1656年、皇帝フェルディナント3世の弟レオポルト・ヴィルヘルム大公はスペイン領ネーデルラント総督の職を退き、およそ1400点の絵画をブリュッセルからウィーンへ運んだ。その多くは総督在任中に買い集めたものである。当時イングランドでは内戦が続いていて、没落した王党派の貴族たちのコレクションが次々に市場に出ていた。1649年に処刑されたハミルトン公のコレクションもそのひとつだった。大公が亡くなると、彼の絵は皇帝レオポルト1世に引き継がれ、こうしてジョルジョーネ、ティツィアーノ、ファン・エイクがウィーンに来ることになった。

リングシュトラーセに建つ美術館の建物は、建築家ゼンパーとハーゼナウアーの設計で、1891年に開館した。宮殿や城や宝物庫に分かれて置かれていた皇室のコレクションを、一つ屋根の下に集めるためである。王朝はこれらのコレクションを4世紀にわたって集めてきた。

この記事では25点の作品を紹介する。その大半は、皇室のコレクションに入るまでの道すじをたどることができる。君主から君主への贈り物、花嫁の肖像、イングランドのコレクションの売り立てでの購入、廃止された修道会の祭壇画といった道すじである。レンブラントの自画像とルーベンスの《小さな毛皮》では、その道すじが途中で切れていて、いつからウィーンにあったかがわかっているだけだ。そして最後の作品、フェルメールは、帝国が終わったあとに、ヒトラーとの取引を経て国のコレクションに入った。

君主のあいだの贈り物と購入(1570〜1595年)

1. ベンヴェヌート・チェッリーニ《サリエラ(塩入れ)》(1540〜1543年)

2003年5月11日の午前4時ごろ、ウィーンの警報装置の設置工ローベルト・マングは、当時改修工事中だった美術館の正面に組まれた足場をよじ登り、2階の窓を押し破り、展示ケースを割って、ベンヴェヌート・チェッリーニの金の塩入れを持ち去った。館内にいたのは1分足らずだった。警報は鳴ったものの、いつもの誤作動とみなされ、盗難が発覚したのは午前8時を過ぎてからだった。のちにマングは、その場の出来心でやったことで、塩入れの値打ちは新聞で知ったと語っている。塩入れは1年半ほど彼のベッドの下のスーツケースに入っていた。その後、彼はそれを箱に入れてニーダーエスターライヒ州の森に埋め、金を溶かすと脅して保険会社に1000万ユーロを要求した。2005年10月には証拠として、像から取り外せるネプチューンの三叉の矛を送りつけた。マングが捕まったのは、要求のメッセージに使うSIMカードを買った携帯電話店の防犯カメラに映っていたためである。2006年1月21日、彼は自ら警察をブラント村近くの隠し場所へ案内した。箱は凍った地面から掘り出さなければならなかった。

サリエラ(塩入れ)
サリエラ(塩入れ)ベンヴェヌート・チェッリーニ, 1541, 美術史美術館
夏
夏ジュゼッペ・アルチンボルド, 1563, 美術史美術館

チェッリーニはこの塩入れをパリで、フランス王フランソワ1世のためにつくった。彼の金細工のうち現存するのはこれだけである。黒檀の楕円形の台の上に、金の二人の人物が向かいあって半ば横たわり、脚を絡ませている。チェッリーニ自身は二人を海と大地と呼んでいたが、のちにネプチューンとテルスと呼ばれるようになった。ネプチューンは三叉の矛を掲げ、その前では青いエナメルの波から海の馬が身を起こしている。大地は手のひらを胸に当て、そのそばには胡椒を入れた小さな金の神殿が立っている。神殿の、大地のほうを向いた壁には、金の百合を散らした青いエナメルの小さな盾が見える。フランス王家の紋章である。塩は両端の反りかえった金の舟に入れた。舟は反対側、二人の脚のあいだにあるので、神殿の側からはほとんど見えない。

塩入れは贈り物としてウィーンに来た。1570年10月22日、フランソワ1世の孫にあたるフランス王シャルル9世は、シュパイアーの大聖堂で、皇帝マクシミリアン2世の娘エリーザベト大公女と結婚した。式は花婿不在の代理結婚で、祭壇の前で花婿の役をつとめたのは花嫁の叔父、チロル大公フェルディナント2世だった。その礼としてシャルル9世は、この塩入れと、ほかに3点の貴重な器を大公に贈った。それらの器もこの美術館にある。フェルディナントはインスブルック近郊のアンブラス城のクンストカマー(美術品陳列室)に塩入れを置き、1596年には彼の財産目録に記載された。のちに塩入れはアンブラスのほかの宝物とともにウィーンへ運ばれた。

2006年の修復では、ケースのガラス片が金につけた引っかき傷を消しきれず、大地の胸と腹には細い跡が残った。

2. ジュゼッペ・アルチンボルド《夏》(1563年)

この横顔の頬は、板絵のなかでいちばん鮮やかな色をした桃でできている。鼻は若いきゅうり、唇は2粒のさくらんぼで、そのあいだには歯の代わりに、さやの開いたえんどう豆がのぞいている。顎は洋梨で、目は小さな白っぽい洋梨の下にある小さな黒いさくらんぼである。耳は、はじけた藁色の皮からのぞくとうもろこしの穂で、その下には根のついたにんにくの球が下がっている。当時ヨーロッパでとうもろこしが栽培されるようになってまだ数十年しかたっておらず、ウィーンの宮廷にとっては海の向こうから来た珍しい作物だった。髪と帽子の代わりになっているのはメロン、ぶどうの葉、なす、すもも、ブラックベリーで、左上には羽根飾りのように燕麦の穂が突き出している。

小麦の穂でできた襟が首のまわりにぴんと立ち、その下には硬く編んだ襟がある。その藁には大文字で画家の名前GIVSEPPE ARCIMBOLDOが編みこまれていて、模様と見まちがえやすい。年記の1563は、左下の肩の藁に編みこまれている。ワシントンのナショナル・ギャラリーの研究者たちは、この編みこまれた署名に、古代ギリシャの画家ゼウクシスが自分の名を金の文字でマントに織りこませたというプリニウスの話への目くばせを見ている。板のいちばん左下の隅には、59で終わる小さな白っぽい番号も見える。おそらく古い目録番号の書きこみだろう。

アルチンボルドは1562年にミラノからウィーンに来た。《夏》は、翌年に皇帝となるマクシミリアン大公に仕えて最初の丸一年に描いたものである。最初の《四季》の連作のうち、アルチンボルドの作と確実にいえる板絵は2点で、《夏》と《冬》のどちらもこの美術館にある。1569年の新年に、画家は《四季》と《四大元素》をマクシミリアン2世に献上した。そこにはジョヴァンニ・バッティスタ・フォンテオのラテン語の詩が添えられていて、詩はこの寄せ集めの頭部を、さまざまな生き物が仲よく共存する永遠の帝国の姿として解き明かしていた。

《夏》は270年近く珍品のあいだに置かれていた。はじめはルドルフ2世のクンストカマー、次にウィーンの宝物庫で、1748年にはそこで目録に記録されている。絵画館に移されたのは1830年になってからである。

夏
夏ジュゼッペ・アルチンボルド, 1563, 美術史美術館

3. ピーテル・ブリューゲル(父)《雪中の狩人》(1565年)

アントウェルペンの商人で金融業者のニクラース・ヨンゲリンクは、ブリューゲルの最大のコレクターだった。1565年、画家は彼のために季節を描いた連作をつくった。6枚の板絵で、1枚に2か月ずつがあてられている。美術館によると、これらはヨンゲリンクの家の食堂で、窓と窓のあいだに掛けられていた。《雪中の狩人》には、ふつう12月と1月が描かれているとされる。

