受け継がれ、彼らは1777年にバイエルンも相続した。1805年、デュッセルドルフがナポレオンのベルク大公国に移る前に、絵はキルヒハイムボーランデンへ運び出され、そこからミュンヘンへ送られて、1806年にバイエルンのコレクションに入った。
角飾りと小さな鏡のついた金箔の額縁を、美術館はミュンヘンの宮廷建築家ヨーゼフ・エフナーの作としている。エフナーが亡くなったのは1745年、絵がミュンヘンに来る60年前のことである。
8. ラファエロ《カニジャーニの聖家族》(1505〜1508年ごろ)
この板絵の上の両隅にいる天使たちは、18世紀半ばにデュッセルドルフで修復家に傷つけられ、青空で塗りつぶされた。1983年、ラファエロ生誕500年に合わせて、フーベルトゥス・フォン・ゾンネンブルクの率いるバイエルン州立絵画コレクションの修復家たちが上塗りを取り除き、ようやく雲の上の天使たちがふたたび姿を現した。左には寄り集まった一群、右には二人がいて、一部は板の縁で切れている。美術館は全部で8人と数えている。右の二人は青白く、チョークのようで、ほとんど下塗りのままに見え、左の一群も下の人物たちより柔らかく、透けて見える。

ヴァザーリは、ラファエロがこの絵をフィレンツェのドメニコ・カニジャーニのために描いたと書いていて、美術館は、おそらく1507年のルクレツィア・フレスコバルディとの結婚に合わせたものだろうと考えている。若いラファエロは当時、レオナルドとミケランジェロが仕事をしていたフィレンツェに住み、フィレンツェの商人たちのために聖母を描いていて、1508年の終わりにローマへ移った。
5人の人物はピラミッド形に組まれている。頂点にはヨセフが立ち、両手で杖にもたれ、禿げた頭をエリサベツのほうへ傾けている。エリサベツは左にひざまずいて幼いヨハネを抱き、右には薔薇色がかった赤い服に青いマントのマリアが低く腰を下ろしている。子どもたちのあいだには巻物があり、ヨハネがその下の端を持ち、幼子キリストが上の輪をつかんでいる。マリアの服の襟ぐりの金の縁取りには、「ウルビーノのラファエロ」を意味するRAPHAEL VRBINASの文字がある。
ヴァザーリの時代には、この絵はまだカニジャーニの相続人のもとにあった。デュッセルドルフには、トスカーナ大公コジモ3世から新しい娘婿のプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムへの贈り物として入り、1806年に画廊とともにミュンヘンへ移った。ゾンネンブルクは1983年の展覧会カタログの副題で、この絵をドイツに来た最初のラファエロと呼んだ。
9. レンブラント《十字架降下》(1632〜1633年)
オランダ共和国の軍事と政治の長であった総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックは、レンブラントに《十字架降下》と《十字架昇架》を注文した。注文が届いたのは1631年から1632年ごろで、おそらく、以前から若いレンブラントを褒めていた総督の秘書コンスタンテイン・ホイヘンスを通じてのことだった。画家は25歳前後で、ちょうどそのころライデンからアムステルダムへ移っている。
構図をレンブラントはルーベンスから借りた。アントウェルペン大聖堂にあるルーベンスの《キリスト降架》で、彼はそれをルーカス・フォルステルマンの1620年の版画で知っていた。十字架から下ろされる白い布と、それを上で支える男というルーベンスの組み立てはそのまま残し、キリストの体は重く、痩せた、無力なものにした。
板の上部は丸く、光は画面の外のどこか、手前の左上から差して、布と体だけを照らし、まわりはすべて茶色と黒のなかに沈んでいる。毛皮の帽子の男が横木から身を乗り出して布を下ろし、布は長く白い帯となって垂れている。キリストはそれに沿ってずり落ちていき、右腕はまだ上がったまま、頭は左肩に落ち、脚はだらりと下がっている。左の梯子では、青い上着の若い男がキリストの上がった腕を抱きかかえ、手首に頬を押し当てているので、その顔はほとんど見えない。古くからの言い伝えでは、これがレンブラント自身だとされている。右端には、真珠の糸を巻いたターバンをかぶり、毛皮の縁取りのある黒っぽいマントを着た老人が横顔で立ち、ただ見つめている。
