1821年、プロイセン国家はベルリンに住むイギリス人商人から約3000点の絵をまとめて買い、それとともにファン・エイクの《ヘントの祭壇画》の両翼パネルのほとんどを手に入れた。祭壇画の中央部は、そのあいだずっとヘントの聖バーフ大聖堂にとどまっていた。1920年、ヴェルサイユ条約にもとづいて、ドイツは両翼をベルギーに引き渡した。
ドレスデンのザクセン選帝侯たちが残したようなコレクションを、プロイセン王たちは残さなかった。そのため、1830年にカール・フリードリヒ・シンケルの旧博物館で開館した絵画館は、買い取ったコレクションと王宮の絵とで組み立てられた。そこでは約1200点の絵が流派ごとに、絵画の歴史として並べられた。その後、美術館はよその売り立てでコレクションを丸ごと買い、1945年には約585点の作品を失い、半世紀近く西ベルリンと東ベルリンに分かれたのち、1998年6月12日に文化フォーラムの新しい建物でふたたび一つになった。
美術館ができる前(1755〜1815年)
1. コレッジョ《レダと白鳥》(1530〜1532年ごろ)
フランス摂政の息子ルイ・ドルレアンは年とともに信心を深め、ついにはナイフを手に取って、一族のコレクションにあったコレッジョの《レダ》を切り裂いた。彼はレダの頭部を破壊し、カンヴァスは三つに裂けた。コレッジョはこの絵を、ユピテルの恋の遍歴を描く連作の一点として、マントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガのために描いた。絵は長くヨーロッパを渡り歩き、1721年に摂政フィリップ・ドルレアンが自分のコレクションに買い入れていた。
1753年、切り裂かれたカンヴァスをパリの収集家パスキエが買い、画家ドリヤンに新しい頭部を描かせた。2年後のパスキエ・コレクションの売り立てで、フリードリヒ大王の代理人がこの絵に2万1060リーヴルを払い、レダはポツダムの宮殿へ移った。1806年にナポレオンが絵をパリへ持ち去り、そこでプリュードンが頭部を描き直した。ナポレオンの失脚後、絵はプロイセンに戻り、1829年から1830年にかけて宮殿から新しい美術館へ移され、1834年から1835年にはベルリンの修復家ヤーコプ・シュレジンガーがレダの頭部をもう一度描いた。
レダは低い岩がちの岸辺に裸で座り、その下には淡い藤色の布が敷かれている。白鳥は彼女の太腿のあいだに立ち、その首は胸のそばで持ち上がって、嘴は左肩のあたりで首の付け根に触れている。左の岸では翼のあるアモルが竪琴を弾き、下の隅では二人のふっくらしたプットーの一人が長く曲がった角笛を吹いている。右の岩の向こうでは、青いヴェールの年配の女がレダを見守り、赤い服の侍女が水から上がってくる仲間の上に白い布を広げ、いちばん端では娘が白鳥のそばで腰まで水につかって立ち、木々の上ではもう一羽の白鳥が飛び去っていく。
左肩へ傾いた頭、伏せられてほとんど閉じた目、唇のかすかな笑み、そのすべてを描いたのはシュレジンガーである。美術館によれば、彼は失われた頭部の姿を変え、コレッジョの絵にあった官能性を場面から弱めた。


2. カラヴァッジョ《愛の勝利》(1601〜1602年)
ドイツの画家で伝記作家のヨアヒム・フォン・ザンドラルトは、1630年代にローマに住み、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵のもとで働いていた。1675年に出た本のなかで彼は、《愛の勝利》に濃い緑の絹の幕をかけ、ほかのものをすべて見終えた客に最後に見せるよう主人に勧めたのは自分だと書いている。その部屋にあったほかの120点の絵が、この絵の隣では見劣りしたからだという。
カラヴァッジョがジュスティニアーニのためにこの絵を描いたのは1601年から1602年にかけてで、ローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂に描いた大作で名を上げてまもなくのことだった。
ほぼ等身大の少年が、黒に近い背景の前に裸で立ち、光は左上から鋭く彼に当たっている。背中には暗い褐色の鷲の翼があり、右手には2本の矢を持ち、左脚を上げて、膝をしわくちゃの白いシーツについている。彼はまっすぐこちらを見て、口を開けて笑い、左の翼の先は上げた太腿に触れている。足もとには、リュートと弓を添えたヴァイオリン、開いた楽譜帳、直角定規とコンパス、月桂樹の枝の下の書きこみのある紙、黒っぽい甲冑が散らばり、右端には金の冠と笏がある。シーツの下からは、金の星を描いた青い球儀がのぞいている。美術館はこの題を、愛はすべてに打ち勝つというウェルギリウスの詩句と結びつけ、学問や芸術や名声や権力を地上の愛があざ笑う絵として読んでいる。
ナポレオンが敗れた1815年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、パリの画商フェレオール・ボヌメゾンが1812年から売れずにいたジュスティニアーニ・コレクションをパリで買い取った。国王は54万フランを払い、ベルリンには約160点の絵が届いた。そのなかにカラヴァッジョの絵が5点あった。そのうち3点は1945年に失われ(これについては《聖マタイ》の項で述べる)、残った2点のうち、ベルリン絵画館にあるのは《愛の勝利》だけである。もう1点の《聖トマスの不信》は、ポツダムのサンスーシ絵画館にある。
商人ソリーのコレクション(1821〜1830年)