雪中の狩人
雪中の狩人ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, 美術史美術館

私たちは雪の積もった丘の上から見下ろしている。左手の斜面を、こちらに背を向けた3人の狩人が、長い槍を肩にかついで下りていく。先頭の男の背には、やせた狐が1匹ぶらさがっているだけだ。まわりを猟犬の群れがとぼとぼと歩き、ほとんどの犬は頭と尾を垂れている。狩人たちから下のほうへ、カラスのとまる葉のない木々が列をなし、空を1羽のカササギが滑るように飛んでいく。下の二つの凍った池では、小さな黒い人影がスケートをし、転び、曲がったスティックで何かを追い、氷の上に石を滑らせている。左端には宿屋があり、鹿を描いた看板が竿に一つの鉤だけで掛かっているので、斜めに傾いている。宿屋の前では藁の焚き火が燃え、エプロンをつけた女が棒でかきまわしている。遠くには、フランドルには見られない鋭い灰色の峰々がそびえる。曇った日で、光は影をつくらずに雪の上に平らに広がっている。2018年の展覧会に向けてこの絵が調査されたとき、先頭の狩人は最初の構想にはなく、ブリューゲルがすでに描き終えていた雪と木の幹の上に描き加えたことがわかった。

1566年、ヨンゲリンクは、アントウェルペン市に借金を負っていた徴税請負人の友人ダニエル・デ・ブライネのために1万6000グルデンの保証人となり、ブリューゲルの絵16点を担保に入れた。そのなかには「十二か月」、つまりこの連作と、《バベルの塔》が含まれていた。その後、連作は市の手に渡った。1594年、ネーデルラントの新しい総督として、皇帝ルドルフ2世の弟エルンスト大公がアントウェルペンに入市式を行ったとき、市はこの連作を大公に献上した。エルンストは1595年2月に亡くなり、遺産の分配で板絵はルドルフが引き取った。1659年のレオポルト・ヴィルヘルム大公の目録には、そのうちの5枚が記載されている。

6枚のうち3枚がウィーンにある。《雪中の狩人》《暗い日》《群れの帰還》である。《干し草の収穫》はプラハのロプコヴィツ家のコレクションに、《収穫する人々》はニューヨークのメトロポリタン美術館にあり、晩春を描いた1枚は17世紀のうちに失われた。

雪中の狩人
雪中の狩人ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, 美術史美術館
暗い日
暗い日ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, 美術史美術館
群れの帰還
群れの帰還ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, 美術史美術館
干し草の収穫(初夏、6月・7月)
干し草の収穫(初夏、6月・7月)ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, ロブコヴィツ宮殿
収穫する人々
収穫する人々ピーテル・ブリューゲル(父), 1565, メトロポリタン美術館

4. ピーテル・ブリューゲル(父)《農民の婚礼》(1568年)

ネーデルラントの画家伝の著者カレル・ファン・マンデルは、ブリューゲルの死から35年後の1604年にブリューゲルについて書いていて、その記述を確かめる手だてはない。ファン・マンデルによると、ブリューゲルは商人ハンス・フランケルトと連れだって農民の身なりをし、村の婚礼や市に出かけていった。二人はほかの客と同じように贈り物を持参し、親戚になりすまして、農民たちが食べ、飲み、踊るさまを眺めたという。

ブリューゲルが大きな農民の場面を描いたのは晩年、アントウェルペンからブリュッセルに移ってからのことである。なかでも名高い2点、《農民の婚礼》と《農民の踊り》は、どちらもウィーンにある。

婚礼は納屋で開かれていて、奥の壁際には穀物が梁の高さまで積み上げられている。花嫁は奥の、中央よりやや右に、濃い緑の布を背にして座り、頭上には紐で吊った二段の紙の冠が下がっている。花嫁は目をほとんど閉じ、両手をテーブルの上で組んでいて、何も口にしていない。右手前では、二人の男が盆の代わりに蝶番から外した扉を運んでいて、その上には黄色い粥の鉢がぎっしり並び、扉の手前の縁には蝶番の鉄の帯がまだ残っている。こちらに背を向けて歩く男の緑の帽子には、木の匙が差してある。左下の床には、孔雀の羽根のついた巨大な赤い帽子をかぶった子どもが座り、空の皿を持ったまま指をなめている。二人のバグパイプ吹きの一人は、運ばれていく料理を目で追っている。板絵の下端はかつて切り詰められ、のちに細い板を継ぎ足したので、床の見えるいちばん下の部分は、あとから足された木の上に後世に描かれたものである。

農民の婚礼
農民の婚礼ピーテル・ブリューゲル(父), 1567, 美術史美術館

美術館は、テーブルについている人々のなかに花婿はいないとみている。慣習では花婿は宴の席につかなかったからである。それでもほかの研究者たちは花婿を探そうとしてきた。花嫁の隣で匙を持つ若者だとする説もあれば、ビールを注いでいる男だとする説もある。

この絵は1594年、アントウェルペンがエルンスト大公に「季節」の連作を贈ったのと同じ年に、大公がブリュッセルで購入したもので、のちにレオポルト・ヴィルヘルムのコレクションに記録されている。美術館は制作年を1568年としているが、私たちのカタログでは1567年となっていて、文献にはどちらの年も見られる。

5. ピーテル・ブリューゲル(父)《バベルの塔》(1563年)

ブリューゲルは塔を本物の岩山の上に建てた。灰色の岩は、右側では何層にもわたって、中央では下の階のあいだに、まだ外に顔を出している。アーチの並ぶ層は上へ行くほど細くなり、頂上のすぐ下では小さな白い雲が塔にまといついている。左側はすでに明るい色の石灰岩で化粧張りされているが、右上には化粧張りがなく、赤い煉瓦の壁とヴォールトが断面図のようにむき出しになっている。塔全体が、町のある左のほうへ目に見えて傾いている。塔では工事が進んでいる。大きな車輪のついたクレーンが立ち、アーチの下には木の型枠が組まれ、どの層にも小さな職人たちがひしめき、右側の塔の足もとには船の停まる港と、積み上げられた煉瓦がある。

バベルの塔
バベルの塔ピーテル・ブリューゲル(父), 1563, 美術史美術館

左下の小高い丘には、言い伝えでこの塔の建設を命じたとされるニムロデ王が立っている。冠をかぶり、白い毛皮の襟のついた青みがかった灰色の長いマントをまとい、手に笏を持っていて、画中のだれよりも大きく描かれている。王の前には石工たちがひざまずき、一人は両手を上げて帽子を地面に落としている。署名「BRVEGEL FE」と年記の最初の部分は、下端近くにある大きな石の塊の正面に刻まれていて、同じ石の上には木槌と3本ののみが置かれている。

「季節」の連作と同じく、この塔もヨンゲリンクのもので、1566年には彼が担保に入れた絵のなかにあった。その後はおそらくアントウェルペン市の手に渡った。1604年にはすでにルドルフ2世のもとにあった。ファン・マンデルが皇帝のコレクションでこの絵を見ていて、この大きな塔は上からのぞきこむことができると書き、そばには同じ主題の小さめの塔が掛かっているとも記しているからである。ルドルフがこの絵を買ったのか、弟エルンストの遺産として受け継いだのかを示す文書は見つかっていない。その後、塔はレオポルト・ヴィルヘルムのもとに記録されている。

ファン・マンデルが書いた小さいほうの塔は、やがてハプスブルク家のコレクションを離れ、いまはロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にある。そちらの絵にはニムロデと従者たちの姿がなく、X線写真によると、ブリューゲルは最初その塔をウィーンの塔に似せて描いていた。

バベルの塔
バベルの塔ピーテル・ブリューゲル(父), 1563, 美術史美術館
バベルの塔
バベルの塔ピーテル・ブリューゲル(父), 1568, ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ルドルフ2世のコレクション(1585〜1608年)

三位一体の礼拝
三位一体の礼拝アルブレヒト・デューラー, 1511, 美術史美術館

6. アルブレヒト・デューラー《三位一体の礼拝》(ランダウアー祭壇画、1511年)

ニュルンベルクの商人マテウス・ランダウアーは、落ち度もないのに貧しくなった年老いた職人12人のための家を設立し、1508年までにその家に三位一体と諸聖人に捧げる礼拝堂が建てられた。祭壇画はデューラーに注文された。額縁まで含めて描いた1508年のペンと水彩の下絵は、フランスのシャンティイにあるコンデ美術館に所蔵されている。デューラーはこの祭壇画を、建築的な額縁に収めた一枚の板絵として構想した。1507年に帰ってきたばかりのヴェネツィアで行われていたやり方である。