やがて総督のための連作は7点にまで増えた。後半の絵についてレンブラントはホイヘンスに手紙を書いていて、1636年から1639年にかけてのこの7通は、画家の手紙として今日まで残る唯一のものとされている。1639年、彼は最後の2点が遅れた理由を、それらの絵でもっとも大きく、もっとも自然な動きを表そうとしていたからだと説明した。
1668年、フレデリック・ヘンドリックの未亡人アマリア・ファン・ソルムスの財産目録に、黒い額縁に入った7点すべてが記載され、1719年にはヨハン・ヴィルヘルムのデュッセルドルフ画廊の刊行目録に7点すべてが載っている。どのようにしてそこへ渡ったのかを示す文書は見つかっていない。1719年から1756年までのあいだに《キリストの割礼》が失われ、いまはブラウンシュヴァイクにある模写でしか知られていないので、1806年にミュンヘンに来たのは6点だった。1755年から1756年にかけて、マンハイムの宮廷画家フィリップ・ヒエロニムス・ブリンクマンが6点すべてを修復し、《キリストの復活》の裏に、レンブラントがこの絵をつくり、ブリンクマンがそれをよみがえらせたという趣旨のラテン語の銘を、1755年の年記とともに書き残した。
都市と修道院が絵を手放す(1805〜1812年)

10. アルブレヒト・デューラー《毛皮の上着を着た自画像》(1500年)
1800年から1801年にかけてフランス軍がニュルンベルクを占領したとき、デューラーの自画像は市庁舎に掛かっていた。委員ヌヴーは自画像を徴発してパリへ運んだが、その絵はのちに模写だったとわかる。1805年、市の役人ゲオルク・グスタフ・ペッツ・フォン・リヒテンホーフと画商アブラハム・ヴォルフガング・キュフナーという二人のニュルンベルク市民が、原画を600グルデンでミュンヘンに売った。ニュルンベルク自体がバイエルン領になる少し前のことである。
原画がどのようにして市庁舎を出たのか、正確なところはわかっていない。後世の伝説では、修復家キュフナーが板を挽き割り、裏に封印のある模写を市に残して、原画を売ったとされる。2012年、ニュルンベルクのデューラー・ハウスの館長トーマス・シャウエルテは別の説を出し、ペッツとキュフナーは原画がフランス人の手に渡らないよう、意図的にすり替えたのかもしれないと述べた。ゲルマン国立博物館のダニエル・ヘスは、もっと単純な説明もありうるとしている。占領のころには、原画はもう市の所有ではなかったのかもしれず、1711年の目録にも載っていないからである。
デューラーは、イコンで救世主を描くときのように、自分をまっすぐ正面から左右対称に描いた。美術館もこの手本をはっきり名指ししている。髪は分け目から肩まで、規則正しい螺旋状の巻き毛となって垂れ、茶色の毛皮の上着には幅広い毛皮の襟があり、右手は胸もとに上げられて、人差し指が毛皮に触れている。左の目の高さには金で1500の年記とADのモノグラムが記され、右には4行のラテン語の銘がある。美術館はこれを、ニュルンベルクのアルブレヒト・デューラーである自分が28歳のときに、ふさわしい色で自らをこのように描いた、という意味に訳している。テンの毛皮はニュルンベルクの奢侈禁止令で市の上層の人々にしか許されていなかったが、デューラーは身分のうえでは職人のままで、大参事会に入ったのは1509年になってからだった。美術史家フィリップ・ツィッツルスペルガーは2008年、この点をもとに、肖像は1509年ごろに描かれ、年記を含む銘はあとから書き加えられたという推測を立てた。美術館は1500年という年を支持している。
ヌヴーが持ち去った模写は1815年にフランスから返還され、ニュルンベルクはそのころにはバイエルン領になっていたので、ミュンヘンへ送られた。バイエルンのコレクションには、原画と、美術館の記録によれば16世紀か17世紀につくられたこの模写の両方が収められている。