3. ペトルス・クリストゥス《若い女性の肖像》(1465〜1470年ごろ)
1819年5月、詩人の息子アウグスト・フォン・ゲーテは、ヴィルヘルム通りにあるエドワード・ソリーのベルリンの邸宅を訪れ、そこにある絵を8000点か9000点と数えた。実際には約3000点だった。掛けられていたのは400点に満たず、残りは30か40の部屋や台所や馬車置き場に置かれていたので、彼の言葉によれば、すっかり迷ってしまいかねないほどだった。
ソリーはバルト海の穀物と木材の取引で財をなしたイギリス人で、1813年からベルリンに住み、5年のあいだに3000点を超える絵を集めた。彼は14〜15世紀のイタリアの巨匠や初期ネーデルラントの画家、ジョットやボッティチェッリやヤン・ファン・エイクを、これらの流派にほとんどだれも関心をもっていなかった時代に買っていた。1821年、長い交渉のすえにプロイセン国家はコレクションを丸ごと買い取り、そのうち約677点がのちの絵画館の土台となった。
小さな板に描かれた娘は、体を斜め左に向けて、まっすぐこちらを見ている。頭には円錐の先を切り落とした形の、黒いビロードの高い帽子をかぶり、顎の下には同じ布の黒い帯が通り、帽子の縁の生え際のところには、小さな真珠をつけた細いリボンがめぐっている。茶色の目は、左右がわずかにずれた位置にある。服は濃い青で、幅の広い白い毛皮の襟がつき、胸元は黒い当て布でふさがれていて、その上端では金めっきのピン1本が透けるヴェールを留めている。首には金と真珠をあしらった暗い色の鎖が3連かかり、背後には、上が灰褐色で下が黒っぽい木の羽目板になった平らな壁が続いている。美術館によれば、これはペトルス・クリストゥスの女性の肖像として知られる唯一の作品である。
肖像がベルリンに来たとき、まだ銘のある古い額縁がついていた。1825年、のちに絵画館の初代館長となる若い学者グスタフ・ヴァーゲンが、そこにある署名を「Opus Petri Christophori」、つまり「ペトルス・クリストフォリの作」と書き留め、それ以来、肖像の帰属はこの記録に支えられている。ヴァーゲンはまた、額縁がモデルを、初代シュルーズベリー伯である名高いタルボットの姪と呼んでいたと伝えた。歴史家ローン・キャンベルとジョエル・アプトンは、ヴァーゲンがラテン語の「ネポス」を「姪」と訳したが、この語は「孫娘」も意味するので、娘は1468年にシャルル突進公とマーガレット・オブ・ヨークの結婚式のためにブルッヘへ来たタルボットの孫娘だったかもしれないと推測した。美術館はこの説に傾いているが、証拠はない。
1833年にこの肖像を発表した美術史家パッサヴァントは、額縁が失われていると記した。アプトンの計算では、額縁が消えたのは1825年から1833年のあいだ、肖像がすでに美術館のものになっていた時期である。


4. 小ハンス・ホルバイン《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》(1532年)
板の上部中央には、赤い封蝋で壁に貼りつけた紙片があり、ラテン語の二行詩が書かれている。「汝が見るこの像はゲオルクの面影を伝える。その目はかくも生き生きとし、その頬はかくのごとし」とあり、その下には「34歳、主の年1532年」とある。ホルバインは似姿への賛辞を、肖像そのもののなかに書きこんだのである。
ゲオルク・ギーゼはダンツィヒの商人で、1519年にポーランド王ジグムント1世から貴族に叙され、1522年からはロンドンのスティールヤードに住んでいた。テムズ河岸にある、塀に囲まれたハンザ商人の商館である。ホルバインは1532年にロンドンへ戻り、最初の注文主となったのはこの商館のドイツ商人たちだった。美術館は、ギーゼが結婚を前にダンツィヒの家へ送るためにこの肖像を注文したと考えていて、花瓶のカーネーションはおそらく婚約をほのめかしている。
彼は赤と黒と白の絨毯をかけたテーブルの向こうに立ち、黒いベレー帽をかぶり、光沢のある薔薇色がかった赤い絹の袖の上に幅広い黒いマントをはおって、封の端が破れた手紙を両手で持っている。宛名には、低地ドイツ語の「to lunden」と「broder to handen」という言葉が読みとれ、「ロンドンへ」「兄弟の手に」という意味である。テーブルには、カーネーションを挿したガラスの花瓶、太鼓形の金めっきの時計、金貨とインク壺と羽根ペンをのせた錫の台が立ち、鋏、印章、革紐をかけた本が置かれている。壁や棚からは、硬貨用の小さな天秤、長い鎖のついた印章、鍵の束が下がり、赤い封印のある手紙が横木に挟まれている。左の壁には白い文字で彼の銘句「Nulla sine merore voluptas」、つまり「悲しみのない喜びはない」と書かれ、その下に「G. Gysze」とある。
この肖像がベルリンに来たのは、《レダ》が切り裂かれたのと同じオルレアン・コレクションを経てのことだった。1727年にはすでにオルレアン公家のものになっていて、革命後の1792年から1793年にかけて公家の絵がロンドンで売り立てられたとき、「ギセットの肖像」として60ギニーで、バーゼルの版画家で画商のクリスティアン・フォン・メッヘルの手に渡った。のちにソリーがこれを買い、1821年に肖像は彼のコレクションとともに絵画館に入った。
1923年2月1日に発行された10万マルクのライヒスバンク紙幣には、版画家グスタフ・アイラースがこの絵をもとに彫ったギーゼの頭部のメダイヨンが刷られている。

5. サンドロ・ボッティチェッリと工房《ヴィーナス》(1490年ごろ)
1490年ごろ、フィレンツェのボッティチェッリのもとには大きな工房があり、親方のうまくいった構図、聖母や円形画を、注文が多いので繰り返し描いていた。美術館の見方では、このヴィーナスもそうして生まれた。その姿はいまウフィツィ美術館にある《ヴィーナスの誕生》から取られ、海も貝殻も風もなしに、単独でカンヴァスに描かれた。このような作例は三つ知られていて、ベルリンと、トリノのサバウダ美術館と、スイスの個人コレクションにある。ベルリンは自分の作品がいちばん優れているとし、トリノも自分のものについて同じことを言っていて、ベルリンでの帰属は「ボッティチェッリと工房」となっている。2016年の夏、1821年にソリー・コレクションとともに絵画館に入ったベルリンのヴィーナスはトリノへ運ばれ、二つの作例を並べて比べるために、トリノのヴィーナスの隣に掛けられた。
美術館は、ここで女神は物語を奪われていて、古代以来はじめて、女性の裸体がただその官能的な魅力のためだけに描くに値するとみなされたと書いている。ヴィーナスは平らな黒い背景の前、灰色の石の細い張り出しの上に全身像で立ち、古代彫刻で知られる「恥じらいのヴィーナス」のポーズをとっている。右手で胸を覆い、左手で自分の髪の太い房を下腹部にあてがっている。頭はわずかに傾き、明るい茶色の目がこちらを見ている。金色がかった亜麻色の髪は体の両側に長く波打って腰まで垂れ、髪の房は細い金の筆致で描かれていて、光を受けて輝く。その豊かな髪のなかを、こめかみから胸へ2本の細い三つ編みが下りていて、うっかりすると見落としてしまう。
6. ルーカス・クラナッハ(父)《若返りの泉》(1546年)
老女たちは、思い思いの手段で浴場へ運ばれてくる。板の左3分の1では、馬に引かせた荷車に乗せられ、騎手の後ろで馬の尻に乗せられ、馬から下ろされ、担架で、また髭の男の背中に負われて運ばれていて、左下の隅では赤い服の男が一人を手押し車で押している。浴槽の縁では、長い赤い衣を着て本を脇に挟み、眼鏡をかけた男が裸の老女にかがみこみ、手のひらを目の上にかざして彼女を見つめている。美術館はこの男を医者と呼び、患者に最後の望みのない視線を投げているのだと説明している。
灰色の石の浴槽のなかで、左の女たちは白髪でたるんだ体をしているが、水のなかを右へ渡るにつれて若返り、長い金髪や赤毛の娘になる。水に入っているのは女たちだけである。泉の柱の上には、クピドを連れた小さな裸のヴィーナスが立っていて、美術館が指摘するように、若返りの泉は愛の泉でもあることになる。男たちのほうは、やはり美術館によれば、若い婦人たちとの付き合いで若返るのかもしれない。右では、明るい色の切れこみ入りの服を着た廷臣が水から上がる女に手を差しのべ、別の女は服を着せてもらう赤い天幕に入っていき、その上の木の下では太鼓と笛が鳴り、男女が踊り、食卓が整えられている。下の中央、浴槽の縁の下には、クラナッハの工房が署名に使った小さな翼のある蛇と、1546の年記がある。
19世紀のはじめ、この絵はプロイセン王家のものだった。板の裏には白いチョークで書いた番号と、王宮の印のある黒いスタンプ「I. 659」が見える。1829年から1830年にかけて絵は宮殿から新しい美術館へ移された。絵画館が王家から受け継いだ名高い絵のうち、数少ない1点である。
美術館はこの絵をクラナッハ(父)の作としているが、20世紀には何度か、1540年代までに父の共同経営者となっていた息子のルーカス・クラナッハ(子)の作とされた。1937年のベルリンの展覧会でも、1974年のバーゼルでも、そのように表示された。美術史家ハルトラウプは1943年にこの絵についての小さな本をクラナッハ(父)の作として出し、1958年には2冊目を、今度は息子の名で出した。