上方では白い鳩が明るい光のなかに浮かび、その下で、金の冠と金の祭服を身につけた父なる神が、キリストが磔にされた十字架を横木のところで支えている。両側の天使たちは、その背後に金の房飾りのついた幅広い緑の布を広げている。左の雲の上では聖母が棕櫚の枝を持つ聖なる乙女たちを率い、右では洗礼者ヨハネが、律法の板を持つモーセ、竪琴を持つダビデ王、預言者たちを率いている。その下の、雲の二段目には地上の教会が集まっている。赤い衣の枢機卿がこちらに背を向け、白い手袋をはめた手を、黒っぽい毛皮のコートを着た白髪の老人に差しのべている。この老人がランダウアー本人で、救われた人々の集いに迎え入れられようとしている。中央のやや右には金めっきの甲冑を着た若者が立っていて、これはランダウアーの娘婿ヴィルヘルム・ハラーである。天上の集い全体の下には明るい湖が広がり、岸辺には町がある。右下の隅の草地にはデューラーがただ一人、毛皮のコートに赤い帽子という姿で立っている。彼は銘板に手をかけていて、そこには、ニュルンベルクのアルブレヒト・デューラーが聖母の出産から1511年目にこれをつくった、と記されている。

彫刻をほどこした額縁は最後の審判を表し、絵はそのあとに訪れるもの、つまり三位一体を囲む救われた人々の永遠の集いを描いている。美術館によると、1585年に皇帝ルドルフ2世はこの絵を救貧院の財団から買い取ってプラハへ運び、額縁は礼拝堂に残された。ウィーンでは、この板絵は1880年ごろにつくられた、彫刻と金箔をほどこした額縁の複製に収められていて、上部には同じ最後の審判がある。本物の額縁はニュルンベルクのゲルマン国立博物館にあり、そこには絵の複製がはめこまれている。

ユピテルとイオ
ユピテルとイオコレッジョ, 1530, 美術史美術館

その複製は1891年にウィーンの画家マリア・シェフマンが描いたもので、ニュルンベルクの博物館によれば、彼女は左上の隅に自分の自画像を描きこんでいる。

7. コレッジョ《ユピテルとイオ》(1530〜1532年ごろ)

1601年、マドリード駐在の皇帝大使ハンス・ケーフェンヒュラーがルドルフ2世のためにこの絵を買おうとしたとき、彫刻家ポンペオ・レオーニは値段で粘り、皇帝が相手でも譲ろうとしなかった。ポンペオの父レオーネ・レオーニはスペイン王家の彫刻家で、1584年には画家で著述家のロマッツォが、ミラノのレオーネの家で《ユピテルとイオ》を見ている。

コレッジョはこの絵を1530年ごろ、マントヴァ公フェデリコ・ゴンザーガのために描いた。「ユピテルの愛」4点のうちの1点である。ヴァザーリは、公がこれらを皇帝カール5世への贈り物として注文したと書いていて、美術館は、この絵が1532年にカール5世のもとへ渡った可能性を認めている。コレッジョは1534年に亡くなったので、これらは彼の最後期の作品に数えられる。

オウィディウスの物語では、ユピテルはニンフのイオが逃げられないよう地上に暗い霧を立ちこめさせる。コレッジョはそのとおりに、神を霧の姿で描いた。縦に長く幅の狭いカンヴァスの上半分を、濃い灰褐色の雲が占めている。イオはこちらに背を向けて白い布の上に座り、頭をのけぞらせ、目を閉じ、唇をわずかに開いている。その唇のすぐ前の雲のなかに、見落としやすいほどかすかな顔が浮かび上がっている。彼女の背中と脇腹には雲の前足がかぶさり、イオは片手でそれを自分のほうへ引き寄せている。画面でいちばん明るい白い布は、鋭い襞をつくって左下へ流れ落ちている。右下の暗がりには鹿の角が白く浮かび、素焼きの壺が置かれている。

この購入から数年後、《イオ》には同じ大きさの対作品《ガニュメデスの誘拐》が加わった。こちらは別の経路をたどり、失脚したスペインの国王秘書アントニオ・ペレスからフェリペ2世を経て来たもので、ルドルフは1605年にこれを手に入れた。

連作の残りの2点、《レダ》と《ダナエ》は、ベルリンとローマのボルゲーゼ美術館にある。

ユピテルとイオ
ユピテルとイオコレッジョ, 1530, 美術史美術館
凸面鏡の自画像
凸面鏡の自画像パルミジャニーノ, 1523, 美術史美術館

8. パルミジャニーノ《凸面鏡の自画像》(1524年ごろ)

ヴァザーリによると、パルマの若い画家フランチェスコ・マッツォーラ、通称パルミジャニーノは、ローマへ旅立つ前に、床屋が使うような凸面鏡に映った自分を描こうと思い立った。彼は木工のろくろ職人に木の球を挽かせ、それを鏡の大きさに合わせて半分に切らせ、そのふくらんだ半球に見えたものをすべて描いた。鏡は近くのものを大きく映すので、手は少し大きめに描いた。

円の中央にある若者の顔は、ほとんどゆがんでいない。下端には、白いプリーツのついた袖口から出た巨大な青白い手が横たわっていて、顔よりも大きい。下側の指の指輪は、金色のすばやい筆づかい数回で示されているだけだ。左上では格子のある窓が円の縁に沿って弧を描き、頭上の天井は曲がりこんでいる。右端には、金めっきされた丸い額縁の細い帯が見える。これを鏡の枠とみる人もいるが、美術館はイーゼルにのせた絵の額縁とみている。

1524年の夏、21歳のパルミジャニーノはこの肖像をローマに持参し、教皇クレメンス7世に献上した。期待していた大きな注文は、それでは得られなかった。教皇は肖像を文筆家ピエトロ・アレティーノに与え、ヴァザーリは少年のころ、アレッツォのアレティーノの家でこれを見た。その後、肖像はヴェネツィアの水晶彫刻家ヴァレリオ・ベッリの手に渡った。どういう経緯かは知らない、とヴァザーリは書いている。ベッリの息子から、建築家アンドレア・パラディオを介して彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアのものとなり、ヴィットーリアは1608年、死を前にしてこれを皇帝ルドルフ2世に遺贈した。

ウィーンでは、この肖像はコレッジョの作として皇帝の宝物庫に置かれていた。ヴァザーリによれば、パルミジャニーノはコレッジョに学んだことになっている。絵画館に移されたのは1777年になってからである。

市場で買い集める大公たち(1648〜1662年)

9. ダフィット・テニールス(子)《ブリュッセルの画廊にいる大公レオポルト・ヴィルヘルム》(1651年ごろ)

レオポルト・ヴィルヘルム大公は、背の高い黒い帽子をかぶってブリュッセルの画廊の中央に立ち、長い杖で床に立てかけられた絵を指している。そばには黒い服の男がさらに3人いて、一人は紙を1枚持ち、もう一人は帽子を両手で押さえている。奥の壁と右の壁には、床から天井の梁まで、金の額に入った絵が5段にわたって額と額を接して掛けられ、床の中央では白と赤茶の2匹の小犬が1本の棒を引っぱりあっている。右手には巨大なカンヴァスが斜めに置かれている。階段と、東方の王の前に立つ金と白の衣の女性を描いた絵で、のちにフィレンツェのウフィツィ美術館に入ったヴェロネーゼの《アルタクセルクセスの前のエステル》である。

ブリュッセルの画廊にいる大公レオポルト・ヴィルヘルム
ブリュッセルの画廊にいる大公レオポルト・ヴィルヘルムダフィット・テニールス(子), 1651, 美術史美術館

ダフィット・テニールス(子)は1651年に大公の宮廷画家となり、そのコレクションの管理をまかされた。美術館によると、ここでレオポルト・ヴィルヘルムは、買ったばかりのハミルトン・コレクションのイタリア絵画51点に囲まれて描かれている。画中の掛け方は一部が創作で、テニールスは広間のプロポーションを変え、絵を自分の考えで配置した。彼はこうした画廊の眺めを10点ほど描いていて、ほとんど同じ別のヴァージョンがイングランドの館ペットワース・ハウスにある。

壁には、このあと取りあげる2点の絵が掛かっている。最上段の左端には、岩と3人の人物を描いたジョルジョーネの《三人の哲学者》が見え、左の暗い色の戸棚の上には、ティツィアーノによるヤコポ・ストラーダの肖像が掛かっている。金の鎖をつけ、白い小像を両手に持った黒い服の男である。テニールスはこの画廊の絵そのものを大公のために描いた。絵は1685年までにはプラハの画廊にあり、ウィーンに運ばれたのは1781年である。