11. ミヒャエル・パッハー《教父祭壇画》(1480年ごろ)
ヒエロニムス、アウグスティヌス、グレゴリウス、アンブロシウスの四人の教父の上には、金箔の葉飾りのついた薔薇色のゴシックの天蓋がそびえ、両脇の壁龕には灰色の石の聖人像が立っている。そのすべてが、スイスマツの板に絵の具で描かれている。美術館の説明によれば、パッハーは彫刻をほどこした祭壇を、それも石から彫り出された祭壇を描いたのである。パッハー自身が彫刻家でもあり画家でもあって、1467年からチロルのブルネックで、当時もっとも多くの注文を抱えた祭壇工房の一つを営んでいた。同じころ彼はザンクト・ヴォルフガングのために、中央部を木で彫り、両翼に絵を描いた祭壇をつくっていた。
歴史家たちの見方では、パッハーはパドヴァでマンテーニャの作品を見ていて、色タイルの床の急な遠近法や、見る者のほうへ突き出た書見台や揺りかごはそこから来ている。ヒエロニムスの足もとでは、背中を見せたライオンが棘の刺さった前足を上げ、そこからタイルの上に血がしたたっている。グレゴリウスの板では、下の縁の黄色い炎の舌のなかから、冠をかぶったほとんど裸の白髪の男が両腕を上へ伸ばして起き上がり、教皇がその手に触れている。グレゴリウスの祈りによって煉獄から救い出されたと伝えられる皇帝トラヤヌスである。
祭壇は、南チロルのブリクセン近郊ノイシュティフトにあるアウグスチノ会律修参事会の教会のために描かれ、注文主は修道院長レオンハルト・パッハーだと考えられている。1805年のプレスブルクの和約でチロルはバイエルン領となり、バイエルン政府はチロルの修道院を解散させて、ノイシュティフトは1807年に閉鎖された。修道院が自らについて語る歴史では、バイエルン人が修道院を略奪し、何トンもの書物や美術品を運び去ったとされ、そのなかにパッハーの祭壇画の名が挙げられている。美術館の記録によれば、祭壇画は1812年に、世俗化された修道院の財産としてミュンヘンに入った。
1814年にチロルはオーストリアに戻され、1816年には皇帝フランツがノイシュティフトを再興して、荒らされた修道院にすっかり人数の減った共同体が戻ってきたが、祭壇画はミュンヘンに残った。

王が公共の美術館のために買う(1820年代)
12. ロヒール・ファン・デル・ウェイデン《聖コルンバ祭壇画》(1455年ごろ)
ケルンの商人の息子であるスルピツとメルヒオールのボワスレー兄弟は、1808年、ケルンの聖コルンバ教会にあった三連祭壇画を買った。兄弟は、フランスによる世俗化でケルンの市場にあふれ出た教会美術を集めていた。教会そのものはフランス支配のもとでも教区教会として残り、1943年に爆撃でほぼ完全に破壊されるまで建っていたが、祭壇画の売り手を研究者たちはいまだに突き止めていない。
ボワスレー兄弟はこの祭壇画をヤン・ファン・エイクの作と考えていて、それはコレクションの中心となる絵だった。1810年から1819年までコレクションはハイデルベルクにあり、1814年と1815年にそこでゲーテがこれを見て、ファン・エイクの作とされていたこの絵を讃えた。その後コレクションはシュトゥットガルトで公開され、1827年、国王ルートヴィヒ1世が、ミュンヘンに建てていた美術館のためにコレクションをまるごと買い取った。祭壇画がブリュッセルの市付き画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作とされたのは、1841年のことである。

ケルンでは東方三博士が崇められていて、その聖遺物は1164年から大聖堂に納められていた。ロヒールは三連祭壇画の中央に三博士の礼拝を描いた。穴のあいた藁屋根の家畜小屋が石の廃墟のなかに建ち、濃紺の衣のマリアが幼子を膝にのせて中央のやや左に座っていて、そのすぐ頭上の中央の柱には小さな磔刑像が掛かっている。黒と金の衣をまとった年長の博士はひざまずいて幼子の小さな手を唇に近づけ、彼の赤い帽子は地面に置かれている。赤と金の錦をまとった若い博士は右端に立って、長い白いスカーフのついた帽子を高く掲げ、その足もとの隅には白いグレーハウンドが寝そべっている。左では、崩れた低い壁の向こうに、赤いロザリオを持った黒衣の注文主がひざまずいていて、彼がだれなのかについては、歴史家たちがいまも議論している。右上の隅には外から見た明るい円形の神殿があり、右翼のパネルでは、その神殿のなかでシメオンがマリアから幼子を受け取っている。