よその売り立て(1850〜1874年)
7. ロヒール・ファン・デル・ウェイデン《ミラフローレス祭壇画》(1445年以前)
1445年、カスティーリャ王フアン2世は、ブルゴス近郊のカルトゥジオ会ミラフローレス修道院に、3枚の板からなる小さな祭壇画を寄進した。修道院の記録は、1783年にアントニオ・ポンスが『スペイン旅行記』に載せた写しでしか知られておらず、そこにはラテン語で、この祭壇画は偉大にして名高いフランドル人、親方ロヘルが描いたと記されている。カスティーリャでロヘルと呼ばれていたのは、ブリュッセルの市付き画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンである。
3枚の板は同じ大きさで上部が丸く、それぞれの場面は、灰色の小さな彫刻群で飾られた暖かい茶色の彫刻入りの門口のように描かれたアーチのなかに置かれている。各アーチの上には、金の冠と銘を記したリボンを持つ天使が浮かんでいて、美術館の説明によれば、リボンにはマリアが三つの冠を受ける理由となった三つの徳が記されている。左は降誕で、淡い青のマントのマリアが幼子の前にひざまずき、右ではヨセフが杖に両手を重ねてまどろんでいる。中央では、鮮やかな赤の衣のマリアが死せるキリストを膝に抱き、頬をその頭に押し当てている。右では、赤いマントの復活したキリストが濃紺の衣の母の前に現れ、その後ろの高い窓のなかには、同じキリストが天使と眠る番兵たちのそばで墓から出てくるところが、ごく小さく見える。マリアのマントの縁には金の文字が並び、美術館はその銘文にマグニフィカトの言葉を読みとっている。
祭壇画は19世紀のはじめまでミラフローレスにあり、ナポレオン時代に、歴史家たちもまだ突き止めていない経緯でスペインを離れた。その後オランダ王ウィレム2世のものとなり、1842年には画家ハイプ・ファン・ホーフェが、ハーグの王宮のゴシック・ホールにあるこの祭壇画を水彩画のなかに小さく描きこんだ。ウィレム2世は1849年に莫大な借金を残して亡くなった。そのなかには、絵を担保にしたロシア皇帝ニコライ1世からの100万グルデンの借入金もあり、1850年8月に彼のコレクションは競売にかけられた。祭壇画はそこでベルリンのために買われた。
1853年、あのパッサヴァントがベルリンの板絵を古い模写だと断じ、1908年にはスペインの歴史家ゴメス=モレノが、グラナダの王室礼拝堂にある同じ構成の祭壇画を発表して、そちらを原作と呼んだ。それから約70年間、ほとんどだれもがこれに同意した。1981年、赤外線撮影でベルリンの板に制作途中の大きな描き直しが見つかり、年輪年代測定によって、この板は早ければ1430年代に描かれえたこと、一方でもう一つの祭壇画の木は15世紀のごく末より前には伐られていないことがわかった。これを受けて、ベルリンの祭壇画はロヒールの作に戻された。


グラナダの祭壇画は、いまではフアン2世の娘、カトリック女王イサベルが1490年代に注文した忠実な模写とみなされている。その板のうち2枚はグラナダに残り、3枚目はのちにメトロポリタン美術館に入った。
8. ヤン・ファン・エイク《教会の聖母》(1437〜1440年ごろ)
バルトルト・ズールモントはユトレヒトに生まれ、若いころはベルギーのセランにある実業家ジョン・コッカリルの工場で秘書を務め、アーヘンに移り住んでからは石炭と亜鉛と鉛の鉱山、製鋼所、それに銀行の持ち分を所有していた。1850年代のはじめから彼は絵を集め、なかでも17世紀のオランダ絵画が多かった。1873年の株式恐慌で、彼が出資していた銀行が債務を払えなくなり、ズールモントは古い巨匠の絵を売ることにした。1873年から1874年にかけての冬、彼は絵の大半をブリュッセルで展示し、春には同じブリュッセルで、ベルリン絵画館の館長ユリウス・マイアーとその助手ヴィルヘルム・フォン・ボーデとの交渉が始まった。のちに絵画館の館長となり、1905年から1920年までベルリンの美術館群の総館長を務めるボーデは、コレクションをまとめて買うよう強く主張した。1874年、ベルリンはズールモントの絵を200点以上買い取り、1875年3月10日にそれらは一般に公開された。
板は上部が丸く、高さはノートの一ページほど、幅はその半分ほどで、そのなかにゴシックの大聖堂がまるごと収まっている。青と赤の宝石をはめた高い金の冠をかぶった聖母が身廊の中央に立ち、建物に比べて大きすぎるその姿は、赤い服に幅の広い青緑のマントをまとっている。腕に抱かれた幼子は、両手で母の服の刺繍入りの襟をつかんでいる。彼女の後ろには石の仕切りがあり、その壁龕の祭壇には、燃える2本のろうそくのあいだに小さな金めっきの聖母子像が立っている。美術館が指摘するように、この像は手前の生きた聖母をなぞっている。仕切りの開口部では2人の天使が本を見ながら歌っている。赤い服の裾、床すれすれのところに金の文字が並び、そのなかで「SOL」ははっきり読める。彼女のスカートの右では、床のタイルに明るい日だまりが二つ落ちている。美術史家エルヴィン・パノフスキーは、教会のふつうの向きからすると、ここで光は北から差していることになると指摘して、この光を象徴的なものと考えた。美術館も彼にならって、太陽にも星にも従わない永遠の光について書いている。
ファン・エイク研究者の歴史家エリザベト・ダーネンスによれば、1877年にこの板絵は盗まれ、数日後に元の額縁のないまま戻ってきた。石に見せかけて彩色された額縁はついに見つからず、そこにあった銘は古い記録でしか知られていない。額縁には「Mater hec est filia, pater hic est natus, quis audivit talia, Deus homo natus」、つまり「この母は娘であり、この父は生まれた子である。だれがこのようなことを聞いたか、神が人として生まれた」という言葉がめぐり、下には「Flos florum appellaris」、「あなたは花のなかの花と呼ばれる」とあった。