1660年、テニールスは大公のイタリア絵画243点を版画にした本『テアトルム・ピクトリウム(絵画の劇場)』を出版した。版画家たちのために、彼はそれぞれの絵の小さな油彩の写しを描いていて、のちに切り詰められたり切り分けられたりした絵がもとはどんな姿だったかは、いまもこれらの写しをもとに判断されている。

ブリュッセルの画廊にいる大公レオポルト・ヴィルヘルム
ブリュッセルの画廊にいる大公レオポルト・ヴィルヘルムダフィット・テニールス(子), 1651, 美術史美術館

10. ジョルジョーネ《三人の哲学者》(1508〜1509年ごろ)

この絵に名前を与えたのは、ヴェネツィアの鑑定家マルカントニオ・ミキエルである。彼は1525年に裕福な貴族タッデオ・コンタリーニのコレクションを記録し、そのなかに、風景を背にした3人の哲学者の油彩画があると書きとめた。2人は立ち、1人は座って日の光を見つめていて、岩が見事に描かれている、という記述である。ミキエルによれば、この絵はジョルジョーネが描きはじめ、セバスティアーノ、のちのセバスティアーノ・デル・ピオンボが仕上げた。作品をジョルジョーネと確実に結びつけられる記録はわずかしか残っておらず、これはその一つである。

カンヴァスの左側を、洞窟の黒い口が開いた暗い岩壁がおおいかぶさるように占めている。中央には白いシャツに暗緑色のマントの若者が座り、直角定規とコンパスを手にして岩のほうを見ている。そばには白いターバンに長い赤い衣の男が立ち、右では白いひげの老人が黄金色のマントをまとい、三日月の入った円と数字の7を描いた紙を持っている。光は左から顔と衣に当たり、岩は陰になったままだ。遠くの谷には塔のある灰色の家々と水車が見え、地平線のあたりの空は金色に輝いている。

三人の哲学者
三人の哲学者ジョルジョーネ, 1508, 美術史美術館

この3人がだれなのかは、何世紀にもわたって議論されてきた。一時は星を待つ東方三博士と呼ばれ、1978年には歴史家サルヴァトーレ・セッティスがこの解釈に立ち返った。アウグスト・ジェンティーリは、モーセ、ムハンマド、反キリストとみる説を出した。カリン・ツェレニーは、座っている若者がピタゴラスで、ほかの2人は彼の師ペレキュデスとタレスだと考えていて、美術館はこの読み方を採っている。

タッデオのあと、絵はダリオ・コンタリーニのものとなり、1636年までにはヴェネツィアの商人でコレクターのバルトロメオ・デッラ・ナーヴェの手に渡っていた。1638年、そのコレクションを、ハミルトン侯の親族でヴェネツィア駐在のイングランド大使だったバジル・フィールディングが侯のために買い取った。1649年に国王派のハミルトンが処刑されると、彼の絵は売りに出され、その大部分をレオポルト・ヴィルヘルムが買い取った。

絵がブリュッセルの大公のコレクションに入ったとき、岩のある左端が大きく切り詰められた。

11. アントネロ・ダ・メッシーナ《サン・カッシアーノ祭壇画》(断片、1475〜1476年)

サン・カッシアーノ祭壇画
サン・カッシアーノ祭壇画アントネロ・ダ・メッシーナ, 1475, 美術史美術館

1476年3月16日、ヴェネツィアの貴族ピエトロ・ボンは、アントネロ・ダ・メッシーナを肖像画家として招こうとしていたミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァに手紙を書き、あと20日ほど待ってほしいと頼んだ。画家はボンがヴェネツィアのサン・カッシアーノ聖堂のために注文した祭壇画を仕上げているところで、ボンは公に、これはイタリアの内外を通じて最もすぐれた絵画のひとつになるだろうと請けあった。

アントネロはシチリアの出身で、フランドル絵画が集められ、よく知られていたナポリで油彩を学び、ヴェネツィアには1年半ほど滞在した。美術館は、この祭壇画とともに油彩画がヴェネツィアに入ってきたと考えている。もともとは背の高い板絵で、聖堂の内部を思わせる空間に、玉座の聖母が8人の聖人に囲まれて座っていた。1620年に祭壇画は切り分けられて切り売りされ、出来のよい人物群は独立した絵としてコレクションに入っていった。

断片はデッラ・ナーヴェ、次いでハミルトンのもとを経て、1659年にはレオポルト・ヴィルヘルムのもとに記録されている。そこではジョヴァンニ・ベッリーニの作とみなされていた。テニールスは『テアトルム・ピクトリウム』のためにこれらを小さな絵に写していて、のちに失われた聖人たちの姿は、その写しによって知られている。残った断片は長いあいだ倉庫で、それと気づかれないまま眠っていた。1928年、ウィーンの絵画館の学芸員ヨハネス・ヴィルデが、それらが同じ祭壇画のものだと見抜き、一つにまとめた。

3枚の板は、逆さにしたT字の形にぴったりと並べられている。中央に高い板があり、その両脇の下に低い板が1枚ずつあって、脇の板の上の隅は空いたままだ。青いマントに金の錦の衣の聖母はまっすぐこちらを見ていて、その右手には、細い柄のついた赤いさくらんぼが指にほとんど隠れるようにしてのっている。左には、司教冠をかぶらない禿げた白髪の聖ニコラウスが立ち、白い手袋の手で3つの金の球をのせた本を持っている。その隣では、厳しい横顔の女性聖人が、開いた手のひらに透明なガラスのコップをのせている。右では聖ドミニクスが目を伏せ、いちばん端では板がもう一人の顔の細い一部を断ち切っている。

ヴィルデは1929年、建築と失われた聖人たちを含む完全な復元案を紙の上で発表した。板絵のほうは描き足しをせず、残ったままの姿で展示されている。

サン・カッシアーノ祭壇画
サン・カッシアーノ祭壇画アントネロ・ダ・メッシーナ, 1475, 美術史美術館

12. ティツィアーノ《この人を見よ》(エッケ・ホモ、1543年)

ティツィアーノはこの巨大な場面を1543年に、ヴェネツィアのジョヴァンニ・ダンナのために描いた。ヴァザーリによれば、ダンナはティツィアーノと代父の縁で結ばれた間柄だった。1620年ごろ、イングランド大使ヘンリー・ウォットンが、バッキンガム公のためにダンナの相続人たちからこの絵を買った。絵はたちまち名高くなった。後世の話では、アランデル伯がバッキンガムにこの絵の代価として7000ポンドを申し出て、断られたという。

キリストは左上の隅、幅の広い階段の上の石の壇に押しやられていて、茨の冠をかぶり、両手を縛られ、ほとんど裸で立っている。その隣には、ローマ風の淡い青の鎧に、リボンのついた鮮やかな青の長靴を履いたピラトがいて、全身と両手でキリストを指し示しながら、顔は群衆のほうへ向けている。古くからの伝承では、ピラトにはティツィアーノの友人の文筆家ピエトロ・アレティーノの顔立ちが与えられたとされる。群衆は右手の階段を上ってくる。左下ではおびえた若者が犬を抱きしめ、その隣では緑の鱗状の鎧を着た兵士がこちらに背を向けて、黒い双頭の鷲を描いた盾に寄りかかっている。中央には白いサテンの娘が光るように浮かび、何の裏づけもない言い伝えでは、ティツィアーノの娘ラヴィニアだとされている。下の段の巻いた紙片には「TITIANVS EQVES CES F 1543」という署名があり、皇帝(カエサル)の騎士ティツィアーノ作、という意味である。1533年に皇帝カール5世が宮廷画家ティツィアーノを騎士に叙していたからである。

エッケ・ホモ
エッケ・ホモティツィアーノ, 1543, 美術史美術館
ヤコポ・ストラーダの肖像
ヤコポ・ストラーダの肖像ティツィアーノ, 1567, 美術史美術館