13. ラファエロ《テンピの聖母》(1507〜1508年ごろ)
マリアは両手で幼子を胸に抱き寄せ、頬を彼の頬に押し当てている。目はほとんど閉じ、唇にはかすかな笑みが浮かんでいる。幼子は彼女の顔に顔をうずめているが、黒い目でこちらを横目に見ていて、二人のうち外を見ているのは彼だけである。マリアは膨らんだ袖の薔薇色の胴着に、青緑のマントをまとっている。マントは下へいくほど黒に近くなり、左下の縁には細い金の縁取りがある。光輪は髪の毛のように細い金の輪で描かれていて、空を背にすると見落としやすい。背景のほとんどを淡い緑がかった青空が占め、下の両脇にだけ、水と小さな町と塔のある細い風景がのぞいている。同じフィレンツェ時代に描かれた《カニジャーニの聖家族》でラファエロは5人の人物を描いたが、ここでは二人だけである。
1808年8月20日、バイエルン王太子ルートヴィヒの依頼でイタリアをめぐっていたヨハン・ゲオルク・フォン・ディリスは、フィレンツェのテンピ侯爵の邸宅に、幼子を愛撫する最盛期のラファエロの聖母があると王太子に書き送り、その版画を添えた。1809年からルートヴィヒは、手紙が開封されることを恐れて、書簡のなかでこの絵を小鳩と呼ぶようになった。交渉にあたったのは、フィレンツェにいたミュンヘンの代理人ヨハン・メッツガーである。1811年にテンピは売却を断り、メッツガーは侯爵の愛人ネンチーニ夫人に、侯爵を説き伏せてくれればツェッキーノ金貨100枚を渡すと約束したが、それもうまくいかなかった。1824年、侯爵がシエナ近郊で湯治をしているあいだに、メッツガーはふたたび交渉を始め、仲買人を通じて、名高い画廊はラファエロがなくてもやっていけるが、一枚の絵では画廊にはならないと侯爵を説いた。そのうえ絵は焼けてしまうかもしれないと彼はつけ加え、その1週間前には同じ通りの邸宅に雷が落ちていた。1820年代の終わり、プロイセン側もこの絵を狙いはじめたころ、メッツガーはディリスの最初の手紙からほぼ20年をへて、ようやくこれを買い取った。
フィレンツェのある役人は、この絵を町の傑出した文化財として引き留めようとしたが、トスカーナ大公レオポルド2世は売却のことは知らなかったと答え、本人の言葉によれば、ただバイエルン王の願いをかなえるために持ち出しを許した。ミュンヘンでルートヴィヒは、自分の祈りのためにこの絵をレジデンツの聖チェチーリア礼拝堂に置き、1835年から1836年になってようやく、王の所有物としてピナコテークに移した。1923年にバイエルン州と旧王家とのあいだで財産が分けられてからは、ヴィッテルスバッハ補償基金の所有となり、長期貸与のかたちで州にゆだねられている。

美術館みずから市場で買う(1889〜1917年)

14. レオナルド・ダ・ヴィンチ《カーネーションの聖母》(1475年ごろ)
薬剤師アウグスト・ヴェッツラーは、1865年から1881年まで、バイエルン・シュヴァーベン地方のドナウ河畔の町ギュンツブルクで「上の薬局」を営み、化石を集めていた。彼がこの板絵をどこで手に入れたのかは、ついに突き止められていない。1881年に彼が亡くなると、板絵は未亡人に、次に未婚の姉妹テレーゼに渡り、1885年11月にテレーゼも亡くなると、家財はすべて競売にかけられた。1886年4月6日から7日にかけての競売で、この板絵はだれの作とも記されないまま5マルクと見積もられ、医師アルベルト・ハウクが町のもう一人の住人と競りあって、47マルク50ペニヒで手に入れた。