9. フランス・ハルス《マレ・バッベ》(1633〜1635年ごろ)
17世紀のハールレムでは、マレ・バッベと呼ばれる女が知られていた。「マレ」は気のふれた、「バッベ」はバルバラの愛称である。2013年、ハールレムの博物館ヘット・ドルハイスのフロリス・ミュルデルが文書館で彼女の本名バルバラ・クラースを見つけ、1646年に彼女が市の救貧院に収容されたことを突き止めた。救貧院は、精神を病んだ人の収容所であり、養老院であり、牢獄であり、矯正施設でもあった。彼女はそこで15年ほど暮らし、1663年に亡くなった。
ハルスが彼女を描いたのはそれより前である。美術館はこの絵を1633年から1635年の作としていて、最近の研究は年代を1640年代のはじめにずらしているが、どちらの年代でも、肖像はバルバラ・クラースが閉じこめられる前に描かれたことになる。
彼女は体を右へ斜めに向けて座り、肩越しに反対側へさっと振り向いて、上の歯が見えるほど大口を開けて笑っている。頬は赤く、目は細い線になっている。顔をハルスは黄色と薔薇色と灰色でしっかりと肉づけし、白い頭巾と乱れた襟は素早いジグザグの筆で描きなぐり、服と背景は幅広い大まかな筆致で塗ったので、ところどころ下地が透けて見える。左下の隅には蓋をはね上げた背の高い錫のジョッキがあり、彼女の肩の上、見る者から見て右には、明るい褐色のフクロウがとまって、まっすぐこちらを見ている。美術館はこのフクロウを、ひどく酔った人をフクロウにたとえるネーデルラントのことわざで説明している。以前はフクロウが魔女の連れと考えられていて、絵は長く《ハールレムの魔女》と呼ばれていた。
1869年、この絵はズールモントのもので、彼はこれをミュンヘンの国際美術展に出品し、そこでギュスターヴ・クールベがこれを模写した。その模写はいまハンブルク美術館にある。1874年、《マレ・バッベ》はズールモント・コレクションとともにベルリンに買い取られた(この購入については《教会の聖母》の項で述べた)。
ハルスがこの絵を描いて何年もたってから、ハールレムの同じ施設に彼の息子と長女が収容された。

美術館、旧家とイギリスの屋敷から買う(1884〜1918年)

10. アルブレヒト・デューラー《ヒエロニムス・ホルツシューアーの肖像》(1526年)
肖像は引き蓋つきの額に収められていて、蓋は暗い色の内枠と明るい色の外枠のあいだの溝を滑り、蓋を閉めると顔は見えなくなる。黒い蓋の上部には金のローマ数字で年記MDXXVIが記され、その下では暗い色の葉の冠のなかで、二つの金の盾が一つの兜の下で寄りかかりあっている。左の盾には踵が二つある木底の黒い靴が描かれている。ホルツシューアー家の紋章で、この姓自体が「木の靴」を意味する。右の盾には蛇の巻きついた黒い柱があり、ミュンツァー家の出であるホルツシューアーの妻の実家の紋章である。兜の上には、金の縁のついた高い赤い帽子をかぶり、赤い衣を着た黒人の胸像が立ち上がっている。
蓋の下では、大きな頭が板のほとんどを占めている。ホルツシューアーは左を向いているが、灰緑色の目は鋭く右へ寄っていて、横目の視線には油断がない。顔は赤く重たげで、眉間には短い縦皺があり、白髪まじりの明るい色の巻き毛は耳まで届き、その一房一房が細く明るい輪で描かれている。白い髭は、細い針金で編んだかのように固く巻いている。青緑の背景の左上には金の文字で名前と1526年の年記と57歳という年齢が記され、右にはデューラーのモノグラムがある。
ヒエロニムス・ホルツシューアーはニュルンベルクの都市貴族で、市長を務め、1514年からは市を治める7人の長老の一人だった。美術館によれば、デューラーは彼の友人だった。デューラーがこの肖像を描いたのは、自身が亡くなる2年前である。
一族はこの肖像を350年以上手もとに置いていた。1651年には、ジュスティニアーニに《愛の勝利》を幕で覆うよう勧めたあのザンドラルトが、本人の話ではホルツシューアー家からこれを買おうとして断られ、1675年の本には、ニュルンベルクではこの絵が大きな驚嘆とともに見せられていると書いた。1812年ごろ、収集家スルピツ・ボワスレーはこの肖像を贋作と考えた。デューラーの手法があまりにも濃密に詰めこまれているように思えたからで、彼は弟への手紙に、これは第一級のいかさま師の仕事だと書いた。のちに見つかった文書で、デューラーの作であることが確かめられた。1884年、ベルリンはホルツシューアー家からこの肖像を、蓋と額ごと買い取った。
美術館は、この板が並外れてよい状態を保っているのは蓋の下に守られてきたからだと説明している。
11. レンブラント《メノー派の説教者コルネリス・アンスロとその妻》(1641年)
1641年、アムステルダムでもっとも引く手あまたの肖像画家の一人だったレンブラントは、裕福な毛織物商でメノー派の説教者でもあったコルネリス・アンスロを、妻アールチェ・スハウテンとともに描いた。横長のカンヴァスの左側はテーブルが占め、金色がかった黄色の布と、長い房飾りのついた赤褐色の絨毯がかけられている。その上の書見台には巨大な本が開いて立てられていて、画面でいちばん明るい部分になっている。その前にはページの折れたもう1冊の本があり、その奥には白いろうそく1本を立てた燭台と、受け皿にのった芯切り鋏がある。アンスロは高い黒い帽子をかぶり、広い毛皮の裏地のついたマントを着て妻のほうへ向き、口を少し開けて、左手を手のひらを上にして彼女のほうへ差しのべ、人差し指を立てている。美術館によれば、この身ぶりが構図全体の中心にある。妻は右に横顔で座り、レースの頭巾と幅の広い平らな襟をつけ、夫の手と顔を見つめて、膝の上にしわになった白いハンカチを持っている。二人のどちらも見る者のほうを見ていない。
同じ年にレンブラントはアンスロの肖像をエッチングにし、詩人ヨースト・ファン・デン・フォンデルは説教者の肖像について四行詩を書いた。歴史家ミヒール・フランケンによれば、その詩がエッチングのことなのか油彩画のことなのかは、詩句からは判断できない。フォンデルは画家に呼びかけて、コルネリスの声を描けと求めた。彼のなかで目に見えるものはいちばん小さく、見えないものは耳を通してしか知られないので、アンスロを見たい者は彼の話を聞かねばならない、というのである。この絵は、その挑戦へのレンブラントの答えとしてしばしば読まれている。
1894年、ボーデはロンドンのアッシュバーナム卿からベルリンのためにこの絵を買い、翌年プロイセン美術館の年報に発表した。美術館の購入報告では、絵は《寡婦を慰めるコルネリス・アンスロ》として記録されていて、イギリスではこの題で知られていた。