バッキンガム公は1628年に暗殺され、内戦の時代に彼のコレクションは差し押さえられた。相続人たちはその大部分をネーデルラントへ運び出し、アントウェルペンで売り払った。1649年、《この人を見よ》は皇帝のコレクションのために買われた。多くの証言によれば、プラハ城の皇帝の画廊のためだった。プラハの画廊は当時、一から補充されているところだった。1648年の夏、スウェーデン軍がプラハ城を占領し、ルドルフ2世のコレクションをストックホルムへ持ち去っていたからである。

絵がウィーンへ移されたのは1723年である。

13. ティツィアーノ《ヤコポ・ストラーダの肖像》(1567〜1568年)

ヤコポ・ストラーダは古美術を商い、バイエルン公アルブレヒト5世やハプスブルク家のために買いつけを行い、皇帝の古物官という称号をもっていた。1567〜1568年、次の買いつけのためにヴェネツィアに来ていたとき、ティツィアーノが彼の肖像を描いた。ストラーダはテーブルの上に斜めに身を乗り出し、両手で白い大理石の小さなヴィーナス像を持っている。片手で像の胸のあたりを抱え、もう一方の手で脚を下から支えているが、頭は逆の方向に向けて、見る者のわきをかすめて右を見ている。美術館は、この手と頭の逆向きの動きを、ティツィアーノの肖像画のなかでほかに例のないものと呼んでいる。テーブルの上には銀貨と銅貨、たたんだ手紙、大理石のトルソの断片がのっている。ストラーダの肩には灰色の長い毛足の毛皮がかかり、胸にはメダルのついた重い金の鎖が何重にも巻かれている。

男性の肖像(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)
男性の肖像(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)ヤン・ファン・エイク, 1431, 美術史美術館

ティツィアーノは80歳ほどになっていた。もう旅には出ず、工房は師の神話画を繰り返し描いて売っていて、彼はハプスブルク家の宮廷に買い手を探していた。肖像がどのように生まれたかは、主にストラーダの競争相手だった商人ニッコロ・ストッピオの手紙から知られている。ストッピオはちょうど、ヴェネツィアのロレダン家の古代彫刻コレクションの買いつけでストラーダに敗れたところだったので、彼の言うことは割り引いて受けとる必要がある。ストッピオはアウクスブルクの銀行家一族フッガー家の一人にあてて、ストラーダは工房の繰り返しによるティツィアーノの神話画を巨匠自身の作として皇帝マクシミリアン2世に売りこむことを引き受け、その見返りにティツィアーノは彼の肖像を描き、彼から毛皮を受けとっている、と書いた。同じ手紙で彼は、ティツィアーノがストラーダについて語ったという評も伝えている。ティツィアーノは彼を、このうえなく尊大な無知者の一人と呼んだというのである。

この肖像がどこからレオポルト・ヴィルヘルム大公のもとに来たのかは、研究者たちにも突きとめられていない。大公のコレクションにあったことは確かで、テニールスがブリュッセルの画廊の戸棚の上にこの肖像を描きこんでいる。

右上の、ストラーダをローマ市民で皇帝の古物官と記した銘のカルトゥーシュは、その意匠がバロック的にすぎると見えたため、一時は後世の付け加えと考えられていた。しかし新しい研究は、この見方に反する結果を示している。

14. ヤン・ファン・エイク《男性の肖像(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)》(1435年ごろ)

この肖像の老人は300年以上前からニッコロ・アルベルガーティ枢機卿と呼ばれてきたが、それを裏づける証拠はない。この名が現れるのは17世紀、レオポルト・ヴィルヘルム大公がアントウェルペンの画商ピーテル・ステーフェンスからこの板絵を買ったときである。

老人は胸から上を、手を見せずに4分の3正面で描かれていて、顔は左を向き、茶色の目はさらに左、私たちのわきを見ている。光は左上から差して額と顔の左半分を照らし、右の頬と首はやわらかな影に沈んでいる。ファン・エイクは目もとのしわの一本一本、目の下のたるみ、大きな耳、顎の白い無精ひげまで描きこみ、毛皮の襟のついた赤い衣は幅広い襞で表した。下のほう、左右の衣には高く鋭い切れこみが2つ入っていて、そこから明るい色の毛皮の裏地がのぞいている。

アルベルガーティという名は早くから疑われてきた。アルベルガーティはカルトゥジオ会の修道士で、剃髪していたはずだが、この老人は短い白髪で、世俗の服を着ている。1990年にマルコム・ヴェイルはこの人物をイングランドの枢機卿ヘンリー・ボーフォートとみる説を出し、歴史家ジョン・ハンターはそもそも枢機卿かどうかを疑っていて、美術館は題に疑問符を残している。年代も人物の特定しだいで変わる。私たちのカタログでは、古い説でアルベルガーティがブルッヘを通ったとされる1431年としているが、美術館は、アラスで和平会議が開かれた1435年ごろ、あるいは疑問符つきの1438年としている。18世紀にこの板絵は楕円形にされ、のちに長方形に戻された。

銀筆による準備素描はドレスデンにあり、ファン・エイクは顔の横に、自分の母語であるマース地方の方言で、老人の髪や唇、顎の無精ひげの色を書きこんでいる。

男性の肖像(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)
男性の肖像(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)ヤン・ファン・エイク, 1431, 美術史美術館
男の肖像のための習作(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)
男の肖像のための習作(ニッコロ・アルベルガーティ枢機卿?)ヤン・ファン・エイク, ドレスデン版画素描館

15. ミカエリーナ・ワウティエ《バッコスの勝利》(1659年以前)

1903年、ウィーンの美術館のフランドル絵画担当の学芸員グスタフ・グリュックは、古い目録で《バッコスの勝利》がWoutiersという姓の人物によって描かれたと読み、それを信じようとしなかった。女性解放の時代であっても、これほど力強く、ほとんど荒々しいほどの筆づかいの絵を女性の手によるものとする人はまずいないだろう、と彼は書いている。

1659年のレオポルト・ヴィルヘルム大公の目録で、この絵はWoutiersという姓だけで、名前なしに記されている。モンス生まれのミカエリーナ・ワウティエは兄弟のシャルルとともにブリュッセルで仕事をしていて、ブリュッセルの総督だった大公は彼女の絵を4点所有していた。3世紀のあいだ、《バッコスの勝利》はルーベンス派の作とされたり、ルカ・ジョルダーノやコルネリス・スフートの作とされたりしてきた。1763年、プラハ城にあったときに、ある広間に収めるため幅が切り詰められた。

たくましく重そうなバッコスが、斑点のある豹の毛皮を敷いた長い木の手押し車にだらしなく寝そべっている。角の生えた若いサテュロスは彼の開いた口に緑のぶどうの房を搾りこみ、山羊の脚をした黒ひげのサテュロスはにやにや笑いながら手押し車の柄を押している。左では浅黒いラッパ吹きが長い金のトランペットを吹き、その後ろで老人が綱で手押し車を引いている。右には、左の乳房をあらわにし、ぶどうの蔓を巻いたテュルソスを持つ桃色の衣の金髪の女性が立ち、落ちついた様子でまっすぐこちらを見ている。美術館はこの女性を画家の自画像とみている。その足もとでは巻き毛の子どもが白黒の山羊を抱いている。

バッコスの勝利
バッコスの勝利ミカエリーナ・ワウティエ, 1655, 美術史美術館
草原の聖母
草原の聖母ラファエロ, 1505, 美術史美術館

1967年、美術館の学芸員ギュンター・ハインツは、筆づかいを同じコレクションにある彼女の署名入りの《聖ヨアキム》《聖ヨセフ》と比べて、この絵をミカエリーナ・ワウティエの作に戻した。

16. ラファエロ《草原の聖母》(マドンナ・デル・プラート、1505〜1506年)

ヴァザーリによれば、ラファエロはフィレンツェで貴族タッデオ・タッデイの家に住み、その食卓で食事をともにしていた。そして礼儀の点で引けをとらないよう、彼のために2点の絵を描いたという。ヴァザーリの言うところでは、それらの絵には師ペルジーノの最初の様式がまだ見え、フィレンツェで身につけた新しい様式もすでに見える。ラファエロは1504年の終わりにフィレンツェに来て、レオナルドから人物群を三角形に組み立てる方法を学んだ。