1889年4月、ハウクはこれを、レオナルドがフィレンツェで師事したヴェロッキオの工房の作として、800マルクでアルテ・ピナコテークに売った。同じ年の秋、研究者ハインリヒ・フォン・ガイミュラーが、作者はレオナルド本人だとした。論争はさらに半世紀続き、板絵はヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ、工房、失われたレオナルドの作品を写した画家などに帰せられたが、1937年から1938年にエミール・メラーが研究を発表し、それ以後レオナルドの作と認められるようになった。ドイツにあるレオナルドの絵はこれだけである。
若いマリアは板絵の中央、胸の黒っぽいブローチのそばで、細い茎の小さな赤いカーネーションを持ち、左下のクッションに座った重たげな裸の幼子が、両手をその花へ伸ばし、片脚を跳ね上げている。カーネーションはふつう、キリストがこれから受ける受難のしるしと読まれている。マリアの後ろの暗い壁には、細い円柱で二つずつに仕切られた四つのアーチ窓があり、そこから金色の山麓の上にそびえる、ぎざぎざした青灰色の峰々が見える。右下の張り出しには、金めっきの台にのった、ねじれた脚のガラスの花瓶が置かれ、淡い色の花でいっぱいになっている。ヴァザーリは、教皇クレメンス7世が持っていたレオナルドの聖母の絵に描かれた、花を生けた水差しを褒めていて、美術館はこの花瓶を手がかりに、ミュンヘンの板絵をその絵と結びつけている。ただし、教皇とギュンツブルクの薬局とのあいだには、文書の一つもない3世紀半の空白がある。
マリアの顔と首と胸は、絵の具が縮んだような細かい皺に覆われている。美術館はこの絵を実験と呼んでいて、2006年のデルナー研究所の調査によれば、若いレオナルドが油と顔料の配合を誤ったために、絵の具が乾くときに縮んだのだという。
15. エル・グレコと工房《キリストの衣を剥ぐ》(エスポリオ、1580〜1595年)
エル・グレコは1577年から1579年にかけて、トレド大聖堂の聖具室のために大きな《キリストの衣剥ぎ》を描き、これがこの町で受けた最初の大きな注文となった。大聖堂参事会は報酬をめぐって画家と争い、下のほうにいる三人のマリアと、頭がキリストの頭より高い位置にある人物たちにも異議を唱えた。

1580年代から、エル・グレコの工房は評判のよい構図を小さな寸法で繰り返し描いた。エル・グレコ作品目録の編者ウェジーは、画家本人と工房と息子ホルヘ・マヌエルがさまざまな割合で手がけたエスポリオを19点数えている。美術館はミュンヘンのカンヴァスを、工房も制作に加わった真筆の反復作とみなしていて、ふつうは後年のほかのヴァージョンより上に位置づけられている。
中央のキリストは、画面でもっとも鮮やかな深紅の衣を着て、右の手のひらを胸に当て、目を上げて立っている。そのまわりと頭上には、頭や兜、赤いターバン、羽根飾り、林立する斧槍が、嵐の空を背にひしめいている。緑のシャツの男がキリストの前に筋骨たくましいむき出しの腕を伸ばし、腰のあたりで衣と縄をつかんでいる。左には、白い襞襟をつけ黒い鋼の甲冑を着た髭の男が身じろぎもせずに立ち、見る者の脇へ視線を向けている。左下には三人のマリアがいて、マグダラのマリアは明るい色の編み髪に大きな黄金色のマントをまとい、こちらに背を向けている。右下では、白いシャツに黄色い上着の職人が十字架の上にかがみこみ、錐で穴をあけている。キリストの裸足の足もとには小石が散らばっている。
1909年、このカンヴァスをパリの画商から買ったのは、バイエルン州立絵画コレクションの新しい館長フーゴー・フォン・チューディだった。彼はその少し前に、皇帝によってベルリンのナショナル・ギャラリーを追われていた。エル・グレコは当時、近代絵画の先駆者として再発見されつつあった。美術史家カール・ユスティは晩年のエル・グレコを病的な退廃の症例と呼び、1908年にスペインへ旅した批評家ユリウス・マイアー=グレーフェは、彼をミケランジェロ、ルーベンス、レンブラントと並べた。1911年6月から1912年1月まで、このカンヴァスは収集家マルツェル・フォン・ネメシュのコレクションのエル・グレコ8点とともにアルテ・ピナコテークに掛けられ、多くのドイツの画家がそこではじめてエル・グレコを見た。1912年に出た画家たちの年刊誌『青騎士』では、エル・グレコは取り上げられた数少ない古い巨匠の一人だった。