12. ヒエロニムス・ボス《パトモス島の福音書記者ヨハネ》(1490年代はじめ)
ヒエロニムス・ボスは故郷の町スヘルトーヘンボスから姓をとり、1487年から1488年にかけて、町の聖ヤン教会に自前の祭壇をもつ聖母兄弟会の、限られた宣誓会員の輪に加わった。この板は、ボスがその祭壇のために描いた二つの小さな外翼の一つとみられ、もう一つの《瞑想する洗礼者ヨハネ》は、マドリードのラサロ・ガルディアーノ美術館にある。ほかのことは詳しく記した兄弟会の会計簿にも、ボスへの支払いは記録されていない。右下の署名「Jheronimus」を研究者たちはボスの署名として知られる最古のものとみなしていて、年輪年代測定では、この板が1491年より前に描かれることはありえなかったとわかった。
長い赤褐色の髪の若いヨハネは、ゆったりした薔薇色のマントを着て丘に座り、膝に開いた本をのせ、ペンを掲げて上を見上げている。そこには淡い太陽の円盤のなかに、星の冠をいただいた聖母子が、細い三日月の上に座っている。ヨハネの後ろの丘の頂には全身が白と青の天使が立ち、その翼は孔雀の羽のように暗い「目玉」模様で覆われている。左下では、ボスがヨハネの鷲の代わりに描いた隼が、地面に放り出されたインク壺と筆入れを見ている。右下の隅には悪魔が座っている。丸い眼鏡をかけた青白い老人の顔で、頭に燃える玉をのせ、丸い胴体を矢に貫かれ、トカゲの尻尾をもっている。美術館は、悪魔はヨハネの筆記具を盗もうとしていて、隼がそれを見張っていると書いている。丘の向こうには広い川が流れ、船が燃え、そばでは小舟がひっくり返っていて、岬には竿の上に小さな車輪が立っている。美術館によれば、処刑用の車輪である。
板の裏にも絵がある。黒い地の上に、ほとんど茶色がかったグリザイユだけで描かれた明るい円盤があり、中央にはそれより小さい明るい円があって、二つあわせると目のように見える。中央の険しい岩の上では、ペリカンが雛たちの上に翼を広げていて、美術館はそれが嘴で自分の胸を裂き、血で雛を養うさまを説明している。まわりの輪には時計回りに受難の場面が並び、ゲツセマネの祈りから埋葬までが描かれ、円盤の外の黒い地には悪魔たちがかろうじて見分けられる。
1907年、ベルリンはこの板をロンドンの画商から買った。マドリードの翼はのちに四方を切り詰められ、薄く削られて裏から木の格子で補強され、その裏面の絵は失われた。
13. フーゴー・ファン・デル・グース《東方三博士の礼拝》(モンフォルテ祭壇画、1470〜1475年ごろ)
1890年、ドイツの美術史家カール・ユスティは、ガリシアの小さな町モンフォルテ・デ・レモスで、作者のわからない初期ネーデルラントの大きな板絵を見つけた。それは1593年にロドリゴ・デ・カストロ枢機卿が創設し、1873年からピアリスト会の修道士たちが運営していた学院の教会にあった。この板が16世紀にどのような経路でスペインに入ったのかはわかっていない。
1910年、学院はその保護者であるアルバ公の同意を得て、マドリードでこの板を競売にかけ、ベルリンの美術館の代理人が落札した。搬出は3年も長引いた。スペインでは絵を国内にとどめるための寄付が募られ、画家ソローリャは1000ペセタを出したが、1913年9月、売却は合法と認められた。ベルリンは約100万マルクを払い、絵画館の学芸員シュテファン・ケンパーディックは、これをベルリンのコレクションが1点の絵に払った史上最高額としている。1913年のクリスマスに板はベルリンに着き、1914年1月2日にはじめて公開された。
フーゴー・ファン・デル・グースはヘントの画家で、1470年代半ば、成功の絶頂でブリュッセル近郊の修道院に入った。この板を彼の名と結びつける文書は残っておらず、帰属は様式にもとづいている。伝えられるところでは、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは、フーゴーの作にしては時代が下りすぎていると考えたという。
左には薔薇色がかった赤の服の老ヨセフがひざまずき、褐色の帽子を胸に抱えていて、そのそばに濃紺のマントのマリアが座り、膝の上の裸の幼子が年長の博士のほうへ手を伸ばしている。その博士は手を合わせて横顔でひざまずき、巨大な赤いマントをまとっていて、前の床には金の冠のついた毛皮の帽子が置かれ、石の上には金の器がのっている。右には赤いベレー帽に冠をつけた2人目の博士がいて、右端には緑の衣に赤と金のマントをまとった黒人の博士が、上げた手に金の杯を持って立っている。木の柵の向こうからは野次馬がのぞきこみ、壁の割れ目からは日の当たる斜面の羊飼いたちが見え、左上の窓台には絵付けの水差しと、木の匙を入れた陶の鉢が置かれ、下端には青いアイリスと紫のオダマキが生えている。
祭壇画の両翼は、モンフォルテに来る前にすでに失われていた。1666年、スペイン式の祭壇衝立の上に聖フランシスコ・ボルハの絵を入れた小さな枠が取りつけられたとき、上へ突き出ていたフーゴーの板の中央部は、枠の高さにそろえて切り落とされた。