聖母は低く、草の上にじかに座っている。その頭が三角形の頂点にあり、底辺の角をなすのは、左でひざまずく幼い洗礼者ヨハネと、右にある聖母の素足である。ヨハネは両手で葦の細い十字架を持ち、幼子キリストは一歩前に踏み出して、横木のすこし下で十字架をつかんでいる。マリアは息子の胸と脇腹に手を添えて支えている。右下、聖母の足の下には赤い実をつけた野いちごが生え、左のヨハネの膝のそばには白いひなぎくが咲き、その右、キリストの頭の高さには赤いけしの花が燃えるように咲いている。聖母の赤い衣の襟もとの縁には、金で文字が文様とまじりあって書かれていて、中ほどに「M.D.V.」が読みとれ、そのあとに小さな丸ともう1本の縦線が続く。そのため年記は1505とも1506とも読まれ、私たちのカタログでは1505年となっている。

絵は1662年にチロル大公フェルディナント・カールが一族から買い取るまで、タッデイの子孫のもとにあった。1663年からはアンブラス城に記録され、1773年にウィーンへ運ばれてベルヴェデーレ宮殿に掛けられた。もう一つの呼び名《ベルヴェデーレの聖母》はそこから来ている。

2017年、ウィーンの素描・版画の美術館アルベルティーナでラファエロ展が開かれたとき、美術館は絵を動かさないために貸し出しを断り、この絵のための準備素描の隣には小さな複製が掛けられた。

一族が故郷へ送った肖像(1659年、1779年)

17. ディエゴ・ベラスケス《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ》(1659年)

1659年11月、スペインとフランスはピレネー条約を結び、フェリペ4世の長女マリア・テレサ王女はルイ14世に嫁ぐことになった。その2年前に王には息子が生まれていて、ウィーンのハプスブルク家との縁組には、妹で8歳のマルガリータ・テレサが残っていた。ウィーンでは1658年から皇帝となった叔父のレオポルト1世が治めていて、彼女は彼の花嫁と目されていたが、婚約が公表されたのは1663年になってからだった。

青いドレスの王女マルガリータ・テレサ
青いドレスの王女マルガリータ・テレサディエゴ・ベラスケス, 1659, 美術史美術館
フェリペ・プロスペロ王子の肖像
フェリペ・プロスペロ王子の肖像ディエゴ・ベラスケス, 1659, 美術史美術館
青いドレスの王女マルガリータ・テレサ
青いドレスの王女マルガリータ・テレサディエゴ・ベラスケス, 1659, 美術史美術館

1659年、フェリペ4世はウィーンの宮廷に、ベラスケスの描いた2点の肖像を贈った。マルガリータ・テレサと幼い弟フェリペ・プロスペロの肖像で、少女がどのように育っているかをウィーンの人々に見せるためだった。美術館はこの2点を、1660年8月に亡くなったベラスケスの最後の完成作と呼んでいる。

王女はこちらを向いて立ち、枠で広げたスカートはカンヴァスの幅いっぱい近くまで張り出している。青い絹には銀のモールが縫いつけられ、スカートには横縞が走り、胴着には太い金の鎖が斜めにかかり、髪には暗緑色のリボンが結ばれ、左手は大きな茶色の毛皮のマフに置かれている。銀もレースも毛皮も、盛り上がった一筆一筆で描かれていて、近くで見ると筆跡のままだが、離れてはじめて布や金属にまとまる。一方、顔はなめらかに描かれている。1656年の《ラス・メニーナス》の中央に立つのと同じ少女で、それより3歳年上である。

この肖像は皇帝の居室に置かれ、1855年にはフランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大公妃の部屋にあった。18世紀にカンヴァスの上部は半円形に切り取られたが、1922年にホーフブルク宮殿から美術館に移されたあと、長方形に戻された。

マルガリータ・テレサは1666年12月にウィーンに来てレオポルトと結婚し、1673年に21歳で亡くなった。6年の結婚生活のあいだに4人の子どもを産んでいた。

宮廷服のマリー・アントワネット
宮廷服のマリー・アントワネットエリザベート・ヴィジェ・ルブラン, 1778, 美術史美術館

18. エリザベート・ヴィジェ・ルブラン《宮廷服のマリー・アントワネット》(1778年)

フランス王妃マリー・アントワネットは1778年、母である女帝マリア・テレジアへの贈り物として大きな公式の肖像を注文し、そのためにエリザベート・ヴィジェ・ルブランをヴェルサイユに呼んだ。画家は23歳で、王妃とほぼ同じ年だった。これが彼女の描いた最初のマリー・アントワネットの肖像である。それからの数年間に彼女は王妃を30回ほど描き、1783年には王妃の後押しで王立アカデミーに迎えられた。ヴィジェ・ルブランは回想録に、王妃の肌はとても透きとおっていて影がのらず、それを思いどおりに表すことはできなかった、と書いている。

王妃は等身大の全身像で、両脇に大きく張り出したパニエの上に、花綱やリボン、金の房飾りのついた白いサテンの宮廷服を着て立ち、頭には白いダチョウの羽根を飾った、髪粉をかけた高い髪を結っている。下ろした右手にはばら色のばらを1輪持ち、左からの光が顔と肩とサテンに落ちている。右のほうの、赤いビロードをかけたテーブルの上には、金の百合の紋を散らした藤色がかった青のクッションにフランス王冠がのり、その上の高い台座には横顔のルイ16世のブロンズの胸像が置かれている。

1779年2月、肖像はウィーンへ送られ、マリア・テレジアは娘に、あなたの大きな肖像画にはすっかり感激している、と書き送った。彼女はこれをホーフブルク宮殿に置き、1922年にホーフブルクから美術館に移された。半世紀後に書かれた回想録で、ヴィジェ・ルブランは最初のモデルの日を1779年とし、肖像は王妃の兄、皇帝ヨーゼフ2世のためのものだったと書いている。

カンヴァスの署名「Peint par Mde le Brun âgée de 22 ans, en 1780」、つまり22歳のマダム・ルブランが1780年に描いた、という書きこみは、美術館によれば後から加えられたもので、年も年齢も誤っている。

18世紀の皇帝の画廊(1720〜1786年)

自画像
自画像レンブラント, 1652, 美術史美術館

19. レンブラント《大きな自画像》(1652年)

レンブラントは両手を腰に当てて私たちの正面に立ち、肘はカンヴァスの両端にほとんど触れている。ゆったりした茶色の上っ張りを、無造作に結んだ明るい色の帯で締め、大きな柔らかい黒のベレー帽をかぶっている。美術館は、これが彼が工房で仕事をするときに着ていた上っ張りそのものかもしれないとしている。左上からの光が顔に落ちている。額には横じわが刻まれ、眉は上がり、鼻と頬は赤みを帯び、目の下はたるんでいる。顔はほかのどこよりも細かく描かれ、上っ張りと暖かな茶色の背景は幅広く平らに塗られている。カンヴァスは両側を切り詰められていて、美術館によれば、左上の署名は「…dt.f.1652」しか残っていない。

これは1645年以後で最初の油彩の自画像で、ほとんど死の直前まで続く晩年の自画像群の始まりである。同じころ、レンブラントの財政は悪化していった。1656年には支払い不能を申し立て、その後、財産とコレクションは売り立てられた。美術館によると、当時のオランダには「自画像」という言葉がなく、買い手たちはレンブラント自身が描いたレンブラントの肖像を求めた。彼の顔と、それと同時に彼の絵の見本を手に入れようとしたのである。

この絵がどのようにウィーンに来たかを記した文書はひとつもない。美術館に言えるのは、1720年には皇帝の画廊の目録にすでに載っていたということだけである。

20. ピーテル・パウル・ルーベンス《小さな毛皮》(毛皮をまとうヘレナ・フルマン、1636〜1638年ごろ)

1640年に亡くなる少し前、ルーベンスは財産の分割と売却から1点の絵を除き、妻ヘレナ・フルマン個人に遺した。遺言のなかで彼はこの絵を「小さな毛皮」、het pelskenと呼んでいる。

ルーベンスがヘレナと結婚したのは1630年12月である。彼は53歳で、妻を亡くして4年がたっていた。ヘレナは16歳で、アントウェルペンの絹商人の娘であり、最初の妻イザベラ・ブラントの姪だった。結婚の1年前、ルーベンスは外交使節としてロンドンに滞在し、チャールズ1世からナイトの位を授けられ、王のコレクションにあったティツィアーノの《毛皮をまとう若い女》を模写した。この絵もいまはこの美術館にある。1630年代、彼は外交からほぼ身を引いてヘレナを何度も描いたが、彼女自身の姿で裸体を描いた肖像は《小さな毛皮》だけである。ルーベンスは1640年5月30日にアントウェルペンで亡くなった。