16. ピーテル・ブリューゲル(父)《極楽の国》(1567年)
第一次世界大戦のさなかの1917年12月4日、ベルリンで故リヒャルト・フォン・カウフマンのコレクションが競売にかけられ、競売を取り仕切ったのはパウル・カッシーラーとフーゴー・ヘルビングだった。スイスの外科医で収集家のオットー・ランツが、ブリューゲルの小さな板絵に31万マルクの値をつけ、アルテ・ピナコテークのために落札した。資金はランツ自身、カッシーラー、ヘルビング、そして何人かの匿名の寄付者が出しあい、収集家の未亡人マリア・フォン・カウフマンは美術館のために売上金の一部を辞退した。
それ以前、この板絵はプラハの皇帝ルドルフ2世のものだった。三十年戦争の終わりの1648年にスウェーデン軍がこれを持ち去り、絵はスウェーデンのスコークロステル城に収まった。1900年ごろにパリの市場に現れ、おそらくスイスのヴヴェイの収集家アンリ・ロシエのもとを経て、カウフマンの手に渡った。
画面の中央には一本の木が立ち、その幹のまわりに丸い卓板が取りつけられている。卓板はこちらへ傾き、パイや焼いた鳥やひっくり返った水差しでいっぱいである。その下には三人の男が、幹を中心に放射状に寝そべっている。鎖帷子の袖に赤い縞のズボンの兵士は赤いクッションの上であおむけに眠り、そばには槍と鉄の籠手がある。白いシャツの農民は自分の殻竿の上で横向きに眠り、顔をそむけている。薔薇色の服の学者は毛皮の裏地のついたマントの上に寝そべり、そばに本と紙があり、ベルトにはインク壺を下げている。彼の目は開いていて、ただ一人眠らずに、まっすぐ上を見ている。左では、丸いパイで葺いた庇の下に兜をかぶった男が口を開けて座り、右では背中にナイフを刺された焼き子豚が草の上を走り、下の中央では、殻の上を切り取られてなかにナイフの入ったゆで卵が二本の小さな脚で歩いていて、卓の向こうにはソーセージの垣根が続いている。これらの細部のもとになった1546年のフランドルの本によると、この国に入るには粥の山を食べ抜けなければならない。右上の隅では、渦巻く灰色の雲から、匙を持った男が頭を下にして抜け出てくる。左下の隅には小さな文字でM.D.LXVII BRVEGELと記されている。
購入の経緯を記した別のページで、美術館はこの取引にかかわった人々のその後を伝えている。マリア・フォン・カウフマンの息子は1933年にアルゼンチン駐在大使の職を解かれ、ランツの未亡人は彼のコレクションを安値で売らなければならず、フーゴー・ヘルビングは営業許可を失った。1938年に彼の会社は閉鎖され、同じ年の11月のポグロムで彼は暴行を受け、数週間後に亡くなった。

戦後の購入と襲撃(1953〜1971年)

17. レンブラント《自画像》(1629年)
額の上の巻き毛を、レンブラントはまだ乾いていない黒っぽい絵の具を何か尖ったもので引っかいて描いた。引っかき傷からは明るい黄土色の下層がのぞき、髪は針金のような細く明るい輪を描いて渦巻いている。板は手のひらほどの大きさで、描かれているのは頭と肩だけである。23歳の画家は前かがみになり、肩越しにこちらへ顔を向けている。光は左から耳、頬、首、襟に当たり、鼻の先と唇と顎をかすめるが、目と額は髪の下の影に沈んでいて、口は半ば開いている。白い襟は縁のぎざぎざした厚い絵の具の層で置かれていて、画面全体でいちばん厚塗りの部分である。美術館はこの板絵を、レンブラントが自分の顔を使って光と影、表情、そして湿った絵の具を引っかくような技法を試したライデン時代の習作の一つに数えている。
1803年までに、この板絵はザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト2世のコレクションに入り、1842年からはゴータのフリーデンシュタイン城で公開されていた。戦争中はゴータ近郊のラインハルツブルン城に疎開し、1945年に公爵家の美術館に戻された。1946年1月から2月にかけて、公爵家は、ソ連占領地区となったゴータからアメリカ占領地区のコーブルクへ、この絵をひそかに運び出した。ソ連の戦利品部隊が怖かったというのがその説明だった。運び出しを手配したのは公爵家の美術館の元館長で、当時在職していた館長の同意も、コレクションを所有する財団の同意も得ていなかった。1953年、公爵家はこの絵を7万5000ドイツマルクでバイエルン州立絵画コレクションに売った。