14. ピーテル・ブリューゲル(父)《ネーデルラントの諺》(1559年)
画面の中央より少し左で、赤い服の若い女が背中の曲がった老人に、頭巾のついたトルコ石色がかった青いマントをかけている。村全体でいちばん鮮やかな色の部分である。夫に青いマントをかけるというのは夫を欺くことを意味し、アントウェルペンではこの主題は「青いマント」として知られていた。そう題されているのが、中央に同じ二人が立つフランス・ホーヘンベルフの1558年の版画である。その1年後、ブリューゲルは美術館の数えるところで100を超える諺を1枚の板に集め、上から見下ろした村のなかに配した。左には急な屋根の居酒屋、中央にはトルコ石色の瓦をのせた東屋、上には煉瓦の塔と橋、右には帆船の浮かぶ海がある。
居酒屋の壁には、腕木から青い球が十字架を下にして吊るされている。逆さまの世界のしるしで、美術館はこれを絵全体の鍵とみなしている。居酒屋の屋根は瓦の代わりに丸いパイで葺かれている。左下の隅では赤い服の女が膝をクッションについて、角の生えた小さな悪魔を縛り上げ、その少し右では白いシャツに胸当てをつけた男が煉瓦の壁に頭から突っこみ、同じ壁のところでは甲冑の騎士が猫に鈴をつけている。その下では一人が羊の毛を刈り、もう一人が豚の毛を刈っている。下の中央では、子牛がもう溺れてしまった井戸を埋めていて、その右の小屋では修道士が座ったキリストに亜麻のつけ髭を結わえている。塔の頂では赤い服の男が黒いマントを風にかざしている。右下の隅では男が板の上に伸びて、一つのパンからもう一つのパンへ手が届かない。つまり、やりくりがつかないということで、そこには明るい色の文字で「BRVEGEL 1559」と記されている。
美術館は1914年、ボーデがまだベルリンの美術館群の総館長だったころに、この板をイギリスの所有者から買った。
15. ティツィアーノ《オルガン奏者のいるヴィーナス》(1550〜1552年ごろ)
カール・モルはウィーンの画家で、ウィーン分離派の創設者の一人であり、1904年からはミートケ画廊の芸術監督を務め、のちには裕福な顧客のために古い巨匠の絵を扱うようになった。第一次世界大戦のあいだに、彼を通じてティツィアーノの《オルガン奏者のいるヴィーナス》がベルリンに入った。買ったのはヴィルヘルム・フォン・ボーデ本人で、1904年に開館し、いまはボーデ博物館と呼ばれるカイザー・フリードリヒ博物館のためだった。美術館は、この絵がニューヨークの《リュート奏者のいるヴィーナス》と来歴を共有していて、どちらもローマのピオ・ディ・サヴォイア公家のものだったと書いている。
ティツィアーノは、さまざまな注文主のために、工房の手も借りて、音楽家と横たわるヴィーナスを何度も描いた。美術館はベルリンの作品を、1550年から1551年にかけてアウクスブルクの皇帝カール5世の宮廷へ二度目に赴いたあとに描かれた絵の一つとしている。ヴィーナスは濃い赤のビロードの上に、カンヴァスの中ほどから右端まで全身を横たえ、腰には透ける薄布をかけ、真珠の耳飾り、胸の細い金の鎖、両腕の腕輪をつけている。左ではオルガン奏者、濃い赤のビロードの胴着を着た若い男がこちらに背を向けて座り、彼女を見ようとして長椅子の上で体を大きくひねっているので、その手も鍵盤も見えない。彼女の素足の右足は彼の腿に押しつけられている。彼女の肩の後ろではアモルが顔を彼女の頬に押しつけ、手を胸に置いているが、彼女の目はアモルからそれて左下へ流れている。右下の隅では、口を開けた白いむく毛の小犬がこちらを見ていて、左上ではオルガンの銀色のパイプが光り、手すりの向こうには褐色の丘が続き、そこを白い馬が小さな荷車を引いていく。
歴史家チャールズ・ホープはベルリンの絵を工房の弱い作品と考えたが、美術館はこれに対して、絵の質の高さと、オルガン奏者の姿に見られる画家自身の描き直しを挙げている。
プラドにあるこの構図の二つの作例では、オルガン奏者は演奏している。一方には小犬がいてアモルはおらず、もう一方にはアモルがいて小犬はいない。ベルリンの絵には、アモルも小犬もいる。
1945年の春

16. ヨハネス・フェルメール《真珠の首飾りの女》(1663〜1665年ごろ)
ヴィースバーデン中央収集所の所長だったアメリカ陸軍のウォルター・ファーマー大尉は、1945年11月6日、ベルリンの美術館の絵202点を梱包し、保管を名目に合衆国へ送れという命令を受けた。1945年の春、絵画館の小さな絵はベルリンから鉱山へ疎開していて、そのなかにはテューリンゲンのメルカースにあるカイザーローダ・カリ鉱山もあった。4月にアメリカ第3軍がそこで絵を見つけ、絵はヴィースバーデンへ運ばれていた。アメリカの美術品保護担当の将校たちは抗議で応え、その抗議文はヴィースバーデン宣言と呼ばれた。そこには、どんな理由であれ一国民の遺産の一部を持ち去ることほど、長く疼きつづける歴史的な恨みはないと書かれている。
フェルメールも202点のなかにあった。絵の左には暗いかたまり、蓋つきの背の高い青黒い壺と、テーブルとその上に無造作に置かれた濃紺の布があり、右には横顔の若い女がいて、そのあいだには、左上の窓から光を受けた明るい壁が何もないまま広がっている。真珠の首飾りはもう首にかかっていて、彼女は喉の高さで黄色いリボンの両端を、一方は顎のそば、もう一方は上げた手に持ち、左の窓と、ほとんど真横から見える黒っぽい枠の小さな鏡のほうを見ている。彼女は白い毛皮で縁どられ、オコジョの黒い尾先を散らした短い黄色のサテンの上着を着て、真珠の耳飾りをつけ、髪には赤いリボンを結んでいる。19世紀にこの絵を所有していたのは、フェルメールを世に再発見させた批評家テオフィル・トレ=ビュルガーで、次いでズールモントの手に渡り、1874年に彼のコレクションとともにベルリンに入った(この購入については《教会の聖母》の項で述べた)。
1945年12月6日、絵を積んだ船は自由の女神像のそばを通り過ぎ、絵はそれから2年あまり、ワシントンのナショナル・ギャラリーの収蔵庫に置かれた。1948年の春、ナショナル・ギャラリーはこれらを一般に公開し、40日間で96万5000人近くが展覧会を訪れた。その後、絵は合衆国のさらに13の都市を巡回し、合わせて約250万人に見られ、1949年にヴィースバーデンへ戻った。フェルメールはそのあとも1950年にアムステルダム、1951年にパリの展覧会に出品され、西ベルリンに戻ったのは1956年になってからだった。