毛皮をまとうヘレナ・フルマン
毛皮をまとうヘレナ・フルマンピーテル・パウル・ルーベンス, 1638, 美術史美術館
毛皮をまとうヘレナ・フルマン
毛皮をまとうヘレナ・フルマンピーテル・パウル・ルーベンス, 1638, 美術史美術館
毛皮をまとう若い女
毛皮をまとう若い女ティツィアーノ, 1535, 美術史美術館
聖フランシスコ・ザビエルの奇跡
聖フランシスコ・ザビエルの奇跡ピーテル・パウル・ルーベンス, 1617, 美術史美術館

ヘレナは等身大の全身像で、赤い絨毯の上に素足で立ち、まっすぐこちらを見ている。右手で胸を隠し、左手で白い布を腹に押し当てていて、古代彫刻の恥じらいのヴィーナスと同じしぐさである。茶色の毛皮で裏打ちした黒いマントが背中を覆い、左側で床に落ちて、体の前面はすべてあらわになっている。ルーベンスは膝のえくぼや、腕の下の腹のしわまで描き、暖かいばら色の肌は黒と茶色を背景に光っている。

1645年、ヘレナは再婚し、1658年の遺言でこの絵を形見として2番目の夫に遺したが、その後、遺言に、《小さな毛皮》は最初の結婚で生まれた子どもたち、つまりルーベンスの子どもたちに渡すべきだと書き加えた。1730年までに絵はウィーンの皇帝の画廊に入っていたが、どのようにしてそこへ来たのかはだれにもわからない。

2014年に蛍光X線分析でこの絵を調べたところ、右側の暗い背景の下から、壁龕に収まった噴水が見つかった。ヘレナの肩ほどの高さで、口から水を吐くライオンの頭がつき、台座の上には小便をする石の少年の像がのっている。こうした噴水は庭に置かれたものなので、ルーベンスははじめ妻を屋外に描くつもりだったらしい。のちに彼は自分で噴水を塗りつぶした。

21. ピーテル・パウル・ルーベンス《聖フランシスコ・ザビエルの奇跡》(1617〜1618年ごろ)

1773年に教皇がイエズス会を解散すると、当時オーストリア領だった南ネーデルラントでは、会の財産は国のものになった。1615〜1621年に建てられたアントウェルペンのイエズス会聖堂には、ルーベンスの大きな祭壇画が2点あった。聖フランシスコ・ザビエルを描いたものと聖イグナティウス・デ・ロヨラを描いたもので、主祭壇では典礼暦に合わせて、綱と滑車を使って2点を掛けかえていた。1718年には落雷による火災で、ルーベンスの下絵にもとづく天井画39点が焼けたが、祭壇画は焼け残った。1776年、2点の祭壇画はウィーンのために買い取られた。

カンヴァスは人の背丈の3倍以上もあり、聖堂の端からでも見分けられるように描かれた。最初期のイエズス会士の一人フランシスコ・ザビエルはインドと日本で布教した人物で、ルーベンスがこれを描いたとき、まだ聖人に列せられていなかった。列福は1619年、列聖は1622年である。黒い修道服のザビエルは右側の石の壇上に立ち、片手で上を指し、もう一方の手を群衆に差しのべている。右上の雲の上には、聖杯と地球儀を持った「信仰」が座り、十字架を持つ天使たちから放たれた光が左上の異教の偶像を打ち、口を開けた角のある偶像は砕けて落ちていく。下では、藁の担架の上で死者が起き上がって頭から屍衣を引きはがし、女が腕にうつぶせの赤ん坊をのせていて、その口からは水が流れ出ている。右では盲人が両手を前に突き出して進んでいく。見物人のなかには、黄色い長衣を着て、背の高い透けた円錐形の帽子をかぶった男が立っている。ルーベンスはこの男を別に素描していて、その素描は長いあいだ朝鮮人の肖像と考えられてきたが、2016年に研究者たちは、1600年にミデルブルフに船で来た中国人商人イッポンを描いたものだとする説を出した。

美術館によると、カンヴァスの大部分は助手たちが描き、要所はルーベンス自身が手を入れた。この美術館には、オーク材の板に描いた小さな油彩のスケッチもあり、そこでは溺れた赤ん坊の場面がまだ大まかに示されているだけである。

聖フランシスコ・ザビエルの奇跡
聖フランシスコ・ザビエルの奇跡ピーテル・パウル・ルーベンス, 1617, 美術史美術館
聖フランシスコ・ザビエルの奇跡、モデッロ
聖フランシスコ・ザビエルの奇跡、モデッロピーテル・パウル・ルーベンス, 1616, 美術史美術館
ロザリオの聖母
ロザリオの聖母カラヴァッジョ, 1607, 美術史美術館

1776年には祭壇画と一緒に、1665年に画家ヘーリンクが描いた聖堂の内部の眺めもイエズス会から買い取られた。その絵では、主祭壇の上にルーベンスの聖イグナティウスの祭壇画が掛かっている。

22. カラヴァッジョ《ロザリオの聖母》(1601〜1607年ごろ)

マントヴァ公ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの宮廷画家だったフランドルの画家フランス・プルビュス(子)は、1607年にナポリから公に手紙を送り、カラヴァッジョのとても美しい絵が2点売りに出ているのを見たが、その1点はロザリオを描いたものだと知らせた。値は400ドゥカートで、公は買わなかった。この絵は、フランドルの画家で画商でもあった2人、ルイ・フィンソンとアブラハム・ヴィンクが共同で所有していた。注文主は結局だれにも特定されなかったが、本人は絵のなかにいる。左下で、大きな白い襞襟をつけた黒い服の白髪の禿げた男がこちらを見ていて、聖ドミニクスのマントの裾をつかんでいる。歴史家たちは制作年についても意見が分かれ、カラヴァッジョのローマ時代の1601年ごろとする人もいれば、ナポリ時代の1607年とする人もいる。

画面の上部いっぱいに巨大な深紅のカーテンが渡され、左で高い柱に巻きつけてある。幼子を膝にのせた聖母は下のドミニクスを指さしていて、ドミニクスの開いた手のひらからはロザリオが垂れ下がり、ひざまずく貧しい人々がそれに手をのばしている。右では、髪の生え際に血のにじむ切り傷のある殉教者聖ペトルスが、まっすぐこちらを見て幼子を指している。下の中央には錆色がかった茶色のマントの男がこちらに背を向けてひざまずき、汚れた素足の裏を見る者に向けている。

フィンソンは絵を北方へ持ち去り、1617年にアムステルダムで亡くなった。アムステルダムで、ルーベンスを含むアントウェルペンの画家や美術愛好家数人がこの絵を1800グルデンで買い、アントウェルペンのドミニコ会の聖パウロ聖堂に寄贈した。1651年の記録によると、修道士たちにはその後、4000グルデン、6000グルデン、そしてついには1万3000〜1万4000グルデンでこの絵を譲ってほしいという申し出があったが、彼らは、いくら積まれても売らないと答えた。

1781年に皇帝ヨーゼフ2世がこの聖堂を訪れ、絵は皇帝に譲られた。ドミニコ会には、皇帝の費用でアントウェルペン美術アカデミーの校長アンドレアス・ベルナルドゥス・デ・クエルテンモントが描いた模写が残され、原画は1786年にウィーンへ運ばれた。

国がコレクションの館を建てる(1822〜1891年)

23. アントニオ・カノーヴァ《ケンタウロスを倒すテセウス》(1804〜1819年)

テセウスとケンタウロス
テセウスとケンタウロスアントニオ・カノーヴァ, 1815, 美術史美術館

テセウスは左手でケンタウロスの喉とひげをつかみ、人の体が馬の体に変わるあたりの背に膝を押しつけ、右手でこぶだらけの棍棒を頭上に振り上げている。一撃はまだ振り下ろされていない。彼が身につけているのは、とさかのついたギリシャの兜と、左肩から岩まで長い襞を描いて垂れるマントだけである。ケンタウロスは地面にくずおれ、口を開けたまま頭をのけぞらせている。片手でテセウスの前腕にしがみつき、もう一方の手の指で石をかきむしっている。神話では、ペイリトオスの婚礼に招かれたケンタウロスたちが酔って花嫁をさらおうとし、花婿の友人テセウスがその一頭を殺した。