ゴータのフリーデンシュタイン財団は、この運び出しを違法だとしている。ミュンヘンは善意でこの絵を買っており、ドイツの法律では、以前の所有者の請求権は所有を失ってから30年で消滅するので、ゴータにとってその期限は1976年に切れた。

18. ピーテル・パウル・ルーベンス《地獄に堕ちる罪人たち》(1620年ごろ)
1959年2月26日、午前11時を少し過ぎたころ、ヴァルター・パウル・メンツルが、1806年のデュッセルドルフ画廊の移転以来ミュンヘンにあったこの板絵に、腐食性の液体を浴びせた。新聞は酸と書いたが、おそらく塗料の剥離剤だった。メンツルは哲学者を名乗り、1956年ごろボーデン湖畔のユーバーリンゲンに「哲学アカデミー」を設立したものの、弟子は一人も来なかった。彼はこの襲撃によって、世界平和についての自分の教えに注目を集めようとした。翌日、彼は弁護士の事務所で見つかり、警察で自白した。
2月27日、板絵はピナコテークから運び出され、修復のために中央美術史研究所の建物へ移された。新聞は、おそらく元どおりにはならないだろうと書き、この絵に保険がかけられていなかったこともわかった。修復を担当したのは主任修復家ヘルマン・ローエで、彼の報告によれば、液体は上端の少し下に当たった。

《大最後の審判》でルーベンスはキリストも救われた人々も描いたが、この板に残っているのは墜落だけである。上の中央やや左では、赤と青の衣をまとい翼を広げた大天使ミカエルが、透明なガラスのような丸い盾を掲げ、そこから黒い雲を貫いて左下へ淡い光が走っている。右上からは裸の体の流れがなだれ落ち、多くは頭から落ちていき、流れは下へいくほど広がる。中央より左では、灰緑色の悪魔たちが太った裸の男女を引きずっていて、その一人は丸い顔で叫んでいる。研究者デイヴィッド・フリードバーグの指摘によれば、ルーベンスはこの太った人々をマンテーニャの版画《シレノスのいるバッカナール》から借りた。中央より右では竜や蛇の頭が口を開けて絡みあい、高さの3分の2のあたりで体は落ちるのをやめ、画面を横切って引きずられていく。右と下では黄色がかった橙色の炎が燃えている。
1959年7月15日、ミュンヘンの裁判所はメンツルに禁錮3年と80万マルクの損害賠償を言い渡したが、彼はその賠償をついに払わなかった。
19. フランス・ハルス《ウィレム・ファン・ヘイトホイセンの肖像》(1625年ごろ)
ハールレムの織物商ウィレム・ファン・ヘイトホイセンは、自宅の大広間に掛けるためにハルスに肖像を注文し、1650年に彼が亡くなったあとの財産目録には、その部屋にある肖像として記載されている。ハルスが描いた男性の単独肖像で、全身かつ等身大のものとして知られているのはこれだけである。1620年代のオランダで全身等身大の肖像に描かれるのは、ふつうは君主や貴族だった。
ヘイトホイセンは脚を交差させて立ち、私たちは彼をやや下から見上げている。左手は肘を張って腰に当て、右手は透かし彫りの銀の柄に置かれていて、鞘に収めた剣の切っ先は床についている。彼には軍の位がなく、ハルスの研究者グリムはこの剣を儀礼用の贈り物と考えている。黒い服は文様のあるダマスク織で、光の当たるところでは大きな花模様が灰色に光る。頭には鍔の広い黒い帽子、顎の下には幅広い白い襞襟、手首にはレースの袖口がある。背後にはワインレッドのカーテンが下がり、左の奥にはアーケードのある庭が見えて、二人の小さな人物が座っている。この庭をグリムは、ハルスと同じハールレムの画家ピーテル・デ・モレインの手に帰している。ヘイトホイセンの右足のそばの床には一輪の薔薇色の薔薇が落ちていて、グリムによれば、これはハルス自身が描いたもので、彼の手になる静物の断片として残る2点のうちの一つである。