17. ピーテル・パウル・ルーベンス《聖ペトロに鍵を渡すキリスト》(1613〜1615年ごろ)
ピーテル・ブリューゲルは1569年にブリュッセルのノートルダム・ド・ラ・シャペル教会に葬られた。彼と妻の墓碑のために、二人の息子でルーベンスの親友だったヤン・ブリューゲル(父)は、1613年から1615年ごろルーベンスに絵を注文した。聖ペトロはピーテル・ブリューゲルの守護聖人で、ルーベンスはキリストがペトロに鍵を授ける場面を描いた。
左には上半身をあらわにしたキリストが、頭のまわりに細い金の光線を放って立ち、鮮やかな赤のマントが向こう側の肩から大きな襞をつくって板の下端まで垂れている。片手は手のひらを前に向けて高く上げ、もう一方の手で金と銀の2本の鍵を下へ差し出している。白い髭の禿げた老ペトロは、重い金色がかった黄色のマントを着て彼のほうへ身をかがめ、差し出した手のひらで鍵を輪のところから受け取っている。ペトロの後ろには4人の使徒の頭がぎっしりと寄せあい、そのなかの白い髭の老人が大きく見開いた目でまっすぐこちらを見ている。
1765年、教会の参事会はこの板をアムステルダムへ売った。買い手が自費で墓碑のための模写を注文するという条件つきだった。絵は何人かの所有者を経て、20世紀にはミュンヘンの収集家マルツェル・フォン・ネメシュのものとなったが、彼は1930年に借金を抱えて亡くなった。その後、絵はドレスナー銀行が融資の担保として保有していた作品のなかにあった。1935年8月15日、プロイセンはこの銀行から約4400点の作品を750万ライヒスマルクで買い取り、プロイセン文化財団はこの取引を、ナチ時代における美術品の最大の取引と呼んでいる。
1945年5月、フリードリヒスハインの高射砲塔でベルリンのルーベンスの絵10点が焼けた。戦後、コレクションの約3分の2は西側に渡り、西ベルリンのダーレム地区で展示された。残りは1958年までソ連が手もとに置き、1958年の秋に約200点が東ベルリンに返され、1960年代からはボーデ博物館で公開された。このルーベンスの板は東側の部分に属していた。1998年6月12日、両方の部分は建築家ヒルマーとザトラーの設計した文化フォーラムの新しい建物で一つになり、絵画館の元館長ヤン・ケルヒは、ボーデ博物館から来た大きな絵が、ちょうど大判の絵に集中していた戦争の損失をそこでいくらか和らげたと振り返っている。
ケルヒがそうした絵として挙げたのは、クラナッハの《最後の審判》、パリス・ボルドーネの《玉座の聖母》、このルーベンスの板、そしてゲインズバラによる等身大のジョン・ウィルキンソンの肖像だった。
18. ジャン=アントワーヌ・ヴァトー《踊り》(《イリス》、1718〜1721年ごろ)
1941年10月14日、元皇太子ヴィルヘルムは、ヴァトーの絵を90万ライヒスマルクの評価額で総統に譲れることをうれしく思うと書いた。その4か月前に、オランダのドールンで亡命生活を送っていた父の元皇帝ヴィルヘルム2世が亡くなり、同じドールンにあったこの絵は息子に渡っていた。交渉にあたったのは、ドレスデン絵画館の館長で、リンツの美術館のためのヒトラーの特別全権でもあったハンス・ポッセで、仲介したのはベルリンの画商カール・ハーバーシュトックだった。1941年12月、ホーエンツォレルン家の財産管理局がこの取引を承認した。ポッセの日記によれば、1942年2月13日、絵は12時間遅れでドレスデン中央駅に着いた。
それまで《踊り》は150年以上ホーエンツォレルン家のものだった。現在この絵を管理している連邦の官庁の記録によれば、絵は1766年、収集家ヘリット・ブラームカンプがコレクションの一部を売りに出したときにアムステルダムでフリードリヒ大王のために買われた。一方、確実な最初の記録は、大王の弟ハインリヒ王子の1802年の遺産目録にある。1918年以後も絵は一族の手もとに残った。
右の開けた草地には、白いエプロンのついた薔薇色と緑の縞の長い服を着て、高く結った髪に黄色いリボンと薔薇色の花をつけた小さなイリスがひとりで立ち、かすかに笑ってこちらを見ている。左の大きな木の陰には羊飼いの衣装の子どもが3人座っている。長い羊飼いの杖を持った赤い上着の少年、イリスを見ている少女、そして小さな笛を吹いている藤色がかった灰色の服の少年である。その足もとでは銅の首輪をつけた白い犬が眠り、その後ろには薔薇を入れた籠があり、左下の隅には薔薇色の布の上に、渦巻き模様の銀色の品と矢が置かれている。美術館は矢と薔薇を恋と胸の痛みと読み、少女がまもなく子どもの遊びを卒業することをほのめかしていると考えている。《イリス》という題は、シャルル=ニコラ・コシャンがこの絵をもとにつくった版画の下に添えられた詩句から取られていて、その詩は彼女の名で始まる。