ナポレオンのイタリア共和国は1804年、ナポレオンと、1800年のマレンゴの戦いでの彼のオーストリアに対する勝利を称えるため、ミラノに置く彫刻としてこの群像を注文した。人の背丈の2倍もある群像は、町の広場に立つ記念碑としてつくられた。大理石の塊がローマのアントニオ・カノーヴァの工房に届いたのは1810年で、1814年には群像はほぼ完成していたが、そのころにはナポレオンは失脚していた。カノーヴァは買い手を探し、1817年、オーストリア皇帝フランツ1世が代金の最後の4分の1を支払うことに同意し、置き場所を選ぶ権利を手にした。

宮廷建築家ペーター・フォン・ノービレは、この群像のためにウィーンのフォルクスガルテンにアテネのテセウス神殿を縮小した写しを建て、神殿は1823年に開かれた。カノーヴァはその前年に亡くなっていた。オーストリアに対する勝利を称えるはずだった記念碑は、ウィーンでは、革命に対する正統な秩序の勝利と解釈された。1890年、群像は新しい美術館に移され、大階段の踊り場に据えられた。

テセウスとケンタウロス
テセウスとケンタウロスアントニオ・カノーヴァ, 1815, 美術史美術館

移送の際にテセウスの右腕が折れ、美術館の建物の仕事をしていた彫刻家の一人ヨハネス・ベンクが無償で修理した。

24. グスタフ・クリムト、エルンスト・クリムト、フランツ・マッチュによる大階段の壁画(1890〜1891年)

1890年2月、若い「芸術家カンパニー」、つまりグスタフとエルンストのクリムト兄弟とフランツ・マッチュに、新しい美術館の大階段の最後の40の画面が任された。もともと階段全体はハンス・マカルトが描くはずだったが、彼はルネット(半円形の壁面)だけを仕上げて亡くなった。天井画を任されていたハンス・カノンも亡くなった。こうして、ムンカーチ・ミハーイの天井画とマカルトのルネットの下に、もう一層、いちばん若い壁画の層が加わった。

構想をまとめたのは美術館の学芸員アルベルト・イルクで、テーマはエジプトとギリシャからバロックまでの美術の歴史、絵には皇帝のコレクションの品々を描きこむことになっていた。28歳のグスタフには、北の壁と西の壁の最初のアーチ、あわせて13の画面が割りあてられた。エジプトは本をもとに描き、なかでもフランスのエジプト学者マリエットの白黒の写真集に頼ったので、ターコイズブルーや赤や金の色は彼が自分で考えたものである。

古代ギリシャと古代エジプト
古代ギリシャと古代エジプトグスタフ・クリムト, 1891, 美術史美術館

細長く背の高い「エジプト」の画面には、若い裸の女性がまっすぐこちらを向いて立っている。横にのばした手で、エジプトの生命のしるしである白いアンクの下端を持ち、頭には細い金の糸を編みこんだ重い黒のエジプト風のかつらをかぶっている。顔は青白く、いまの時代の女性のようで、黒っぽい目がまっすぐ見る者を見つめている。彼女の肩の後ろには、女神ネクベトの鳥であるハゲワシが、ターコイズブルー、金、黒、赤の羽根を並べた翼を広げていて、左上の翼の先の上には「GVSTAV KLIMT」の署名がある。隣の画面では、深紅の衣に金の鱗状のアイギスをつけたアテナが、長い槍と小さな黒っぽいニケ像を持っている。

2012年、クリムト生誕150年を記念して、階段の吹き抜けに4階建ての建物ほどの高さで鋼鉄の橋がかけられ、来館者ははじめてこれらの絵を間近に見ることができた。2018年にも橋はふたたび設置された。

帝国のあとで(1940〜2011年)

絵画芸術
絵画芸術ヨハネス・フェルメール, 1667, 美術史美術館

25. ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》(1666〜1668年ごろ)

ヨハネス・フェルメールの未亡人カタリーナ・ボルネスは、夫の死から2か月後の1676年2月、財産目録がつくられる数日前に、《絵画芸術》を自分の母マリア・ティンスに譲った。フェルメールは借金を抱えてデルフトで亡くなっていて、この絵を債権者から守ろうとしたのである。同じ年の秋、顕微鏡で知られる博物学者アントニ・ファン・レーウェンフックが、支払い不能となった遺産の管財人に任命された。彼は絵を引き取り、マリア・ティンスは抗議したが、1677年3月15日、絵はデルフトの聖ルカ組合で競売にかけられた。買い手の名は記録に残っていない。

重いタペストリーのカーテンが左で引き開けられ、その向こうにアトリエが見える。画家は黒いベレー帽、白がのぞく切れこみ入りの黒い胴衣、赤い靴下という姿で、こちらに背を向けて座っていて、顔は最後まで見えない。彼のカンヴァスには、まだモデルの月桂冠の青い葉しか描かれていない。モデルは歴史の女神クリオに扮して窓辺に立ち、冠をかぶり、長い真鍮のトランペットと分厚い黄色の本を持って、目を伏せている。奥の壁には十七州、つまり分裂する前のネーデルラントの大きな地図が掛かっていて、しわが寄り、中央に縦の折り目がある。天井からは、双頭の鷲を頂いた、ろうそくのない真鍮のシャンデリアが下がっている。

次にわかっている持ち主は外交官で宮廷図書館長のゴットフリート・ファン・スヴィーテンで、18世紀の終わりにウィーンに住んでいた。絵がどのようにして彼の手に渡ったのかについては、歴史家の説明が分かれている。19世紀の初め、ヨハン・ルドルフ・チェルニン伯爵が彼の遺産からこの絵をピーテル・デ・ホーホの作として買い、1860年ごろに鑑定家のトレ=ビュルガーとグスタフ・ヴァーゲンがフェルメールの作に戻した。1940年、ヤロミール・チェルニンは、リンツに計画されていた美術館のために、この絵を165万ライヒスマルクでヒトラーに売った。のちにチェルニンの相続人たちは、売却は強いられたものだったと主張した。2011年、オーストリアの返還諮問委員会は全会一致で、強制されたとみなす根拠はないと判断した。

1945年、アメリカ軍がアルトアウスゼーの岩塩坑でこの絵を発見し、同じ年の11月にオーストリアに引き渡され、1946年に美術館に収められた。

絵画芸術
絵画芸術ヨハネス・フェルメール, 1667, 美術史美術館

この25点のほかに

ここで選んだのは、ハプスブルク家の贈り物や購入から帝国が終わったあとの取得まで、ウィーンのコレクションがどのように形づくられたかをたどれる作品である。レンブラントの自画像とルーベンスの《小さな毛皮》の2点では、その道すじの一部が失われている。リストに入らなかったのは、ブリューゲルの《子供の遊戯》と《謝肉祭と四旬節の喧嘩》、カラヴァッジョの《ゴリアテの首を持つダヴィデ》、ホルバインによるジェーン・シーモアの肖像、そしてルーベンスが《小さな毛皮》を描くときに手本にしたティツィアーノの《毛皮をまとう若い女》である。2度目に美術館を訪れるなら、クンストカマーから始めるとよい。チェッリーニの塩入れのほかに、クルマウの聖母や、シャルル9世が塩入れと一緒に贈った器が収められている。古代コレクションには、ルドルフ2世が1万2000ドゥカートを支払ったカメオ《ジェンマ・アウグステア》がある。

子供の遊戯
子供の遊戯ピーテル・ブリューゲル(父), 1560, 美術史美術館
謝肉祭と四旬節の喧嘩
謝肉祭と四旬節の喧嘩ピーテル・ブリューゲル(父), 1559, 美術史美術館
ゴリアテの首を持つダヴィデ
ゴリアテの首を持つダヴィデカラヴァッジョ, 1607, 美術史美術館
ジェーン・シーモア
ジェーン・シーモア小ハンス・ホルバイン, 1536, 美術史美術館