1800年、この肖像はハールレムで51グルデンで売られた。1821年にはリヒテンシュタイン侯ヨハン1世がバルトロメウス・ファン・デル・ヘルストの作として買い、1866年になってようやくドイツの鑑定家グスタフ・ヴァーゲンがハルスの作に戻した。1969年、チェコの領地を失ったリヒテンシュタイン侯家が絵を売りに出していたころ、バイエルン州はアルテ・ピナコテークのために、フランツ・ヨーゼフ2世侯からこの肖像を買った。その2年前の1967年には、同家のコレクションからレオナルドの《ジネーヴラ・デ・ベンチ》がワシントンへ渡っている。


20. フランソワ・ブーシェ《ポンパドゥール夫人》(1756年)
オーストリア併合の2日後にあたる1938年3月14日、ゲシュタポはウィーンのアルフォンスとクラリスのロスチャイルド夫妻の邸宅を封鎖し、この肖像を含む夫妻の絵を没収して、美術史美術館の収蔵庫へ運びこんだ。1939年7月、ヒトラーがリンツに計画していた美術館のために没収された絵を選んでいたハンス・ポッセは、この侯爵夫人の肖像を含むロスチャイルド家のフランス絵画を、ウィーンの美術史美術館に割り当てた。
ルイ15世の寵姫ポンパドゥール侯爵夫人は、カンヴァスの対角線に沿って長椅子に半ば横たわっていて、小さな薔薇色の薔薇の花綱と襞飾りで飾られた青緑の絹の巨大なスカートが画面の下半分に広がり、胴着には薔薇色のリボンが梯子のように連なっている。彼女は横のほうへ、見る者からそれた方向へ目をやり、膝の上に開いた本を持っている。右の小さな書き物机には、燃えつきて消えたろうそくの立つ銀の燭台があり、赤い封蝋で封をした折りたたんだ手紙、赤い封蝋の棒、金めっきの小さな印章が置かれ、引き出された引き出しからはインク壺に差した羽根ペンがのぞいている。左の裾のそばには黒と赤茶のスパニエルが座り、その後ろには版画と楽譜がある。彼女の背後の大きな鏡には、その後ろ頭と、革装の本の並ぶ書棚が映っていて、書棚の上にはキューピッドの飾りのついた時計がのっている。
ブーシェは彼女のお気に入りの画家で、彼女に素描の手ほどきもした。美術館によれば、肖像を注文したのは侯爵夫人自身で、1757年にブーシェはこれをサロンに出品した。彼が制作に取り組んでいた1756年のはじめ、彼女は宮廷で王妃付き女官という正式な地位を得ている。
肖像は侯爵夫人の弟マリニー侯爵に渡り、のちにロンズデール伯爵の手に入った。1887年、ロンズデール・コレクションの売り立てでフェルディナンド・ド・ロスチャイルド男爵がこれを買い、ロンドンのピカデリーにある自邸に掛けた。1898年にフェルディナンドが亡くなると、絵はウィーンにいた兄弟のナタニエルのもとへ移ったが、古い額縁はイギリスのワデスドンに残った。ナタニエルから肖像はアルフォンスに渡った。戦後、絵は1942年に夫を亡くしていたクラリス・ロスチャイルドに返還され、彼女はそれをアメリカへ持っていった。ニューヨークのウィルデンスタイン商会を通じて絵は売られ、1971年にバイエルン抵当為替銀行が買い取って、それ以来アルテ・ピナコテークに長期貸与されている。この銀行はいまはヒポフェラインスバンクと名を変え、ウニクレディト・グループに属している。

ほかに見ておきたい作品
ドイツ絵画では、アルトドルファーの《森の聖ゲオルギウス》、パウムガルトナー祭壇画と同じ日に酸を浴びせられたデューラーの《キリストの哀悼》、同じくデューラーの《ルクレティアの自害》、グリューネヴァルトの《聖エラスムスと聖マウリティウス》を探してみるとよい。ボワスレー・コレクションから来たものには、メムリンクの《聖母の七つの喜び》がある。イタリア絵画には、3点目のラファエロ《マドンナ・デッラ・テンダ》、ボッティチェッリの《死せるキリストへの哀悼》、そしてマントヴァのゴンザーガ家のために描かれた連作から、ティントレットのカンヴァス8点がある。ルーベンスでは、1609年に最初の妻イザベラ・ブラントと結婚してまもなく描いた、スイカズラの棚の下で妻と並ぶ自画像を見ておきたい。
















































