購入のあと絵はミュンヘンへ送られ、1944年にオーストリアの岩塩坑へ疎開し、1945年にアメリカ軍が見つけてミュンヘンの中央収集所に引き渡した。1960年、絵は基本法第134条によってドイツ連邦共和国の所有となり、絵画館は連邦からこれを永久貸与として受けている。連邦の官庁は、ナチスに迫害された所有者から奪われた可能性は除外されると書いている。
ベルリンでのこの絵の所蔵番号Mü.3644は、ミュンヘンの収集所での番号をそのまま引き継いでいる。
19. カラヴァッジョ《聖マタイと天使》(第一作、1602年)
画家たちの伝記を書いたベッローリは、出来事から70年後に書いている。彼によれば、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の司祭たちは、この絵をコンタレッリ礼拝堂の祭壇から外した。人物には品位も聖人らしさもなく、マタイが脚を組んで座り、民衆の前に無作法に足を突き出しているからだという。カラヴァッジョは絶望し、そこでヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵がこの絵を引き取り、別の絵を描かせた。美術館はさらに、ジュスティニアーニがカラヴァッジョに第二作を描かせることを条件に司祭たちから絵を買ったとつけ加えている。2017年、イタリアの研究者グループは、ジュスティニアーニが最初からこの絵を自分の居室のために注文していたと推測し、礼拝堂のために描かれたという前提そのものを疑った。絵がほぼ正方形で、第二作よりずっと低いからである。
この絵は白黒写真でしか残っていない。皺の刻まれた額と黒っぽい髭の、禿げた老マタイが折りたたみ椅子に脚を組んで座り、腿の上に巨大な本を開いて持っていて、上げた脚の足裏はまっすぐこちらに向いている。体にぴったりした薄い白い衣を着た巻き毛の天使が彼の肩に寄り添い、頬がこめかみに触れそうなほど近づいて、小さな手でペンを持つ彼の手を導いている。こちらに向けられたページには4行のヘブライ文字が書かれていて、美術館はこれを、初期の文献が伝えるようにマタイが福音書をヘブライ語で書いたからだと説明している。
1815年、この絵はジュスティニアーニ・コレクションとともにベルリンに来た。1945年の春、絵画館の絵が鉱山へ送られたとき、約430点の大きなカンヴァスは坑道に入らず、ベルリンのフリードリヒスハイン地区の高射砲塔に残された。人の背丈より高いこのカンヴァスもそのなかにあった。1945年5月2日、塔は赤軍に引き渡され、5月には塔のなかで2度、5月6日と、14日から18日のあいだに火災が起きた。どちらもベルリン降伏のあとである。美術館は、この絵が1945年5月に射撃管制塔でおそらく焼失したと書いていて、どちらの火災で失われたのか、火災が何によって起きたのかを突き止めた人はいない。歴史家ギュンター・ヴェルムシュは、塔の絵は略奪されたと考えていた。同じ塔では、ジュスティニアーニ・コレクションから来たカラヴァッジョの絵があと2点、《娼婦の肖像》と《オリーブ山のキリスト》、そしてシニョレッリの《パンの学校》も失われたとみられている。
写真を撮ったのは美術館の写真家グスタフ・シュヴァルツで、彼は1925年から1944年にかけて絵画館の絵を残らずガラス乾板に撮影し、その乾板はカイザー・フリードリヒ博物館で戦争を生き延びた。2026年、美術館はこれらの乾板のうち約430枚を撮り直し、マタイの写真はオンライン・コレクションに加えられた。
美術館、レンブラントの名を外す(1985〜1998年)

20. レンブラントの周辺《黄金の兜の男》(1650〜1660年ごろ)
1985年11月、ベルリン絵画館のオランダ・フランドル絵画担当の学芸員ヤン・ケルヒは、絵画館でいちばん名高い「レンブラント」を描いたのは別の画家だと発表した。ケルヒは1968年に創設されたレンブラント・リサーチ・プロジェクトと協力していて、1986年に帰属は正式に取り下げられた。ケルヒは、この絵を贋作とは考えておらず、いまも名手の手になる立派な絵画だと述べた。
1897年、この絵はレンブラントの作として、同じ年に設立されたカイザー・フリードリヒ博物館協会が、ボーデの発案でロンドンのコルナギ商会から買った。協会はいまもこの絵と、ほかに約110点の絵を所有していて、それらを絵画館に貸している。長いあいだこの絵にはレンブラントの兄アドリアーンが描かれていると考えられていて、1948年から1949年にかけて202点の一つとしてアメリカを巡回したときもその表示だったが、のちにこの考えは捨てられた。西ベルリンのダーレムで、この絵はドイツでもっとも有名な「レンブラント」になった。
鋭い頂飾りと広く垂れた鍔のある背の高い丸い兜は、厚く盛り上げた絵の具で描かれ、そこから渦巻き飾り、小さな髭の仮面をつけたカルトゥーシュ、縁に沿って並ぶ鋲が浮き出ている。兜の下の顔は薄く滑らかに描かれていて、絵の具を通してカンヴァスの織り目が見え、目は伏せられてほとんど閉じ、額は鍔の陰になっている。兜にも顔にも光は左上から当たっているが、兜のほうがはるかに明るく照らされている。1998年にターゲスシュピーゲル紙が伝えたところでは、1986年の調査記録はこの違いを、兜と顔が二つの別々の光源に照らされているかのようだと記していた。同じ記録は、兜の絵の具が画面のほかのどこよりも厚く塗られていることも指摘していて、中性子オートラジオグラフィーでは、下描きの層がいくつかの単純な筆致でできていることが明らかになった。
1998年、この絵は「レンブラントの周辺」という表示で文化フォーラムの新しい建物に移り、協会は美術館とともにこれを展示しつづけた。

《マレ・バッベ》とホルツシューアーの肖像の裏には、同じアメリカのラベルが打ちつけられていて、所有者名「Kaiser Friedrich Museum, Berlin」、画家名、題名、そして「National Gallery of Art」という行が記されている。《マレ・バッベ》のラベルでは、絵は19世紀に知られていた名前「Hille Bobbe」で呼ばれている。
ほかに見ておきたい作品
絵画館には《アンスロ》のほかにもレンブラントの作品があり、王家のコレクションから来た《律法の石板を持つモーセ》、それに《ビロードのベレー帽をかぶった自画像》と《スザンナ》がある。絵画館の2点目のフェルメール《ワイングラス》は、1901年にホープ・コレクションとともに入った。ラファエロのいくつかの聖母のうち、《テラヌオーヴァの聖母》は1845年に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が買ったものである。15世紀のイタリア絵画では、マンテーニャの《神殿奉献》、ジョヴァンニ・ベッリーニの《死せるキリスト》、そしてピサ多翼祭壇画のプレデッラの板や、産婦に贈る彩色の盆を含むマザッチョの板絵を探してみるとよい。ジョットの《聖母の永眠》は1914年にボーデが買ったもので、これが彼にとって14世紀イタリア絵画の最後の購入となった。この絵も戦後、鉱山とアメリカを経て、1950年に戻ってきた。























































































